前々回(「ニュース逆さ読み(33) 名前の威力」)に続いて、名前のことを書いてみる。
私はふだん自分の名前を「礼治」と書いているが、戸籍名は「禮治」だ。子供にも覚えやすいようにと、親が最初に私に教えたのが「礼治」だったので、それ以来の習慣でこの簡単な漢字を使っている。職場の書類などもこれで通してきた。
若いころは「本当は『禮治』です」とだれかに打ち明けることがあると、ささやかな快感を覚えた。「いつもはやさしい漢字を使っているが、本当は難しい漢字だぞ」という、子供じみたうぬぼれからくるものだ。「老いぼれが実は水戸の御老公」のあのテレビドラマの主人公になったような気分に近い。
このドラマが長年にわたって人気を保っているのは、ただの老いぼれが実は高貴な出自なのだ、という貴種流離譚のパターンが毎回、懲りずに繰り返されるからだ。そこでは、老いぼれの旅姿が主人公の正体を隠すための重要な役割を果たしている。つまらないもの、平凡なもの、退屈なもの、卑俗なもの、美しくないもの、情けないもの、恥ずかしいもの、総じて欠如だらけに見えるものが、時としてただならぬ意味を背負うことがあり得るのだ、というメッセージを視聴者はそこから受け取り、気持ちのよさを覚えるのだと思う。
この種の気持ちよさを呼び起こすのは、貴種流離譚だけではない。文学や美術など芸術表現一般に共通した特徴と考えることができる。
ギャンブルで身を持ち崩すような人間は身内にいてほしくないのに、ドストエフスキーの『賭博者』の主人公にはつい魅かれてしまうのはなぜか。実物のリンゴを見ても感動などしないのに、セザンヌの描いたリンゴに魅了されるのはなぜか。水戸の御老公のドラマと同様に、さえない存在が重大な意味を帯びることがあり得るのだというメッセージを、読者や鑑賞者は作品の中に読み取っているからだと思われる。
なぜそんなことが可能なのか。小説であれ、絵画であれ、表現というものは一般に現実の否定、つまり欠如や個別性の否定という側面を持っており、その意味で作品の受け手をそれらとは反対の世界、一定の完結性、普遍性を備えた世界へと導くものだからだ。
自分の名前にまつわる経験から推測するだけだが、芸名や筆名を持つ人たちは、現実の自分にはない物語やドラマを生きているような気分になることがあるのではないか。彼らにとって、芸名や筆名は個別的な存在としての自分に普遍性を与えるための手段にもなっていると想像できる。
ブログでは実名よりニックネームが圧倒的に多いが、皆が皆、本名を隠さなければならない事情を抱えているわけではないはずだ。そこには芸名や筆名が持っているような物語性に期待する動機が働いていると考えられる。