nnanami2

癒しの国タイの 怠惰と享楽、酒と踊り、嘘と誤魔化し==日本人医師の啓蒙ブログ==このブログはタイを愛する人が一部タイ人の悪事に巻き込まれてタイが嫌いになってしまわないように 啓蒙することで、余計タイを好きになって欲しい、その気持ちで書いております。従ってタイやタイ人の欠点を書いた場合、一部の、という意味です== タイに13年近隣国に3年。あっという間に過ぎ去った16年間。その後半に書いてきた産経イザブログは2万6千人中、2位~10位のランキングで活躍しておりましたが、イザ廃止の憂き目に逢い、もうブログは辞めようかと・・が、引っ越しツールのお蔭で800タイトルを無事引っ越せたので、また活躍することになりました。ただ、面白知識全集など目次形式ブログではクリックしても無効です。ご面倒でも検索サイトで『タイトル名、nnanami2』で検索して下さい

2010年03月

乾癬を誘発し増悪させる主因の一つは、高度に汚染された微粒子状の汚染物質である。

 

高度な大気汚染物質が静電荷によって皮膚に付着しすると微視的に傷害する。

(また、呼吸器からから取り込まれることで免疫を過敏にする)、これが乾癬体質者の乾癬を誘発し増悪させる。

 

私は、この事を自分自身を対象に深刻な大気汚染のバンコクや環境汚染のない色んな土地で実験した結果、突き止めた。


副題:

乾癬を治したいと決意して、必死の思いで、大気など環境汚染の深刻なバンコクや近郊から、皮膚や体に優しいパラダイスを探し求めて、私は旅立った。

チェンライ→ラオス→サタヒップ

 

以下のブログを、世界の 乾癬友の会 の皆様に捧げる・・・

 

第二話

(多くの写真を準備中です)

 

私は2歳のななみ達を連れて、日本から来た知人の男性(Nさん)と一緒にチェンライ・ラオス紀行へ、私の主催する海外支援医師の会 の“取材専用車“で行くことになった(イスズのバンにキャリーボーイ社のエアコン、オーディオ完備のオプションを付けてランドクルーザー風に改造したもの)。

 

海外支援医師の会は・・・

1999年に創立された時から数年間は北海道の十数か所の特別児童(=孤児)福祉施設や老人ホームなどで活動。次の写真で紹介したように色んなジャンルのプロの演芸師の協力を得て、子供たちのみならず施設のスタッフも楽しく見てくれるようにコーディネート。しかし主役はなんと言っても大学4年生を中心に振り付けも華やかなチャイルドソングの演奏会とお誕生会だった。

最後の写真のマジシャンはテレビでも有名なコタロウさん  

 

その後、海外支援医師の会は海外へと軸を移す。

舞台がタイに変わってからは主としてバンコクで、いろんな孤児施設とか、異色なところでは女児支援施設であるガールズ・ハウスなどで活動をしていた。

 

下の複数の写真はバーン・ク・ノーイでのもの。一枚目の写真は後列右からKさん(有名大卒業後訪タイ、3ヶ月でタイ語をほぼマスター。うちではHPつくりと通訳を)

次はさやか;厳しい教育パパから、当会で活動することを条件に許されて来タイ。エンジェルままとして最適な資質の方だった。3人目はラウムカウヘン大学に通いながら当会でエンジェルママなど幅広くこなす。4人目がク・ノーイ。5人目は私;このころは、当会を異色の存在として印象つけようと、奇抜な色に染めていた(笑)6人目はいろんな施設とボランティアの交渉する秘書のジャッキー。

 

 

 

 

最後の写真はx-mas society(=海外支援医師の会)コンサートを担当して来た ザ・バッチェラーのバンド演奏。子供たちは熱烈に喜んでくれた。

 

 

 

下の各写真は老日本人が孤児院として創立、その亡き後、タイ政府が支援しているドンプラティプ財団での我々の活動

 

 

 

 

1,2枚目は訪問を歓迎するダンス、次は陸軍アカデミー(音楽隊)の軍人・クワーンによる国歌と国王賛歌のバイオリンのあと4枚目のバンッチェラーのコンサートが開幕する、という図式。クワーンはプロのビオラニストの友人と一緒に当会に協力してくれていた。

 

 

演奏終了後は当会主催のお食事会で、子供たちだけではなく、近所のお年よりも招待して楽しい一時をすごした。写真はお年寄りに食事を盛り付けるクワーン

 

バッチェラーは、、忙しい演奏仕事の前の昼間ならという条件で、タンブンとして協力してくれた。上の写真は業務としての演奏の光景

                              

 ガールズハウスは、恐れ多い王族が創立した被虐待女児支援施設で、一般ボランティアは許されておらず、経歴やら資産などの証明書などを出て審査された上で やっと、大きな所長室に我々を招き入れ、かしずかせ、海外向け紹介映画を見させて、そして所長のお言葉を賜った後で、始めてボランティアさせて頂いたのだった。冷や汗がどっと出た記憶がある。

 

まあ、こういう状況で、団員だけなら10数名くらいで活動をしていたのだが、ある出来事が起きた時を境に実働的な活動から、海外邦人とくにタイに移住を目指す邦人への文筆を主にした啓蒙活動へと大きく舵を切ったのだった。

 

 

 

 ある出来事というのが振るっていた。

それは馬鹿馬鹿しいできごとだった・・・タイでは知らない人がいないというほど有名なバーン・ク・ノーイ(元看護婦さんのノーイ先生の家)へも、私は、タイ人と(ボランティアで日本から参加してきた)エンジェル・ママ達を連れて何度も慰問したのであるが、バッチェラーという名の7,8人編成のプロのバンドにも、毎回 協力してもらい子供が大喜びする歌(ミッキーマウスや、熊さんなどの子供の歌)をエンジェルママ達の振り付けつきで演奏していた。最初の頃こそ周りに住む(下層階級?)人たちも物見遊山で観劇にきてくれ協力的だったものの、バッチェラーバンドが張り切りすぎて、その演奏たるや大音量を伴う本格的なものなので、これが災いした。

 

他の施設では広大な敷地に建っているので施設や子供たちからも喜ばれこそすれ問題はなにも起きなかったが,・・・・何しろココは入り口までの20mほどの路地がリャーカーさえ入れない間口80センチ有るか無いか(両側は土の塀)と言うほどの、セセコマシく民家が密集した特殊地域であったため、或る日の慰問で演奏していたとき、近所の住人連中がウルサイといって抗議に押し寄せてきたのだ。

この施設は有名な女優さんやタレントさんがよくタンブンにくるところで、そもそも、あの有名な英国プリンセスがフランスで自動車事故で亡くなった時に同乗していた若い資産家の父親(大富豪)がタンブンによってこのバーンクノーイは創設されたのである。

 

この出来事に私はショックを受け、寄付金のお金以外は余計な世話だったのかと、痛感する事しきり。バンドをセットしたりエンジェルママ達の振り付けや陸軍のアカデミーから友情出演までセットした大作業が、馬鹿馬鹿しいものに見えてきた この忌々しい出来事を、キッカケにすることで、自分に納得させる?形で、この種の活動は辞めてしまったのだった。

 

 とは言え、すべてが、私の気持ち的に、馬鹿馬鹿しくなってしまったかというと、そうではない。某高齢日本人が創設してその死後タイ政府が支援しているお金持ちの孤児院=ドンプラティープ財団の場合などを筆頭に、クノーイ以外の多くの施設では、寄付金やお食事会などに相まって、このエンジェルママの振り付けのついたプロの演奏が評価されて色んな感謝状を頂戴したのだ。

我が会だではなく、バンド演奏に先立ちタイの国歌や国王賛歌などをバイオリンで独演したクワーンの場合は、陸軍アカデミー(音楽隊)所属の軍人ということで、敬意を表して、クワーンさん他、数人も丁重な感謝状が贈られたのだったわけで大いに喜んでもらえたと自負している。

 

次はNさんが里親をするキッカケになったミラー財団の話・・・・・・

 

この辺で元のチェンライ・ラオス紀行に話を戻そう。紀行する最初の北部タイの町としてチェンライを選んだのは・・・

日本に住んでいるNさんの娘さんが卒業したのと同じ大学出身の女性が専門用語で言うなら RM つまり、リレーションシップ・マネージャーとして、チェンライの山岳民族村でボランティア活動をされておられる。そのミラー財団(ムッニーチ・ガチョック=ミラー・ファウンデーション=ガチョックはタイ語で鏡、つまりミラーの意)のお世話で、我が友・Nさんが山岳民族の貧しい子(小学生)の里親をしていて、その里子と会う目的があったのだ。

 

