源頼朝日記

 平安時代後期~鎌倉時代初期の旧蹟を、エッセイ風に書き連ねていくブログです。

 京都・伊豆・鎌倉を主力に、未だそこに息吹く歴史上の旧蹟を訪ね、エッセイ風に書き連ねていくブログです。  源頼朝が活躍をした、平安・鎌倉時代が主な記事内容になります。                          尚、YouTube動画の掲載記事は、バイト数が相当数消費する為、2~3日後に、事前連絡無く削除致します。

30 歌ノ橋

DSCF2754 テーマ:鎌倉の石碑
 (二階堂界隈)
 位置 :
金沢街道に架かる歌ノ橋の東奥に建つ
      鎌倉市二階堂935

碑文

 鎌倉十橋ノ一ニシテ 建保元年(皇紀一八七三)二月 澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄天神ニ奉献セシニ 翌朝 將軍實朝傳聞セラレ 御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ 其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 以テ神徳ヲ謝シタリト傳ヘラレ此ノ名アリ  
      昭和十二年三月建     鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)

鎌倉十橋(かまくらじゅっきょう)ノ一(ひとつ)ニシテ建保(けんぽ)元年(がんねん)(皇紀(こうき)一八七三)二月(にがつ)澁川刑部六郎兼守(しぶかわぎょうぶろくろうかねもり)謀叛(むほん)ノ罪(つみ)ニヨリ誅(ちゅう)セラレントセシ時(とき)(うれい)ノ餘(あま)リ和歌(わか)十首(じゅっしゅ)ヲ詠(えい)ジテ荏柄天神(えがらてんじん)ニ奉献(ほうけん)セシニ翌朝(よくちょう)將軍(しょうぐん)實朝(さねとも)傳聞(でんぶん)セラレ御感(ぎょかん)アリテ兼守(かねもり)ノ罪(つみ)ヲ赦(ゆる)サレシニヨリ其(そ)ノ報賽(ほうさい)トシテ此(こ)ノ所(ところ)ニ橋(はし)ヲ造立(ぞうりゅう)シ以(もっ)テ神徳(しんとく)ヲ謝(しゃ)シタリト傳(つた)ヘラレ此(こ)ノ名(な)アリ  
                昭和十二年三月建     鎌倉町青年團

[碑文説明]

鎌倉十橋の一つであり、建保元年(皇紀一八七三)二月、澁川刑部六郎兼守が謀叛の罪により、処刑されそうになった時、無実である思いを和歌十首にこめて、荏柄天神に納めました。次の日の朝、將軍實朝が、その歌を聞いて感心し、兼守の罪を許しました。兼守は、神のご加護によると感謝し、お礼として此の場所に、橋を造立し納めました。これがこの橋の名の由来です。

29 荏柄天神

DSCF1663 テーマ:鎌倉の石碑
 (二階堂界隈)
 位置 :
柄天神鳥居の左に建つ
      鎌倉市二階堂76

碑文

 倭名鈔 當郡ニ荏草ト記セル郷名アリ 今其名ヲ失スレドモ 當社附近ノ舊称ナリシガ如シ 草ニかやノ古訓アレバ 江がらハ江がやノ転訛ナルヲ 後文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ 社前ノ松並木ヲ古来馬場ト稱ス 本社ハ元 中央ニ菅公束帯ノ坐像 右方ニ天拜山祈誓ノ立像 左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ安置セシモ 勸請ノ年代ヲ傳ヘズ 頼朝公初メテ大蔵ノ地ニ幕府ヲ設ケシ時 當社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トナス 爾来歴代将軍ノ尊奉セシ所 天文年間 北條氏康社前ニ關ヲ置キ 關銭ヲ取リテ社料ニ共セシメシ事アリ 徳川氏ノ世ニハ 鶴岡八幡宮造營ノ節毎ニ其ノ餘材残木ヲ受ケテ 本社修造ニ抵ツルヲ例トセシト云フ
        昭和四年十二月     鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)

