2020年05月31日

 欠如と過剰


 胎児は個人ではない。母胎と地続きだからだ。母胎は胎児にとって宇宙であり、その宇宙と地続きに20200529_162440なっているということは、おのれ自身が宇宙でもあることを意味する。


 宇宙とは個々の存在者ではないものの別名だ。宇宙である胎児はその意味で個々の存在者ではない。つまり個人としては存在しない。


 母胎の宇宙から離れ、この世界に生まれ落ちたとき、胎児は初めて個人となり、必ずどこかの空間、いずれかの時間を占めるようになる。


 おのれ自身が宇宙である間は、そうした限定を受けることがなかった。受けるようになってから、消えることのない欠如を抱えるようになった。


 人はその欠如を埋めようとして他者を求める。最初の他者は自分の母だ。胎児を母胎の楽園から追放した母は、その代償として子の全面的な庇護者となる。それは子の抱える欠如を不十分にしか埋められない。母胎から離れた子はもはや宇宙たり得ないからだ。


 それでも人間は欠如を埋めたいという願望をあきらめることができない。母が埋めてくれなければ、代わりの他者を求める。それがセックスや恋愛や結婚の相手であり、親や子や兄弟姉妹であり、仕事をともにする相手であり、友人や趣味の仲間たちだ。


 だが、だれを相手にしようと、願望が完全にかなえられることはない。その不全感が願望を常に過剰なものにする。量的なたとえを使えば、あと10あれば満たされると感じたとき、それでは足りないかもしれないと心配して、いつも余分に15を求めてしまう。


 種々の依存症やハラスメント、ストーキングなどの裏にはそうした過剰さが潜んでいると思える。吉本隆明のいう「存在の倫理」はその過剰に対処する方法のひとつと考えることができる。どんな人間であっても、必ず一定の空間と時間を占めてしまう、そのことの重さを手離さない思想だからだ。


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                 『流砂』18号  
                   

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2020年05月30日

 自由と権力――分散する権力(978)


  完全な自由、無限定の自由を理想状態として想定するなら、不完全な自由、限定された自由は権力の20200529_162513支えなしには存在し得ない。それがいま私たちの享受している自由だ。


 日本国憲法が「一切の表現の自由は、これを保障する」(21条)とうたうとき、その「自由」は国家から個人に分散した権力によって「保障」されていることを言い表している。それは不完全な自由、限定された自由であり、その享受は限られたパイを分け合うことにたとえらえれる。分け合いは力と力の関係が生む暗黙のルールによってなされる。


 中国の高度化した資本主義は国民が経済的な自由を享受することを可能にした。それだけ国家の権力が個人に分散していることを意味する。だが、政治的には不自由なままであり、個人への権力の分散は先進諸国ほど進んでいない。香港の反体制的な運動を抑え込む国家安全法制の制定をもくろむ共産党独裁政権はその不自由を香港に広げ、分散した権力の回収を図ろうとしてる。


 ヘーゲルは「東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている」と語っている(『歴史哲学講義(上)』41ページ、長谷川宏訳)。北京政府はいまなお「特定の人びとが自由」であるべきだという古い考えにとどまっている。


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                 『流砂』18号  
                   

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2020年05月29日

 中国があせる理由――分散する権力(977)


 中国が香港の反体制的な運動を抑えるために、香港の頭越しに国家安全法制をつくることにしたのは「焦20200527_180951りの裏返しのように映る」と、きょうの朝日新聞が報じている(5月29日朝刊)。なぜ中国はあせるのか。


 先日の同紙「天声人語」は次のように書いていた。「自由や民主は不十分だが、その代わり豊かさは手にできる。人々にそう思わせることで、中国の体制は保たれてきた。コロナ危機で経済が失速すれば、不満が出てくるのは避けられない。香港での抗議活動を許せば、やがて本土での抗議につながると懸念しているのかもしれない」(5月25日朝刊)


 たしかにコロナ危機は中国のあせりに拍車をかけたかもしれない。だが、あせる理由はコロナ以前からあった。逃亡犯条例を香港政府につくらせようとしたのもそのあらわれだった。それが反対デモで廃案に追い込まれたのは、条例制定がいかに無理筋な施策だったかを物語っており、あせっていなければ考えつかなかったような下策に見える。


