京都府宇治市の進学塾で、小学6年生の女児を殺害した大学生のアルバイト講師は、専門家や識者と呼ばれる人たちから一様に「大人になりきれていない」(作田明・聖学院大講師=昨年12月11日付産経新聞朝刊)「『幼児的な自己愛』を持った大人」(評論家・宮崎哲弥=同16日付同紙朝刊)などと、その未成熟さを指摘されている。そりが合わなくなった教え子を「いなくなれば楽になる」と手にかけた容疑者の振る舞いをみれば、だれしも同じ感想を抱くはずだ。
「大人になりきれていない」若者が多いのは、現在という時代の際立った特徴の一つのように見える。引きこもりやニートの出現がそのことを物語っている。
そもそも大人になるとは、どういうことなのか。粗雑だが、私なりに納得のいく言い方をすれば、教えられる側から教える側になること、と言っていいと思う。子供は親や親の世代に教えられる存在だが、やがてその親や親の世代などを真似て、自らも教える側の存在になっていく。そこには世代から世代へと受け渡される継承のシステムが成立している。
教え、教えられる中身は行儀であったり、仕事の仕方であったりするが、ひとまとめにしてとりあえず倫理という言葉で呼んでかまわないと思う。この継承のシステムが安定して作動するためには、倫理の中身が変化しないことが必須の条件となる。変化すれば継承そのものが無意味になるからだ。
しかし、育った時代環境が親の世代と子の世代であまりに違い過ぎると、倫理の変化は避けられない。宇治の事件の容疑者の世代が生まれ育った社会は、高度経済成長を経て到来した「豊かな社会」だ。これに対して、その親の世代が育ったのは、皆がまだ物質的な充足を第一に求めていた時代だ。そこでは「働かざるもの食うべからず」が支配的な倫理として流通していた。ところが、その後に出現した「豊かな社会」の特徴の一つは、働かなくても一定程度は食えるところにある。この決定的な落差は、それまで人を大人へと成長させてきた倫理の継承システムを危機に陥れた。大人になりきれない若者が増えたのは当然とも言える。
未成熟なのは若者ばかりではない。人は教える側に立つことによって初めて大人であり続けることができる。教え―教えられる継承のシステムが危うくなった現在、教える側にいるはずの中高年の世代も、大人であることが困難になっている。高齢者が引き起こす事件の中には、若者に劣らぬ未成熟さが見られる場合があることを多くの人たちは感じているはずだ。還暦間近の私自身も、事件こそまだ起こしていないが、未成熟な中年男の一人だ。
「生涯学習」と呼ばれるものの流行を目の当たりにすると、教える相手を失った中高年者が、代わりに自分自身を教える相手にすることによって、何とか大人であり続けようとしている姿を見る思いがする。