源頼朝日記

 平安時代後期~鎌倉時代初期の旧蹟を、エッセイ風に書き連ねていくブログです。

頼朝の最後

頼朝の最後(1)

(一)

 建久九年十二月、右大将家には、相模川の橋供養の結縁(けちえん)に臨んだが、その帰途馬から落ちたので、供養の人びとに助け起されて館へ帰った。

 その橋供養と云うのは、北条遠江守の女(むすめ)で、右大将家の御台所政子には妹婿になる稲毛三郎重成が、その七月に愛妻を失ったので、悲しみのあまりに髪を剃そって出家して、その月になって亡妻(ぼうさい)追福(ついふく)のために、橋供養を営むことになり、右大将家もこれに臨んだのであるが、その帰途右大将家が馬から落ちたことに就いて鎌倉では奇怪な噂をする者がでて来た。

 それは右大将家が橋供養の帰途、八的原(やまとはら)にかかったところで、空中に怪しい者の姿を見た。

 それは先年、西海の果てに崩御あらせられた貴人の御霊であったが、それを拝すると共に眼前(めさき)が暗んで馬から落ちたのだと云う噂であった。

 その噂とともに右大将家は病気になって、祈祷医療に手を尽していると云う噂も伝えられた。

 しかし、右大将頼朝は、実際それ程の病気ではなかった。

 病気でないばかりか夜中、時どき寝所から姿を消して、黎明方(よあけがた)でないと、いないことさえあった。

 そうした頼朝のそぶりに気の注(つ)いたのは政子であった。

 政子は頼朝附きの侍女(こしもと)の一人を呼んで詮議した。

「上様は、いつも寝所にお出で遊ばされるのか」

「お出で遊ばされるように思われますでございますが」

「何か怪しいことでもないのか、上様が御寝(ぎょしん)なされる時刻とか、お起き遊ばされる時刻とかに」

「御寝なされる時刻と、お起き遊ばされるお時刻とに……そうでございます、べつにお変りもございませんが、何時かこの二日三日前、周防様(すおうさま)と二人で、子の刻過ぎ、お廊下を見廻っておりますと、怪しい人影が御寝所の唐戸(からど)を開けて、出てまいりましたから、手燭(てしょく)をさしつけましたところ、それは被衣(かつぎ)のようなものを頭から被ぶった女房姿でございましたが、驚いたように内へお引込み遊ばされるとともに、唐戸をお締めになりました、それより他に怪しいことはございません」

「被衣のような物を被った女房姿、そう、それより他には何もない、では、これから後もよく気をつけて、どんな悪者が、上様を覘(ねら)わないにもかぎらないから」

 政子はそう云ってから侍女を帰した。

 政子はそうして穏やかに云って侍女を帰したものの、頭の中は穏かでなかった。

 その政子の頭にちらと浮んだことがあった。

 それは頼家が生れて間もない時のこと、政子には継母に当る、遠江守時政の後妻、牧の方から頼朝の行ないに就いて知らして来た。

 それは頼朝に愛している女があって、伏見広綱(ふしみひろつな)の家に置いてあると云う知らせであった。

 政子は非常に怒って牧宗親(まきむねちか)に云いつけて、広綱の家へやり、広綱の家を破壊さすとともに、その女を逐わした。

 女は逃げて大多和義久(おおたわよしひさ)の家へ往った。

 それを知った頼朝は、事にかこつけて義久の家へ往って、宗親を呼ばして罵(の)のしり、怒りに顫るえる手に刀を抜いて宗親の髪を截(き)った。

 これがために時政は面目を失うて領地へ帰ったことがあった。

 政子はこんなことを思い浮べながらじっと考えた後に、大番所に詰めている畠山六郎を内密に呼ばした。

 呼ばれて六郎は急いで政子の前へ出た。

 この六郎は畠山次郎重忠の子六郎重保で、時政の前妻の女(むすめ)の腹に生れた者であった。

「上様の寝所(しんじょ)を覘(ね)らう怪しい者があると云うから、お前は今晩から寝所の外を見張ってもらいたい」
(二)に続く

               「頼朝の最後」田中貢太郎著(昭和9年)