 あせりのおおもとは国家からの権力の分散にある。改革開放を引き金にした中国の資本主義の高度化は、消費の過剰化、産業のソフト化、資本のグローバル化を促した。このうち消費の過剰化は国家から個人への権力の分散を駆動し、産業のソフト化は企業への権力の分散を、そして資本のグローバル化は国家間システムへの分散をそれぞれ駆動した。


 「自由や民主は不十分だが、その代わり豊かさは手にできる」(天声人語)と国民に思わせてきた中国の資本主義の高度化は、中国共産党の一党独裁を支える一方で、国家の権力を分散させ、独裁の基盤を弱める要因を生み出した。分散した権力を回収するのが共産党の使命となった。


 そのための様々な試みが香港では閉鎖的な本土と違って世界中の目にさらされた。逃亡犯条例の制定、行政長官の選挙を親中派に有利にする制度の制定のもくろみは、香港市民の大規模なデモによる抵抗に遭い、北京政府をいっそうあせらせる結果となった。


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2020年05月28日

(742)遠さと近さ


30代フリーター やあ、ジイさん。情報サイトを運営するGV(東京都港区)という会社が、新型コ20200527_180700ロナウイルスの流行で広がったリモートワーク(テレワーク)について、当事者を対象に意識調査をしたところ、通勤して働くオフィスワークにくらべて「効率的」が64.2%、「満足」が83.6%にのぼったそうだ(4月16日株式会社共同通信社)。仕事をするとき、できれば会社の建物や上司や同僚から遠ざかりたいという願望がにじみ出ていて共感する。


年金生活者
 吉本隆明は1960年代のなかばごろ、人間には行動や認識の対象を次々と遠くに求めていく特性があるとして、それを「遠隔対称性」と名づけた。リモートワークの満足度が示す、職場から遠ざかりたいという願望はこの遠隔対称性のひとつと考えることができる。

 遠くに対象を求めるなら、別の会社に移るのがいちばんいいのかもしれないが、間近にいる対象を遠ざけるのもひとつの手であることをリモートワークは実証している。このやり方は、遠くにあるものがすべて対象化し尽くされた場合に残されたやり方となる。グローバル化という遠隔対称性の巨大化は、対象化できる遠隔の存在を次々と消滅させつつあり、代わりに近くのものを遠ざけるやり方に人間を導きつつあるように見える。

 博報堂生活総合研究所が小4〜中2を対象に実施した調査によると、「お母さんのような人と結婚したい」男の子は1997年に41.6%だったのが、2017年には52.5%に増えている。これは遠隔対称性に反する現象に見える。けれど、母を心的に遠ざけた結果、それを遠隔の対象として求めることができるようになったと考えれば、納得が行く。

つまり母と息子の間が近くなったのではなく、逆に遠くなったために、近親結婚を想起させなくなり、母のような相手と結婚することへの抵抗感が薄らいできたと考えることができる。


30代
 母と息子の間がたった20年ほどの間に遠くなるなんてことがあるのか。


年金
 疎遠になったとか、仲たがいするようになったとかという意味ではない。両者の間に外の社会が持ち込まれ、そのぶん距離ができたということだ。

専業主婦が減り、働く母親が増えた。あるいは家庭内にとどまる女性が減り、社会に出ていく女性が増えた。社会に出た女性は社会を家庭に持ち帰る。その結果、家族内に一種のよそ行きの要素が入り込む。少しかしこまった言い方をするなら、私的な関係の中に公的な関係が導き入れられる。公的な関係は私的な関係にくらべると当事者間の距離が大きい。それが母と息子の間を遠くした要因のひとつと理解することができる。

 家庭と社会、私的と公的といった言葉があいまいに感じられるなら、経済の言葉を使って、互酬制の中に市場経済が持ち込まれたという言い方をしてもいい。専業主婦の家事労働には賃金が支払われない。彼女は労働を夫に贈与し、その返礼として生活の糧を受け取る互酬制のもとにある。その主婦が家庭の外で働き始めると、夫との関係は賃労働者どうしの関係になり、市場経済の拘束を受けるようになる。それが息子との関係にも反映する。

吉本隆明は遠隔対称性を近親相姦の禁止の一因と考えた。「お母さんのような人と結婚したい」男の子は性の対象を間近の母にではなく、遠ざかった母、遠隔化された母に求めることによってインセスト・タブーを守っているといえる。