倭名鈔(わみょうしょう)當郡(とうぐん)ニ荏草(えぐさ)ト記(き)セル郷名(ごうめい)アリ今(いま)其名(そのな)ヲ失(う)スレドモ當社(とうやしろ)附近(ふきん)ノ舊称(きゅうしょう)ナリシガ如(ごと)シ草(くさ)ニかやノ古訓(こくん)アレバ江(え)がらハ江(え)がやノ転訛(てんか)ナルヲ後(のちに)文字(もじ)ヲサヘ今(いま)ノ如(ごと)ク改(あらた)メシモノカ社前(しゃぜん)ノ松並木(まつなみき)ヲ古来(こらい)馬場(ばば)ト稱(しょう)ス本社(ほんやしろ)ハ元(もと)中央(ちゅうおう)ニ菅公(かんこう)束帯(そくたい)ノ坐像(ざぞう)右方(みぎかた)ニ天拜山(てんぱいざん)祈誓(きせい)ノ立像(りつぞう)左方(ひだりかた)ニ本地佛(ほんじぶつ)十一面観音(じゅういちめんかんのん)ノ像(ぞう)ヲ安置(あんち)セシモ勸請(かんじ ょう)ノ年代(ねんだい)ヲ傳(つた)ヘズ頼朝公(よりともこう)(はじ)メテ大蔵(おおくら)ノ地(ち)ニ幕府(ばくふ)ヲ設(もう)ケシ時(とき)當社(とうやしろ)ヲ以(もっ)テ鬼門(き もん)ノ鎮神(ちんじん)トナス爾来(じらい)歴代将軍(れきだいしょうぐん)ノ尊奉(そんぽう)セシ所(ところ)天文年間(てんもんねんかん)北條氏康(ほうじょううじやす)社前(しゃぜん)ニ關(せき)ヲ置(お)キ關銭(せきせん)ヲ取(と)リテ社料(やしろりょう)ニ共(きょう)セシメシ事(こと)アリ徳川氏(とくがわし)ノ世(よ)ニハ鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)造營(ぞうえい)ノ節(ふし)(ごと)ニ其(そ)ノ餘材(よざい)残木(ざんもく)ヲ受(う)ケテ本社(ほんやしろ)修造(しゅうぞう)ニ抵(あ)ツルヲ例(れい)トセシト云(い)

                  昭和四年十二月     鎌倉町青年團

[碑文説明]

和名鈔に、当郡に柄草と記せる郷名があり、今はその名はありませんが、この神社附近の旧称のようです。草の字にカヤの古訓があるので、江ガラは江ガヤの転化となり、後に文字を当てはめ、今のようにしたものと想われます。社前の松並木を、古来馬場と言いました。本社は、元中央に管公束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置しておりますが、勧請の年代は分かりません。頼朝公が初めて大蔵の地に幕府を設けた時、当社を以て、鬼門の鎮守となるように選んで、指定しています。 以後、歴代の将軍も、尊奉し保護しま した。 天文年間に、北条氏康が社前に関を置き、関銭を取って社料に供し、徳川氏の世には、鶴岡八幡宮造営の工事がある毎に、その余材残木を受けて、本社修造に当てる事が例となっていました。

28 理智光寺址

DSCF1681 テーマ:鎌倉の石碑
 (二階堂界隈)
 位置 :
護良親王墓所手前広に建つ
      鎌倉市二階堂754付近

碑文

 此所ハ願行上人ヲ開山トセシ 五峰山理智光寺ノ址ナリ 建武二 年 淵邉伊賀守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ 護良親王ヲ弑シ奉リシガ 其御死相ニ怖レ 御首ヲ傍ラナル藪中ニ捨テ去リシヲ 當寺ノ住僧拾ヒ取リ 山上ニ埋葬シ奉リシトイフ
        昭和七年三月建     鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)

