2017年03月29日

 感情は二重人格だ


恋人関係にある相手が、たとえばずるい振る舞いをしたとき、こちらの感情は相反するふた通りの動きをする20170329_115201_Burst01可能性がある。ひとつは怒りを覚え、憎しみを募らせることであり、もうひとつはずるさを可愛いと感じ、愛おしいと思うことだ。このふた通りの感情は同一人物の中で入れ替わり、その転換のさまは二重人格を思わせる。

このことは感情の特性に由来すると考えられる。吉本隆明は感情を定義して「心的な了解の時間性が空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ」と述べている(「心的現象論序説」、『吉本隆明全集10』)。これを読んだだけではわかりにくいので、私なりの理解を記すと、次のようになる。

人間の心的な過程は前後ふたつに分かれる。まず対象を受け入れる過程がある。これは対象を自分と関係づける過程だ。吉本は空間化と呼んでいる。次にこの関係づけた対象、つまり空間化した対象をそれが何であるか了解する過程に入る。それには対象をいろんな角度からとらえる時間が必要だ。吉本はこの過程を時間化と呼んだ。

感情はこうした空間化と時間化のからまり合いの結果として生まれる。対象を空間化し、次に時間化して了解したあと、その了解そのものをまた空間化するとき、それが感情となる。空間化とは対象を自分と関係づける過程だから、このとき了解そのものが自分と関係づけられる。それまで単なる了解だったのが、おのれを拘束する了解となり、そこに感情が起動する。

最初に挙げた例に即していえば、相手をずるいやつだと判断する、ただの認識だった了解が、空間化すなわち関係づけによって、自分自身を左右するものに変わり、その反応として、憎たらしいとか可愛いといった感情が発生する。はたで見ている者の目には、前者は利口さあるいは猜疑心と映ることもあるし、後者は善意あるいはお人好しと映ることもある。

以上のことから、感情はある程度まで制御が可能だということがわかる。感情とは了解に囚われることだから、その了解の中身を変えれば、感情の種類も変えることができるはずだ。相手のずるさを悪意あることととらえれば憎しみがわく。しかし、ずるさを必死な気持ちのあらわれと理解するように努めれば、愛らしくも見えてくる。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 15:44Comments(0)TrackBack(0)愛について

2017年03月28日

 交換様式と対幻想(下)


柄谷行人のいう支配的な交換様式の変遷を系統発生だとすれば、人間の発達過程は個体発生に相当し、交20170327_180838換様式A(互酬=贈与と返礼)は乳児期に、交換様式B(略取と再分配=支配と保護)は幼児・学童期に、交換様式C(商品交換=貨幣と商品)は思春期以降にそれぞれ相当する、ときのう書いた。同じことが恋愛にもいえる。

恋愛は相手へ贈与のし合い、返礼のし合い、つまり互酬から始まる。乳児が母の庇護を受けるために、母に愛されようとして、懸命に母を愛するように、人はだれかに恋愛感情を抱いたとき、相手に愛されようとして、相手に愛を与えようとする。褒め言葉やプレゼントや奉仕の形をとって。

しかし、贈与にはいつも返礼があるとは限らない。ふたりの関係の外にある事情が互酬を妨げることがもある。それを補うために、強制力が使われるようになる。贈与と返礼はやがて奪い合い、奪い返し合いに反転する。ふたりの主導権争いが始まる。たとえばデートなら、自分の都合のいい時間と場所で済ませようとして、相手を脅したり、相手の了解を得ずに事を進めたりする。そのせめぎ合いは力によって行われる。あたかも国家が国民を権力によって動かすように。

やがて争い疲れたふたりは、等価交換のルールを設定してそこに落ち着こうとする。女性は男性とセックスする対価としてデートの費用を男性に負担させたり、プレゼントを贈らせたりする。それは互酬に似ている。違うのは互酬が霊的な力によって維持されるのに対して、等価交換は契約によって成り立つ点だ。この段階まで来た男女は結婚に近い状態にあるといっていい。ただし、それはふたりの結婚が間近という意味では必ずしもない。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 15:40Comments(0)TrackBack(0)愛について

2017年03月27日

 交換様式と対幻想(上)