頼朝の最後(2)

(二)

 六郎はその晩から右大将家の寝所の周囲を警衛することになった。

 そのうちに十二月はすぐ尽きて翌年の正月となった。

 その正月の五日の晩、六郎は平生(いつも)のように右大将家の寝所の周囲を見廻わっていた。

 五日の月はほんのりと庭の白沙を照らして、由比ヶ浜の方からは穏やかな波の音が、ざアーア、ざアーアと云うように間遠(まどお)に聞こえていた。

 それはもう子の刻こくに近い比(ころ)であった。

 寝所のすぐ前の築山の木立の陰に入って、じっと木立の内の暗い処を見廻わしたが別に異状もないので、そこにあった岩へ腰をかけた。

 と、その時、寝所(しんじょ)の南縁の月の光の射している雨戸が微(かす)かな音を立てて開いた。

 六郎は曲物と思ったので、己(じぶん)の体を見せないようにと、ちょと己を見返って、それが木立の陰になっているのを見極わめると、急いで雨戸の方へ眼をやった。

 被衣(かつぎ)のような物を頭からすっぽりと着た女姿の者が開けた雨戸の口に立っていた。

 六郎はもう腰を浮かしていた。

 そして、その曲物を手取りにしてやろうと思った。

 女姿の者はじっと四辺に注意するようであったが、やがて体を軽がるとさして庭へおりた。

 その白い足は沙すなに触れた。

 そして、女姿の者は後向きになって雨戸を締めてから急ぎ足になって右の方へ折れて往きかけた。

 六郎は跫音をたてないように木立の陰に添うて追って往ったが、機を見たのでそのまま飛びかかった。

 女姿の者は驚いて逃げ走った。

 六郎はひとひしぎに執り押えようとしたが、逃げられたので気をいらだたして、

 「待て」

 女姿の者はすこし前に走ってから右の方へ折れた。

 六郎は不思議な曲者を執り逃しては恥辱だと思ったので、いきなり腰の刀を抜いて斬りさげようとしたが、距離ができると思ったので、思い直して背のあたりと思う処を覘(ねら)って突いた。

 女姿の者は唸なり声をだしたが、それ以外には何も云わなかった。

 六郎は曲物が斃(たお)れるだろうと思ったが、曲者は斃れないで猶も逃げ走ろうとした。

 六郎はあわてて二度目の刀で突いた。

 と、女姿の者のかむっていた被衣(かつぎ)が落ちた。

 「無礼者」

 それは聞き覚えのある声であった。

 六郎はその声を聞くとともに、眼前(めさき)がくらむようになって立ち縮くんだ。

 そして、気が注いて恐る恐る眼をやった時、南縁の雨戸の締まる音がして、曲者の姿はもう見えないで、被衣のみが沙(すな)の上にふわりと落ちていた。

 無礼者、六郎の耳にはその声がまた甦がえって来た。

 その声はどうしても聞き覚えのある右大将家の声であったが、しかし、それにしても右大将家ともあろう者が、何故に女房の被衣などを着て、しかも、夜陰に曲者のように南縁の雨戸を開けて戸外へ出るだろう、右大将家が決してこんなことをするはずがない。

 はずはないが声はどうしても右大将家の声であった。

 もし右大将家としたなれば、己は主君に二刀まで傷を負わしたから、不忠不義の極悪人となって死なねばならぬ、それも己一人死ぬるなら好いが、父をはじめ一家一門にもその咎めがかかって、人に羨やまれる畠山の家門を恥かしめることになる。

