2013年04月25日

(418)生活が第一という考え


30代フリーター やあ、ジイさん。きょうは久しぶりに小沢一郎の似顔絵を新聞で見た(4月25日付朝日新聞朝010刊)。彼が代表を務める生活の党が改憲手続きを定めた96条の堅持を決めたという記事だが、そういえばマスメディアはこのところ小沢のことをほとんど報じていなかったな。

年金生活者 あれだけ執拗に続けていた「政治と金」を口実にしたバッシングもやめてしまった。官僚支配から国民主導への転換をはかる小沢の「革命」をつぶすのに成功したいまは、もうその必要がなくなったということを告白しているようなものだ。

30代 小沢はもう以前の力を取り戻せないだろう。

年金 勢力が縮小しても、小沢の掲げる政治理念が色あせたわけではない。彼のいう「国民の生活が第一」は、国民にとっては自分や家族の生活が第一であるということを前提にしている。そういう国民のあり方は、吉本隆明が自らの思想のよりどころとした「大衆の原像」と重なる。

30代 またかというか、いきなりというか、ここでなぜ吉本なんだ。

年金 それだけ小沢の政治理念は本質的なものを含んでいるということだ。天下国家のことや思想のことはあまり考えないで、自分や家族や親しい人たちの生活のことを懸命に考える暮らしを吉本はいちばん価値ある生き方とみなし、それを実行する存在を「大衆の原像」と呼んだ。「原像」としたのは、どんな人間もそこから逸脱してしか生きられないからだ。だからこそ「原像」を目指されるべき価値と彼は考えた。

30代 それが小沢とどういうかかわりがあるんだ。

年金 「大衆の原像」から遠ざかる政治は病むほかない。戦争はその最たる症状だ。なぜ病むのか。「原像」は政治の座標軸に相当するからだ。そこから外れた政治はおのれを損なうことを避けられない。政治を思想に置き換えても同じことがいえる。「原像」と政治あるいは思想との関係は、身体と意識の関係と構造を同じくする。身体は意識の座標軸に当たる。人間は目の前にある物を知覚するのにも、自分の身体を起点とした距離や方向をもとにその位置や形をつかみ、身体を軸に描く空間の不変性をもとに物の変化を感知する。

30代 だから体を大切に、とでもいいたいのかよ。

年金 意識は身体から遠ざかる性質をもっているが、遠ざかり過ぎたとき、病の領域に入り込む。妄想や幻覚、強迫観念は、身体という座標軸から意識が逸脱した結果だ。生活を第一、身体を第一とする考えは、生の本質に由来する。生きるということは、何かのために生きることではなく、生きようとすることそのものだ。生活を、身体を、できるだけ快調な状態にもって行こうとすることだ。いまの日本人の健康志向を揶揄して、何かをするための健康が自己目的化している、と言う者がいる。生きることの本質に目をふさいだ言い方だ。人生に目的はないが、無理やり目的を設定するとしたら、健康以外にない。

30代 意識は身体より高度で複雑だと一般には考えられている。

年金 そういう錯覚が生まれるのは、身体が高度で複雑であるがゆえに、意識がそれをつかみ切れず、そのぶん身体を単純化して理解するからだ。意識の特性は物事を単純化することにある。対象を白と黒だけに分ける。すべてを0と1に分解する。それらの動作は物事をおのれの単純さに合わせることでもある。身体、あるいは身体を含む自然についての知見は現在、古代に比べてはるかに高度で複雑になっているのに、意識についての知見、すなわち宗教上の理念や倫理や哲学などは、基本のところで古代のレベルをほとんど超えていない。それは意識が決して身体より高度で複雑ではないことを語っている。

30代 勢いの衰えた小沢を擁護しようとして、いろんな理屈をかき集めているように聞こえるぞ。

年金 同じことは生活と思想との関係にもいえる。思想は高度で複雑な生活を単純化したがる。高度で複雑なままではおのれの手に余るからだ。思想が生活よりも高級だという錯覚がそこに生まれる。生活はその高度さ、複雑さゆえに、人間に生活を極めることを要求する。一般の国民は政治家や知識人より「大衆の原像」に近いぶんだけ、そうした要求にこたえようと力を集中する度合いが高い。高い集中度は生活の仕方を一種の職人技のようなレベルにまで高めていく。それが生活に価値を帯びさせる。人間のいちばん基本的ないとなみに価値を与えるということだ。

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                  『流砂』6号
        【追悼特集】吉本隆明その重層的可能性
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