2017年05月25日

(605)国民が安倍政権に非寛容になるとき


30代フリーター やあ、ジイさん。「共謀罪」法案への国民の警戒心があまり強くない理由について、小田嶋隆20170522_101820というコラムニストが次のように書いている。大多数の日本人は自分たちが「共謀罪」によってひどい目に遭うとは思っていない。「共謀罪」は多数派の日本人が少数派の日本人を網にかける法律で、自分たちは多数派に属しているので心配ないと考えているからだ。常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定しているのが大多数の日本人なのだ(5月19日「日経ビジネスオンライン」)。

年金生活者 小田嶋の指摘の背景にあるのは、個人として判断したり、行動したりすればいい場合でも、公の視線(世間の目)を介さないではいられない日本人の心性だ。欧米の先進諸国の国民のように公と私が明瞭に分離してない。吉本隆明の言葉を借りれば、共同幻想と個人幻想が分離し切っていない。そう考えると、安保法制や憲法9条の改正には反対が賛成を上回っているのに、「共謀罪」にはそれほどの反対がないことの理由がある程度まで理解できる。国民が安保法制や9条改正に反対するのは、小田嶋の言い方にならえば、そうすることが多数派になることだからだ。吉本の言葉を借りるなら、国民は共同幻想としてそれらに反対している。先の大戦での敗北は、日本人には共同の絶望として体験され、そのあとの共同の希望として憲法9条が生まれた。これに対して、「共謀罪」に反対する根拠のひとつになっている思想・良心の自由は本来、共同のレベルではなく、個人のレベルで享受するものだ。ところが、日本社会ではその享受の主体となる個人が共同性から独立し切っていない。そのため、そうした自由そのものが制約を受けたままになっている。個人のレベルにある自由は、もともと多数派か少数派かを問われる性質のものではない。ところが個人が共同性の残滓を引きずったままの日本では、自由を主張する者は少数派に分類されかねない。それを変えるものがあるとすれば、国家から個人へ権力の分散がさらに進むことしか今のところ想定することができない。

30代 今まで3回も廃案になった「共謀罪」法案を安倍政権がゴリ押しする理由は何だ。

年金 この法案は、個人に分散した権力を国家に回収するために、安保法制に続いて政権が用意した政治装置だ。超近代的な憲法9条を近代に後戻りさせることによって、分散した権力の回収をはかるのが安保法制だとすれば、「共謀罪」法案は近代を前近代に後退させることによって権力の回収をはかるのを狙いとしている。非戦だけでなく非武装までうたう9条は、世界のどの国にもない超近代性を備えている。それなら「超」を取り去っても「近代」は残る。それに目をつけた安倍政権は分散した権力のまとまった回収を図る仕組みとして安保法制の制定、すなわち平成の解釈改憲を強行した。ただ、この法制は肝心の集団的自衛権の行使が限定つきにとどまり、権力の回収装置として十分とはいえない。安倍晋三が9条での自衛隊の明文化をいい出したのはそのためだ。9条の解釈改憲および明文改憲が対外的なベクトルをもった権力の回収装置だとすれば、「共謀罪」法案は対内的なベクトルの装置ということができる。それが前近代への後戻りを含んでいるのは、したことだけを裁き、思ったことは裁かないという近代の法思想の前提を覆すものだからだ。

30代 歴史の歯車を逆回転させようとしている安倍政権なのに、世論調査の支持率は下がらない。

年金 中森明夫という評論家が、アイドルは欠点が魅力だと指摘している。もしかしたら安倍晋三が安定した支持率を保っているのも、彼の欠点が魅力になっているからかもしれない。彼は少なくとも国民の前ではあまりえらそうにしない。たぶんえらそうに振る舞える材料を持ち合わせていなくて、できないのだと思う。逆に自らの欠点をさらけ出すことがわりと多い。国会で野党になじられると、頭に血がのぼって食ってかかることがこれまで一度ならずあった。この大人げなさを私は好まないので、あくまで理屈で推測すると、彼のそうした子供っぽさが一定数の国民の目に魅力的に映っているのではないか。そのときの彼の怒りが滑舌の悪さに拍車をかけ、それが可愛らしさと受け取られているのかもしれない。大人である一般国民は、えらそうなやつを相手にするときとは逆に、子供には寛容だ。

