こうばしいブログ

映画、数学、演劇、人権、福祉、ドラクエ、FF、そして子育て

2013/04

夢の5月

5月病に罹患する人、増えそうだから、観るだけで癒される夢のようなカレンダーを作ったので、壁紙にでもして5月を乗り切ろう。

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ほーら、祝日だらけ。ゴールデンウィークなんて言葉では足りない。ゴールデンマンス。
天皇が生まれた日って次々に祝日になっていくわけだから、数百年、数千年後はあちこちが祝日になるはずだ。だからいつかこんなカレンダーができるはずだ。

ドラクエ7でさ

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僕はついにやったんだ。冒険そっちのけで、カジノにいそしみ、300000枚以上あてた。メタルキングよろいとメタルキングヘルムを手に入れた。

走り書き

コリッチには

稀に見るハイレベルなセンスで物語をどう書き起こすのか、ご期待ください!


と書かれていて、とても射幸心があおられたので、そして昼間暇だったので、観てきた。コリッチではチケットの予約ができるようだったが、当日券あるだろうから、押しかけてみた。案の定座れた。予約システムいらないじゃんと思ったが、日曜の昼だからかもしれない。ワンドリンク制ということだったのだが、芝居観ながら飲み食いってアレかなと思ったので活用しなかった。それくらい集中して観劇してきた。


役者は女性4人のみ。女性というよりも女の子って言ったほうがいい。うら若き、いたいけな、お綺麗なおねえさん4人。この4人を並べて閲覧できただけで即ち2000円のもとをとることができた。アメブロによると4人ともどこかのモデルさんや女優さん(の卵?、というか受精卵?)である。ヘアスタイルや肌にプロの手間がかかっている部類の女たちであろうきっと。せっかくルックスの時点で勝ち組なのだから、演劇なんかやらないで微笑んでくださっていてくれればそれだけで十分満足できるのに、多くの人に惜しまれつつ、演劇が始まった。前説で「写真撮影はお断りします」って言ってた。だれだ、そんなことする奴は。

舞台には、ダイニングテーブルとチェアー4脚。リビングルームなんだろう。奥にはポットが置かれている。テーブルの上にはティーセット。そしてカミテの壁際に、30インチくらいのテレビが置かれている。あそこにテレビがあるということは、この舞台が一つの連続したリビングルームということだろう。
しかし役者たちはほぼチェアーに座ってる。結局テレビは使われなかった。ポットは何度か使われたが、奥にあるから気付かない。一言でいえば、この芝居は女の子4人が椅子に座ってケータイ端末をいじりながら会話することで進んでいる。つまり、役者に動きがない。だから、目をつむっていても問題がない。これはつまり、脚本で勝負しようという朗読劇に近い演出なんだな。
でもせっかく広い舞台で、それも演劇をやっているんだから、役者は動きをつけたほうが豊かになるんだけども。それはきっと演じている4人も重々承知しているはずだろうけども。彼女たちはじっと座っているよりも、動いているほうがお綺麗のはずだ。もったいない。

この芝居の発端となる事件。それは、この家にツレゴの女がやってきた瞬間だ。そのときのやりとり:
ツレゴ「おじゃまします」→次女、三女同時に「どういうこと?」→暗転
この暗転の瞬間の立ち位置は工夫が必要だった。みんなバラバラと端っこにいて、しかも端っこは照明が当たっていないから暗くて、せっかくの演技が目立たない。こういう重要な場面での役者の配置の工夫がなされていないのだから、なおのこと、この他のシーンでの立ち位置が作為的であるはずがない。稀に見るハイレベルなセンスだ。

っていうわけで、テレビの近くにソファーを1台置いてみよう。そして、ポットを舞台の手前に持ってきてみよう。テーブルを舞台に対して斜めになるように設置してみよう。デハケを客席方向ではなく、舞台奥にしてみよう。こんな程度の動線工夫で、役者はぐっと動きをつけられるようになるだろう。とても目をつむっていられなくなる舞台になる。

