私は墓が好きだ。墓石を無性になでさすりたいとか、抱いて眠りたいとか、さすがにそこまでは行っていないが、墓場のあの陰性の落ち着きは、ほかでは味わえないと思っている。
幼いころは、あんな怖いところはないと恐れていた。大人になってからは、ほとんど関心を失った。それが最近変わった。
今年2月、東京へ行った折に、ちょっとだけ寄り道をするつもりで巣鴨の近くにある遠山金四郎と芥川龍之介の墓を訪ねた。すぐ近くには染井霊園が広がる。静かさが底を突いているような感じがして、「住むなら墓のそばだ」とけっこう切実に思った。
帰ってから、デジタルカメラを買った。世の中には世界の有名人の墓参りをする「墓マイラー」と呼ばれる人たちがいるそうで、自分も知っている人物の墓の写真を撮り歩こうと思いついたのだ。もっとも、今までに撮ったのは井原西鶴など数人の墓だけだが。
なぜこんなことをする気になったのか。それを考え出したら、JR福知山線の脱線事故のことを思い出した。前にも書いたが、事故の現場は私の家からわりと近いところにある。これまで2回ほど献花に行った。被害者に身内や知り合いがいるわけではない。ただ気持ちが落ち着かなかっただけだ。お前はそこで何をしているのだ、と問われているような気がしたのだ。
サバイバー・ギルトという言葉を私はこの事故のニュースで初めて知った。惨事の生存者が、生き残ったことに対して抱く罪悪感のことだ。私のとんでもない勘違いかもしれないが、私を現場へ行かせたのは、その種の罪悪感に近いものかもしれないと思った。
もちろん現実に責任を問われているわけではない。しかし、犠牲者たちは、私が現場の近くで生きていること自体の責任を無言で問い続けているのではないか。そんな気がしたのだ。
そう言うと、何だか殊勝な考えのように聞こえそうだが、実は「責任」を感じることで、私は満たされた気分になっていたのかもしれない。つまり、自分は問われるべき責任のある存在として犠牲者から認められているのだ、と。
これは妄想を含んだうぬぼれの一種と言えば言える。しかし、今までにも何度か書いたように、自分を誰かに認めてほしいという欲望は人間の根源的な欲望だ。ラカンが「人間の欲望は他者の欲望だ」と言っていることを下世話に解釈すれば、そういうことだと私は思っている。
私が井原西鶴や近松門左衛門の墓の前に立った時も、やはり同じ欲望があったに違いない。さすがに責任を問われているとまでは感じなかったが、「よく来たな」とくらいは言ってもらっているような気分になれたことは確かだ。