30代 国民が安倍晋三に非寛容になるときはないのだろうか。

年金 あるとしたら、彼と彼の率いる自民党が憲法9条の改変を強行しようとするときだろう。戦争だけはまっぴらだという気持ちは戦後の国民のアイデンティティーを形づくってきた。政治家が改憲の旗を振るときはどうしても国民に対して上から目線にならざるを得ない。憲法改正は本来それを国民の多数が要求したときに初めて国会が発議すべきものだ。安倍らはそれがないのに、改憲を推し進めようとしている。おれたちが頼みもしていないことを勝手にするな、と怒る国民の姿が私の頭には浮かんでくる。


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                    『流砂』13号                                     
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2017年05月24日

 なぜ謝るのか


 企業は苦情に対処するために謝罪の技術を磨いている。謝罪代行業者を主人公にした『謝罪の王様』という20170522_101847映画もつくられ、謝罪は芸としても扱われるようになった。それだけ謝罪の需要が高まっている。

 なぜ謝罪を求める人たちが増えたのか。国家から分散した権力を手にした個人がそれにふさわしい処遇を求めるようになり、それに反する扱いを受けたとき不服を隠さなくなったからだ。

 謝罪は人類の発明のひとつだ。人間以外の動物は謝罪しない。他を害したときは報復を受けるだけだ。人間は報復されたり、し返したりする際の被害を回避するために、言葉を盾に使うようになった。それが謝罪だ。

いったん確立した謝罪というコミュニケーションの方法は、報復の回避以外の機能も持つようになった。たとえば人は自分が相手よりも優位に立っていることを確かめるために謝る。それと自覚せずに。相手はこちらのせいで憐れむべき状態に追い込まれている。だから、謝らなければいけない。そうと思うとき、人は自分が相手を支配し得る立場にあることを確認して満足する。

同じことを別の言い方で説明することもできる。人は自分が相手よりも劣位にある状態を解消しようとするときに謝る、と。劣位にあるという自覚は負い目と言い換えることができる。負い目は他者を害することによって生まれる。謝罪は自分が加害者であることの確認にほかならない。それはおのれが一度は相手を支配する立場にあったことの確認でもある。それが劣位の自覚を解消する。

謝罪の仕方によってはかえって相手との関係がこじれることがあるのは、謝罪の動機に相手を支配したいという願望がひそんでいるからだ。


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                    『流砂』13号                                     
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2017年05月23日

「もっと高度なしっかり考えられた主義や主張」は生まれるか


 栗本慎一郎が三上治の質問に答えて「信念の世紀はもう終わった」と語っている(「情況への発言」、『流砂』P102002513号)。その趣旨を私なりの言い方で要約すると次のようになる。

共産主義、社会主義はことごとく失敗した。自由・平等・博愛といった民主主義の理念もテロリズムなどを前に危うくなっている。いま必要なのは「もっと高度なしっかり考えられた主義や主張」(同)だ。だが、そんな主義や主張は今どこにも存在しない。その空白にトランプが登場した。終わった「信念の世紀」の批判者として彼は喝采を浴び、大統領に当選した。

栗本のいう「もっと高度なしっかり考えられた主義や主張」は生まれるだろうか。たとえば18〜19世紀の「高度なしっかり考えられた主義や主張」だったアダム・スミスらの古典派経済学は、資本主義を商業資本主義から産業資本主義へ転換させた産業革命を待って初めて生まれた。

だとすれば、これからの「高度なしっかり考えられた主義や主張」も、そうした大きな転換を経なければ生まれないという予測が成り立つ。その転換は、商業資本主義、産業資本主義、消費資本主義(またはグローバル資本主義)と高度化してきた資本主義のさらなる高度化か、資本主義そのものの終焉として到来する可能性が高い。

資本主義の衰退と共有型経済の拡大を予測するジェレミー・リフキンの著作『限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭』柴田裕之訳)は、もしかしたらこれから先あらわれるかもしれない「高度なしっかり考えられた主義や主張」の先行的なメッセージとなる可能性がある、と私は考えている。