 が、それにしても右大将家が、何故に女房の姿をして外へ忍び出る必要があろう。

 これはどうも奇怪至極なことである。

 どうも右大将家ではない。

 右大将家の声と思ったのは、己の聞きあやまりであろう。

 まさか右大将家ではあるまい、右大将家でないとすると、何者であろう。

 右大将家のお傍附きの女房であろうか、女房にしてはその声が、女らしくなかった。

 彼は刀を持ったなりに雨戸の方へ歩いて往って、右の手でそれを叩たいた。

 「畠山六郎でございます、お耳に入れたいことがございます」

 内から女の声で返事をした。

 それは御台の声であった。

 六郎はちょっと雨戸を離れて立った。

 と、内から雨戸が開いて女房頭の周防と云うのに紙燭(しそく)を執らして政子の顔があらわれた。

 「上様の御傍に変ったことがございますまいか、今ここを見廻わっておりますと、被衣を着た者が、ここの雨戸を開けて出ましたから、二刀(ふたたち)突きましたが、突かれながら、あれなる被衣を落して、また内へ逃げ込みましてございます」

 「それは女房が忍んで親元へまいる処をお前に見咎がめられて、浅手を負うたようであるが、気にする程のことはないから、このことは他へは口外してはなりませぬ、上様は落馬以来、すこし御加減にすぐれない処があるが、今までお話しなされておって、すこしも変ったことはなし、お前は気にせずに、やはり見廻りを大事にするが好い」

 六郎は安心した。

 「は」

 「では、その被衣を執ってもらいましょう」

 「は」

 六郎は気が注(つ)いて刀を鞘に収め、被衣を拾ってさし出した。
(三)に続く

            「頼朝の最後」田中貢太郎著(昭和9年)

頼朝の最後(3)

(三)

 畠山六郎は御台の詞(ことば)によって右大将家をあやめないことを知って安心したものの、無礼者と云った詞が耳の底にこびりついていてきみがわるかった。

 そのうちに正月十一日となったが、その日になって右大将家が病気が重くなったので、出家したと云うことが伝えられた。

 そして、十三日になってその死が伝えられた。

 頼朝が逝去するとともに、頼家が家督を相続したが、朋党(ほうとう)の軋轢に禍わいせられて、僅かに五年にして廃せられ、継いで伊豆の修禅寺で刺客の手に斃れた。

 そして、頼家の跡へは弟の実朝が立って家督を相続した。

 六郎は己(じぶん)が怪しい女房を刺すとともに、扇の要でも除(と)ったように主家の乱脈になったことを考えずにはいられなかった。

 頼朝の死から頼家の家督相続となり、次いで実朝の家督相続となった一方、梶原一族が滅び、比企判官一家が滅び、仁田四郎が殺されると云う陰惨な事件が続いて、右大将家の覇業も傾きかけたのを見ると、己がその罪悪の発頭人(ほっとうにん)のような気がして、恐ろしくてじっとしていられなかったが、御台からも禁ぜられているうえに、事件が事件であるから口外することもできなかった。

 頼朝が未だ病気にならない時、御所の女房頭周防の女の十五になる女の子が、どこが悪いと云うことなしに煩らっていて亡くなった。

 周防は非常に歎いたが、女の乳母の口から、女が生前畠山六郎を思うていたと云うことを聞かされると、女の姿を絵に画かし、そのうえ木像もこしらえて、切通し三間の堂を建ててそれを収めた。

 それは六郎が武蔵の領地と鎌倉の間を往復するたびに通ることになっているので、女の像に時おりその姿を見せて、せめてもの懐(おも)いをやらせようとする優しい親心から出たことであった。

 そして、周防はその堂に堂守(どうもり)の僧を雇うて置いた。

 「どんな地震がしようと、大風海嘯(おおかぜつなみ)が起ろうと、女の像だけは、執り出してくだされ」
(四)に続く

            「頼朝の最後」田中貢太郎著(昭和9年)

頼朝の最後(4)

(四)