村に行って見て驚いた。私がタイに来た最初の数年間活動していた孤児施設のドンプラティープ財団(ムッニーチ・ドンプラティプ)などとは月とスッポンほども違うのだ。バンクノーイでもまだまだ十倍以上も裕福に見える。なにしろク・ノーイつまりノーイ先生は、テレビなどにショッチュウ出演してはタンブンを仰いでるので、誤解を恐れずに言うなら、お金持ち孤児院なのだ。実際いろんな意味で恵まれている事は、彼女の大福さんか布袋さんのような体型からも一目瞭然だ。

 

それで、私は、ここのような村こそ真にボランティアの支援を必要としているんだな、と冷水を浴びせられたような気持ちになり、RMの彼女やアシスタントのエミさんらの熱意に打たれたのだった。興味ある方は次をクリック

             ミラー財団チェンライ支部

 

      

 

 

 

 

 

 

ココでのボランティアに比べれば私がしていたドンプラティープでのボランティアなんか、金に飽かした道楽の自己満足に過ぎない。バンクノーイの地域の住民からウルサイと抗議されて当然な訳。

 

まずNさんがこの村で初詣の5日間を暮らす事になると言う小屋を見に行った。驚いたのなんのって・・。広さが12畳くらいある内部は全部 黄色の粘土を固めてできていた。土壁に土床。ベッドに相当する壁に近い所に高くした部分も、土を固めて作られており、それも決してまっ平らと言うのではない。デコボコだらけなのだ。この部屋で同じような立場で来ている若者達と一緒にNさんは5日間暮らすという。頭が下がる一幕であった。

 

けれども、私は、何しろ、ほら、あの乾癬という非常に辛い病気の治験(治療実験)の目的を携えての初詣であったので、町の中のホテルに泊まる他ない。2歳のななみと、ラオスでの通訳というに任務がも控えた ななみ の母親のチャンヤー達もまた、チェンライの『非常に仲良しそうに見えた』従兄弟が嫁入りしていると言う家に泊まる事になった。

 

非常に仲良しそうに、と殊更書いたのには訳が有る。このチャンヤーと言う女は、実は誰とでも仲良しになる天才と言っても大袈裟ではないほど、何処の土地へ行っても相手を選ばずモノの1分もあれば直ぐ仲良くなる。ラオスでもラオスの大学生とNさんがペンフレンドになったキッカケの場合もそうだったし・・。

普通にしていただけでも、誰とでも(金持ち、貧乏人の差なく)仲良くなれるチャンヤーがこの従兄弟と特別“非常に仲良し”というのだから、どのくらい仲が良かったかが分っていただけると思う。旅行に行く前から毎日のように電話で、四六時中、会話をしており、それもクスクス笑いや、まるでレズの恋人と話しをしているんじゃないかと、錯覚せざるを得ないほどの大の仲良しなのだ。

まあそのお陰で、私はチャンヤー達に煩わされることもなく、一人でノビノビと、大晦日から正月にかけての数日間をホテルで すごす事が出来たわけだが・・。何しろ私のこの乾癬は、精神的肉体的なストレスでも悪化するデリケートな病気なので、北部タイのきれいでヒンヤリとした空気のなかで≪乾癬が軽快するか否かの実験≫をするには、煩わしい事を一切に排除した環境が必要なのだ。

 

 

 

                             一方二人は従兄弟とお喋りを楽しんだようだ。

下の写真は別々に行動する別れ際に夕食を楽しんだときの写真で、左から二人目が従兄弟。                                      

 

チェンライビーチと言うと、エッ、チェンライに海があったけ?と一瞬違和感覚えるが、メコン川にはビーチだけでなく島もある。この看板の向こう側にメコンがある。

                           3、4枚目の写真はこのビーチの対岸にある断崖絶壁の大きな洞窟に造られた中国寺院。

                                           

 

 

 

4人で行った花のフェスティバル

 

幸運にも出会った、この花のフェスティバルは、以前チェンマイに住んでいた頃、何度も行ったチェンマイ・ラチャプット(=チェンマイ花博)に決して見劣りしない大規模なものだった。

 

目から鼻に抜ける色鮮やかとその香りは何時までも記憶に残るはずだ。

      

 

 

 

 

 大晦日と正月3日日はミラー財団ですごすNさんを除いた我々3人と(ラオスに行く前までは我々と同行することになった)ANNさんの4人はチェンライの年末年始を楽しむことになった。私とななみはホテルで、チャンヤーとANNさんの二人はチャンヤーの従兄弟の家でそれぞれ別に過ごした。

 次の3枚の写真・・・ななみを連れてメンライ大王の前で熱気球のコムロイを揚げでカウダウ(カウントダウン)を祝う恒例の行事を見に行った。

 

 

さて、私たちは、これらの物見遊山を楽しんだ次の日に、ミラー財団に行ってみた。おやっ、誰もいない・・・

 

部落の住民に聞くと、Nさんらは、山岳地帯にある有名な国境の山岳民族村プー・チー・ファーに、ミラー財団のミニバスで行ったと言う。

 

この町は昔から、正月の初日の出を見る場所としてタイ人には知られている。タイに来た当初から私はこのことを知っていて、かねがね行って見たいものだと思っていたが地図で探すと、この村は、実に、北部タイの東の最果ての辺境にあった。そのせいで、ついぞ機会に恵まれなかったわけであるが、今こそチャンス到来と ななみ だけを連れてチェンライから150キロ離れたこの辺境へと“道に道を継ぎ足して”向かったのだった。なにしろ最果ての辺境の村なので、直線的に行ける訳ではなく、それどころか斜めに走る数十もの悪路を継ぎ足して行くほかない。

 

村からあと十キロという箇所にかかったときなど、道が急峻な悪路(もちろん土の道)となっていて、2輪駆動ではズルズルと滑るのだ。もしこれが10キロも続くのなら、もう中止にしようかと躊躇した位の悪路だ。駆動スイッチを通常走行の2Hから、4Hを通り越して4輪固定4駆の、4L走行にしてやっと走れる道だった。

幸いにして2,3キロほど走ると道は大分よくなってきた。いろんな山岳民族村を通り過ぎて、遂に私と ななみ はプーチーファーに到着した。なるほど有名なだけあって、数百かそれ以上もの車が各地から初日の出を拝もうとやって来ており村の頂上に行く入り口の検問所では非常の混雑していた。それで私はその近くにあるお土産売り場と見晴台での初日の出で満足することにした。ただ、見晴台までの2キロの道を、ななみを連れて歩いていると、大変時間がかかり事が分かり、この分では付いた時は暗くなって帰り道が危ないと判断。1キロ先の見晴台には、見物客が鈴なりになっているのが前方に見えたのだが・・・安全の為、潔くあきらめて引返したのだった。

 

 この続きと写真は第三話 をご覧ください

 第三話

 

海外支援医師の会

トップに戻る

 

 

 

主因を求めてチェンライ~ラオス~サタヒップ 第一話

 

それは(主因の一つは)、高度に汚染された微粒子状の汚染物質であった。

 

高度な大気汚染物質が静電荷によって皮膚に付着しすると微視的に傷害する。

(また、呼吸器からから取り込まれることで免疫を過敏にする)、これが乾癬体質者の乾癬を誘発し増悪させる。

 

私は、この事を自分自身を対象に実験した結果、突き止めた。


副題:

乾癬を治したいと決意して、必死の思いで、大気など環境汚染の深刻なバンコクや近郊から、皮膚や体に優しいパラダイスの地を探し求めて、私は旅立った。

チェンライ~ラオス~サタヒップ

 

以下のブログを、世界の 乾癬友の会 の皆様に捧げる・・・

 

 

第1話

私は幼少時からの持病である脊椎分離すべり症の腰痛や(頻繁に起こる)歩行困難などの多彩な症状と、更に追い討ちをかけるかの様に、高速道で追突事故に遭い、その重い鞭打ち症による項部痛と頭痛、肩から腕に抜ける突き刺すような放散痛、頑固な肩こり症などに、日夜苦しめられていた。それに気丈に耐えながら、私は、某大規模病院の、医者として又経営者としての激務を辛うじて全うしていた。これらの症状、とくに後者の鞭打ち後遺障害は、普通は年数の経過と共に次第に軽快していくと思われているが、私の場合睡眠はもとより、昼食や夕食さえも満足に取れたためしの無いほどの過労と、重い責任からくるストレスのために、軽快するどころか年を追うたびに悪化の一途を辿っており、それらが頂点に達した或る年に、私は命がけの決断の末、遂に病院を処分して引退を決意、、晴れて、と言うべきか、やっと、と言うべきか、積年の重責や苦痛から解放されたのだった。


 