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                    『流砂』13号                                     
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2017年05月22日

 アイドル安倍晋三


 アイドルは欠点が魅力という中森明夫の指摘をきのう紹介した。もしかしたら安倍晋三が高い支持率を保ってP1020023いるのも、彼の欠点が魅力になっているからではないか。

 閣僚の失言があっても、森友学園や加計学園の疑惑があっても、安倍内閣の支持率が下がらないのは、彼に取って代わるい人物が党内にいないから、さらに政権を担える野党が存在しないから、という見方がいまマスメディアでは定着している。しかし、安倍本人が国民にあまり好かれていなかったら、いくら代わりがいなくても、これだけの支持率を保つことはできないはずだ。

 低い支持率で名を残した森喜朗と麻生太郎は、私の観察では国民にあまり好かれていなかった。どちらもえらそうな態度が抜け切らなかったからだ。国民は自分たちに敬意を払わない政治家に寛容ではない。国民をあなどって露骨な公約破りをした民主党とその後身の民進党に対する厳しい視線を見ればそれは明らかだ。

 安倍晋三は少なくとも国民の前ではあまりえらそうにしない。たぶんえらそうに振る舞える材料を持ち合わせていなくて、できないのだと思う。それとは逆に、自らの欠点はさらけ出すことがわりと多い。国会で野党にきつい質問をされて頭に血がのぼり、食ってかかることがこれまで一度ならずあった。

 この大人げなさを私は好まないので、あくまでも理屈による推測だが、彼のそうした子供っぽさが一定数の国民の目に魅力として映っているのではないか。そのときの彼の怒りが滑舌の悪さに拍車をかけ、それが可愛らしさと受け取られているのではないか。

 大人である一般の国民は、えらそうなやつを相手にするときとは逆に、子供には寛容だ。そこがえらそうなやつに弱いインテリとの違いだ。

 国民が安倍晋三に非寛容になるときがあるとしたら、彼と彼の率いる自民党が憲法9条の改変を強行しだしたときだろう。戦争だけはまっぴらだという気持ちが、戦後の国民のアイデンティティーを形づくる大きな要素となっているからだ。

 もうひとつつけ加えることができる。政治家が改憲の旗を振るときはどうしても国民に対して上から目線にならざるを得ない。憲法改正は本来それを国民の多数が要求したときに初めて国会が発議すべきものだ。しかし、安倍らは国民の多数の要求がないのに、発議しようとしている。おれたちに相談もなしに勝手なことをするな、と怒る国民の姿が私の頭には浮かんでくる。


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                      『流砂』12号
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2017年05月21日

 なぜ欠点が魅力になるのか


アイドルとは「好き」になってもらう仕事。アイドルは欠点が魅力。中森明夫というアイドル評論家がそう書いて20170514_144642いる(『アイドルになりたい!』スペシャルプレビュー)。彼は自らが発掘した上戸彩を初めて見たときの印象を「道ばたに捨てられた子犬みたいな女の子だった」と語っている(同)。

欠点がなぜ魅力になるのか。魅力を文字通り魅きつける力と解するなら、人は他者の欠点、弱いところに魅かれるということになる。なぜ弱点に魅かれるのか。相手を支配できると思うからだ。

相手を支配するということは自らを神の位置に置くことを意味する。人間が神の位置に立つことのできるときがあるとすれば、母の胎内にいた時代しかない。胎児にとって母胎は全宇宙であり、へその緒を介してその宇宙と一体化している。つまり自らが宇宙そのものでもあり、神の位置にある。

母胎の楽園を追われ、この世に生まれ落ちてからは、神の位置に立つことは二度とない。しかし、生まれ落ちた世界の過酷さは楽園への帰還の願望を生む。他者の弱点に魅かれるのはその願望のあらわれにほかならない。

相手の弱点に魅力を感じるのは危険もはらんでいる。相手を支配しようとすることにつながるからだ。支配の欲望は相手の反発を引き起こす。ふたりのあいだで権力闘争が始まる。可愛いと思っていた相手が憎たらしくなる。恋愛がたどる典型的な経路だ。


