2005年10月24日

ニュース逆さ読み(26) 幸福な死はあるか

発生から1カ月たったパキスタン地震の死者は8万7千人に達した、と伝えられている(11月8日共同通信)。人は寿命が尽きればいずれ死ぬ。それなのに、なぜいきなりこのような理不尽な死を強いられなければならないのか。

 

人の死に限らず、生物の死には2通りある、とウィリアム・R・クラークというアメリカの免疫学者が指摘している(『死はなぜ進化したか』岡田益吉訳)。1つは老化による死で、有性生殖の出現とほぼ同じ時期に現われたと推定され、クラークはこれを「プログラム死」と名づける。もう1つは極度の高温や低温、飢餓、機械的あるいは化学的な損傷などの原因による死で、彼はこちらを「不慮の死」と呼ぶ。

 

この死の分け方を人間に当てはめれば、老化によるいわゆる自然死は「プログラム死」であり、災害や戦争での死、事件や事故による死は「不慮の死」に分類される。幸福な死があるとすれば、生の突然の中断である「不慮の死」ではなく、老化の終着点としての「プログラム死」だということはだれもが思い至るはずだ。「不慮の死」は生のベクトルに逆らう不本意な死であるのに対し、「プログラム死」は生の中に組み込まれた死であり、生のベクトルに沿ったものだからだ。

 

この「プログラム死」を導く老化を私たちはどう考えればいいのか。自分の実感に即して言えば、老化とは欲望の減退にほかならない。欲望の減退は、欲望を引き起こす欠如の意識の減退でもある。前々回と前回の「ニュース逆さ読み」(2425)で、人間は人間の死を、生の否定として、言い換えれば個別性から普遍性への、限定された存在から限定されない存在への、欠如ある存在から欠如のない存在への移り行きとしてとらえることを宿命づけられている、と書いた。このことを前提にすれば、欠如の意識の減退は生の否定に、つまり死の肯定、死の受容につながっていく。老化とは、たとえその過程で老いや死への抗いが繰り返されるとしても、最終的には死を受け入れることに行き着くことなのだ。これはやはり幸福な死に方と言っていいと思う。

 

これに対して事故や災害による「不慮の死」には、老化にみられるような欲望の衰え、欠如の意識の減退の過程がなく、死の肯定、死の受容は最後までないままであるように見える。だが、私の考えを言えば、「不慮の死」であっても、最後には死を受容する「幸福な時」があると想像している。身体の甚大な損傷そのものが、老化に匹敵する事態を急激に引き起こすと考えられるからだ。

 

人は自らの死の体験を語ることができない。だから、死についての断定は宗教に似てくる。死にぎわの「幸福な時」を想定することも、それと大差ないところがある。ただ、私にとってはその想定が死への恐れを幾分か和らげる手段になっていることは確かだ。

 



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