此所(ここ)ハ願行上人(がんこうしょうにん)ヲ開山(かいざん)トセシ五峰山理智光寺(りちこうじ)ノ址(あと)ナリ建武(けんむ)二年淵邉伊賀守義博(ふちのべいがのかみよしひろ)ハ足利直義(あしかがただよし)ノ命(めい)ヲ承(う)ケ護良親王(もりながしんのう)ヲ弑(ちゅう)シ奉(たてまつ)リシガ其(その)御死相(ぎょしそう)ニ怖(おそ)レ御首(みくび)ヲ傍(かたわ)ラナル藪中(やぶのなか)ニ捨(す)テ去(さ)リシヲ當寺(とうてら)ノ住僧(じゅうそう)(ひろ)ヒ取(と)リ山上(さんじょう)ニ埋葬(まいそう)シ奉(たてまつ)リシトイフ
                  昭和七年三月建     鎌倉町青年團

[碑文説明]

此の地は、願行上人を開山とする、五峰山理智光寺のあったところであります。建武二年、淵邉伊賀守義博は、足利直義の命令をうけて、護良親王の命を奪いましたが、その親王の死に顔に怖れをなして、その首を傍らの藪の中に捨て、逃げ去りました。理智光寺の僧が、その首を見つけ出し、拾い取り上げ、近くの山上に埋葬したと言うことです。

27 永安寺址

DSCF2888 テーマ:鎌倉の石碑
 (西御門界隈)
 位置 :
天園ハイキングコース方面に向かう途中
      鎌倉市二階堂728付近

碑文

 永安寺ハ二階堂谷ニ屬ス 關東管領足利氏満ノ開基ニシテ 其開山ハ曇芳和尚ナリ 和尚名ハ周應 夢想國師ノ法嗣ニシテ 建長寺瑞林庵ノ始祖タリ 氏満 應永五年十一月四日ヲ以テ卒ス 其法號ヲ永安寺壁山全公ト稱ス 寺號此ニ基ク 氏満ノ孫持氏 時ノ將軍義教ト隙アリ 兵敗レ勢窮リ 此寺ニ籠居シテ自殺ス 時ニ永亨十一年二月十日ナリ 此日 寺観亦兵火ニ罹リテ廢滅ニ歸ス 此所ハ實ニ其址ナリ
       大正十五年三月建     鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)

永安寺(ようあんじ)ハ二階堂(にかいどう)(がやつ)ニ屬(ぞく)ス關東管領(かんとうかんれい)足利氏満(あしかがうじみつ)ノ開基(かいそ)ニシテ其(その)開山(かいざん)ハ曇芳(どんぼう)和尚(おしょう)ナリ和尚名(おしょうめい)ハ周應(しゅうおう)夢想國師(むそうこくし)ノ法嗣(ほうし)ニシテ建長寺(けんちょうじ)瑞林庵(ずいりんあん)ノ始祖(しそ)タリ氏満(うじみつ)應永(おうえい)五年十一月四日ヲ以(もっ)テ卒(そっ)ス 其(その)法號(ほうごう)ヲ永安寺壁山全公(ようあんじへきざんぜんこう)ト稱(しょう)ス寺號(じごう)(これ)ニ基(もとず)ク氏満(うじみつ)ノ孫(まご)持氏(もちうじ)(とき)ノ將軍(しょうぐん)義教(よしのり)ト隙(げき)アリ兵(へい)(やぶ)レ勢(いきおい)(きわま)リ此(この)(てら)ニ籠居(ろうきょ)シテ自殺(じさつ)ス時(とき)ニ永亨(えいきょう)十一年二月十日ナリ此日(このひ)寺観(じかん)(また)兵火(へいか)ニ罹(かか)リテ廢滅(はいめつ)ニ歸(き)ス此所(ここ)ハ實(じつ)ニ其址(そのあと)ナリ
                大正十五年三月建     鎌倉町青年團

[碑文説明]

永安寺は二階堂谷にあります。關東管領の足利氏満の開基であります。そして、その開山は、曇芳という僧でありました。曇芳和尚は、名を周應といいました。夢想國師の法を受け継ぎ、建長寺瑞林庵の始祖となりました。氏満が應永五年十一月四日に亡くなり、その法号を永安寺壁山全公といいましたので、寺の名をその戒名からとりま した。氏満の孫の持氏は、時の將軍義教と不和となり、戦となりましたが敗れ、勢い窮まって、此の寺に籠居して自殺しました。時に永亨十一年二月十日でありました。此の日に、寺は全て焼かれてしまいました。この場所は実にその永安寺の跡です。

