インターネットの自殺サイトで知り合った者同士が集まり、一緒に自分たちの命を断つ「ネット自殺」が今年は既に去年1年間の件数を超えている、と報じられている(10月6日付「朝日新聞」朝刊)。たいていの自殺は1人で実行されるのに、なぜ複数でするのか。
私たちの歴史を少し遡ると、もっと大規模な形で複数の人間が共に死を覚悟した時代があったことに気づく。先の大戦がそれだ。普段なら死のうなどとは考えもしないごく普通の人たちが、戦場で、あるいは住み慣れた場所で、差し迫る死を受け入れた。それは1人ではなく、複数だったからこそ可能になったのだ。
私たちは死を意識する時、それを生の否定としてとらえることを免れ得ない。それは人間が言葉を獲得した時から宿命づけられたと言っていい。いったん言葉を手にした人間は、もはや言葉を介してしか世界や自分に出会うことができない。その言葉は「否定」を通して対象を指示することを本質的な特性としている。何かを指し示すということは、それを他から区別すること、他を「否定」することだからだ。「否定」は言葉にだけ備わった固有の機能なのだ。
その「否定」が生に対してなされる時、事態はどうなるか。生きているということは、自らの身体が限られた時間に、限られた場所を占め、限られた方向を向いているという、身も蓋もないほど個別的なことだ。生の否定はその逆を意味する。つまり時間と空間に限定された個別性を脱して、普遍性に向かうことにほかならない。私たちは死をいつもそのような普遍性として無意識のうちに想定している。死者が神になったり、他界へ行ったりする信仰の根拠もここにある。
この普遍性への移り行きを後押しするのが、複数の合意の形を取る共同性だ。共同性はそれ自体が、個別性を捨象した普遍性から成り立っている。1人ではなく複数で自殺をしたわけはここにある。
見知らぬ者同士が寄り集まり、その共同性の力を借りてまで自らの生命を消し去ろうとする欲求は何に由来するのか。個別性としての自分に対する強い拒絶感であり、代わりに普遍性としての自分を手に入れることで何とか自らを受け入れようという願望だ。
個別性としての自分を受け入れられない理由は、当人にだけあるのではない。競争の勝者だけを過剰に認め、敗者は過少にしか認めない現在という時代がそれを助長している。そういう社会に変更を加えていくために個人がなしうることは、個別性としての自分を受け入れるための、言い換えれば自分で自分を認めるための試行錯誤をやめないことだ。尋常でない社会ではあっても、そういう試行錯誤を許すくらいの経済的なゆとりは備えているのが現在という時代なのだ。