わかりやすい脚本だった。

冒頭、役者が一人電話している。そこへ一人役者が入ってくる。すると電話していた人が「あ、妹来たから。じゃあね。」と言って電話を切る。ほら、わかりやすい。われわれ観客は少しも考えることがなく、「ああ、この二人は姉妹で、今来た人が妹なんだ!」って最初っからすぐに理解できる。演劇とは、こういう人間関係を徐々に紐解いていくことが醍醐味だとばかり思っていた僕にとって、足元をすくわれるような思いがした。

父が再婚することになり、したがってツレゴの女がこの家にくることになる。観客は、ツレゴが加わることによってこの人たちがどうなるのか、どんな思いになるのか、どんな困難に直面するのか、そしてそれを解決していくのかを期待するわけだが、いきなり三女が「あの子と同居するなんて絶対イヤ!」と姉たちにむかって吐露する。あげく、ツレゴ本人に対しても全くおんなじテンションで「あんた嫌い」とか言っちゃう。彼女は神か。
言われたツレゴさんも動じない。「想定内」ってかんじで微笑む。うん、それでよし。そんなツレゴさん、角砂糖をぼりぼり食う。フード理論の点から見ると、これやると「得体のしれない者」になってしまうんだけど、たいして得体のしれない者ではなかった。まあいいや。


三女は、お父さんが来ていたジャージを着ている。でも後半、「お父さんは私たちを捨てた!」って言って悲しみだす。来ていたジャージを脱ぎ捨て、床にたたきつける。その時姉たちは「お父さんは私たちのことを捨ててない。なぜならば○○だからだ。」と語りだす。○○に入るのは、とても具体的で感動的なエピソード。たしか、作文や賞状など全部持って行った、的な。そしたら三女は「・・・そうだったんだ・・・」とか言って父を赦したようだ。早。
これは記憶にある。前回10月の芝居でも似たようなことがあった。なるほど、この脚本家の得意技なんだな。こういった親子の絆的な美しいエピソードでクライマックスを飾ればそれなりに泣ける芝居っぽくなるだろう作戦なんだな。作戦っていうか、脚本家の人間性そのまんま顕在してきている。

脚本家の人間性がそのまんま顕在する場が演劇なのだとしたら、3姉妹+1の4人の女の彼氏がすべて同一人物であったというオチ(つまり男は4股かけていた!)は、脚本家のどういう人間性が顕在してきたのだろうか。見終えた後の気持ちとして、とても背徳的な気分になった。ひとんちの浮気の現場を目撃したかのような気分。
ね。


倉官

あたりまえのことが、崩れたとき、ひざの力が抜けるような気持ちになる。それまで正しいと信じて疑わなかったことが、偽であったなんて、人はすぐには信じられない。パラダイムシフト。


先日、書類を書いていて気付いた。『館』という字を僕はずっと、たぶんこの字を習った頃からだろう・・・
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と書いていたのだ。




だってさ、館ってけっこう大規模な施設に使う字じゃないか。だから「倉」のイメージの方が当てはまるでしょう。

これはもうずっと染みついているはずなので、いまから矯正まにあうだろうか。

「佐藤、芝居やめるってよ」

『桐島、部活やめるってよ』
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監督吉田八大

学校敷地内にあるベンチに腰をおろし、学校でナンバーワンの女子がひとり、桐島(=彼氏)を待ちながらスマフォをいじっている。しかし桐島はやってこない。この光景を見て、『ゴドーを待ちながら』を想起しないはずはない。

ぐぐればいくらでもこの映画を賞讃するブロガーやツイーターの記事が読める。彼らは一様に「桐島=キリスト」、『ゴドーを待ちながら』を引き合いにだして絶賛している。やっぱりみんなこの映画に神の存在を感じたんだな。ちなみに「ゴドー=ゴッド=神」
『ゴドーを待ちながら』って、最近聞いた覚えがあるなあ。おやあ、手元に本が。おやや、先週似たような芝居を観たなあ。これマジで偶然でして。自分でも驚いてる。