26 偏界一覧亭旧跡

DSCF2820 テーマ:鎌倉の石碑
 (二階堂界隈)
 位置 :
瑞泉寺の石庭後方(通行禁止見学不能)
      鎌倉市二階堂 瑞泉寺後方山頂

碑文

 亭ハ嘉暦三年 夢窓國師ノ建立ニシテ 五山ノ僧徒屡々詞會ヲ催セシ所ナリ 然ルニ其後頽癈セシヲ 徳川光圀一堂ヲ建テ 其傍ニ寮ヲ設ケ 一覧亭集詩板ヲ懸ケシトイフモ 堂寮共ニ今ナク 礎石ヲ存スルノミ
       前毛またかさなる山のいほりにて
          梢につヽく庭の白雲
ハ 夢窓國師ノ此亭ニテ詠メルモノナリト傳ヘラル
          昭和十年三月   鎌倉町青年團建

碑文(ひぶん)

(てい)は嘉暦三年(かれきさんねん)夢窓國師(むそうこくし)ノ建立(こんりゅう)ニシテ五山(ござん)ノ僧徒(そうと)屡々(しばしば)詞會(うたかい)ヲ催(もよう)セシ所(ところ)ナリ然(しか)ルニ其後(そのご)頽癈(たいはい)セシヲ徳川光圀(とくがわみつくに)一堂(いちどう)ヲ建(た)テ其傍(そのかたわら)ニ寮(りょう)ヲ設(もう)ケ一覧亭集詩板(いちらんていしゅうしばん)ヲ懸(か)ケシトイフモ堂寮(どうりょう)(とも)ニ今(いま)ナク礎石(そせき)ヲ存(そん)スルノミ
       前
(まえ)(も)またかさなる山(やま)
のいほりにて
          梢
(こずえ)につヽく庭(にわ)の白雲(しらくも)

ハ夢窓國師
(むそうこくし)ノ此亭(このてい)ニテ詠(よ)メルモノナリト傳(つた)ヘラル
                    昭和十年三月   鎌倉町青年團建


[碑文説明]

偏界一覧亭は、嘉暦三年に、夢想国師が建てた建物で、鎌倉五山の僧侶たちが、よく詩会を催した所です。しかしその後荒れ果てているのを、水戸光圀が堂を建て、そのそばに、あずまやをつくり、一覧亭集詩板をかけたといいますが、堂も荘も今は無く、基礎の石が残っているだけです。

      「前もまた重なる山の庵にて 

          梢に続く庭の白雲」

は夢想国師が、この亭で詠んだものと伝えられています。

25 永福寺旧蹟

DSCF1680 テーマ:鎌倉の石碑
 (二階堂界隈)
 位置 :
鎌倉宮から覚園寺への中間地道路沿いに建つ
      鎌倉市二階堂216

碑文

 永福寺世ニ二階堂ト稱ス 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ 文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ 彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス 輪奐壮嚴洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ 享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス
        大正九年三月建之    鎌倉町青年會


碑文(ひぶん)

永福寺(ようふくじ)(よ)ニ二階堂(にかいどう)ト稱(しょう)ス今(いま)ニ二階堂(にかいどう)ナル地名(ちめい)アルハ是(これ)ガタメナリ文治五年(ぶんじごねん)頼朝(よりとも)奥州(おうしゅう)ヨリ凱旋(がいせん)スルヤ彼(か)ノ地(ち)大長壽院(だいちょうじゅいん)ノ二階堂(にかいどう)ニ擬(ぎ)シテ之(これ)ヲ建立(こんりゅう)ス輪奐(りんかん)壮嚴(そうごん)(じゅん)ニ無雙(むそう)ノ大伽藍(だいがらん)タリキト云(い)フ 享徳年間(きょうとくねんかん)關東管領(かんとうかんれい)ノ歿落(ぼつらく)セル頃(ころ)ヨリ後(のち)(まった)ク頽廢(たいはい)
                 大正九年三月建之    鎌倉町青年會