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                      『流砂』12号
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2017年05月20日

 分散する権力(324)――国民はなぜ「共謀罪」に“寛容”か


 朝日新聞の世論調査では、安倍政権が新設を急ぐ「共謀罪」への賛否はほぼ相半ばしている(4月18日朝P1020018刊)。この法案への国民の警戒心があまり強くない理由について小田嶋隆というコラムニストが次のように書いている。

 大多数の日本人は自分たちが「共謀罪」によってひどい目に遭うことはないと考えている。なぜなら、「共謀罪」は多数派の日本人が少数派の日本人を網にかける法律であり、自分たちは多数派に属していると考えているからだ。常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定しているのが大多数の日本人なのだ。

 この小田嶋の指摘の背景にあるのは、個人として判断したり、行動したりすればいい場合でも、公の視線(世間の視線)を介さないではいられない日本人の心性だ。欧米の先進諸国の国民のように公と私が明瞭に分離してない、吉本隆明の言葉を借りれば、共同幻想と個人幻想が完全に分離し切っていない心性ということもできる。

 そのことを前提にすると、安保法制や憲法9条の改正には反対が賛成を上回っているのに、「共謀罪」にはそれほどの反対がないことの理由がある程度まで理解できる。安保法制や憲法9条の改正への反対は、小田嶋の言い方をするなら、そうすることが多数派になることであり、吉本の言葉を借りるなら、共同幻想としての反対を意味している。

 先の大戦での敗北は、日本人には共同の絶望として体験され、そのあとの共同の希望として憲法9条が生まれた。これに対して、「共謀罪」に反対する根拠のひとつになっている思想・良心の自由は本来、共同のレベルではなく、個人のレベルでしか享受できない。ところが、日本社会ではその享受の主体となる個人が共同性から完全に独立し切っていない。そのため、そうした自由そのものが欠如を抱えたままになっている。

 個人のレベルにある自由は、もともと多数派か少数派かを問われる性質のものではない。ところが個人が共同性の残滓を引きずったままの日本では、自由を主張する者は少数派に分類されかねない。それを変えるものあるとすれば、国家から個人へ権力の分散がさらに進むことしか今のところ想定することができない。

 

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2017年05月19日

 分散する権力(323)――「共謀罪」について

 

 きょう衆院法務委員会で強行可決された「共謀罪」法案は、個人に分散した権力を国家に回収するために、安保法制に続いて政権が用意した政治装置だ。

 超近代的な憲法9条を近代に後戻りさせることによって、分散した権力の回収をはかるのが安保法制なら、「共謀罪」法案は近代を前近代に後退させることによって権力の回収をはかるのを狙いとしている。

 非戦だけでなく非武装までうたう9条は、世界中のどの近代国家にもない超近代性を備えている。それなら「超」を取り去っても「近代」は残る。それに目をつけた安倍政権は分散した権力のまとまった回収の第一弾として安保法制の制定、すなわち平成の解釈改憲を強行した。

 ただ、この法制は肝心の集団的自衛権の行使が限定つきにとどまり、権力の回収装置として十分とはいえない。安倍晋三が9条での自衛隊の明文化をいい出したのはその不満を募らせたからだ。

 9条の解釈改憲および明文改憲が対外的なベクトルをもった権力の回収装置だとすれば、「共謀罪」法案は対内的なベクトルの装置ということができる。それが前近代への後戻りを含んでいるのは、したことだけを裁き、思ったことは裁かないという近代の法思想の前提を覆すものだからだ。

 安保法制は施行されたからといって、すぐに国民の生活を左右するものではないが、「共謀罪」法は施行されたとたんに、国民が官憲の監視対象になる可能性をはらみ、国民を身構えさせる。

 しかし、その法案に対して安保法制のときのような国民の大規模な反対運動は起きていない。世論調査結果も、安保法制は賛成より反対が多かったのに、「共謀罪」は賛否が相半ばしている。国家から個人への権力の分散が万人の万人に対する冷戦を引き起こし、それを恐れる国民のかなりの部分が、分散した権力の回収を支持しているからと推察される。