私は医者を引退して病院をたたんだ後、3年くらいの歳月をかけて彼方此方に散在していた恒産(恒産があれば居住者とみなされる)を完全に処分することによって、日本の真の非居住者※となり、シンガポールのプライベートバンキングに口座を開き、海外居住のシンデレラ・ボーイ、いわゆる自由な個人投資家としての道を歩み始めただのだが、欧米の富裕層では常識になっているパーピチャル・トラベラー(=国籍国の非居住者となって、A:=所得を得る国、B=居住する国、C=旅行や人生を楽しむ国 などを、国籍国とは関係なしに、それぞれに最も適した国を使い分けて多国籍に暮らす人たちのこと)に習い、私もまた シンガポールでの投資所得と言う海外所得に対して非課税のタイ(タイ王国の税法に基づく)に移住した。

以下の※の青い小文字の部分は非居住者に関する専門知識につき

真の非居住者を目指している方以外は読まなくても結構です。


 納税義務を免れる目的で、海外に住んで日本の非居住者になる方法は、税額が数百万円単位までの納税者の場合は、単に役所に行き『これから何々国に居住するから住民票を抜く』と言えば、それで完了だ。申請書にその旨記入して3分で終わる。しかも国名だけで、住所さえ要らない。日本に恒産や妻・子・家屋などを残していた所で、税務署も(割に合わないので)課税しようと裏を取ったりはしない(タレ込みがあれば職務上、無視は出来ないので別だが・・笑)。


 

しかし高額所得者の場合はそうは問屋が卸さない。税務署は税金を取るのが商売、何としても税金を取りたいのだから、事実上の非居住者の方であっても、世界に悪名高い『みなし課税』と言う日本独特の所得税法の細則の省令という強引で便利な手を使って、捕獲してくるから恐ろしい。


 

みなし課税を され得ない真の非居住者になる為には・・・・

日本に妻・子は勿論の事、今まで住んでいた家・思い出のアルバムなどを、そのまま残して置いてはいけない。また一時帰国しても年に183日以上滞在してはいけない。

あなたが高額納税者ならば、アルバム一つで課税される場合もある・・・・・

・・・・・『あなたは何々国に移住していたなどと主張するが、実態1時的に海外で長期休暇、または長期滞在を楽しんでいただけにすぎない。長期休暇が終われば いずれ日本に帰ってくる手はずだった。そのことは、あなたが親類のAさんの家に、『帰国するまで預かってください』と言って、大切な思い出の品々を、日本に残していた事からも明らかだ←国税不服審判所の某審判例 。とんでもないコジツケだが、そう看做されたら、後述のように、打つ手が無いのだ。いわんや、住んでいた家を売却するとか人に賃貸したりもせずに、そのまま残して来たり、妻か子など残すのでは、全くお話にならない(笑)


 

(実例)香港に家を買い、家や妻子を日本にのこしたまま 単身、日本の住民票を抜き、香港の居住権を得て居住していた武富士の御曹司は、日本の居住者とみなされ加算税も含めて生前相続額1800億円の95%を徴収された。またハリーポッターの日本における翻訳の印税収入が3年で約60億円にもなった翻訳会社の女性社長・松岡さんは、日本の住民票を抜いた上でスイスの永住権を正式に得てスイスに住み、日本より遙かに安いスイスの所得税を払っていて、すっかり日本の非居住者になった“つもり”でいたが、何と4年目に居住者とみなされ、課税され­た。ありていに言えば、無申告加算税が3年分(4年分では時効に近づくので通常は3年)も貯まるまで“泳がされていた”わけで、結局、加算税を含めて70%近くも徴収された(スイスに払った税金分は差し引いて)。


 

松岡さんは国税不服審判所に訴えたが・・ここの審判官(裁判長に相当)も検察官役もすべて国税庁の人間なので不服が認められた例は(某誌によれば)0.1%もないらしく彼女の場合もご多分に漏れず結局、却下された。松岡さんが社長になっている翻訳会社を残したままにしていたのがその根拠だった。松岡さんがすっかり日本の非居住者になったと思い込んでいた訳は(武富士の御曹司の場合も同様であるが)、国際課税に無知か無能な税理士、または国税庁上がりの税理士(税理士国家試験の大半が免除)で何らかの弱みを握られているために媚びを売らざるを得ない立場の税理士を使っていたためらしい(以上、某誌)。税理士の資格は国税庁が所轄官庁なので、資格の剥脱も極端な話し裁判なしで所轄内で出来るためだ。うっかり,こんな輩に顧問税理士を依頼すると酷い目に遭うのが落ちだ。


 

とにかく、ミュージシャンや自由投資家など懲罰的な高累進課税の日本を離れて海外に逃避する事例が増えている昨今、税務署も神経質になっているので、海外で高額所得がある人の場合は、ホンの僅かの落ち度でもそれをネタにこじつけて来る、ということを忘れてはいけない(日本に所得がある人は非居住者であっても居住者と全く同じ納税義務があるのは当然です)


 

最初の3年間はバンコクに住んでいた

その3年目の頃、背中の腰椎(第三腰椎)の中央に直径2,3センチ程度の小さな(1ミリほど隆起した)銀色の斑点が出来た。小さすぎてまったく気にもしていなかったが、これが私の尋常性乾癬の始まりだった。


 

尋常性乾癬は銀色の鱗せつを被った大小様々の斑点が全身に出来る慢性の難治性の皮膚病で、命に別状は無く、自己免疫疾患なので感染はしないが その異様な外観のためサウナ、プールなどへは到底行けなくなる。周囲の人からエイズや伝染病と誤解されて差別されるため生活が一変する病気となるだろう。


 

以下の最初の・・・から最後の・・・までの小文字部分は、乾癬の最新の治療法など。

興味ない方は無視してくださって結構ですので

 ★■ の部分に飛んでください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・

リンパ球T細胞が過敏になって本来なら病原微生物など攻撃するために出すサイトカインの

TNFα異常のない普通の皮膚※に対して出して攻撃する。

私が疑問を持ったのはこの※の下線部分だ。

本当に何らの異常もないのか?

何らかの異常、例えば高度な大気汚染物質が静電荷によって皮膚に付着し微視的に傷害すると

免疫が過敏な体質の人は、この部位の皮膚をサイトカインが攻撃するはずだ。斑点の周りを爪などで

掻くと、そこも乾癬の斑点になるというケブネル現象(後述)はそれを示唆している。私はその事を自分

自身を実験台にする事で明確に確認したのだった。この実験結果などは後で明らかにしていく予定だ。


 

そのため、その部位の皮膚の皮膚新生サイクル(皮膚がカスとなって剥脱してから新たに作られるまでの期間)が正常だと45日かかるのに、たった3~4日で剥脱~新生を繰り返してしまう。猛烈に速く、その部の皮膚が新生される為、皮膚が銀色の鱗せつ状に1ミリぐらい盛り上がって、次々と剥脱を繰り返す。また、その部の毛細血管は、猛烈に速い皮膚の新生に追いつかないので、その内部の毛細血管は閉じ込められるので、ちょっと爪でかいただけでも出血する(アウスピッツ現象)。、痒みは、非常に強い人から殆どない人まで多様だが、痒くて周辺を爪でかいたりすると周辺の皮膚が傷害され、リンパ球T細胞などが、同じ敵が侵入したと判断して、その部分まで乾癬が拡大する(ケブネル現象)。

乾癬の原因は、ある程度の遺伝的素因があるなどの他は、未だ余り解明されていない。

主要な対症療法として

1.最強のステロイド軟こう(副作用=皮膚の萎縮、ステロイド塗布を止めた場合の増悪またはリバウンド、副腎皮質の萎縮など)、1週間で100gまで

2.角化抑制剤:活性ビタミン3の角化抑制作用を100倍に高めたもので、デヴォネックス(DaivonexREO社)などが最も優れている。血清カルシウム値が上昇するので1週間で90gまで。

3.紫外線UV-B照射も乾癬部の斑点を抑える。フィリップス社から乾癬などに専用に作られた、手の平サイズのUV-B照射機がでており、某販売会社から通信販売で何処の国の個人使用者にも送ってくれる。約8~900ドル

4.免疫抑制剤。

5.最近、日本でも早く認可して欲しいと3万人分の陳情が出されたTN阻害剤は2~3ヶ月に1回程度、点滴静注するだけ(アダリブマブの場合)で、乾癬の苦痛から開放され、本命とも目されている治療法だ。しかしながら、本来、病原菌や異物を攻撃する大切なリンパ系免疫システムの一部を抑制するので、(4.の)免疫抑制剤もそうであるが、重篤な感染症やガンを誘発して死亡した例があるので医薬行政も認可するには至っていない(欧米では、患者が多いのと大人の国民性として自己責任の鉄則が貫かれている等の理由でかなり以前より認可されている)。私のは軽症の部類に属する上に、この病気は外観の苦痛だけで生命に別状はない病気だから、到底使う気にはなれない。