系統発生の反復が個体発生だとすれば、柄谷行人のいう支配的な交換様式の変遷は人間の成長過程でど20170305_155216_Burst01のように反復されるのだろうか。それを理解することは、吉本隆明のいう対幻想の様式の変遷を知ることでもある。

柄谷は人類史において支配的な交換様式が、交換様式A(互酬=贈与と返礼)、交換様式B(略取と再分配=支配と保護)、交換様式C(商品交換=貨幣と商品)の順に移り変わっていくと指摘する。これを人間の発達過程に当てはめれば、Aは乳児期に、Bは幼児・学童期に、Cは思春期以降に相当する。

母の庇護なしには生きられない乳児は、それを受けられるように母に愛されようとして、懸命に母を愛する。乳児の眼差しや笑顔や泣き声は母への愛の表現にほかならない。そこでは母の愛と子の愛との互酬が成り立っている。

幼児期になると、男の子の場合はフロイトのいうエディプスコンプレックスの時期を迎える。母と子の前に父が立ちはだかり、ふたりを支配すると同時に保護する存在となる。父は去勢の脅しを使って母と子の愛の互酬を禁止する。言い換えればふたりから愛を略取し、別のかたちで再分配する。再分配される愛は、子の場合は将来出会う母以外の女性への愛であり、母の場合は父への愛にほかならない。

こうした力による強制は父だけでなく、子もまた実行しようとする。それが父殺しであり、母との近親相姦だ。交換様式Bが国家の強制力によって成り立つように、幼児期は強制力が働く時期といっていい。それは学童期まで続く。

思春期を迎えると、子は親以外の異性をおもに相手にし始める。そのとき強制はもはや効かない。つまり愛の略取も再分配もできない。また愛を贈与すれば必ず返礼があるとは限らない。いってみれば子は愛の自由市場に、つまり交換様式Cに相当するものに直面する。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374      
Posted by nkmrrj04fr at 16:54Comments(0)TrackBack(0)愛について

2017年03月26日

 受け身ができるか


 私の住むマンションは100世帯以上が入居していて、住民どうしがエレベーターなどで一緒になると、親しくなく20170324_173505_Burst01ても、「こんにちは」とか「こんばんは」のあいさつを交わすことが多い。

あいさつをすれば、それだけで緊張が一気にほぐれるので、私もなるべくするようにしているが、したくない相手もいる。「こんばんは」と声をかけても、あいさつを返してきそうにない相手だ。こちらがあいさつしても、会釈ひとつせず通り過ぎる相手に私はたちまち怒りと痛みを覚えてしまう。それを引きずりながら、あいさつしなければよかったと後悔する。

しかし、あいさつを返しそうにないと思っていた相手が、意外に向こうのほうからあいさつすることがある。それもあって、声をかけようかどうしようかと迷うことも多く、あいさつしてもはきはきしない中途半端なものになりやすい。相手かまわずあいさつしておけば、そんなことを気にする必要はないのに、相手が返してこないと、自分が負けたような気になり、どうしても中途半端さから抜け出せないでいる。ところが、きのう予想外のことが私の中で起きた。

夜、外から帰ってきてマンションの玄関ホールの横にある郵便受けを見ようとして、私より若い中年の男性に出くわした。以前に一回くらい見たような気のする顔で、私はそれを見てこの人はあいさつを返さないかもしれないと思った。以前ならこちらから声をかけることはまずなかったと思う。ところが、なぜか私は「こんばんは」と声をかけた。相手は予想どおり黙ったままだった。

いつもなら痛みと怒りを覚え、「負けた」と思うはずの私が、そのときはどういうわけけかそれが全くなくて、逆に「勝った」と思った。あいさつできた私は、あいさつできなかった相手より優れていると感じたのだろう。あいさつするしないを勝ち負けで判断するなど心のゆがみのあらわれとしか思えないが、それでも、怒りや痛みを抱くよりもずっと楽だった。

今までとのこの違いは何に由来するのか。そのときの私がふだんより少しは謙虚だったからではないか、と推察している。小心な私はいつも人を恐れている。ばかにされるのではないか、難癖をつけられるのではないか、と。そうされまいとして、いつの間にか心が爪先立ったり、ふんぞり返ったりして、不安定になる。そんなとき不意打ちを受ければけがをしやすい。しかし、きのうの私はいつもより心の腰が低く、そのぶん安定していたのだと思う。