[碑文説明]

永福寺を当時の人々は二階堂と呼んでいた。今、この辺りを二階堂という地名で呼ばれているのはこの為である。文治五年に、頼朝が奥州より凱旋すると、奥州にあった大長壽院の二階堂に似せて、永福寺を建てた。その建物の立派なことは、無双の大伽藍であったと云う。享徳年間に、關東管領の歿落する頃より後、全く頽廢してしまった。

24 東御門

DSCF2743 テーマ:鎌倉の石碑
 (西御門界隈)
 位置 :
蔵幕府の地東側道路沿いに建つ
      
鎌倉市西御門2-8-14

碑文

 大蔵幕府ニ四門アリ 方位ヲ以テ名ヅク 其東ニアルモノヲ東御門ト謂フ 今転ジテ地名トナル 法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ

         大正十五年三月建   鎌倉町青年團


碑文
(ひぶん)

大蔵幕府(おおくらばくふ)ニ四門(よんもん)アリ方位(ほうい)ヲ以(もっ)テ名(な)ヅク其(その)(ひがし)ニアルモノヲ東御門(ひがしみかど)ト謂(い)フ今(いま)(てん)ジテ地名(ちめい)トナル法華堂(ほっけどう)ノ東方(とうほう)一帯(いったい)ノ地(ち)(すなわ)チ是(これ)ナリ

                  大正十五年三月建   鎌倉町青年團


[碑文説明]

大蔵幕府に四つの門があったが、門の方角によって名がつけられていた。東にあるものを、東御門と呼んだ。今では法華堂の東にあたる一帯を、この門にちなんで、東御門と称している。

23 法華堂跡

DSCF2745 テーマ:鎌倉の石碑
 (西御門界隈)
 位置 :
公墓登り階段口左側に建つ
     鎌倉市西御門2-5-2

碑文

 堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ 頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保五年五月 和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時 将軍実朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日 三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ 刀折レ矢盡キテ 一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ 満庭朱殷ニ染メシ處トス
      大正十三年三月建     鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)
(どう)ハモト頼朝(よりとも)ノ持佛(じぶつ)ヲ祀(まつ)レル所(ところ)ニシテ頼朝(よりとも)ノ薨後(こうご)(そ)ノ廟所(びょうしょ)トナル建保五年五月(けんぽごねんごがつ)和田義盛(わだよしもり)(はん)シテ火(ひ)ヲ幕府(ばくふ)ニ放(はな)テル時(とき)将軍実朝(しょうぐんさねとも)ノ難(なん)ヲ避(さ)ケタルハ此(こ)ノ處(ところ)ナリ寶治元年六月五日(ほうじがんねんろくがついつか)三浦泰村(みうらやすむら)(ここ)ニ籠(こも)リテ北條(ほうじょう)ノ軍(ぐん)ヲ邀(げき)ヘ刀(かたな)(お)レ矢(や)(つ)キテ一族郎等(いちぞくろうとう)五百餘人(ごひゃくゆうよじん)ト偕(とも)ニ自盡(じじん)シ満庭(まんてい)朱殷(しゅあん)ニ染(そ)メシ處(ところ)トス
                大正十三年三月建     鎌倉町青年團

[碑文説明]

法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祭っていましたが、頼朝の死後その廟所になりました。建保五年五月に、和田義盛が、反乱を起こし、幕府に火を放った時、将軍実朝が、避難したのは、この場所であります。寶治元年六月五日に、三浦康村がここにり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族郎等500余人と供に自殺し、庭一面を赤色に染めた場所であります。