6.この外、ストレスを避けて睡眠を充分にとり、禁煙と酒は控えめにして、欧米流の肉食中心の食生活を野菜中心に変えると良いとされるが(欧米人の罹患率は5%。それに比して日本人は0.5%)。最近、1日に5グラム以上の魚脂由来のオメガ3系の脂肪酸であるDHA,EPA含有のサプリメント(さんま、さば 換算なら4~500g)を摂取すると効果があると報告されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

しかしながら幸いにも、私の場合は、発症後直ぐ偶然にチェンマイに引っ越したのだが、チェンマイにいた3年間の間、全く薬も使わないのに何故か、背中に出来た斑点が1つだけのまんま、悪化することもなく、3年間ずーと そのままの状態だった。時おり、他の部分に非常に痒い、1ミリ程度の小さな赤いポツポツが出来る事があったが、数日で消失してしまう程度だっだ。


 

その後 子供が出来たので、子供を日本語幼稚園に入れる目的から、再度バンコクに戻ることになり、日本人駐在員の多く住むスクムヴィット地区の外れのエカマイに引っ越した。

すると、1年半経過後に突然、胸からお腹、両足、背中に赤色と銀色の大小様々の斑点が散布したように発生し始め、それは日増しに酷くなって行った。最初の頃はスクムヴィット病院で投与された(副作用も強い)最強ステロイド軟こう(デルモベート)だけを塗るしかなかった。私は、もっと良く効くデヴォネックスとの併用を望んだのだが、三十そこそこの、美人だが無愛想で、一見 軽薄そうな女医から、『これより良い薬はない』と思う、と冷たそうに言われた。それで、タイで最も大きな皮膚科病院である国立皮膚科学研究所の付属病院の存在を、藁(わら)をもすがる思いで探し当て、そこならばデヴォネックスが手に入るに違いないと、行って受診したのだった。その目的は、単に(アダリムマブなどの抗TNFαを除いたら)最も良い特効薬とされるデヴォネックス軟膏を手に入れることにあった。

その理由は・・医者としての心得のある私にとっては、この病気の治療は病院での指導で治す、と言うよりも、良い薬がほしかったからだ。そのころ私は、ステロイド軟こうだけでは、どうにもならず(連用すると皮膚が萎縮するし、止めると増悪する)、この特効薬を何とか手に入れようと、大きな薬局を何店も何店も車で回って探しに行ったのだが、特殊な薬のため何処にも置いてはいなかったからだ。


 

で、その付属病院に行ってみて驚いた。

夕方の部の診療を受けに行ったのだが・・・すでに、その夕方診療(5時から)を受けようと同じ乾癬の患者さんも多々雑じっている2百人以上もの人々が、門前に市を成す、かの様に並んでいたのだ。 バンコクにはこの種の皮膚病がとくに多いんだな、と私は感じた。


 

私は並んでから、3時間も根気よく待っていたが、私の前には未だ百人以上もの患者が・・・。参ったなぁ!これは地獄だ、これでは診察が何時になるか分らない、などと思い始めた丁度そのとき、医者としての常識から、あるアイデアが閃いた・・“大きな病院のそばには、その病院で使う薬を置いている処方箋薬局が何軒もあるものだ”当然 特殊なデヴォネックスも置いてあるはず。

そう狙いをつけて病院を出て近くを探すと・・・・ピンポーン!ばっちり的中。

アルわアルわ、大きいものだけで、3軒も有った。その内の一軒に入ると店員の一人が すかさず私に何が欲しいのかと聞いてきて、ああこれねと言う風にまるでそこらのカゼ薬であるかのように、すぐ目の前にぽんと出して来るではないか。

数ヶ月間の間 乾癬の軽快を冀(こいねが)って、探し求めたデヴォネックス。これを何んとまあ、雑作なく出してきたわけだ。こちらとしては、息を呑むように、いや清水の舞台から飛び降りるような気持ちで『デヴォネックスはありますか』と尋ねてたのに・・。価格も30gで550バーツ。ライセンス生産の日本の帝国製薬のドボネックス(タイではグラム160バーツ)より本家のスイスREO社のデボネックスの方が遙かに安い。(なお、3軒とも同じような値段だった)

むろん、それと併用すると相乗効果が増すデルモベートも置いてあり、これなど、スクムヴィット病院で投与された価格の4分の1の安さ(ス病院では100g入りが3000バーツ=診察料代など含まない薬だけの価格=なのに、これらの薬局ではどこでも700バーツ以下)なのだ。私は喜び勇んでそれらを大量に購入したあと、私を苦痛から(かなりの程度)解放してくれるであろうと期待された この特効薬にめぐり遭えた幸福を祝う乾杯を、チャオプラヤー湖畔のシーフードレストランで上げてから、10時頃 帰宅した。

すると暫くして付属病院から携帯に電話があり、あなたの番です速く診察室に入ってください、と。時計を見ると何とまあ、10時半を過ぎていた。私は相手の看護婦に、

『 すみません、急用が出来たのでキャンセルさせて頂きました。また次回に行きます』と嘘をつかざるを得なかった。真実を言えば、気を悪くするだろう。


 

以下、第2話に続く

 

Copyright is reserved.When making quotation  of part or total of these blogs,the sourse must be written clearly with this blog name and URL.

 

海外支援医師の会

トップに戻る

 

 

 

バンコクの悪名高い大気汚染で発症した私の乾癬の治癒を目差して、きれいな空気(そして願わくばパラダイス)の土地を求めて私の旅はなおも続く・・・

 

 

副題:遺伝などの素因がある人の乾癬を誘発・増悪させる一因は、大気汚染である(※巻末)!

そのことを突き止めるため、私はタイ北部~ラオス~サタヒップと、広大な車の旅を続けた。

  ・・・・・世界の乾癬友の会の皆様に捧げる・・・

 

第5話

 

ラオスのイミグレーションを出るとそこは、まだビエンチャンではなかった。ビエンチャンはイミグレーションを出て突き当たる国道を20キロm弱ほど北西方向へ走ったところにある。写真首都の地図

 

 ビエンチャンは中国語地名では万象(一万頭の象)と書くが、ラオス語ではウィアン・チャーンといい、ウィアン(チェンマイ語と同じ)=ムアン(タイ語)=都、チャーン=象、なので、象の都と言う意味からきている。

 

 我々の車は2,30分で首都のビエンチャンに着いた。それは思った以上に小さい街だったが、ナビはタイのナビしか持参していなかったので、当然画面は空白になっている。それで、小さいとはいえ勝手が分らない(もともとラオスのナビ地図は作られていないはず)。そこで、主たる道路を次々と走行しながら交差点などの地点や(紙地図に載っている)有名な建物などの地点に来る都度、画面に記憶させるという方法でプロットしていくと、ものの2時間もしないうちにビエンチャン市内中心部の道路地図が出来上がってしまった。それくらい規模的には小さい首都だった。

 

我々3人と赤ちゃん2歳は、(市内を走りながら地図を作っていた時、目ざとく見つけておいた中級ホテルと手ごろそうなシーフードレストランにチェックインした。ホテルはセミダブルのツインで1200バーツくらいなのだが、フロントマンは宿泊人数が3人だったら1600バーツだと言い変えたが、『朝食が付かないのなら2人でも3人でも料金は同じはずだ』と主張すると、それでよいという事になった。タイやラオスでは朝食が付かないのならツイン部屋を3人で使っても料金は同じことが多い。タイやラオスでは地元に人にとっては1000バーツそこそこ、といっても安くはないので、一つの部屋に6人くらい入るのをよく見てきたことがある。尚ラオスでは全国何処でもタイバーツが使えるし、その方が喜ばれる。50、000キップ(ISK)が丁度200バーツ(THB)だ

と覚えておけばよい。写真ラオスの単位ラオスキップ(ISK)とタイバーツ(THB)

 

