2018年01月22日

 老いが与える価値


30年ほど前、アルコール依存症と診断され、酒を口にしなくなって感じたことのひとつは、飲まないでいるとこ20180114_154310んなに体が楽なのか、ということだった。

アルコールが切れると、全身が不快になり、脂汗が流れ、体が震える。日に3度あるはずの食事の時刻になっても、食欲がわかない。ぐっすり眠れることがまったくない。酔っていなくてもまっすぐ歩けない。

入院する前まで続いていたそんな状態が、病院で酒を遮断されてから、ことごとく消えた。全身の不快も、油汗も、震えもなくなり、食欲がわき、夜は眠れ、まっすぐ歩けるようになった。

その直前の惨状と180度違う状態が心地よかった。幸せを感じていたといってもいい。やがてそれが当たり前になり、幸せとは感じなくなってずいぶんたつ。それがこれから先、老いの進行につれてよみがえるのではないかという予感がしている。

体が衰えれば衰えるほど、たとえば、わずかでも歩けることや何かを食べられることがありがたく、そこに幸せを感じるようになるのではないか。若いとき、あるいは壮年期には、歩けるだけ、食べられるだけなんてつまらない、と感じていたのが、そうしたことこそ大事だと思うようになるのではないか。

それは藁をもつかむ思いに近いように見えるかもしれない。体が健康なときはそう見えるのは当たり前だ。老いるということは、頼りない藁にも価値を与えることができるようになることといってもいい。


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                   『流砂』13号                                   

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2018年01月21日

 未成年者の自殺増加が予感させる未来


 年間の自殺者数が去年まで8年続けて減っている、と報じられている(1月19日朝日新聞夕刊)。だたし、年代20180115_130129別で見ると、未成年者の自殺だけが去年より増えている。ここから何を読み取ればいいのか。

格差や貧困が広がり、1億総中流の時代は去ったといわれながら、大多数の国民が総中流時代よりも便利で快適な生活を送っていること、しかし、若者たちはやがて来る社会の激変が自分たちに打撃を与えそうなことを予感していることを、自殺者数の推移から推し量ることができる。

 自殺にはフロイトのいう死の欲動が加担している。無機的な自然に戻りたいという衝動だ。有機的な状態よりも無機的な状態のほうが安定しているからだ。この安定の状態は究極の恒常性(ホメオスタシス)ということができる。

 恒常性は生きている間ずっと心が目指し続ける状態だ。そのような心の働きをフロイトは快原理と呼んだ。その原理をもってしても恒常性に近づけないような状態に陥ったとき、心は生の中での恒常性をあきらめ、死による恒常性を求め始める。フロイトが快原理の彼岸に位置づけた死の欲動が起動する。

 自殺者の減少は、そうした死の欲動が起こるのが減ったことを示している。つまり、それだけ生の中での恒常性が保たれやすくなったということにほかならない。そうなった理由は、インターネットやスマートフォンなど先端技術の発達と普及で生活や仕事の利便性、快適さが飛躍的に向上したことにある。

 先端技術の発達と普及はこれから先、モノのインターネット(IoT)やAIが加わって、さらに進み、それは大量の雇用を奪うと予測されている。そうなると、ベーシックインカムの導入が必要となり、それを実現しようとすればこれまでの社会保障制度を解体せざるを得ない。それによって打撃を受ける国民が多く出てくるのは不可避となる。未成年者の自殺の増加はそうした未来を先取りした現象と理解することができる。


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                   『流砂』13号                                   

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2018年01月20日

 韓国は北朝鮮の核武装容認へ踏み出した


 平昌冬季五輪を理由に北朝鮮に急接近し、国際社会の結束を乱すと非難されている韓国は、北の核武装を容認20180115_130319_Burst01する一歩を踏み出したと見ることができる。

五輪での南北協力は北朝鮮に核・ミサイル開発の時間を与えるという批判に対して、文在寅政権が抱いている本音は「時間を与えたいんだ」ということかもしれない。北朝鮮が核武装したほうが、冷戦時のような相互確証破壊が米朝間で成立するから、東アジアは安定すると踏んでいるのではないか。

 北朝鮮は自国の核はアメリカを狙ったもので、韓国に向けられたものではないことを強調している。韓国国民もそう思っている、という指摘もある(黒田勝弘『ソウル発 これが韓国主義』)。さらに、北朝鮮は韓国を自国の核の傘に中に入れたと宣言しているに等しいという見方もある。

