人の死をこのブログで幾度となく取り上げてきた。戦争での死、災害での死、事件での死。しかし、死について多少なりとも真正面から考えたのは、前回の「ニュース逆さ読み」が初めてだった(「ニュース逆さ読み(24) 自殺について」)。ここではその続きを考えてみたい。
人間は人間の死をどうとらえているかについて、前回、次のように書いた。
人間は言葉を獲得した時から、死を生の否定としてとらえることを宿命づけられた。いったん言葉を手にした人間は、言葉を介してしか世界や自分と出会うことができない。言葉によって何かを指し示すということは、それを他から区別すること、他を「否定」することであり、死もまた生の「否定」として指し示されるほかない。生とは、自らの身体が限られた時間に、限られた場所を占めるという、極めて個別的なことであり、生の否定とは、その個別性を脱して普遍性に向かうことにほかならない。人間はそれと意識していなくても、死をいつもそのような普遍性として想定している。
くどいようだが、以上は死そのものについて述べたものではなく、人間が死を意識するときの認識の枠組みを素描したものだ。抽象的で素っ気ないと受け取られているかもしれないが、人が自らの死を想像して抱く恐怖や、親しい者を失った時に覚える悲しみ、そして地球上のどこでも行われている弔いの儀礼、といった人間的な感情や営みと決して矛盾しない。
個別性から普遍性へ向かうということは、限られた時間と限られた空間を失うということであり、それは視界と足場が一挙に消失することに等しい。それが恐怖を引き起こさないはずがない。
普遍性への移行はまた、限定された存在、欠如ある存在から、限定されない存在、完結した存在へと向かうことを意味する。生者は欠如ある存在であるがゆえに、それを埋めるために他者を必要とする。しかし、死後は完結した存在となり、もはや他者を必要としない。残された生者は自分たちが必要とされなくなったことを悲しみ、時には死者を恨みさえする。
そうした死がもたらす悲しみや恨みを乗り越えるために、どんな手立てがあるか。死者はまだ他者を必要としている、という形を人為的につくってしまえばいい。死者は残された生者の助けを借りて初めて完全に死に切ることができる、という具合に。それが弔いの儀礼だ。葬儀で「送る」とか「引導を渡す」といった言葉が使われるのはその表現だ。
死者が完結した存在であるのに対して、生者は欠如ある存在であり、だから他者を必要とする、と書いた。欠如は生きる駆動力であり、生とは生きようとすることそれ自体だと言ってもいい。人が人を殺してはいけない理由はそこにあるし、そこにしかない。