こうして部屋を確保して置いてから我々は前述の場所へ食事に出かけた。ラオスの飯が、辛いのが苦手な日本人に向いてナカナカ美味しい事は、去年イミグレーションの近代的レストランで体験済みだ。このシーフードレストランで我々は、魚、海老、野菜炒めなど5皿くらいとビア・ラオ(ラオスは英語圏の発音表記であって、ラオス、東南アジア、中国ではラオスではなく、ラオという。地図にもそう書かれている)そのビア・ラオを3本も飲んで、トータルで僅か8百バーツくらいだった。非常に安いという印象だ。とくにビア・シンそっくりに創出されたビア・ラオはビア・シンとほとんど同じテイストで、半値以下だ。前出の政府直営の高級(?)レストランでも40バーツくらいだった。大雑把な計算だが、ビールや食事の物価はタイの半分くらい(?)かと思う。ななみ も、日本人向きの味付けのせいか、ラオスのシーフードが大いに気に入ったようで、テーブルや床に料理を目茶くちゃにコボシながら、お腹が一杯になるまでホウバッていた。折角の写真だが・・、あまりお腹が空いていて飲み食いするのに夢中で、撮るのをうっかり忘れてしまった。

 

さーてと、この辺でチェックビンと行きましょうか・・・・私は、値段の安い高いに関わらず、チェックビン(=Check bill=billのエルを、タイ人はンと発音する=勘定をお願いします。なお、食堂風の場末の店ではゲップ・タンという)の際には文字とおりチェック・ビル、つまり 請求書を 『ちゃんとチェックする』習慣にしている。

それは何となく気恥かしい気持ちが付きまとう嫌な作業だが、この(気恥かしいという)間違った気持ちから卒業するにはタイで最低9年間は(誤魔化された)経験が必要だ。タイでは外国人がレストランに入ると高級、庶民的に拘らず、大抵 従業員がグルで(店主には無関に)、2割増しくらい護摩化してくるものだが、その根底には、『欧米日の自分の国では代金が倍はする』のだから、これくらいボッタって全然悪い事じゃないという、悪しき本能がある。

この店でも大半はメニューどおりの請求だったが、ただ・・・メニューに書かれていない白飯(ライス)の値段を1皿50バーツ(普通は10バーツ程度)に水増しして、3人分で120バーツくらい水増し していた。なるほど、こう言う手が有ったのか!メニューに書かれていなくても、白飯なんて普通は10バーツくらいのはずだと思っていたが、メニューに価格記載がないから、文句の言いようがない。

 

しかしまあ、適当な加減でボッテてくるタイの店員に比べたら、数字的に文句をつけられぬようにボルのだから、タイ人ほど図太くない分だけ、大人しい。タイでもそうだが、中国、東南アジアでボラれたくなければければメニューに価格表示がないものは予め確認しておくべきだ。(私の親友で、2割くらいぼられても施し程度に考えて笑っているパタヤ・リピーターの たいした お大尽がいたが・・)

 

我々は翌朝、有名なラオスの凱旋門に向かった。

 

 

この凱旋門は、フランスの植民地時代に、フランスの凱旋門に似せて作られた本格的なもので、以前パリで学会があった際に、行って見た時と比べても、大きさは劣らず、むしろ逆に こちらの方がずっと親近感があってよかった。

 

内部は3階まではお土産物売り場が並んでいて、誰でも入る事ができて、どの店にも色とりどりの品物が所狭しと積まれていた。値段はみなとても安いという印象だ。

 

 

 

私は2階と3階のお土産物売り場を回ってベトナム戦争時代のラオスの米軍兵士たちの写真を見つけた。私は医学生時代、学生紛争でアンポー・ハンターイ(安保反対)を叫んだいわゆるラジカルスチューデントだったのだ。

写真 凱旋門6枚

 

私はニ、三点の買い物をした後、凱旋門の大通りに停めた車が心配になって来て、一人で見に行ったのだが、凱旋門の周囲の4つの大通りが、広大な上 四つ共にそっくりだったので、停めた所が分らなくなった・・・それとも警察に持っていかれたのか。急に不安になって10分もの間 汗だくで走り回ったのだが、やっと見つけた時には、心から安堵した。

写真停車禁止に車

 

なんと黄色に白の停車禁止場所に、長々と駐車していたとは!後日ラオス北部からビエンチャンに帰ってきたときわずか1分間停めただけで輸出証明書(走る時絶対に必要)をポリスに奪われそうになったことを思うと、『メクラ蛇に怖じず』だったわけだ。

 

現場に帰ってくるとチャンヤーとNさんが若い女性と楽しそうに会話している。誰かなと思っているとビエンチャンの大学に通う女子大生だそうだ。彼女は、Nさんが独身(と私は思う)の日本人だと知ると、さっき撮ったばかりの写真を送りたいから住所を教えて欲しいと彼女はいう(なるほど、こういうノウハウがあったのか!うぅん、残念!これなら若いとき奥手だったオイラにも使えたのに・・えっ?)。

 

実際彼女から、写真と、(文通したいと英語で書かれた)手紙が、日本に送られてきた時、Nさんは驚いたそうだ(・・ふふふっ、よかったねNさん)。昔はタイでもこのような出会いは珍しい事ではなかったが、欧米流の拝金主義がタイに運びり出すと、流石に あっと言う間に 消えてしまった。今のタイで、もし、こういう出逢いがあったら・・強力な薬の入った飲み物を出されはしないかと、注意するのが落ちだ。

 

 我々は、この凱旋門で1時間あまりを過ごしたあと、ビエンチャンの、他の観光スポットは北部旅行から帰ったときに行こう、と言う事になり、我々は、凱旋門を後にして、国道13号線を北に向かったのだった。13号線はれっきとした幹線道路だが、凱旋門からほんの10キロも走ると言うと、もう、2車線有るかないかという片側1車線の田舎道になった。一応舗装はされているが狭くて凸凹だらけのため、トラック、バスのような大きな対向車がきたときはヒヤッとするほどだ。

 

しかし これでも未だ良い方だ と言う事が、後日 ルアンパラバンからの帰途、(趣向を変えて)違う国道を走ったときに、分ったのだった。

その違う国道は、何処まで走っても 行けども行けども土の道路だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しかし!人間万事塞翁が馬。道が悪路だったお陰でその道の先で素晴らしい幸運に出会ったのだった(独身の男女の方は、乞う・ご期待)。

 

凱旋門を出発してから3時間、街道沿いにぽつんとあった 鄙(ひな)びた食堂に立ち寄って食事を取った。タイなら、田舎の あばら家的な食堂と言った佇まいだが、ラオスではビエンチャンとルアンプラバンを除いて これが定番の“レストラン“だ。

 

ここでのご飯は、結構、美味かった。食中毒防止というよりも、体力を養うために!付いてきた香菜を全部 頑張って平らげた(薬のような味だから)。写真4枚

 

 

みんなで相談して、後々の為に、あまり無理をしないで体力を温存した方が良いという事になり、このあと3、4時間ほど走ってから、街道沿いの異様に大きな平屋建てのリゾート風ホテルにチェックインした。晩飯は、ホテルから2,3キロ、街道沿いの比較的小きれいな中華系の店で取った。ここでも矢張り、ビールはビア・ラオだ。自家用車旅行の醍醐味は、足が自由なので、自分の好きなホテル、本当に入りたいレストランなど を 気に入るまで探せることだ。

 

飛行機などで行った場合、こうは行かない。なるほど行くのは早くて楽かもしれない、しかし着いてからが不便だ。ホテルやレストラン一つ探すにしても運転手の考え一つで無理やり決まることが多く、その上、運転手とリベート契約を結んでいるホテルやレストランに連れて行かれたりする。私がなるべく自家用車で行こうとするのはこのためだ。欧米諸国や中国、バリなどには飛行機で行くしかないが、その場合でも必ず、現地でレンターカーを調達する。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の治験の旅は、乾癬に関する次の私の仮説を実験的に立証する為である・・・・

 

仮説

大気汚染物質の微粒子(排気ガスや工場排煙などの煤煙や窒素酸化物、亜硫酸ガスなど、非常に複雑な物質を含む大気汚染の微粒子)は静電荷を帯びて皮膚に付着し、汗などに溶けて複雑な有毒過酸化物質となり皮膚を微視的に傷害する。すると、乾癬の斑点を痒いために皮膚を掻いた場合、掻いた部分も新しく乾癬の斑点になるという《ケブネル現象》が、汚染物質よって傷害された皮膚にも起きて、乾癬の微小斑点を引き起こす。するとその部の皮膚は皮膚の生まれ変わる速さ(正常では45日間)が3,4日と猛烈に速くなるため(すでに立証されている事実)、その部および辺縁の皮膚の角質や毛細血管が極度に弱くなるため、同じく汚染物質によって更に広く傷害され斑点が拡大するという悪循環を繰り返す。

 

Copyright is reserved.When making quotation  of part or total of these blogs,the sourse must be written clearly with this blog name and URL.