怒りも痛みも心の負傷が引き起こす。負傷しやすいのは心が安定を欠いているからだ。安定を欠いていれば不意打ちを受けたとき、柔道でいう受け身をとることができなくなり、けがが大きくなる。こころの安定をはかる有効な物差しは謙虚さだ。腰が低いということは重心が低いということだ。重心が低いと倒れにくい。私はそれをわかっていながら、腰を低くすることを卑屈になることとどうしても勘違いしてしまう。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 14:31Comments(0)TrackBack(0)吉本隆明

2017年03月25日

 脳科学的自由と近代的自由


池谷裕二という脳研究者の『単純な脳、複雑な「私」』によれば、人間が何かをしたいと欲する0.5秒くらい前20170324_182357にはすでに脳の中でその何かをする準備が始まっていて、そこに自由意志が介在する余地はない。ただ、欲してから行動するまでにはさらに0.5秒から1秒ほどかかるから、その間に行動の中止を決めることはできる。つまり自由意志は何かを欲するときには働かず、欲することを否定するときにだけ働くと池谷はいう。

そうだとすれば、表現の自由や信教の自由などわが憲法にもうたわれた近代的な自由はすべてを何かを欲する自由だから、脳科学的にはそれは自由とはいえず、表現や信教を欲しかけてやめるときにだけ人間は自由だということになる。こうした見解が大多数に受け入れられる余地は少なくとも民主制の国家にはない。だとしたら、脳科学上の結論と近代的な自由とのあいだの矛盾をどう始末すればいいのか。

表現や信教の自由のない国では、大多数の国民は言いたいこと言ったり、信仰の対象を変えたりしようとしても無駄だと思っているから、ふだんはそれらを欲することもない。だから、脳がそれらを実行する準備を始めることもない。これに対して、表現や信教の自由が保障された国では、それらを欲することは当たり前に行われる。脳がその前にそれらを行動に移す準備を始めるのもありふれたことだ。

そう考えると、脳科学が自由意志の働く余地をどれだけ狭く限定しても、近代的な自由の保障が無駄ということにはならない。人間の脳の仕組みは太古から変わっていなくても、脳が対象とする世界は大きく変化してきた。自由の理念もそうした変化の過程で生まれたもののひとつだ。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 17:20Comments(0)TrackBack(0)自由とはなにか

2017年03月24日

 分散する権力(312)――圧力でも忖度でもなく


小学校の開設用地として大阪の学校法人に売却された国有地の価格が周辺の約1割に減額されたのは、政20170310_131106_Burst01治家の働きかけや圧力があったか、政治家の意向を官僚らが忖度した結果ではないかという見方が、マスメディアや永田町では主流になっている。

この見方だと、国有地売却にかかわった財務省や国土交通省の役人らは政治家の直接、間接の力に動かされたのであって、主導的な役割は果たしていないことになる。しかし、私は官僚たちこそ終始この一件を主導したのではないかと疑っている。

なぜなら、この小学校の設置が国家から分散した権力を回収する回路のひとつになると官僚たちが判断したと推察されるからだ。国家から個人、企業、国家間システムへの権力の分散は国家の安定を損ねるものであり、その回収は霞が関の官僚の最重要な使命のひとつになっている。

なぜ一小学校が権力の回収の回路になるかというと、開設者の学校法人が経営する幼稚園の教育方針が、教育勅語を園児に唱和させたり、軍隊をまねたような規律や訓練を強いたりするなど、国家への忠誠心を子供に植えつけることに極端に傾いているからだ。

学校法人は安倍晋三の名前を無断使用して学校建設のための寄付を集めたり、安倍の妻を名誉校長に据えようとしたりしていたと報じられている。それは国家を第一とする安倍のイデオロギーに対する賛同のメッセージであると同時に、国家の最高権力者の保証書付きの小学校であることを示すものとなっている。