30代
 人間が近親相姦を罪と感じ、それを犯すことを恐れるのはなぜだろう。


年金
 罪責感と恐怖というそのふたつの感情はインセスト・タブーの起源を考える手がかりを指し示しているように思える。

 旧約聖書に描かれたアダムとイブの楽園追放の神話では、このふたつの感情の起源が語られている。ふたりは神に食べることを禁じられた木の実を蛇にそそのかされて口にする。その結果「善悪を知る者」(創世記)、すなわち罪責感を持つ者となる。その罪を償うために、イブは子を生む苦しみを、アダムは働く苦しみを与えられ、エデンを追われる。ふたりはそのとき初めて恐怖の感情も経験したはずだ。

 この神話を人の生誕の物語として読むことができるとしたら、人間は母胎の楽園を追われてこの世界に生まれ落ちるとき、やはり罪責感と恐怖を抱くと想定することが可能になる。ただ、恐怖についてはすぐに納得できても、罪責感のほうは理解しがたい。胎児はどんな罪も犯していないはずだからだ。

 罪責感のもとは、楽園から放り出された経験そのものに求めるほかない。いきなり過酷なこの世界で生きることを強いられる理不尽さは、自分が何か罪を犯したとでも考えなければ、とても納得できるものではない。そのことが罪の意識の生まれるもとになる。

 乳児は耐えがたく寄る辺のないこの世界を逃れ、万能感と快感に浸ることのできた母胎の楽園へ帰りたいと願う。その願望は近親相姦への願望の原型を成す。だが、母胎への帰還はその代償として、罪責感と恐怖の体験の反復を強いるだろう。近親相姦に対して私たちの抱く感情の起源をそこに求めることができる。


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2020年05月27日

 宇宙からの視線


 年を取るにつれて、痛みと怒りが心の大きな部分を占めるようになった。そのせいで崩れそうになる心20200514_165528のバランスをなんとか保つことができているのは、間近に迫りつつあるおのれの死を勘定に入れながら日々を送るくせがついているからではないか。


 断捨離とか終活はそうしたくせの集中的なあらわれと考えることができる。自分の死を勘定に入れながら生活するということは、死からの視線を行使しながら、何かを判断したり、行ったりすることを意味する。


 生きることは個別的な動作の連続であり、その否定である死は普遍性への移行とみなすことができる。人はそこからおのれの生を俯瞰する。痛みと怒りに多くを占められた心もまたその視線によって相対化され、バランスを保つことができる。


 死からの視線は普遍的な、すなわちユニバーサルな視線であり、宇宙的な視線ということができる。この視線を日常的に行使しているのは老人ばかりではない。乳児もまた行使していると想定される。


 母胎という宇宙と一体の胎児は自分自身が宇宙でもある。少し前までそうだった乳児は宇宙からの視線を名残として持っている。痛みと怒りを泣き声で表出続ける乳児が心のバランスを崩さないでいられるのは、宇宙からの視線を保持しているからだ。


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2020年05月26日

 中国の独裁が崩れるとき


 中国の独裁体制が崩れるときが来るとしたら、政治的な不自由を経済的な自由で補う現在のシステムが20200517_163628維持できなくなるときだろう。その事態は経済的な自由がさらに拡張された場合に想定される。言い換えれば富の稀少性の縮減がさらに進んだ場合と言ってもいい。


 国家の主要機能のひとつは富の再分配だ。それは強制によってなされ、軍隊と警察がそれを裏づける力となる。再分配が必要とされるのは富が稀少だからで、稀少性が薄れていけば再分配の必要性も低下する。そうなると国家の存在理由も低下する。すなわち独裁の前提が危うくなる。


 これは資本主義が終わるまで、あるいはその姿を大きく変えるまで、中国の独裁体制は続くと言っているに等しく、「未来に逃げている」と批判されても仕方がないように見える。だが、政治的な不自由と経済的な自由の相補関係という、今までの歴史になかった事態と、それをもたらした資本主義の高度化がこれから先さらに富の稀少性の縮減を加速する可能性を考えると、荒唐無稽とばかりは言えないと思う。