 

海外支援医師の会

トップに戻る

 

 

 

タクシン派のデモに関するTVや新聞によるニュース報道は、私が察する所、最近、強く規制されているようだ。いやそれ以上に事実と違うようにも、思える。なぜなら、TV,新聞ではタクシン派の主たる支持層の農民達は、農耕作業へ復帰する必要から、いつまでもデモを続けるわけに行かないために、デモは急速に求心力を失ってしまった、などと言う論調が多い、とくに弱小紙ほど○○の圧力を恐れてその傾向が強い、と私には思わざるを得ない状況なのだ。

 

例えば電子版バンコク週報などは以前にもニュースへの読者の投稿が、政府批判に傾くのを嫌って、投稿者のIP記載を義務付けられた事もあり、タクシンが、アビシットが退陣するまで行う、と宣言した一連のデモについての報道は、著しく事実と異なっているようなのだ。

何故そんな事が分るのかといえば、タイコムと言う昔タクシンが打ち上げた衛星が流すチャンネルは130チャンネル余りあるが、その中の124チャンネル(Dステーション)は、主としてタクシンのニュースを流し続けており、それを見ている限りでは、急速に求心力を失ったという事など、あり得ないように思えるからだ。

 

毎日、農耕に復帰する為に帰省する農民たちの代わりに新しい農民達が車やバスや汽車でやってきてデモ後進やらデモの演説会場広場にやってきている。バスや汽車はタクシン派の事務所が払うので無料だ。

 

デモの広場では、毎日(私が、ざっと見わした限りでは)おおよそ4万人くらいが終結している。そこでは、デモ参加者のマンネリ感を防ぐ為、色んな工夫がなされている。例えば、歌手による下層階級の悲哀歌とか団結感を高める労働歌とかを、バンドの演奏付きで歌ったり、プロの人たちによる同じ目的の漫才ないしはお笑い劇を演じたりと・・・結構、面白そうなのだ。

 

デモ参加者へのインタビューに登場するインタビュアーには好感が持てそうな美人アナをつけるとか・・・。タクシンはタクシンで、画面に大きく登場。上流階級の犠牲になって来た上流階級の数十倍もの人口を占める下層階級の心情を扇情するために、彼らが現在置かれている非常に貧しい不幸な環境を口角泡を飛ばす大声でぶち上げる・・かと思えば、かってタクシンが行ってきた農民達への30バーツ診療制度が現政権によって奪われてしまい月平均500バーツも掛かるので農民達は病気になっても病院にもかかれないのだ!と言ったような現政権への批判をぶち上げたりして、あの手この手の作戦で、デモ参加者の気合を引き出そうとしている。

 

報道が強く規制されたり押し曲げられたりする時代は、末期的症状が近づいている場合がある(例えば戦前の大本営発表)

 

註:上記ブログは全く個人的な偏見に基づいて書かれており、普遍的な事実ではありません。

註:以前 枢密院の議員が、アビシット政権や枢密院への批判は不敬罪に値すると(議員立法で)通そうとした事があります。

 

 

第四話

大気汚染のないパラダイスを求めてチェンライ~ラオス~サタヒップ

 

ミラー財団チェンライ支部(チェンライの山岳民族支援団体)を後にしたNさんと、私たちのグループは、正月の4日にチェンライの町外れにある財団の民宿で合流した後ラオスに出るためタイ東北部最北の町ノンカイへと向かった。直線的には300キロしかないがラオス領がグッと入り込んでいるため2倍の600キロはある長距離だ。二人ともお腹にグッと力を入れて運転を交代しながら2車線の国道を飛ばして行った。 

写真-3

ANNさんとチャンヤー:

一方、本日まで私やチャンヤーらと行動を共にしたANN(エン)さんは、バンコクでの新しい仕事のために我々とチェンライで別れて、エアコンバスでバンコクへ帰って行った。

思えば彼女つまりANN(エン)さんはチャンヤーのビデオ教材による日本語勉強の監督と、チャンヤーに欠けているコモンセンス(常識)、両親による暗示的束縛(親離れしていない)からの開放、この3つの家庭教師として、バンコクのプリムローゼ・マンションの自宅に通って(通勤して)貰っていたのであるが、それにしても、よく3ヶ月間も辛抱してくれたものだ。ANNさんは短期大学を出た後、ペッブリー通りのヤマハ(給料は9000バーツ)に事務員として勤務していた人で、パタヤのラン島で、後に親友になったパタヤ・リピーターの新井さんと言う方と一緒に来ていたときに出会ってから、頻繁に色んな観光地に旅行したものだ。

 

写真カオヤイとシーチャン島 タールアパタカーン

 

先の世界経済危機の不況で勤務先のヤマハーから人員整理されたのを機にチャンヤーの家庭教師をお願いすることになったのだった。

 

チャンヤーと言う人間:

 

チャンヤーという人間は、私と出会ってから3年間たつのだが、何度も、語学学校へ通わせたり、家庭教師をつけたり、自学自習のための様々な日本語教習ビデオなど揃えるなどしたのだが、5年前に一癖も二癖もある変な日本人たち※から教わったブロークンな日本語のまんまで、まるで変化がなく ちっとも進歩しなかった。

最初の頃はチェンマイで、ポーさんと言う29歳のタイ女性を家庭教師に付けていた。この人は、母親が日本人と結婚していた関係で東京家政大学に入学して、そこを卒業後にタイに帰国、37歳のオランダ人(オランダでシステムエンジニアをしていた人)と結婚して一児をもうけた母親で、日本語がペラペラ、とても上手い。

ところがその先生曰く『チャンヤーさんは、話して楽しい人で大好きだけど、教えるのは頭が痛い。何ヶ月教えても、教えたその瞬間だけは その通りリピートするが、翌日には元に戻ってしまう。何ヶ月教えても、その繰り返しで、全く進歩がない。これで給料を貰うのは辛い』と辞めてしまった。

その後は、仕方がないから日本語教材を1時間勉強したら300バーツ上げると言う奇策で自学自習をしてもらっていたが(いざ実会話となると応用が出来ず元のまま!!、ではあったが それは良しとして)、それも数ヶ月ほどは続いていたが、何時の頃からか本人が勉強が面倒くさくなって止めてしまった。

 ピアノを我流で覚えると悪い癖が付いて直せなくなるというが、それと同じで、5年前に初めて出会った日本人の恋人たちの会話を、見よう見まねの体得した時に付いた癖がどうしても取れない、というわけだ。果たしてANNさんもまた、ポーさんと同じ事を言ったわけで、チェンライへの旅はチャンヤーとその先生の彼女にとっては、いわば、最後のお別れのパーティの意味もあったのだ。

 

チャンヤーと言う人は、老若男女、地位の高低に関わらず、初めてであった人と直ぐ仲良しになれる特技がある。一種の天才だといっても私にとっては言い過ぎではない。天才には天才バカ(タイ語ではアジャリヤ・ブッコン)と言う言葉があるように、その天才以外の能力は極端に劣ることがある。この人にもそれが当て嵌まる。その最たるものは『バカバカし過ぎるほどのお人好し』な性(さが)だ。誰でも直ぐ信じてしまう。疑うという事を知らない。

 

有り金全部騙し取られた老邦人の話:

 

 私が彼女と出逢う前は、彼女は或る65歳の日本人と一緒に住んでいた。この邦人は、2000万円の退職金など有り金を全部、17歳のマッちゃんと言うチェンマイの小女に騙し取られて無一文になっていた気の毒な邦人である。退職後に住む町を探すためにチェンマイに旅行したKさんは、当時15歳だったマッちゃんにカラオケ店で出会ったが、タイの風俗の実情を丸で知らなかった初心(うぶ)な彼は、タイ人のオハコ『微笑とウインク』という媚薬で一目ぼれにさせられてしまった。

 思いつめたあまり、彼は、『あと2年日本で働いたら退職金も含めて2000万円くらい貯まる。そしたら、結婚して一緒に暮らすから、今の内に婚約をして置きたい』と彼女の母親に申し出た。すると悪辣な母娘は、一計を案じて、『それなら、あなたを信じて待っていられるように、タイの銀行の通帳を、娘とKさんの連名で二つ作って双方で持てるようにして欲しい』と巧みに申し出た。

 

 彼が、その後2年間毎月の給料の残りや最後の退職金をセッセとこの口座に送金し続けて晴れて最後にチェンマイに来て見たら通帳は空っぽ、17歳のマッちゃんは15歳の時から既に居たタイ人の恋人とナコンピン・コンドウという高級マンションに住んでいた。困ったKさんは笑い話のような話だが(笑っては失礼だ)丁度その真下にある家賃2000バーツのアパートに住んで、2年分の送金記録を携えて警察に訴えたり弁護士に相談したりしたのだが、『連名なら犯罪ではない』とすげなく言われて万事休す。

 