財務官僚らはこの小学校の開設を権力回収の回路を築く手っ取り早い手段としてとらえたと推察される。そのことを前提に考えると、政治家の圧力や働きかけを示す明白な証拠が出てきていないのも、安倍晋三やその妻が土地売却や学校開設にかかわったことを示す動かぬ証拠が出てこないのも、うなずける。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 16:14Comments(0)TrackBack(0)権力論

2017年03月23日

(598)私有財産の思想


30代フリーター やあ、ジイさん。最高裁が令状なしのGPS捜査はプライバシーの侵害だという判決を出した。20170312_140344それについて解説した朝日新聞の記事の中に次のようなくだりがあった。「GPSに限らず、メールや防犯カメラ映像など、技術の進歩で個人が様々なデータを残すことは避けられない」(3月15日朝日新聞デジタル)。ITの発達がこれから先、プライバシーの保護を難しくしていくのは仕方のないことなのか。

年金生活者 近代の私有財産制はモノだけを対象にしたものではない。ジェレミー・リフキンによれば、プライバシーもまた拡張された私有財産であり、私有財産の生活版にほかならない。私有財産制すなわち資本主義が滅びれば、プライバシーは守られるべき権利としての地位を失う。リフキンは「あらゆる人とあらゆるモノをニューラルネットワークでつなげば、人類は、現代を決定的に特徴づけるプライバシーの時代から透明性の時代に入る」と述べている(『限界費用ゼロ社会』柴田裕之訳)。

30代 近ごろリフキンにかぶれているようだな。

年金 この見方は近代に特有のアイデンティティーという考え方にも当てはまる。近代以前は自分が自分であること、つまりアイデンティティーがそれとして人びとに意識されることはなかった。資本主義の発達にともなう私有財産制の確立がアイデンティティーを社会に認知させ、ひとりひとりにそれを意識させるようになった。それは私有財産の精神版ということができる。

30代 そもそもアイデンティティーって何なんだ。

年金 私は他人の言動に対して過敏なほうだと自分では思っている。自分のすることや言うことを否定されたり、自分と違う考えを言われたりすると、たちまち痛みを覚え、ときとして怒りを抱く。この子供並みの過敏さは、自分のアイデンティティーを侵害するものを排除しようとする心の傾向が強まったものと考えることができる。その過敏さに対して「気にし過ぎだ」などと異議を唱えられると、アイデンティティーを守ること自体を否定されたと受け止めてしまい、アイデンティティーそのものを否定されたような気分になる。

30代 それこそ気にし過ぎだろう。

年金 人間はなぜアイデンティティーを気かけるのか。胎児のときはそれを気にかけることはない。胎児は母胎という宇宙と一体の存在であり、個人ではないからだ。生誕によって母と別れて初めて、個としてのおのれに出会う可能性が生まれる。過酷なこの世界に生まれ落ちて胎児から乳児になった人間は、その世界から絶えずおのれを侵害され続ける。それを排除しようとする反応の軌跡が個としての輪郭を描いていく。侵害に対する過敏さはアイデンティティーの形成と不可分の関係にある。

30代 アイデンティティーをジイさんの過敏さで説明されてもなあ。

年金 もうひとつ私自身の例をあげてみる。私の戸籍名は、ここで名乗っている「礼治」ではなく「禮治」だ。子供にも覚えやすいようにと、親が最初に私に教えたのが「礼治」だったので、それ以来ふだんはこの簡単な漢字を使ってきた。それほど親しくない相手にそのことを話したら、「禮」という文字が嫌いだといわれたことがある。不意に心にボディーブローを受けたような痛みを覚えた私は、それから目をそむけようとするあまり、肝心の嫌いな理由を聞くことすらできなかった。このとき私が痛みを覚えたのは、自らのアイデンティティーを否定されたと感じたからだ。名前というのは当人のアイデンティティーを構成する不可欠の要素といっていい。