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2020年05月25日

 中国の独裁はいつ終わるか


 きょうの朝日新聞の朝刊は、1面で安倍内閣の支持率が第2次政権発足以来最低の29%に落ちたこと20200514_165430を伝え、3面で中国外相の王毅が香港の反体制デモを封じる国家安全法制の制定を「必ずやらなければならない」と記者会見で語ったと報じている(5月25日)。私も含め左派や進歩派などが批判する安倍政権の「独裁」など、中国の独裁にくらべれば児戯ですらないと思えてくる。

 
王毅は香港の現状について「昨年6月から独立派や分裂派によるテロ活動がエスカレートし、外部勢力も深く介入している。『一国二制度』への大きな脅威になっている」と語っている。「『一国二制度』への大きな脅威」が存在するとしたら、それは彼の言葉とは逆に北京政府そのものにほかならない。

 王毅が「独立派や分裂派によるテロ活動」と呼ぶ若者らの大規模なデモは、香港政府が北京の意向を受けてつくろうとした逃亡犯条例への反対運動に端を発し、独裁を拒否する民主化運動に発展した。中国が「一国二制度」を棄損する条例を押しつけようとしなければ、「テロ活動」も起きなかったはずだ。

 そういう危険をおかしてまで北京政府が香港に独裁を及ぼそうとしているのは、それだけ自らの政権に危うさを感じていることの証左でもある。「香港での抗議活動を許せば、やがて本土での抗議につながると懸念しているのかもしれない」(5月25日朝日新聞「天声人語」)。国家から個人、企業、国家間システムへの権力の分散は独裁体制の中でも進行し、習近平は分散した権力の回収に躍起となっていると理解することができる。


 それでも、現在の独裁体制が崩れるほどの危機の兆候は見られない。資本主義の高度化によって広がった経済的な自由が政治的な不自由を補い、国民の不満を和らげているからだ。そればかりか、米中の新冷戦は独裁をさらに強化する可能性すらある。だとしたら、中国の独裁は終わることがないのだろうか。


 ソ連を崩壊させたのは資本主義の高度化だった。経済の牽引車が第2次産業から第3次産業に移り、個人の自由をそれまでより拡張する必要が出てきたからだ。第2次産業は工場という軍隊をモデルにした場所での労働を必須とし、そのぶん個人の自由を制約する。それにくらべると、金融や教育や娯楽や情報などのサービスを中心とした第3次産業は個人の創意に頼る部分が大きく、そのためには働き手の自由度を広げる必要がある。収容所列島と化したソ連はそれに対応できなかった。


 ソ連の弱点を早くに察知した中国は経済的な自由を拡張する改革開放路線に舵を切り、政治的な不自由だけを維持する新たな独裁体制を構築した。その体制が崩れるとしたら、政治的な不自由と経済的な自由との相補関係が崩れるときだろう。それを促すものとして、資本主義の高度化とテクノロジーの発達が加速する富の稀少性の縮減が考えられる。そのときどんな事態が想定されるか、日をあらためて書いてみたい。


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2020年05月24日

 感情の受け身ができなくなった


 年を取ると、体ばかりでなく心も固くなるというのはやはり本当だ、と実感する。

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 いつも行くDVDのレンタルショップで、スタッフの女性にものを訪ねたら、一瞬間を置いて返事をした。たとえば、そんなささいなことに痛みと怒りを覚えることがある。なぜすぐに応答しないんだ。客を品定めしたのか。年寄りだと思ってばかにしたのか。さまざまな憶測があとになってわいてくる。


 相手にそんなつもりはないに違いない。私が日ごろ他者全般に対して無意識のうちに抱いている痛みと怒りが、そうした憶測を生んだと考えるほうが真実に近いと思う。ただ、相手は意識していなくても、無意識のうちに私を見下していたのではないかという疑念をぬぐい去ることができない。


 ふだん痛みや怒りを抱えながら暮らしているということは、感情がひとつの方向に固まった状態にあることを意味する。喜怒哀楽のうち喜や哀や楽が欠落し、怒が痛と手を携えて心の多くの部分を占拠した状態にあるといってもいい。痛いから怒り、怒るとその反作用でまた痛くなる。


 たしかに日々を振り返ると、喜んだり、楽しんだり、悲しんだりすることが少なくなった気がする。そっちの方向へ感情を転換するのが難しくなっているのだと思う。これは乳児への退行を意味しているのではないか。