22 太平寺跡

DSCF2821 テーマ:鎌倉の石碑
 (西御門界隈)
 位置 :
西御門の来迎寺階段登り口左側に建つ
      鎌倉市西御門1-11付近
碑文
 
太平寺ハ比丘寺ニシテ 相傳フ 頼朝 池禅尼ノ舊恩ニ報イン爲 其ノ姪女ノ所望ニ聴キ 姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナリト 足利ノ代 管領基氏ノ族裔 清渓尼ノ中興スル所トナレルガ天文中 里見氏鎌倉ヲ鹵掠セル時 住持青岳尼ヲ奪ヒテ房州ニ去リテヨリ遂ニ頽破セリ 今ノ高松寺ハ 寛永中 紀州徳川家ノ家老水野氏ガ 其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ
         昭和六年三月建之   鎌倉町青年團

碑文(ひぶん)
太平寺(たいへいじ)ハ比丘寺(ひぎでら)ニシテ相傳(あいつた)フ頼朝(よりとも)池禅尼(いけのぜんに)ノ舊恩(きゅうおん)ニ報(むく)イン爲(ため)(そ)ノ姪女(めいじょ)ノ所望(しょもう)ニ聴(き)キ姪女(めいじょ)ヲシテ開山(かいざん)タラシメシ所(ところ)ナリト足利(あしかが)ノ代(だい)管領(かんれい)基氏(もとうじ)ノ族裔(ぞくえい)清渓尼(せいけいに)ノ中興(ちゅうこう)スル所(ところ)トナレルガ天文中(てんもんちゅう)里見氏(さとみし)鎌倉(かまくら)ヲ鹵掠(しりゃく)セル時(とき)住持(じゅうじ)青岳尼(せいがくに)ヲ奪(うば)ヒテ房州(ぼうしゅう)ニ去(さ)リテヨリ遂(つい)ニ頽破(たいは)セリ今(いま)ノ高松寺(こうしょうじ)ハ寛永中(かんえいちゅう)紀州(きしゅう)徳川家(とくがわけ)ノ家老(かろう)水野氏(みずのし)ガ其(そ)ノ太平寺(たいへいじ)ノ遺址(いし)ヲ改修(かいしゅう)セルモノナリ
                  昭和六年三月建之   鎌倉町青年團


[碑文説明]

太平寺は比企一族の尼寺でありました。源頼朝が池禅尼の恩義に報いるため、その姪の為に建てさせたと伝われています。足利時代、官領基氏の子孫である清渓尼が、中興発展させました。 しかし天文の時、里見氏が鎌倉を攻め、住持の青岳尼を房州に連れ去って後は、廃寺となりました。その後、寛永年間に、紀州徳川家の家老の水野氏が、太平寺跡に高松寺を建てました。

21 関取場跡

DSCF1667 テーマ:鎌倉の石碑
 (雪ノ下界隈)
 位置 :
取場道路角際に建つ
     
鎌倉市雪ノ下562 

碑文

 當所ヲ里俗せきばト稱ス 往時ハ關取場ト稱セル由 天文十七年 北條氏 関ヲ此ノ處ニ設ケ 関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造榮ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書 今ニ藏セラレテ荏柄天神社ニ在リ
          昭和六年三月建   鎌倉町青年團


碑文(ひぶん)

當所(とうしょ)ヲ里俗(りぞく)せきばト稱(しょう)ス往時(おうじ)ハ關取場(せきとりば)ト稱(しょう)セル由(よし)天文十七年(てんもんじゅうしちねん)北條氏(ほうじょうし)(せき)ヲ此(こ)ノ處(ところ)ニ設(もう)ケ関銭(せきせん)ヲ取(と)ッテ荏柄天神社頭(えがらてんじんしゃとう)造榮(ぞうえい)ノ料(りょう)ニ充(あ)テシメタル所(ところ)トス其(そ)ノ掟書(おきてがき)ノ文書(ぶんしょ)(いま)ニ藏(ぞう)セラレテ荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)ニ在(あ)
                    昭和六年三月建   鎌倉町青年團


[碑文説明]

この場所を土地の人は「せきば」と呼んでいます。昔は「関取場」と呼んでいました。天文十七年、北条氏が関所をここに設け、通行税を取って、荏柄天神の修復費に当てさせた所です。その掟書の文書が、今も荏柄天神社に所蔵されています。

livedoor プロフィール
livedoor 天気
記事検索
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