何度でも強調しておいた方がいいと思うが、法律が国家から国民への命令であるのに対して、憲法は国民から国家に宛てた命令だ。
ところが、自民党の目指す改憲は、これとは反対の考えに貫かれている。4月初めに同党の新憲法起草委員会がまとめた「要綱」には次のようなことが書かれている。
▼自衛のために自衛軍を保持する▼「個人の権利には義務が伴い、自由には責任が当然伴う」との趣旨の文言を入れる▼青少年の健全育成に悪影響を与えるおそれのある有害情報、図書の出版・販売は「公共の秩序」に照らして法律で制限され得る▼訓示規定として、国防、社会的費用負担、家庭の保護、生命の尊厳の尊重などの「責務」を設ける。
ひと言で言えば、国家の自由(裁量)や権利(権限)を拡大する一方で、国民の自由と権利は制限し、責任と義務を重くしようという意図が表れている。その背景には、少年の常軌を逸した犯罪や学級崩壊、不登校、引きこもり、といった、若い世代に集中的に表れている既成秩序の崩壊現象への危機感も重なっていると思われる。こんな乱れた世の中になったのは、憲法で個人の自由や権利が強調されすぎたせいだ、というわけだ。
しかし、保守派によくあるこの見方は錯覚にすぎない。秩序の崩壊現象が起きているのは、自由や権利が強調されすぎたからではない。むしろその逆であり、時代の変化に応じて自由や権利をもっと拡大しなければならないのに、そうなっていないからだ。
私たちの社会がまだ貧しかった時代には、乏しいパイを分け合い、低い生産力を補い合うために、人々は家族や地域・職域の共同体の中で互いに頼り合い、助け合う濃密な関係を強いられた。そこでは皆が他者から切実に必要とされ、承認される存在だった。
しかし、戦後の高度経済成長は、そうした濃密な関係の土台となっていた貧しさを一掃した。人が他者から必要とされ、認められる度合いは低下し、それを何とか回復したいというのが、貧困からの脱出に代わって人々の基本的な欲望となった。パイが膨らんで自由や権利を行使できる経済的な力量が増した分だけ飢餓感は一層募る。しかし、社会はそれを満たすシステムに変えられていない。若い世代に顕著な秩序の崩壊現象の背景には、こうした国民の欲望と社会の現状との矛盾が横たわっている。
この国民の欲望を法や政治の言葉に翻訳すれば、個人の尊重や自由と権利の拡大の要求ということになる。それは既にプライバシー権や環境権、さらに住民投票などによる政治への直接参加の要求となって表れている。今後、憲法を変えるとすれば、そうした要求に沿ったものにする以外にない。自民党は、自分たちの考える改憲が国民の基本的な欲望に逆行しており、国民投票をすれば強い拒絶反応に遭うことを覚悟した方がいい。