30代 自分が自分であり続けるのも自由には行かないようだな。

年金 私たちがいま享受している自由は制限された自由だ。自由には責任がともなうという言い方は、一般には自由には制限がともなうという意味に使われている。責任とは資本主義システムのもとでの自由な競争の結果に対する責任のことだ。競争に勝っても負けても、その責任は競争の当事者が負わなければならない。競争に勝てば次の競争に有利になり、それだけ自由の度合が増す。負ければその逆になる。このことは資本主義のもとでの自由には制限があることを意味している。自由には責任がともなうというときの「責任」が「制限」という意味に使われる理由がそこにある。資本主義のもとでの自由をひと言でいえば、私有財産を使う自由だ。資本家なら資本という私有財産を、労働者なら労働力という私有財産を売り買いしたり、貸し借りしたりする自由にほかならない。言い換えれば商品や貨幣を交換する自由だ。交換はモノやサービスの稀少性が引き起こす。リフキンがいうように、モノのインターネットの(IoT)の発達でモノやサービスが限りなく無料に近づけば、それらは稀少性を脱して潤沢になっていく。そうなれば交換の必要はなくなる。交換が不要になれば、交換を通じて行われていた競争もなくなり、その結果に責任を負う必要もなくなる。すなわち勝者も敗者もいなくなる。それは自由につきまとっていた制限が解かれることを意味する。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 13:58Comments(0)TrackBack(0)

2017年03月22日

 責任をともなわない自由が未来にある


 自由には責任がともなうという言い方は、一般には自由には制限がともなうという意味合いに使われている。し20170319_125635かし、責任を字義どおりに受けるなら、資本主義システムのもとでのそれは競争の結果に対する責任以外にない。

 自由が競争を引き起こすことは、資本主義市場を見れば、だれもが認めざるを得ない。競争に勝っても負けても、その責任は競争の当事者が負わなければならない。

 競争に勝てば次の競争に有利になり、それだけ自由の度合が増す。負ければその逆になる。このことは資本主義のもとでの自由には制限があることを意味している。自由には責任がともなうというときの「責任」が「制限」という意味に使われる理由がそこにある。

 資本主義のもとでの自由をひと言でいえば、私有財産を使う自由だ。資本家なら資本という私有財産を、労働者なら労働力という私有財産を、地主なら土地という私有財産を、売り買いしたり、貸し借りしたりする自由にほかならない。言い換えれば商品や貨幣を交換する自由だ。

 交換はモノやサービスの稀少性が引き起こす。ジェレミー・リフキンがいうように、モノのインターネットの(IoT)の発達でモノやサービスが限りなく無料に近づけば、それらは稀少性を脱して潤沢になっていく。そうなれば交換の必要性は減る一方だ。

 交換が不要になれば、交換を通じて行われていた競争もなくなり、その結果に責任を負う必要もなくなる。すなわち勝者も敗者もいなくなる。それは自由につきまとっていた制限が解かれることを意味する。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374  
Posted by nkmrrj04fr at 16:25Comments(0)TrackBack(0)自由とはなにか

2017年03月21日

 他人のいいところを探したくなるとき


 私は初対面の相手にあまり好感を持てないと、それをなんとか埋め合わせようとして、相手のいいところを探し20170319_085043始めることがある。

相手をなるべく客観的に評価したいと考えているわけではない。つまらない相手に会って損をしたと思うより、少しでも相手の美点を見つけて、得をした気分になりたい。美点が見つかれば相手への好感度も増すから、それを態度で示せば相手から好感のお返しがあるかもしれない。そうなれば、また会いたいとは思わなくても、そのときだけはいい気分でいられる。そんな無意識の動機が働いているに違いない。

こっちがあまり好感を持っていないのだから、相手の好感を得る必要などないではないか、とも思う。しかし、他人に好かれたいという欲望は人間の基本的なの欲望であり、それはどんな相手に対しても、程度の差はあれ起動する。

そのことをラカンは、人間の欲望は他者の欲望だ、といいあらわした。他者に好かれよう、他者に欲望されようとして、他者の欲望を満たそうとしたり、他者の欲望をまねたりするのが人間だ。無力だった乳児のときに、母の庇護を受けようとして、母の欲望を満たそうと必死だった無意識の記憶がそうさせるのだ。

しかし、人間は他者と一体になることはできない。自分と一体だった母胎から分離することによってこの世界に生まれ落ちた以上、ふたたび一体になることは死を意味する。自分と一体になれない他者の欲望を満たそうとすることは、大なり小なり他者に支配されることでもある。それがエスカレートすれば苦痛になる。そのとき人間が求めるのが自由にほかならない。欲望の否定は自由を構成する契機のひとつといっていい。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 16:52Comments(0)TrackBack(0)愛について

2017年03月20日

 これが同じに見えるの?