 私の想像では、新生児が最初に覚える感覚は痛みであり、最初に持つ感情は怒りだ。産声はそうした感覚と感情の表出にほかならない。母胎の楽園を追われ、荒れ野のようなこの世界に生まれ落ちた痛みと、その理不尽さに対する怒りだ。このうち痛みはやがて感情の痛みに拡張される。


 退行した感情、痛みと怒りが主流となった感情は、変化の幅が狭まったぶんだけ柔軟さを欠く。つまずいたり、すべったりして転んだとき、柔道の受け身に相当する動作をすることができない。体に起きている衰えが、心にも並行して起きている。


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2020年05月23日

 文春砲の威力――分散する権力(976)


 東京高検検事長の賭けマージャンを報じた週刊文春のスクープは、これまでマスメディアの本流とされて20200517_164627きた新聞とテレビを傍流の週刊誌が凌駕したことを示す出来事となった。背景にはやはり国家からの権力の分散があると考えないわけにはいかない。


 新聞とテレビは国家の間近に取材の拠点を置いている。それが役所の情報を独占するギルドとしての記者クラブだ。このことは両メディアが国家の権力の一部を分け持っていることを意味する。つまりマスメディアの本流は純然たる民間企業とは言えない。


 これでは、マスメディアの役割のひとつとされる権力の監視はできないように見えるが、そうとばかりは言えない。実際に役所の不正を暴くことはいくらでもあるからだ。マスメディアが第4の権力と呼ばれることがあるように、権力の分立による抑制と均衡がそこに働いているとみなすことができる。


 産業のソフト化に駆動された国家から企業への権力の分散は、国家の権力を分け持ってきた新聞とテレビにも当然ながら及んでいると考えなければならない。記者クラブの外にある、言い換えれば国家の権力を分け持っていない週刊文春は純然たる民間企業であり、権力の分散先のひとつといっていい。「文春砲」が威力を増している要因の一部がそこにある。


 私はかつて朝日新聞の記者をしていた。東京高検検事長と賭けマージャンを通じて癒着するような、言い換えればエライ人に食い込むような優秀な(皮肉ではなく)記者ではなく、ドジを踏みながら各地の勤務先を転々とした。それでも、ときには仕事がうまく行ったと感じることがあり、思い出していい気分に浸ることもあった。


 だが、今はそれを思い出すと恥ずかしく感じることが多くなった。なぜなのかわからない。もしかしたら、お釈迦さんの手のひらの上で暴れ回っていたことに気づかされた孫悟空のような気分になるからかもしれない。マスメディアの本流から権力が分散した結果、その権力に助けられていい気になっていたおのれに気づかされるからかもしれいない。


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2020年05月22日

 コロナと検察――分散する権力(975)


 新型コロナウイルスへの対応のもたつきと、検察庁法改正案をめぐるつまずきは、安倍政権の弱体化だけでな20200517_163817く、権力の分散が進んだ国家の揺らぎをあらわにした。


 何度も繰り返し書いているように、資本主義の高度化とテクノロジーの発達は富の稀少性の縮減を加速し、国家から個人、企業、国家間システムへの権力の分散を促した。消費の過剰化が個人への、産業のソフト化が企業への、そして資本のグローバル化が国家間システムへの権力の分散を駆動した。


 コロナ対策では政府の動きの鈍さとは対照的に、大阪府や東京都の知事の実行力がきわだった。地方自治体は国家と社会の中間に位置する存在だ。社会を構成する個人と企業に国家の権力が分散する過程で、その権力の一部が地方自治体に向かったと考えれば、知事らの発言力の高まりは納得できる。


 大阪府知事の所属政党である大阪維新の会はこうした権力の分散をいち早く察知し、地方で政権を握ることによって国政を動かしていく戦略を描いていると思われる。


 コロナ禍が生み出した「自粛警察」も個人への権力の分散を背景にしている。公式には何の権限もない彼らが人を動かしている理由がそこにある。それが戦時中の国防婦人会の再現にたとえられるのは、コロナ対策が戦争にたとえられるのと同じだ。戦争は国家への権力の集中に見えるが、国民ひとりひとりが戦争という国権の発動の担い手になるという意味では権力の分散でもある。


 今国会での検察庁法改正を政権に断念させた#検察庁法改正案に抗議しますのツイッターデモの力も、国家から個人への権力の分散がもたらしたということができる。それが検察を水戸黄門のような正義の味方と考える日本人の前近代的なメンタリティーと手を携えて政権を追い詰めた。


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