チャンヤーがKさんに逢ったのは無一文になっていたこの頃のことだ。Kさんは、生活費に困った挙句、生きる為に色んな企画を考え付いたのたが、その一つに、こういうのがある・・・それは、チェンマイに住む退職組の独身日本人に、彼女の姉のエーさんとのデートを仕組んでデート1回につき独身の男性から5000バーツ貰うという仕事なのだが、それは完全にヤラセだった。なぜならエーさんは男性が好きになれない女性だったからだ。チャンヤーは、Kさんから、そのお手伝いをさせられていた。チャンヤーをよく知り、行く末も案じてきた井上さんと言う かって東京で自動車販売会社を経営していた人によると、彼にその手のデートを何度も仕組まれた邦人は10人以上いるという。

 

そんな事をしていても、いつでもお金が入ってくるわけではないから生活は苦しい。かといって、高齢のため、日系企業の仕事などにも就けない。そんな彼に代わって、彼女はチェンマイビューホテルと言う所で、1ヶ月3500バーツと言う給料で1年間、メードをしていたことがある。今でも私は、ハッキリとお覚えている・・・彼女はこんな環境にも拘らず生き生きとしていた姿を。

しかしながら、この3500バーツという給料は彼女のような正規のタイ人(3500バーツはタイヤイなど山岳民族の給料)としては余りにも安すぎる・・このホテルでは、タイ人メードは本来4500バーツなのだ。何故そうなったかと言うと、給料支払いのマネジャーの女が、彼女のお人好しに付け込んで、制服の貸し賃と偽ってピンはねしていたからだ。(私の知る限り、私はタイで、タイ人の男に騙されたことは一度もないが、女のマネジャーには何度も騙された)。

 

65歳の無一文のKさんと一緒に住んでいた、という先の話に戻るが・・・お金持ちなら兎も角、こんな文無しになってしまった高齢者とチャンヤーは何故一緒に住んでいたのか?というと、その訳の一部は、彼女の信じ難いほどのお人好しのなせる業ではあろう。しかし、当時のチャンヤーにとっては、それ以外に大きな或る理由があった。

 

KENJIと言うヤクザが自殺した話:

 

 彼女はこのKさんと一緒になる前は、KENJIという若い日本人と一緒に住んでいたのだが、この男性が或る日、突如、自殺してしまった。結論から言うと この時の傷心が彼女がKさんと一緒になった原因だ。

 KENJIは日本で有名な某暴力団の組長の息子で、彼の親父である組長はある罪に関与して逃亡。最終的に組長は逃亡先のアメリカで拘束され、日本で収監された。息子もまた、その罪に関与していて、それが発覚する前にタイに逃げてきたのだが、追っ手の目をごまかす為にチャンヤーと言う人間と一緒に住んでいたのだ。

 自分の名前でアパートを借りては直ぐ捕まると考えた彼は タイ人名義で借りようと企んで、疑う事を知らないお人好しなチャンヤーに近づいたわけだ。

 

しかし、日本の警察は甘くない。警察庁は、通常何時もそうであるように、タイ警察への捜査協力と言う名目で独自に捜査・・・程なく警察庁の捜査の手が彼に及んできたとき、前途をはかなんで彼は自殺する道を選んだ。・・・彼女は彼が死んで5年たった今でも、彼が好きだったと言う、浜田省吾の歌 がかかると必ず涙をポロポロと流す。浜田省吾の歌を聞けば、何度聞いても聞くたびにまったく同じ反応が起こすのだ。浜田省吾のあの声がそうさせるのか?

それほど激しい精神的ショックを受けたと思われるわけだが、当時の彼女には、すぐ心の傷を癒してくれる優しさが必要だった訳だ。このような事情が、Kさんという無一文でも優しい男性と一緒にさせたのだろう。Kさんと言う人は顔は別にして、そういう類の人であった。

 

悪徳医者から抗癌剤をのまされていた話:

 

その他にも彼女の馬鹿馬鹿しいほどのお人好しを示す例は、枚挙に暇がないくらい沢山あるが、後もう一つだけ、今でも私の脳裏に痛々しく去来するエピソードを上げても見よう・・・

私と出会った頃、彼女は毎日頭の毛が、おびただしい程脱毛していた。ある日、彼女は悲しげな表情をして何かを手に掴んでいたので、よく見るとそれは一掴みほどもあろうかと言う髪の毛の束だった。私はビックリして彼女から聞き出した色んな話から原因を探索していく内に、チェンマイのお堀の北側の道路に面したT字路の角地のクリニックで投与されていた5FU(ファイブ・エフ・ユー)という抗癌剤に行き当たった。

 

彼女は数年前にはじめて、バイクを買った事がある。で、自慢じゃないが注意散漫を身上とする彼女は当然のように、買ったそうそう、バイクを運転していて激しく転倒して、頭に大怪我をした。彼女は、その事故のあと よく起こる頭痛の原因として、怪我で入院してから通っていた病院の医師から、単なる当て推量(検査は全くしていない)でいわれた次の言葉『脳腫瘍があるかも知れないね』という事を、そのクリニックの医者に話したところ、(保険点数が高いので)重い副作用がある抗癌剤の5FUを処方され、それ以来、医者の言うままに律儀に通院して(投薬されて)いたそうだ。その5FUを疑う事もせずきっちりと律儀に服用していた為、おびただしい数の脱毛をきたしていたという、これはまた信じ難いエピソードではある。全く見ていられないくらい可哀相なほどのお人好し!

 

欧米で発達したPB(プライベートバンク):

 

疑う為にはある程度の洞察力とか合理的な判断力が必要だが、この人にはこれがかなり欠如しているので無類のお人好しになってしまう訳で、この特性は話し相手としては良いが、何か高額の物件を買うなどのお金を使う場合もそうだが、とくに私の場合、正嫡子への遺産の管理の面に於いては、致命的な欠点となる。

 

そのため私はプライベートバンキングで言うところの(受益者の死後も100年間、または150年間、遺産管理を自分が遺言書で指示した通りに実行してくれると、いう)トラストの遺言システムの仕組みを利用せざるを得なくなる。

例えば、もし貴方が、プライベートバンクに資産を持ったとして、貴方が、『タイと言う特殊な国で妻子に遺産を相続させると、悪い人(=何処にでも居る悪徳警官グループとか、知人友人とか親戚一同など)たちに奪われてしまう可能性が大きく非常に危険だ。また死後直ぐ、ロクに年端も行かないのに、子に全額を相続させると、年齢的にもそうであるが、自ら苦労もせずに入ってきたアブク銭であるため、遺産の所為でロクでもない結果を招くのではないか』と危惧したとしよう。

 

その場合貴方は、プライベートバンクのトラストに次のように遺言しておけばよい・・(これは、いくら詳しくても良い、実行可能ならば、どんなに複雑な遺言でも構わない)

例えば・・・『子が、母親と一緒にシンガポールに住んで、シンガポールの学校に入る事を条件に、子が45歳になるまでの間は、資産の運用益だけを(子と母親に、これこれの割合で)分配・支給すること。その間の資産の運用先は格付けがトリプルAの超優良会社だけに限定する。もし我が子が45歳になったら資産を子と母親に、これこれの割合で、全額を相続させること』・・・などなど

 

 とまあ、こういう事までも遺言でき、その通り実行してくれるわけで、日本ではあり得ない相続の仕方が可能なのだ。そのため、プライベートバンクに資産を預けるためには、日本の真の非居住者(国籍は日本のまま)になることが必須だ。プライベートバンクに資産を預ける前に、まず、世界でも珍しいほど高累進課税の日本の相続税法の対象除外者なる必要があると言う訳で、これは当然のことだ。

欧米では、幾多の過去の悪政や戦乱において、支配者や戦勝国の利己的な意図で財産接収の目に合うことが多かったなどのため、200年も前から主としてスイスで、預金者の名前を明かすと刑法犯罪に問われる法律が作られ、これに準拠して民間のプライベートバンク=PBが発達してきたのだが、これらの殆どのPBは海外のオフショアの国(一例:ケイマン諸島国、ニュー・ジャージー島などかっての欧米の植民地)にトラスト会社を作り、このような100年間(蘭の欧州INGなど)、または150年間(英のHSBCなど)もの死後もかなり長期間の遺産管理機能を持った信託(トラスト)機能を発達させて来たわけだ。

 

やっとノンカイに到着:

 

この辺で元の話に戻そう。我々はNさんと運転を交代しながらノンカイへ向かうハイウエーを飛ばす事7時間、午後4時頃ノンカイに着いた。ノンカイの国際橋の手前にあるイミグレーションへ自家用車でラオスに出国する手続きをしに行った。すると、1年前にノンカイで貰った車のパスポート(タイを含むアセアン10カ国に車で行ける車のパスポートのこと。国際免許は、タイの5年免許証はアセアン10カ国で国際免許の役目を果たすので、不要だ)に不備があった。