 文政権自身もひそかにそれを容認する可能性がある。アメリカの軍事的属国であることを拒否しようとする韓国内の反米ナショナリズムがその底流にあると推察される。

 北朝鮮による核・ミサイル開発の背景には、一部の国にだけ核保有を認める核不拡散条約の不平等性があり、北朝鮮にだけ核を放棄させるのは最初から無理がある。それを承知で圧力をかけているのが現在の国際社会であり、アメリカや日本を除けばどこまで本気か疑わしい。


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                   『流砂』13号                                   

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2018年01月19日

 人を呪わば


 他人を傷つける言葉は自らを傷つける。おとといそう書いた。人を呪わば穴ふたつ、ということわざは、言葉の20180115_165805_Burst01もつこうした諸刃の剣としての性質をあらわしている。

デジタル大辞泉は「他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴が二つ必要になる」と、ことわざの意味を説明している。呪いを言葉による攻撃に、殺すことを他人の心を傷つけることに置き換えれば、他人を傷つける言葉はそのまま自分を傷つける、と読むことができる。

なぜ言葉は、弾丸のように、あるいは片刃の剣のように、相手だけを傷つけるようにできていないのか。言葉は、それを発する側と受け取る側によって必ず共有されるからだ。そうでなければ言葉は何も伝えることができない。

この共有の仕組みをよりこまかくいえば、言葉は対象を指し示すと同時に、それを発する側と受け取る側の心の位置と向きを決める、ということになる。写真にたとえれば、対象を指し示す作用は被写体を写し取ることに相当し、心の位置と向きを決めることはアングルを決めることに相当する。吉本隆明は自らの言語理論のなかで前者を指示表出、後者を自己表出と呼んだ。

たとえば、私がだれかから「お前は卑怯だ」と言われたとする。私はその言葉を、相手がそう言っているに過ぎない、と客観的に受け取るだけでは済まず、たとえ一時的にせよ「俺は卑怯なのだ」と相手の言うことに同調せざるを得ない。そうしないと、言葉を受け取ることができないからだ。

もう少し厳密にいうと、だれかから「お前は卑怯だ」と言われた私は、自分自身に向かって「お前は卑怯だ」と言わないと、この言葉を受け取ることができない。言葉はそれを受け取る側の心の位置と向きを決める、とはそういう意味だ。だから、言葉は心に傷を負わせることができる。

その傷は言葉を受け取った側だけでなく、発した側も負わなければならない。そのことは、言う側と言われる側を入れ替えてみれば、わかりやすい。私がだれかに向かって「お前は卑怯だ」と言ったとする。そのとき私の心中には、「卑怯だ」と言われ、それに同調し、負傷する相手が想定されている。その相手はあくまでも私の心の中に生じたものであり、私の心と地続きということができる。そうである限り、その負傷は私自身のものにもならざるを得ない。

別の言い方もできる。だれかに「お前は卑怯だ」と言われた私がその言葉に同調せざるを得なかったように、だれかに「お前は卑怯だ」と言った私は、その相手の状態に同調せざるを得ない。私は相手に同一化し、私に「お前は卑怯だ」言われる私になる。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月18日

(635)恒常性をめぐって


30代フリーター やあ、ジイさん。阪神・淡路大震災からまる23年たった。当時まだ俺はガキだったし、ジイさ20180114_145950_Burst01んはオッサンだった。

年金生活者 震災のあと、平凡な日常のありがたさが身に染みた、という被災者の話を何回も聞いた。ありふれた日常が被災者には楽園に見えたに違いない。それは母胎が楽園に見えるのと相似形をなしている。

実際の母胎は苦もなければ楽もない世界だ。平凡な日常が激しい快楽や苦痛から遠いように。それが楽園に見えるのは、生誕によってそれまでの居場所を追われ、寄る辺のないこの世界に放り出されたからだ。大震災はその生誕に相当する。

人間の生涯のなかで胎児の時期は恒常性(ホメオスタシス)が最も保たれている時期といえる。苦もなければ楽もないとはそういう意味だ。生誕後はその恒常性がしょっちゅう破られるようになる。それを元に戻そうとする心の働きを指して、フロイトは快感原則と呼んだ。

この生誕前と生誕後の落差が母胎をイメージの中で楽園化する。震災前と震災後の落差が被災者に平凡な日常を楽園として回想させるように。

30代 その恒常性というのを俺は実感した覚えがないぞ。

年金 たとえば、依存症者は一様に酔いを求める。アルコールに酔い、薬物に酔い、ギャンブルに、セックスに、買い物に酔う。

 酔いのモデルになっているのは胎児の生活だ。実際の胎児の世界は酔いから最も遠い恒常性の状態にあるのに、酔いのモデルにされるのは、それが失われた世界だからだ。

失われた過去は美化される。生誕とは、危険で過酷な世界から隔てられた母胎から追放されることだ。そのときの落差が乳児に母胎を楽園として記憶させる。胎児の生活が酔いのモデルとなる理由がそこにある。