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                      『流砂』12号
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2017年05月18日

(604)死のまわりを巡る


30代フリーター やあ、ジイさん。70歳になったそうだな。俺にはまだ想定外の年齢だが、どんな気分だい。

P1020019年金生活者 70代は60代よりも死ぬ確率が格段に高まり、仮に死ななくても、病気やけがをしやすくなるはずなのに、それをまだ実感として受け止めることができない。体力も運動能力もはっきりと衰えているのに、死や大病が差し迫っているとは感じられない。ただ、そのことが気になりだしたことは確かだ。60歳になったときは生涯の終わりの始まりのような気がして寂しさが募ったが、死や病気のことはそれほど気にならなかった。私にとって60代と70代のこの差はこれから先さらに広がっていくに違いない。

30代 自分の死は自分では経験できないのだから、あれこれ考えても仕方がない気もする。

年金 その経験不可能な状態に至るまでに起きる体力と気力の不可逆的な低下を緩慢な死とみなせば、自分の死もまた経験の範囲内にあると考えることができる。そうした緩慢な死は本格的な眠りにつく前のウトウトのようなものといってもいい。ウトウトが心地よさをともなうように、体力や気力の衰え、すなわち緩慢な死にも心地よさがひそんでいるのではないか、と期待したくなる。それらの衰えによって心は活動を制限され、そのぶん緊張の頻度も度合いも低下する。フロイトの快感原則にしたがえば、緊張のない状態にこそ心地よさ感じるのが人間の心だ。

30代 死のことを話しだすと、いろんな言い方ができて、収拾がつかなくなりそうだ。

年金 死は比喩によく使われる。死ぬほど好き、死に体、目が死んでいる、死に馬に蹴られる……。死にはそれだけインパクトと普遍性がある。実際、人間はそれと意識せずに死を個別性から普遍性への移行としてとらえている。生きることは、絶えず特定の時間と特定の場所を占めることであり、その意味で生は徹底的に個別的な過程ということができる。人間はその生の否定を死と考える。すなわち、個別性を脱することを死ととらえている。人間が死を生の否定と解するようになったのは、言葉を持ったときからだ。何かを否定することは言葉を獲得して初めて可能になった。言葉が否定の機能を備えているのは、もともと言葉そのものが現実を否定することによって成立したからだ。猫という言葉は、個別的に存在する現実のネコを否定することによって生まれた。

30代 死は普遍性への移行だというが、普遍的なものは死に限らず至るところに存在する。

年金 あらゆる普遍性は死をはらんでいるということもできる。強迫性障害(強迫神経症)を例に話してみよう。玄関の鍵をかけたかどうか何回も確かめに戻ったり、一日中くりかえし手を洗っていたりするのがこの障害だ。なりやすい性格として完璧主義責任の過大化あいまいさへの不耐性脅威の過大評価などの特徴が挙げられている。私自身もいくぶんかは持ち合わせている性格だ。

30代 それが死と関係あるのか。

年金 そうした性格の根底にあるのは、現実とじかに接触するのを避けたがる傾向だ。それは現実の喪失、すなわち死と引き換えに、現実の個別性を脱して普遍性へ向かおうとする傾向ということができる。胎児期あるいは乳児期になまの現実から受けたトラウマがそうさせていると考えることができる。現実とじかに接触しないようにするためにとられる方法が、おのれを現実よりも高い位置にある存在とみなす心の持ちようだ。自尊心の肥大化、あるいはうぬぼれと呼んでもいい。さっき挙げたの完璧主義は現実を完全におのれのコントロール下に置けるとうぬぼれているし、の責任の過大化はおのれがそれだけの責任を取れる地位にあると思い込んでいる。のあいまいさへの不耐性は、あいまいさを完璧なおのれへの反抗と錯覚する心性から来ているし、の脅威の過大評価は、現実より一段高いところに置いたぶんだけ不安定になった自分自身の状態が招いたものだ。