 

実は、1年前もノンカイで車のパスポートを貰い、ななみとチャンヤーをつれてラオスに渡った事があるのだが、その時はチャンヤーが、彼女に渡しておいた ななみのパスポートを注意散漫のために、忘れてきていたのだ。それでラオスのイミグレーションまでは行き、そこのレストランで食事をしたりデューティフリーの店で買い物をしただけでタイ側に引返した事があった。不備があったというのは・・・1年前のその際に、車のパスポートにラオスからタイ側に帰ってきたという証拠のスタンプが押されていなかったことだ。これは参った。また去年と同じく失敗か!と思ったが・・・

 

係官は、『大丈夫、陸運局は5時まで開いているから、いまなら未だ間に合う、行って新しいパスポートに変えてもらってから、ここに来なさい。』といった。

 

急いで陸運局(コンソム・タンボックという)に行って申請して待つこと30分。新しい車のパスポートは僅か50バーツで交付された。急場をしのいでホッとした我々は、これをもってイミグレに引返し、4枚くらいの車関係の書類(一番大切な書類は車の輸出証明書)とパスポート関係の出国手続きをして、ラオス・オストラリア国際友好橋を、一同  満面に笑いを浮かべながらユックリと渡ってラオス側のイミグレーションに到着したのだった。

 

 

 

海外支援医師の会

トップに戻る

 

 

 

 

 副題:大気汚染のない安息のパラダイスを求めて私は旅立った・・チェンライ~ラオス~サタヒップ

 

 

 Nさんをミラー財団が支援する山岳民族の村に残して別れてから丸三日、楽しいチェンライでの ななみの冒険も あっと言う間に終わった。

その翌日、私は ななみを連れてミラー財団に行ってみると、おやっ、誰もいないじゃないか。ミラー財団は、もぬけの殻だ。正月だから当たり前かなと・・・

そう、思いつつ、部落住民に聞くと、大晦日のカウダウのパーティーの席にいた白人参加者達やNさんらは、山岳地帯にある有名な国境の山岳民族の村プー・チー・ファーに、ミラー財団のミニバスで行ったと言う。

この町は昔から、正月の初日の出を見る場所としてタイ人には知られている。タイに来た当初から私はこのことを知っていて、かねがね行って見たいものだと思っていたが地図で探すと、この村は、実に、北部タイの東の最果ての辺境の高い山の頂上ににあった。この辺りは、険しい山岳国ラオスと国境を分つだけあって、高峰が連なっており、私はこの村が、あたかも雲の間にあるかのように感じられた。下図は北部タイの中でのプーチーファーの位置を示す。

                                          

 

タイでは、辺境の地には、人種的にはタイノイ(小さいタイ人)という正統派タイ人から、政治的にも制度的にも著しく差別されているタイヤイ、アカ、リソ、カレン、モン族等の被差別民族が非常に多数住んでいる。彼らの収入としては国策でやっている例えばカレン族の村に入るときの入村料の半分とか、高い山岳地域でも採れるリンチーなどの果樹園での収穫の季節に、日当一人100バーツで集められて収穫業務に就く仕事くらいしかない。

彼らは、オンボロのバンの荷台に ぎゅうぎゅう詰めで載せられて急傾斜に植えられたリンチーなどの果樹園に借り出されるのを、私はこの目で見た。

私は3年前に取材に行った時には、オンボロのバンがエンコした時、乗せられて帰宅する途中だった日雇いたちを我が方に乗せ換えてあげた事がある。年齢層は30歳台から5、60歳台までの男女。

若い男女がいないのは、若い間にしか出来ない高収入の風俗業に出稼ぎに行っているせいだ。ただし、彼らは部落に住む場合だけ居住を保証されており、そこから他の地、例えば風俗の仕事があるチェンマイなどに行くのは許可が必要だ。

全指の指紋を取ったうえ、彼らにしたら大金の数百バーツもの手数料も払って、やっと1~3ヶ月の許可がもらえる。このように悲惨な生活をしている数多くの山岳民族でありますが、プーチーファーの地図を出したついでに、海外支援医師の会がかって取材した、かれら被差別民族と関係した邦人たちの冒険譚(の標識だけ・・内容は別ブログにて)を同じ地図に書き込んで見ました。

         

この最果ての辺境プーチーファーにチェンマイやバンコクから行くのは大変だ。そのせいで、過去9年間、ついぞ機会に恵まれなかったわけである。

で、私は今こそチャンス到来と お腹にグッと力を込めた。

私は、チャンヤーとANNさんの二人を従兄弟の家に残して、 ななみ だけを連れてチェンライから150キロ離れたこの辺境へ向かうことにした。といっても楽々と行ける訳ではない。“道に道を継ぎ足して”の延べ34時間ものドライブだ。なにしろ最果ての辺境の村なので、直線的に行ける訳ではなく、それどころか斜めに走る数十もの悪路を継ぎ足して行くほかない。

村からあと十キロという箇所にかかったときのことだ・・・道が急峻な悪路(もちろん地面を掘り返しただけの道)となっていて、2輪駆動では急峻すぎてズルズルと滑るのだ。しかしタイ人ドライバーの場合はマイペンライ性格なのでトヨタのハイエースなどのタマダーの車でも、お客を満載して平気で行くようだ。

私は、もしこれが10キロも続くのなら、もう中止にしようかと決意した。

幼児を乗せていることもあり用心深く、私は、駆動切り替えスイッチを通常走行の2Hから、4Hを通り越して4輪ともに固定の4駆=4L走行にして恐る恐る走ったのだった。

                                        

幸いにして2,3キロほど走ると道は大分よくなってきた。行く途中には、いろんな山岳民族村があった。その一つに立ち寄って撮った写真が次

                                        

それらを通り過ぎて、遂に私と ななみ はプーチーファーに到着した。



 

なるほど有名なだけあって、数百かそれ以上もの車が各地から初日の出を拝もうとやって来ており村の頂上に行く入り口の検問所では非常の混雑していた。

                                        

それで私はその近くにあるお土産売り場で太陽を拝み、その横の登山道から2キロの見晴台での 

”初日の出”ならぬ≪初日の入り≫ 

で満足することにした。

下はお土産もの売り場に立つ ななみ


 ただ、見晴台までの2キロの道を、ななみを連れて歩いていると、ななみ の足では大変時間がかかる事が推測され、この分では見晴台に付いた時は暗くなって帰り道が危ないと判断して1キロのところで潔く中止して引返した。この潔さには、以前、カオヤイ国立公園でへウナロックの滝(地獄谷の滝)を見に行ったときの怖い経験が物を言っている。

 

あの時は・・・へウナロックには遅く着いてしまい、日が暮れるサンセットまで約20分前だった。難しいかも知れないが、折角来たのだからと、皆の反対を押し切って無理をしたのだ。高々1キロの距離だ、駆け足で行って駆け足で帰れば間に合うだろうと安易に考えた。走り出して半分まで来たとき狭い通路は歩き難く、非常に険しい階段が何箇所もあり、電灯一つ点いているでなし・・これは下手すると真っ暗闇になって帰れなくなるかも、と思った。

焦って出ため懐中電灯も海中電灯の代わりになる携帯さえ持っていなかった。帰れなくなっても連絡さえできない。

 

しかし私は、帰るべきか続けるべきか悩んだ末に、続行を選んだのだ。自分の計算では・・さらに早や足で走ればあと4分で到着して1分で写真を撮り、8分で戻れば危険ではない、と考えたから。そして、深く早く意識的に呼吸しながら ひーひーはーはーと息咳ききって、走って行った。険しい急峻な階段は手すりの鉄パイプに腕をガッチリ回して落ちないようにしつつ駆け下りた。

現場に着くや40秒位で数枚写真をとり、今度は、踵を返して心肺をドッキンドッキン、ゼイゼイ言わしながら見事暗闇になる前に辿り着いたのだ。

なんて馬鹿なんだ?(笑。でも半分は肝試しの気持ちも あったんだもん)

 

滑り込みセーフではあっても、それは恐ろしい経験で、深く反省したのだだった。

この間の経緯を含め、そのときの恐ろしげな暗闇に青白く映えるへウナロックの滝の写真は後で出てきます

 

次の写真は、半分ほど行った地点で撮った見晴台の写真。見晴台には見物客が鈴なりになっている

私は、ななみの安全の為、潔くあきらめて引返し、お土産物売り場での初日の入り こと 私にとっての”初日の出” を楽しむことにした。


 

海外支援医師の会

トップに戻る

 

 

 

 

 

 

 

↑このページのトップヘ