母胎に帰ることはできないし、仮にできてもそこは楽園ではない。だから、人は母胎の代替物に求める。それが性交であり、恋愛であり、さらにさまざまな依存症だ。

30代 酔っ払いが恒常性を保っていると思う者などいないだろう。

年金 依存症者が人並み以上の酔いを求めるのも、恒常性からの逸脱を元に戻そうとする快感原則に従った心的な動作にほかならない。生誕前後に負ったトラウマによって恒常性が崩れたため、それを取り戻そうとして酔いに走るからだ。

その酔いの過剰さはトラウマの深さを物語っている。深いから並みの酔いでは恒常性を取り戻せない。強過ぎる酔いを求め、かえって恒常性を崩す。酔いは恒常性をいったんは取り戻すものの、そこで止まらず行き過ぎてしまう。

前にも紹介した『小さなことで感情をゆさぶられるあなたへ』(大嶋信頼)という本は、乳幼児期に母親から温かく抱きしめられる経験が足りないと、他人への信頼感が形成されず、「感情をゆさぶられやすい人」になるという考えを採っている。不信で張り詰めた心はちょっとした刺激で動揺しやすいという説明だ。

このことを私なりに言い換えると、生誕の前後に負ったトラウマによって恒常性を保つ力が低下しているということだ。それは常に恒常性から逸脱している状態を指す。つまり心はいつも張り詰めている。

そこに刺激が加わって新たな緊張が生じたとき、本来ならその緊張を解除して恒常性を取り戻す快感原則が働くはずなのに、それが十分に作動しない。

30代 どうしたら取り戻せるんだ。

年金 太宰治の短編「女生徒」に、たくさんの洗濯物を洗い終えて物干しざおにかけるときは、もういつ死んでもいいという気になる、と主人公が打ち明けるくだりがある。高校時代にこの作品を読んだとき、その通りだ!と思った。当時まかない付きの下宿生活をしていて洗濯機を持っていなかった私は、いつも家主に金だらいと洗濯板を借りて下着や靴下などをしゃがんで手洗いしていたからだ。洗い終えたときの幸福感をあらわす「死んでもいい」という表現は実感にかなっていた。

 なぜ幸福を感じるとき、死んでもいいと思うのか。ふだんは高い生と死の段差がゼロに近いところまで縮まるからだ。そのとき死は幸福な状態として想定されている。そのモデルとなっているのが、まだこの世に生を受けていない胎児の生活だ。死と生誕は向きだけが異なる同一の過程とみなすことができる。

 さっき言ったように、胎児の時期は人間の生涯のなかで最も恒常性が保たれている時期であり、生まれたあとはそれがしょっちゅう破られるようになる。洗濯物がたまることも恒常性の綻びのひとつにほかならない。

 それを洗い終えたとき恒常性が回復され、死の恒常性と地続きに近い状態になる。死にたいわけではないが、死んでもいいと思えるようになる。死んでも、死ななくても同じことのように感じられる。

 これに対して、「もう死にたい」と思うのは、それとは違う。そのとき生と死の段差はいちばん高くなっている。今があまりに不幸なので、死んで幸福なりたい、と当人は願望している。恒常性の綻びがあまりに大きいので、死の恒常性を希求している。胎児の恒常性を取り戻したいのだが、かなわないことなので、代わりに向きだけが違う死を求めている。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月17日

 人を傷つけると自らも傷つくのはなぜか


 人を傷つけた記憶が、人から傷つけられた記憶のように痛みをともなってよみがえるのはなぜか。私自身のこ20180115_165836とを振り返っても、すぐにいくつかそうした経験を思い出す。

 仕事で知り合ったのをきっかけに、ときどき会って話をすることがあった同年代の男に、ある物事が彼の企図どおりに運ばない理由を尋ねられ、「今の○○△△(彼の姓名)はかつての○○△△ではなくなったんや」と答えた。「あんたは落ち目になったんや」というメッセージだった。彼に対する劣等感がずっとあり、たまには優位に立ってみたいという願望から出た言葉だった。次の年から彼は年賀状を寄越さなくなった。