30代 話がだんだん死からそれてきたぞ。

年金 普遍性への移行としての死を別の言葉でいいあらわすなら、母胎の楽園への帰還ということになる。胎児は母胎を自らの全宇宙とし、へその緒を通じてその宇宙と一体化している。胎児は宇宙的な存在、すなわちユニバーサルな存在、普遍的な存在ということができる。母胎の楽園への帰還は、楽園の代替だった性交や恋愛や結婚、吉本隆明の言い方にしたがうなら対幻想を失うことを意味する。楽園へ帰れるのに、死にたくないと人間が思うのは、対幻想を失ったあとの空白の大きさを予感しているからだ。対幻想が母胎の楽園の代替たり得ているのは、それが時間と場所を限って楽園を再現しているからだ。時間と空間が限定されているぶんだけ、再現された楽園は濃縮されており、その濃縮が生み出す快楽を人間は忘れることができない。親鸞が弟子に語った『歎異抄』の言葉が思い出される。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ」


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2017年05月17日

 安倍改憲案の巧妙さ


憲法9条の第1項(戦争の放棄)、第2項(戦力の不保持、交戦権の否認)を残したまま、自衛隊の保持を明文P1020015化する安倍晋三の改憲案は、読売新聞、産経新聞・FNN、NHKの各世論調査とも賛成が反対を上回っている。ただ、朝日新聞の世論調査は逆の結果になっていて、そうした改憲をする「必要はない」が「必要がある」をわずかに上回っている。どちらにしても首相の改憲案に同調する意見が相当数にのぼっていることは確かだ。

私はこのブログで、多くの国民が安倍晋三の9条改憲案に同調する可能性は低い、と予測していた。なぜなら、この案は集団的自衛権の行使を制限つきから無制限なものに変え、自衛隊の海外での活動を広げることに狙いがあり、国民はそれに抵抗を覚えるに違いないと考えたからだ。

しかし、世論調査結果を見る限り、国民の多くは安倍改憲案を自衛隊の現状を追認するだけにとどまると理解していると推察される。そうだとしたら、国民投票にかければ可決される可能性がある。公明党内にもよく似た改憲案があり、国会による発議も現実味を帯びてくる。安倍改憲案はその点で巧妙にできているといっていい。

自民党内の異論はわずかに石破茂が唱えているくらいで、それもタカ派的な観点から「独立国家として憲法で自衛隊が軍隊であることを明記しないと意味はない」と語っている(週刊朝日5月26日号)。安倍案はけっこうハト派じゃないか、と国民に思わせるような発言で、結果として安倍をあと押しする役割をはたしている。

しかし、これから先、憲法審査会などで議論が重ねられていくにつれて、9条の1、2項を残したままの自衛隊の明文化が新たな矛盾――交戦権のない国家のもとで戦力でない自衛隊が集団的自衛権を無制限に行使するという矛盾を生む可能性のあることがあらわになるはずだ。安倍改憲案をめぐる世論が現状のまま推移することはありえない。


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                      『流砂』12号
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2017年05月16日

 死のまわりをもうひと巡り


私はこの2月で70歳になった。70代は60代よりも死ぬ確率が格段に高いはずだ。仮に死ななくても、病気やP1020016けがをする確率ははるかに高まる。

私はそのことをまだ実感をもって受け止めることができない。体力も運動能力もはっきりと衰えているのに、死や大病が差し迫っているとまでは感じられないからだ。

ただ、そのことが気になりだしたことは確かだ。60歳になったときは人生の終わりの始まりのような気がして寂寥感が募ったが、死や病気のことはそれほど気にならなかった。私にとって60代と70代のこの違いはこれから先さらに明瞭になっていくに違いない。

自分の死は自分では経験できない。だが、そこに至るまでに生じる体力と気力の不可逆的な低下を緩慢な死とみなせば、自分の死もまた経験の範囲内にあると考えることができる。そうした緩慢な死は本格的な眠りにつく前のウトウトのようなものといってもいい。

ウトウトが心地よさをともなうように、体力や気力の衰え、すなわち緩慢な死にも心地よさがひそんでいる。それらの衰えによって心は活動を制限され、そのぶん緊張の頻度も度合いも低下する。フロイトの快感原則にしたがえば、緊張のない状態にこそ心地よさ感じるのが人間の心だ。


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