2005年11月14日

ニュース逆さ読み(29) 言葉としての憲法9条

法は言葉でできている。憲法もそうだ。このことは、法が法の原理だけでなく、言葉の原理にも従うことを意味する。

 

言葉は単に対象を指し示すだけではない。言葉を発する時の、そしてそれを受け取る時の心の位置と向きも表す。1枚の写真にたとえれば、そこには被写体が写っているだけでなく、カメラの位置と向き、つまりカメラアングルも同時に表現されている。言葉もそれと同じ構造を備えている、というのが言語学者の三浦つとむや文芸評論家の吉本隆明の考えだ。吉本は、前者に相当する働きを指示表出と呼び、カメラアングルに相当する働きを自己表出と呼んだ。

 

この考えを借用して日本国憲法9条を読むと、何が見えてくるか。指示表出の側からこの条項を見ると、制定当初は自衛のための戦力を含めて一切の戦力を否認するものとして国民の大多数に受け止められたことが推察できる。しかし、その後のいわゆる解釈改憲によって、自衛のための戦力を容認する記述として理解されるようになった。9条の指示表出は制定後に大きな変化を遂げたと言える。

 

これに対して自己表出はどうだったか。アメリカの占領軍が下書きをした憲法を日本国民がそのまま受け入れたのは、「押しつけ」だけによるものではない。憲法の自己表出が、当時の国民の心の位置と向きを表すものだったからだ。ここでいう心の位置と向きとは、9条に関して言えば、戦争はもうたくさんであり、そのための備えも金輪際ごめんこうむりたい、という感情にほかならない。瀕死の重傷を負った時、人は腕力をつけようなどとは考えないのと同じだ。それは、評論家の三上治が繰り返し指摘しているように、ソ連や中国などによる「革命」のための戦争であれ、アメリカなどによる「自由」のための戦争であれ、一切の戦争を拒む感情と言っていい。

 

こういう心の位置と向きは、後に自衛隊の存在を容認するようになってからも、感情の芯の部分として強固に生き続けてきたと推定できる。それを表しているのが、矛盾した世論だ。朝日新聞が今年の憲法記念日前に行った世論調査では、自衛隊の位置づけのための改憲を求める意見が7割もあるのに、他方で9条を変えない方がよいという答えが51%と過半数を占めていた。

 

憲法は国家に宛てた国民の命令だ。だが、わが憲法では命令を最初に発したのは国民ではなく、アメリカだった。民主制の原理を逸脱するこの歪みを直すために、改憲の是非を問う国民投票はぜひとも必要だと私は考えている。だが、9条の変更には私は同意しない。自民党の新憲法草案には「自衛軍」の保持が書かれているが、国民は簡単にはそれを許さないと思う。

 

確かに草案は自衛隊の存在という現実との整合性を9条に与えるものだが、国民が敗戦時に心中深く刻み込んだ戦争への忌避感情は整合性を拒む性質のものだ。私はその感情を尊重したいと思う。三上治やエコノミストの長谷川慶太郎が言うように、戦争が世界史の本流から傍流へ移った現在、傍流をさらに狭い流れに変えていくための原点がこの国民の感情だからだ。

 

9条を守っていれば、平和を守れるなどということはもちろんあり得ない。しかし、9条を変えれば、戦争のリスクを軽減できるという保証も存在しないことは確かだ。むしろ自民党草案にあるような「自衛軍」を9条に明記した場合、リスクを増大させる新たな要因が加わる可能性の方が高い。例えば今のイラク戦争と同じような戦争に将来アメリカが乗り出した時、「自衛軍」は米英軍並みに戦闘に出動することも可能になり、そのための法律さえつくれば、日本国民は戦後初めて戦争で人を殺し、殺される可能性にさらされる。

 

9条の改正が必要な背景として、中国の軍備増強や北朝鮮の核ミサイルの脅威が持ち出される。しかし、これらの国が日本に軍事攻撃を仕掛けてくる可能性は、その能力と利害得失を考えれば、限りなくゼロに近い。そのような環境の中で、わざわざ戦火と流血の許容に結びつくような9条改正に踏み切るのは、危険な選択と言うほかない。

 

映画「誰も知らない」の監督の是枝裕和が憲法9条について次のような発言をしているのがたまたま目に留まった。

 

「軍備増強して『普通の国』になっていくための憲法なのか。話し合いで紛争を解決できる国と国の関係の構築を目指す憲法なのか。どちらも100%の安全はないし、犠牲を伴うけど僕は後者のリスクなら引き受ける」(11月3日付「朝日新聞」朝刊)

 

「どちらも100%の安全はない」というのは、ごく当たり前の前提だ。そうである限り、戦争の限りない縮小という長期の理想を選ぶ方がはるかに賢明な選択と言える。9条の堅持はそのような選択としてある。

 

神戸女学院大学教授で武道家でもある内田樹は自らのブログで、憲法9条について次のような見解を披瀝している。

 

私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともみごとな政治的妥協のひとつ」だと考えている。

憲法九条と自衛隊の「矛盾」が期せずして(「期せずして」というべきだろう)、戦後日本に「兵にかかわる老子的背理」を生きることを強いた。

その「ねじれ」続いた戦後55年間、わが国の兵は一度も海外で人を殺傷することがなく、わが国の領土が他国軍によって侵略され、国民が殺傷されるという不幸も訪れなかった。

その相対的な平和状態こそがわが国の戦後の驚異的な復興・経済成長と隣国との相対的に安定した外交関係を担保してきた。私はそう理解している。

 

私はこの内田の武道家としての見解に大いに蒙を啓かれた。実を言うと、ここまで書いてきたことのベースには内田の見解を相当程度忍び込ませている。

 

ここで素人考えをあえて言えば、現在の自衛隊は、北朝鮮軍はもちろん、中国軍と戦っても通常兵器による戦いなら決して負けないだけの力を備えていると思う。しかし、その強大な力を実際に使うことは、憲法9条によってがんじがらめに縛りをかけられている。

 

力はあるが、使わない。このことをわが自衛隊は理想とし、そのように振る舞ってきた。その歴史が、この独特な武装組織に品位を与え、武力が陥りやすい頽廃を阻んできたことは疑い得ない。それによって、自衛隊は日本国民だけでなく、諸外国の国民の敬意を集め、私たちの国の安全と繁栄を下支えしてきたことは間違いない。大多数の国民が自衛隊の存在を必要と認める根拠はそこにあるし、私もこの国民の態度に同調する。

 

しかし、自衛隊を「自衛軍」に変えれば、つまり9条の縛りを解いて国軍に格上げすれば、それらの遺産の相当部分を失うことを私たちは覚悟しなければならない。



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