 男性機能の衰え具合を検査してくれた同年代の会社の産業医が「私よりいいですね」と結果を伝えてくれたので、有頂天になり、「先生も相手がいればよくなりますよ」と言ってしまった。「医者みたいなことを言いますね」と彼は答えたが、それ以来、なんとなく私によそよそしくなったように感じられた。

 別れた女性に1年ぶりに街でばったり会い、カフェに寄って近況を語り合っているうちに、次も会うことになり、また同じカフェでお茶をした。そこで彼女は習い始めた紙細工を私に見せ、「こんどその帽子につけるのを作って持ってきてやろうか」といった。私はとっさに「いらんわ」と答えた。つき合っていたころを思い出し、今度こそ彼女のいいなりにはならないぞ、と身構えてしまった末の失言だった。次にお茶に誘ったときは遠回しにことわられ、それっきりになった。

 どの経験も、後悔や恥ずかしさや痛みなしに思い出すことができない。自分が傷つけられたわけではないのに、痛みをともなうのは、相手に与えたダメージの反作用によって私自身も傷を負ったからだと思われる。年賀状をくれなくなったことも、「医者みたいなことを言いますね」という言葉も、誘いをやんわりとことわったことも、みな反作用のひとつということができる。

 痛みの理由はそれだけではない。言葉は対象を指し示すだけでなく、それを発した側、受け取った側の心の位置と向きを決める。吉本隆明は前者の作用を指示表出、後者を自己表出と呼んだ。言葉が人を傷つけるのはこの自己表出の働きによる。それは話し手と聞き手の心を拘束する。だれかを罵る言葉を発すれば、相手を傷つけるだけでは済まない。そのとき言葉を発した側の心の位置と向きを少し微細に描くなら、傷つけた相手の心を自分の心の中に取り込んだ状態にあるということができる。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月16日

 他人を変えることと自分を変えること


 他人を変えることはできないが、自分を変えることはできる、という言葉を聞く。自分が変われば、他人も変わ20180115_130007る、という言葉も聞いたことがある。

前者が、他人は変えられない、と言っているのに対して、後者は、変えられる、と言っている。どちらも真理を含んでいるが、厳密にいうなら、後者に軍配が上がる。

なぜなら、自分が変わると、程度の差はあれ、他人も変わらざるを得ないからだ。自分を変えることは他人を変えることであり、他人を変えることは自分を変えることだ。生産することは(原材料を)消費することであり、消費することは(生活を)生産することだ、とマルクスが言ったのとそれは似ている。

私たちはそうした自分と他者との関係を日常生活で経験することができる。『小さなことで感情をゆさぶられるあなたへ』(大嶋信頼)という本は、他人にはっきりわかるような極端な笑顔をつくると、それを見た他人は「いいことがあったのかも」と勝手に推測し、それが暗示として自分に伝わってきて気分が楽になる、と指摘している。先日そのことを紹介した(「笑いと不安」)。

 私たちは他人を変えるために、自分を変えたり、自分を変えるために、他人を変えたりすることができるし、それをそれと自覚せずに実行している。冒頭にあげたふたつのことばのうち、最初にあげたほうは、他人を変えることばかり考えてつまずいてしまうだれかを助けるかもしれないし、あとのほうは、自分を変えたくてもがいているだれかをあと押しするかもしれない。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月15日

 北朝鮮の核武装完成が緊張を緩和する


アメリカによる北朝鮮への武力行使が近いかもしれないと言われだしたところで、平昌五輪を取引材料にした20180115_130608南北朝鮮の接近が始まったのは、人間は戦争を通して法的な関係に入るというカントの洞察(『永遠平和のために』)どおりということができる。

この場合の戦争は米朝間の冷たい戦争、バーチャルな戦争を指す。それが熱くリアルな戦争にエスカレートする危険が現実のものになる手前で、南北会談という法的な関係にのっとったプロセスが始まり、アメリカもそれを歓迎する意思を表明した。

これに対して、次のような批判が出されている。北朝鮮の核放棄という目標には一歩も近づいていない。逆に北朝鮮に核・ミサイル開発の時間を与えるだけだ。五輪が終われば、また緊張が高まるだろう。北朝鮮の瀬戸際外交に譲歩しては裏切られるというこれまでのプロセスをまた繰り返すことになる。

だが、いくら批判したところで、北朝鮮が核・ミサイル開発をやめることはない。それは北朝鮮政府、あるいは金正恩の野心だけによるのではなく、核保有を一部の国にだけ認める核不拡散条約という不平等条約がそれを促している。まるで水が高いところから低いところへ流れるように。

