人はなぜ他人の、たったひと言に傷ついたり、感銘を受けたりするのか。言葉が単なる意思の伝達手段なら、それは起こり得ないことだ。
意思の伝達だけを目的としている記号を考えれば、そのことはすぐにわかる。私たちは赤信号を見て傷ついたり、青信号に感銘を受けたりはしない。しかし、言葉が感情を波立たせるのはありふれたことだ。
仮に私が誰かに「お前は腑抜けだ」と言われたとする。私はまず間違いなく心に痛みを覚えるはずだ。自分では腑抜けとは思っていなくても、それは変わらない。人は「お前は腑抜けだ」と言われると、意識できないほど瞬間的、部分的にではあるが、「そうだ、私は腑抜けだ」と思ってしまうものだからだ。信じにくいことかも知れないが、他人の言葉を理解するということは、その言葉に同調する瞬間を経るということなのだ。
理由は言葉の構造にある。私たちは何かを見ようとする時、必ず自分自身の身体の位置と向きを決めなければならない。それも自由気ままにではなく、自然法則に従ってだ。
言葉もこれと似ている。言葉は対象を指し示すだけでなく、それを発する者、あるいはそれを受け取る者の心の位置と向きを決めてしまう。他者から言葉が発せれられた時、私たちは自分の心の位置と向きをその他者の発話時の心の位置と向きに同調させることによって、言葉を受け取る。言葉が私たちの感情を揺り動かす根拠がここにある。
再び身体をたとえに使うと、身体は世界とかかわり合うことで初めて身体として存在するように、心は言葉とかかわり合って初めて心として存在する。身体が世界の中に住まうように、心は言葉の中に住まうのだ。その言葉は、文法と呼ばれる規範を骨格にした掟を備えていることからわかるように、共同体でもある。人はその共同体の中に生まれ落ちる。
そして、生まれ落ちること、すなわち母胎から離れることで生じた欠如を、他者からの承認によって埋めようとし続ける存在となる。共同体はそうした人間の欲望にこたえることを重要な機能としている。共同体としての言葉も同じだ。
外国に移り住み、その国の言葉で生活するということは、自らが生れ落ちた共同体の外に出ること、自らを認めてくれる寄る辺を離れることを意味する。その疎外感は、移り住んだ先の言葉に堪能であればあるほど大きくなる場合すら考えられる。
広島市での女児殺害事件も、滋賀県長浜市での園児刺殺事件も、容疑者は外国人だった。いずれも動機を知るのは容易ではない。ただ、共同体としての母国語からの離脱を二人とも否応なく経験しているはずであり、それは動機を形成するのに無視できない要素の一つになっていることは疑い得ないように思える。