2009年07月

日本のカタチ(5)

Q.5: メールは若者のコミュニケーション能力を上げているか。また掲示板やチャットは議論する力を上げているか。

A: 社会全体にとってメールの普及は、従来の対面・電話のみに依存していた時代に比べれば、無駄な即時対応が減ったため、効率化していると言える。なぜならばメールによる用件は、タスクを即時ではなく後回しにできるからである。

メールの存在に関しては、子供達の人格形成の上で、良い影響が期待できるのではないかと考えている。たとえばかつての若者は、自分の気持ちを文章に記すという行為を行なったこなかった。コミュニケーションとは実際に対面しての会話が主体であったため、そうする必要がなかったのである。

これに対し、現代の子供達はメールによるコミュニケーションを通して、感情のような不確かなものを、なんとか言葉や文字、AAなどを使って伝えようと努力している。この行為は、自分の感情や考えを整理するための、一つのスキルを育てるのではないかと思われる。

その一方で、デメリットも存在する。対面と違って、メールのような通信手段を用いるコミュニケーションでは、素直に自分が出せると言う子供達が多い。それは逆に、歯に衣着せぬ表現で、相手の感情を串刺しにしてしまう危険性をはらんでいる。この問題が根深いのは、「自分の感情には忠実であったのだから、相手を傷つけても仕方がない、自分が悪いのではない」と思う傾向がある点である。

人は誰でも、本音で語れる相手や状況を求めるものである。しかしがら、双方にそのコンセンサスを確認する行為を行なうプロセスが省略されているため、人間関係が険悪になる例が多いようだ。人付き合いの仕方を学ぶ前に、ツールの登場によってコミュニケーションの機会だけは拡大したため、深刻な人間関係のトラブルは、かつての子供達よりも増大しているように感じられる。

青年期に入ると、これら人間関係のトラブルを回避するために、いわゆる「うわべだけの付き合い」のやり方を学習する。以前ならば、気に入らない相手なら付き合わないということが可能だったわけだが、今はネットとケータイがどこまでも追いかけてくる。煩雑な人間関係から、逃げることができないわけである。この状況をうまく回避し、整合性を取るための手段が、差し障りのないコミュニケーションは維持しつつ人間関係として深入りしない「うわべだけの付き合い」というレイヤー層を、自分の中に構築ことなのである。

これがうまくできない、うまく人づきあいをさばききれない人間は、学校という閉じられた社会の中では奇異に映る。人付き合いが苦手な若者が大量に排出される要因は、奇妙なことにコミュニケーション手段・機会が増大したことにあるとも言えるわけである。

今後の課題としては、メールなどインターネット的な仕組みに依存するベストエフォートな通信手段と、通話など必ず繋がることを保証する手段との使い分けを、明確に区別する必要があるように思う。例えばメールが遅配されたことが原因で人間関係が悪化するなどということは、実に馬鹿馬鹿しい。しかしながら多くの人は、例え大人でも、メールは発信されたら瞬時に相手のところに必ず届くと思っている。また、送ったメールは、必ずその場で相手が内容を確認すると思っている。

今確実にコンセンサスを取らなければならないものは通話で、ベストエフォートで構わない連絡はメールなど、といった使い分けは、ネットの黎明期からそれを利用している人なら自然に身についているリテラシーだが、この点は携帯の利用者にもっと広く浸透させる必要があるだろう。

掲示板は、議論の場としては成立していないように思われる。それはツールとしての機能あるいは特性の問題もあるが、そもそも多くの人が、正しい議論のやり方を学んでいないことに起因するのではないか。

せっかく建設的な議論がスタートしても、自分の意見を強化するのではなく、相手に対する人格攻撃にすり替わる例が後を絶たない。たとえば「キモヲタが何を言っても無駄」という投稿は、自分の主張を強化するのではなく、相手を立ち位置を下げることで相対的に自分が優位に立とうとする、単純なパワーバランスの問題にすり替えてしまっている。これに対抗する措置として、打たれ強くとかスルー力とか言うのは、多感な青年期の人間にとっては酷な話である。

学校教育でも、議論に対応できるための学習というのは行なわれているが、議論の場が匿名となれば発言の内容が変質するという点は、心理的なメカニズムも含めて、きちんと教えておくべきであろう。また人格攻撃を行ないたいという魅力に抗って、議論を続けるというトレーニングも必要であろう。

チャットは、ツールの特性として、議論の場としては比較的成立しやすいように思われる。その条件は、参加者を限定することができ、そのアイデンティティが確認できること、議論に不適当な人物はその場から排除できることなどが上げられる。すなわちオンラインで議論を行なうためには、ある程度コントローラブルな状況である必要があり、議長権限が明確であることが重要である。

日本のカタチ(4)