北朝鮮が元凶とされる東アジアの緊張は、同国の核・ミサイル開発の完成によって緩和に向かう。現在の緊張は核をめぐる不平等、不均衡に起因しており、北朝鮮の核武装の完成はそれを解消あるいはそれに近い状態に近づけるからだ。それは米ソの間で成立した相互確証破壊のローカル版、小規模版ということができる。

相互確証破壊は当事国の合理的な判断と行動を前提にしない限り成立しないから、北朝鮮のような何をするわからない国を相手にそれはあり得ない、という批判がある。しかし、北朝鮮はこれまで、核に関する限り、かつての米ソの振る舞いを超えるような突拍子もない振る舞いをしたことはない。

北朝鮮は核をテロリストに渡すかもしれないという懸念が繰り返し語られてきた。基地や艦船がないと実戦配備できない核をテロリストがリアルな武器として欲しがる可能性は少ないが、もしテロリストに渡らないようにコントロールするなら、北朝鮮を核保有国として認めて取り決めをしたほうがやりやすいはずだ。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月14日

 笑顔をつくると気分がよくなる理由


 最近、笑顔をつくるのがくせになり、不安を感じることが少なくなった。不安の占める位置を笑いが占めるように20180112_163139なったからだと考えられる。きのうそう書いた。

自然に生じる不安と、つくられた笑いを交換可能と考えていいのか。いや、それ以前に、心の状態である不安と、顔の、つまり身体の状態である笑いを同列に扱っていいのか。そういった疑問がわく。

しかし、不安もまた顔にあらわれ得る。そして笑いは快感が顔にあらわれたものだ。どちらも心と体にまたがっている。両者は感情とその表出として同列に扱われなければならない。

三木成夫と彼の考えを受け継いだ吉本隆明は、感情の基盤は内臓にあると考えた。その感情は内臓ではなく顔の筋肉によって表情として表出される。吉本の言語理論にしたがうなら、内臓が自己表出を担い、顔が指示表出を担うと考えることができる。

言葉における自己表出とは、それを発した者の心の位置と向きを決める作用を指す。これに対して、指示表出とは対象を指し示す作用のことだ。写真にたとえれば、前者はアングルの決定に、後者は被写体を狙うことに相当する。

こうしたたとえが可能なのは、自己表出と指示表出の概念が、言葉に限らずすべての表現、表出に当てはまるからだ。感情の表出にも当然あてはまる。

自己表出と指示表出は切り離せない。ふたつでひとつの構造をなして作用する。自己表出が変化すれば指示表出も変化するし、その逆もある。だから、心地よさを感じていなくても、笑顔を意識的につくれば、心地よくなる。顔であらわされる指示表出の変化が、内臓を足場にした自己表出を変えるからだ。


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                    『流砂』13号                                   

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2018年01月13日

 笑いと不安


最近、ひとりでいるときに、思わず笑うことがある。声を立てずに。だれかが見たら、こいつ大丈夫か、と思うに20180112_163235違ない。

この笑いを呼吸にたとえれば、深呼吸ほど意識的ではなく、かといって驚いて息を止めるような反射的な動作でもなく、どちらかといえば咳払いに近い。

『小さなことで感情をゆさぶられるあなたへ』(大嶋信頼)という本は、笑顔について次のようなことを指摘している。他人にはっきりわかるような極端な笑顔をつくると、それを見た他人は「いいことがあったのかも」と勝手に推測し、それが暗示として自分に伝わってきて気分が楽になる。だから、鏡の前で笑顔をつくるトレーニングをするといい。

私はこの教えをすぐに実行に移した。最初は笑顔をつくろうとすると、腹筋に力が入り、ぎこちなかった。毎日繰り返すうちに、余分な力が抜けて、少しずつ滑らかに笑顔が出るようになった。気がつくと、笑顔をつくるのが、くせになっていた。

このくせがついてから、不安に見舞われることがあまりなくなった。それまでの私は何が不安なのかわからない軽い不安にときおり囚われることがあった。その不安が占める位置を、つくった笑いが占めるようになったと考えている。

不安は不意打ちによるダメージを避けるための心の準備だ。それは未来を向いている。これに対して、笑いは過去を向いている。私たちは、起きてしまったこと、すでにあることを笑う。

不安の占めていた位置を笑いが占めるということは、不安を過去化することだ。言い換えれば、まだ起きていない不安の対象を、もう起きてしまったかのように扱うことだ。そのとき不安は不安として感じられなくなる。


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                    『流砂』13号                                   

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