久しぶりにDVD、いや、ブルゥレィ買おうと思えた映画だ。つまりひさびさに長文で感想を書きたい。んだけども、そのためには『ゴドーを待ちながら』をきちんと読んでからの方がいい気がする。

どうにもならん

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『ゴドーは待たれながら』
東京芸術劇場シアターイースト
作いとうせいこう
演出ケラリーノサンドロビッチ

俺たちの大倉孝二の一人芝居。初日の前日、プレビュー公演っていって若干安いチケットだったので、仕事を早抜けして当日券に並んで観た。
『ゴドーを待ちながら』といえば、泣く子も熟睡する不条理劇で有名。ベケットという人が著した。なぜかちょっと前にこの本を買った。買っただけで、最初の数ページしか読んでなかった。今本棚から取ってくる。


少し読んでみた。まずは『ゴドーを待ちながら』について書いてみようか。

こちらの冒頭は、エストラゴンという浮浪者が、がんばって靴を脱ごうとしているシーンだ。最初のセリフは
「どうにもならん。」
脚注がさっそくついている。なんとこの台詞にはこんな意味があるんだそうだ:
「とすれば、この芝居は、脱げない靴へのいらだちで始まると同時に、演ずべきことは何もないという宣言、演劇の死または不可能性の告白をもってはじまったことになる。」
最初の一言目の「どうにもならん。」にこんなにもぎっちりと含意されているのだ。
そこにウラジーミルが近づいてきて、このエストラゴンのセリフにこうこたえた:
「いや、そうかもしれん。(・・・略・・・)」
このセリフにも脚注がついていて(脚注の数字だらけなんだよね)「ウラジーミルは彼なりの次元で「どうにもならん。」というエストラゴンの言葉を受け止めた。というか、それは彼自身の思考の続きのように聞こえる。彼がエストラゴンの存在に気付くのはこの3行後である」
で3行経って、ウラジーミルがエストラゴンに気付き、「やあおまえ、またいるな、ここに。」と声をかけた。そしたらエストラゴンは「そうかな?」と返事した。
当然すかさず脚注がついている。この「そうかな?」にはこんな含意がある。んだって。:
「道化風のおとぼけ。同時に、ウラジーミルの軽い挨拶の言葉を深く受け止めて、その哲学的内容(おまえ=人格、またいる=存在、そこに=場所、の同一性)に疑義を呈したセリフである。」
戯曲は始まったばかりだ。なのにけっこうついていけない。こんな調子でゴドーを待ち続けるんだそうだ。
はたして面白いのかこれ?

本をぱたんと閉じた。


で、『ゴドーは待たれながら』について振り返る。
オープニングは、大倉孝二演じるゴドーが、靴を履こうとがんばっている。結局履けずに諦めて、そこから60分間のナガゼリフに突入。15分インターバルをおいて再開し、45分のナガゼリフ再開。
登場人物もゴドーただ一人。だからすべて“ひとりごと”で芝居が進んでいく。誰かを待たせてるんだけど、いつどこで待ってるかが分かっていなくて、人を待たせている時の心境とかを、大倉孝二が面白おかしく表現していく。だんだんとネタが尽きてきた頃には、ひとりごとが哲学的になってくる。「存在とはなにか」「絶望することすらできない絶望」「何も考えないということを考えていた」みたいなかんじ。ふと我にかえって、待っている誰かのとところに行こうとして扉に手をかけるけども、やっぱり外に出られない。外出することに恐怖を感じているようだ。
唯一の二人目の人物、扉の外にいる男の子。(声は野田秀樹)「アルベールさんですか?」って聞いてくる。この少年は、ベケットの原作にも登場している。
・・・そうして2時間くらいだろうか、舞台の上では永遠の時間が流れているように感じられるが、特に内容なんて無く、終わっていく。観終わったあとに残る感想は、大倉お疲れ様。あの場にいた観客、スタッフ、役者、ケラ、誰一人内容を悟っていないだろう空気が漂うから、大倉をねぎらうことしかできない。一人よりも、もう一人大倉への突っ込み役がいたら面白かった。それじゃあいつもどおりのナイロンの芝居になるか。