Q.4 マスコミュニケーションとしてのテレビは、コンテンツ、ニュース、広告媒体として危機に直面することになったのはなぜか。

A まず、コミュニケーションという言葉に注目したい。21世紀からは「通信の時代」に突入したと言っても過言ではないと思われるが、そこでコミュニケーションの意味が大きく変わったのではないか。

テレビのようなマスコミは、通信としては非対称で、ほぼ一方通行である。かつてコミュニケーションとは、一方向ではあっても意思の伝達ができれば、それをそう呼ぶことにためらいはなかった。

しかし今、放送と通信は違うものであるという認識に立つと、通信によるコミュニケーションとは、双方向性を担保するものであるという考え方が主流になってきている。

テレビのネット進出の遅れは、日本は先進国の中でもっとも深刻である。その理由は、先進諸国の中で日本国民がもっともテレビへの依存度が高かったからである。日本のテレビはそこそこ面白いものを提供し続けていられたし、国民もまた、下らないものや幼稚なものであっても、その中に生まれる笑いにどん欲である。つまり、このままでもいいんじゃないかという自信が、ネット進出が遅れた最大の原因である。

特に、インターネットでの動画配信が可能になった時点で、テレビ側はインターネットを利用するのではなく、脅威と見なして排斥した。これが多くのネットユーザーからは根強い反感として残ることとなり、テレビのネット配信事業には批判的な体質が生まれる要因となった。PC用の番組配信事業は、誘導を失敗したと言える。

一方携帯を使ったテレビ動画配信事業は、PCに比べると上手く行っている。フジテレビの配信事業では、携帯向け配信がPC向けの3倍となっており、伸びしろとしてはPCよりも期待される。一方NHKオンデマンドの資料では、PC向けサービスとテレビ向けサービスはほぼ同等である。

かつてはコンテンツの性質と、対象とする年齢層のマッチングのみが重視されてきたが、今後はそれに加えてメディアの種類を合致させる必要があるようだ。

携帯サービスが上手く行っているもうひとつの理由は、携帯ユーザーが、かつてテレビがネットを敵視していた事実を知らない年代であるか、PCでのコミュニケーションを経験していない層が利用率を高めているからではないかと推測する。

広告ベースでの無料放送というビジネスモデルは、必ずしも破綻してはいない。しかし少なくとも、ナマでテレビを見ているかどうかしか測定しない、現在の視聴率の測定方法はすでに破綻している。興味のある大事な番組ほど、録画してゆっくり見るという行動が、すでに定着したからである。番組の価値は、被録画率を測定しなければ、意味がない時代に入ったことは間違いない。

ネット配信をきっかけとして、民放の横並び意識は少しずつ崩壊しつつある。今年もしくは来年、キー局のどれかが経営破綻するのではないかというシナリオは、決して夢や冗談ではなくなってきており、お手々繋いで仲良くやるより、どこかを蹴落としてそのパイをさらって生き残った方が賢明だと考え始めている。ヨーロッパでは経営破綻によって民放が停波した例もあるが、日本の場合はそこまで行く前に経営譲渡するだろう。

今後は録画を前提とした視聴率測定を行ない、番組作りや番組編成を行なう局が出てくれば、自体は急速に変化する可能性はある。しかしそれが行なわれないのは、50年間も同じ事を続けているだけで右肩上がりだった、特殊業界の革新性のなさにあると言わざるを得ない。

情報のプッシュ型、プル型という視点で考えてみるのも面白い。新聞やテレビのような旧マスメディアはプッシュ型であり、インターネットや携帯はプル型であると言われる。しかし情報とそれを見る人との関係で見ていくと、基本的に人は、自分の興味のあるものしか見ないものである。

例えば新聞さえも、隅々まで舐めるように読むという時代はとうに終わり、多くの人はすでに自分に興味のある記事しか拾い読みしていない。テレビは言うまでもなく、面白くなければ見ないか、チャンネルを変えることで、常に興味のあるものを探しているにすぎない。

そう考えると、人と情報との関係は、特に民主主義社会においては、常にブル型でしかあり得ないのではないだろうか。過去プッシュ型とされてきたメディアは、単に情報の伝達方法が散布型であっただけにしか過ぎず、プッシュ型だから広く伝達されるというのは幻想であり、単に伝送インフラがデカいかどうかだけの問題であったことがわかる。

インターネットも社会の基本インフラとして巨大化すれば、例えB2Pのプル型であっても、同規模の情報伝達性を持つことになる。

日本のカタチ(3)

Q.3  TV時代以降、若者の人間形成に教科書や本よりTVやインターネットの情報の影響力の方が大きくなっている。教師も公務員同様、事件等を機にマスコミにこき下ろされる等して、社会的な尊敬はおろか信頼も失いかけており、教育現場でこれを知る親、生徒の非協力的な姿勢を生んでいる。
学校は如何にして質の良いICTの情報を活用し、教育水準を上げられるか。