 その後、六郎が切通しの坂を通って、新しい堂の前に往くと、きっと、村雨が降って来たり、旋風が吹き起ったりした。

 そんな時には六郎は、馬からおりて家来の者といっしょにその堂の簷下(のきした)へ入って雨や風を避けた。

 ある時、例によって六郎は武蔵の領地へ往って帰りかけていたが、切通が近くなると怪しい雨や風のことを思いだした。

 「また切通しの堂が来たぞ、厭な堂じゃないか、今日は雨かな、風かな、まさかこんな上天気に雨は降らないだろう」

 それは夏の晴れ切った日の夕方であった。

 六郎の馬が前になって堂の前まで往ったところで、馬が不意に物に狂ったように、身顫いしたために、六郎は馬から落ちてしまった。

 「不届者、今度はすることにことを欠いで、馬から落したぞ」

 わかい六郎は火の点いたように怒った。

 「この堂を焼いてしまえ、不届至極の堂じゃ」

 六郎はそう云ってから堂の方へ往った。

 堂の中には年とった僧が一人、眼をつむって坐っていた。

 「こら、堂守の坊主、この堂は何物を祭ってある堂じゃ」

 僧は眼を開いた。

 「これは御所の女房周防殿が、女御のために建てた堂でございます」

 僧は右の方を見返って、仏壇の上に据えた絵像と木像の方を見た。

 「あれが、その絵像と木像とでございます」

 「周防の女の絵像があっても、木像があっても、何時も俺に祟る堂じゃ、今日は焼き払う、その方は早く出よ」

 「それでは、絵像と木像とをお渡しを願います、周防殿の云いつけもございますから」

 「いかん、その絵像と木像とが俺に祟るから、そいつから一番に火をかける、早く出よ」

 「でも絵像と木像とだけは」

 「ならん、出よ、ぐずぐず云っておると、その方もいっしょに焼き殺すぞ」

 「では、是非に及びません」

 僧は仏壇の方にちょっと頭をさげてから、とぼとぼと下へおりた。

 「それ、火をつけろ」

 六郎の家来の一人は、火打ちを出してこつこつ打ちはじめた。

 僧は堂の方を向いて合掌して立っていた。

 火はもうめらめらと堂の簷(のき)に燃えついた。

 その火の傍で六郎の狂気のように笑う声が聞えた。
(五)に続く

           「頼朝の最後」田中貢太郎著(昭和9年)

頼朝の最後(5)

(五)

 六郎はその翌日、幕府に呼び出されて京都行きを命ぜられた。

 それは実朝の御台を迎えに往くためであった。

 実朝の御台は奏聞を経て、坊門大納言信清卿の息女を迎えることになったので、鎌倉では容儀花麗の壮士を選んでそれを迎いに往かした。

 六郎もその選に入ったものであった。

 その一行には、左馬権介、結城七郎、千葉平兵衛尉、葛西十郎、筑後六郎、和田三郎、土肥先二郎、佐原太郎、多多良四郎、長井太郎、宇佐美三郎、佐佐木小三郎、南条平次、安西四郎など云う美男優長の輩であった。

 それは元久元年のことであったが、その十二月になって御台は鎌倉に下着した。

 御台御迎えの一行が上洛した時、一行の宿泊所と定められている六角東洞院の京都の守護武蔵前司源朝雅の第(てい)へ着いたが、朝雅は一行をねぎらうために酒を出した。

 その酒の席で朝雅と六郎が口論をはじめた。

 朝雅は牧の方の腹に生れた女の婿で、六郎とは親類関係になっている。

 六郎はひどく朝雅を罵しってやめなかった。

 一座の者は六郎と朝雅をやっとなだめてその場を収めたが、朝雅はそれを遺恨に思って、牧の方に云ったので、牧の方は時政に畠山親子に逆心があると云って讒言した。

 それは元久二年六月二十二日の微明であった。

 畠山六郎の家へ一隊の人馬が押し寄せた。

 その時六郎の家には主従十五人しかいなかった。

 六郎はその家来を率いて寄せ手と渡りあったが、またたく間に討たれて枕を並べて死んだ。

 武蔵の領地にいた六郎の父重忠も、北条氏のために鎌倉へおびきよせられて途で殺された。

(了)

         「頼朝の最後」田中貢太郎著(昭和9年)

プロフィール

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