ベケットの原作にも内容なんて無い。でも今回の芝居によって、原作に奥行きが生まれ、補完された。だから次は『ゴドーを待ちながら』に挑むといいにちがいない。

濃厚な医療

昨日のクローズアップ現代は、延命医療について。おもわず録画した。

最近、もし危篤になって回復が見込めない場合は延命をしないでほしいと希望する高齢者が増えているのだそうだ。割合で言うと37%が「延命医療を希望しない」 という。ここでいう延命医療とは、胃瘻とか人工呼吸器とか、生命維持の管だらけマシーン。番組では「濃厚な医療」と呼んでいた。

そこで課題になってくるのが、本人の「延命しないで」という意志と、周りの親族の「命だけでも助けたい」という願いと、医師の「医者としては助けたいけど、ぶっちゃけ延命したって意味なくね?ってことを言うと訴えられるなあクヨクヨ」といった思いの差異である。これが原因でトラブルが発生するケースが多いという。
また、本人の「延命しないで」という意志が、本当に本人の希望なのか、もしくは「親族に迷惑かけたくない」といった他人へのへりくだりなのかも怪しいところだ。本人は実は生きたいと思っているのに、親族に気遣って延命しないでいいよって言う穏やかなおばあちゃんていそう。そんなおばあちゃんに対して「あっそ、わかった。」って人工呼吸器のスイッチをオフに出来るか。
ある医師は、終末期の老人に、その人の死生観、人生観、幸福論までふみこんだアンケートをとって、いわば「言質」をとっているという。本人の意志はこれこれこうだから、延命しないであげましょうよと言う為なのか。
さらに、こういった本人の意志が徹底されるよう、どの病院に搬送されても大丈夫なように、病院間での横の情報ネットワークも構築されていく構想らしい。

少し前から僕は、この国の大いなる何者かが、無駄な延命をしないことが”良いことだ”という価値観を啓蒙しようとしてるなあと感じている。これまでは、本人の意志とか関係なく、いかなる手段を使ってでも長生きさせることが幸福であった。しかし、その幸福に従って、病院や特別養護老人ホームで、回復の見込みが全くない終末期の老人達が溢れ返っている。老人達を支える人々が悲鳴を上げて来ている(もしくはとっくに見捨てている)なかで、「命だけでもせめて」という束縛から解放してあげようっていう雰囲気。ほら、ちょっと前に「終活」って言葉はやりかけたじゃないか。あれだってこの国の大いなる何者かが流行らせようとしたわけだ。
これらは、ベッドの回転率を上げて収益を高めたい病院施設と、高齢化社会を解決させたい日本、すべてにとって都合が良いこと。あとは当事者が、延命しない潔さという道徳意識に心の底から染まれば、すべてがWINだ。

だから昨日のクローズアップ現代も、この国の大いなる何者かが啓蒙の為に作らせた番組だったんだと思う。番組冒頭で専門家が「延命を望まない人、増えてます」って言った。本当は「増えて欲しい」という大いなる陰謀なんだ。でもそれすなわち、老人はとっとといなくなれって言ってるようなものだから、さも老人達の自由意志を観測しているかのように「増えてるようですねえ(だからテレビの前の君たちも、延命やめていいんだよ)」って言ってる。バレバレだ。

確かにもはや長生きすることが必ずしも良いことだとは思わない。だけども、死をせかせるような社会は、やっぱり社会としては不合格だ。

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