ひと月余り前に生まれて初めてスマートホンを持ち、ときどき写真を撮っているうちに撮れ具合がとても気にな20170311_185255_Burst01りだした。シャッターを押す前にディスプレイで見た被写体の状態に比べて、写真の画像のほうがいつも少し暗く、ピントもわずかに甘くて、全体としてくすんだように感じられるのだ。

いま推測すると、脳が目に映った被写体をよく理解しようとして、実際よりも明るくシャープに修正して受け取っているのに対して、写真は被写体をありのままに近い状態で正確に再現するので、暗くてどんよりしたように感じられるのだと思われる。だが、私はしばらくのあいだ、もしかしたらカメラに欠陥があるのではないかと疑い続けた。

それでまずカスタマーセンターに電話したが、応答した女性の「そこまで気にしますか」のひと言にムカついただけで、なんの成果?も得られなかった。そこで、スマホの契約を担当した営業職の男性スタッフに同じ機種のスマホを持って家まで来てもらい、同じ被写体を両方のカメラで撮って見くらべた。

私の目には自分のスマホで撮った写真のほうがやはり少し暗く、ピントも甘いように見え、営業職の男性にどう見えるか尋ねた。ところが彼は「同じようにしか見えませんが……」と答えた。

2回、3回と撮っても、同じ答えだった。違いを認めると、機械の交換を要求されるかもしれないと考えて、うそをついている可能性はゼロではないが、その口調や表情からは不自然なものは感じられなかった。

ますます気になりだした私はその日の夜、外出したついでに会社のショップを訪ね、家でしたのと同じように写真の撮りくらべをしてみた。やはり私のスマホで撮った写真のほうがわずかに暗く、ピントも甘いように感じられたので、スタッフの男性に尋ねると、彼もまた「同じに見えますが」と、あたりまえのように答えた。

もしかしたら、私の撮り方が悪くて手ぶれを起こしているのではないかと考え、その男性に撮ってもらうことにした。そのとき彼は、会社のスマホは目いっぱい明るい設定になっているのに、私のは中くらいの明るさになっているのに気づき、両方とも一番明るい設定にそろえて、慣れた手つきでカウンターにあった書類を撮影した。見くらべると、どちらも明るさにほとんど差がなく、ピントも同じように合っていた。私はとりあえず自分のスマホが欠陥品でなかったことを知って安堵した。

しかし、それでは解けない疑問が私の中に残った。私には明るさもピントの合い具合も違って見えた写真が、なぜ営業職の男性やショップのスタッフの男性には「同じに見え」たのか。彼らがうそを言っているのでないとしたら、そう見えた理由があるはずだ。

そこで立ててみた仮説は、彼らが写真の全体を見ていたのに対して、私が部分を見ていたという違いだ。両方のスマホによる写真の明るさの違いはわずかでしかなかった。その差を感じ取りやすいのは、画面の白っぽい部分を見ているときだ。つまり私は画面全体ではなく、白っぽい部分に目を凝らしていたから、明るさの違いを感じることができたのだ。全体を見るには部分を捨象する必要があるから、全体を見ていた彼らふたりは白っぽい部分を凝視することができず、したがって明るさの違いを感じることができなかった。そう理解すれば納得がいく。

吉本隆明の言葉を借りれば、全体を見ることと部分を見ることの違いは了解の時間性の違い、対象の時間化の違いにほかならない。私とふたりの男性とでは、写真を自分自身と関係づける空間化においては違いがなかったが、時間化において違いがあった。写真の全体を全体として了解するときの時間のかけ方、時間のたどり方が、写真の部分を注視するときの時間のかけ方、たどり方と異なるのは実感的にうなずける。

最後のつけ加えておくと、ふだんの視覚は全体を見るように設定されており、部分を見るのは特別の場合だ。私は特別なほうの視覚の使い方を人並み以上にする癖があるのではないか、と今度のことで思い至った。


  *        *       *

                      『流砂』12号
                                      P1000374   
Posted by nkmrrj04fr at 17:56Comments(0)TrackBack(0)吉本隆明