A. そもそも教師が社会的な尊敬や信頼を失った原因は、一概にテレビやネットなどのメディアによる不祥事のせいとも言えない。むしろ公務員を含め、学校というアンタッチャブルなエリアでの問題をオープン化した功績は認められるべきである。

マスコミの報道に起因する最大の問題点は、体罰に関して過剰な報道をする体質である。これによって大量生産されたモンスターペアレントが、暴力をいいわけとした無理無体な要求を学校側に押しつけている。

また各地域の教育委員会が学校に対して強大な権力を持つようになり、多くのモンスターペアレントがこの教育委員会を自分たちの都合のいいように利用することで、無理を通しているという現状がある。まずは学校の独立性を確保することが先決である。

教育のバランスという点においては、教科書類をいったん電子化し、教育現場に複数の教科書を投入できるようにしてはどうか。ベースになる教科書は書籍という形で持たせるにしても、電子化した大量の教科書は、物理的な負担にはならない。

個別のテーマごとに、特に良くできた教科書の記述や図版などが存在しており、それらも取り入れつつ授業を行なうといった可能性にも着目すべきである。いわゆる、教科書のモジュール化である。

一方家庭内における教育では、児童相談所のあり方が大きな障害となっている。必要な体罰でさえも虐待と称して、児童を強制的に相談所に保護し、親権を剥奪するなどといった事件が起こっている。なぜならば、相談員はノルマ制で動いており、1件保護するたびに報奨金が貰えるからであるという証言がある。児童虐待とされた約4万件の事件のうち、本当に深刻なものは1%程度であり、これによって家庭崩壊が起こっている例もあるという。

児童相談所の実態把握は、マスメディアの急務である。

日本のカタチ(2)

Q.2:米欧、中国と互していく日本人を育てるためには、英語や金融とともにICTを使いこなす教育をすべきではないか。

A:当然である。
すでに文科省の学習指導要領では、小中学校の各科目の中に情報リテラシー教育を盛り込む方針が前倒しで実施されようとしているが、問題がある。

それは、学校の先生自身がほとんど、ネットやケータイを使ったコミュニケーションからは隔絶された世界に生きているということである。学校に居る限り、携帯を使うチャンスはなく、スタンドアロンのパソコンですら技術系の先生に頼りっぱなしという現実がある。このような現状では、担任や各科の教師が日常的に授業で情報リテラシーに関して指導するのは、無理である。

これを解決するための方策として、まず学校の事務処理全般を早急にIT化するべきである。校内に無線LANを配備し、出席簿や成績処理など日常的に発生する業務からIT化を行ない、教員が日常的にPCなり携帯なりPDAなりに触る必要がある環境を生み出すことが重要である。

もちろんトラブルは想定されるが、それを解決することでスキルが向上するというのは、PCおよびネットワークの基本的な学習方法であり、先生も失敗し、学んで常に成長する姿を生徒に示すことも重要である。これは、これまでの学校教育ではなかった方法論であり、現場の抵抗も大きいと思うが、一足飛びに全教員が授業にPCを活用するなどといった絵に描いた餅よりも現実的であろうと考える。

実際に学校事務をすべてIT化したある小学校では、その学校に赴任することを嫌がる先生が多いと聞く。しかしいったんそのやり方を覚えてしまうと、今度は他校に赴任することを嫌がるのだという。それだけ、授業に関わる準備や事務作業には、手作業が多く残っているということである。

放課後の部活動にも先生がなかなか参加できないような状況は不幸であり、先生と生徒の信頼関係を築く上でも、これは重要なポイントを占めると思われる。

小学校の子供たちへの教育で懸念されるのは、日本語の入力環境である。現在の情報教育では、小学校低学年からすでに日本語入力の実習が行なわれているが、その頃はまだローマ字の学習が済んでいないため、どうしてもかな入力が中心となってしまう。

しかしながら世界を舞台に考えたとき、かなキーボードでしか文字が入力できない人材を育成しても無駄である。ローマ字による子音、母音の入力方法は、言語学的にも合理性が高く、日本語のひらがな学習とともに教育しても、齟齬はないと考える。子供たちには早いうちに、ローマ字、かな、それぞれの入力を選択できる機会を与えるべきである。

しかしながら、キーボードというものが、今後いつまで文字入力に使われるのかという懸念もある。インターネットユーザー協会が行なった調査では、すでに中学1年の段階で、携帯電話所持者の6割以上が、手で書くよりも携帯で文字を入力したほうが早いまたは楽だと答えている。

日本語の文字入力の方法については、市場原理に任せるべきであると考える一方で、教育現場での指導に関してはもっとも合理性が高く、しかも長く実用に耐えるメソッドを選択する必要があると思われる。

日本のカタチ(1)

コデラノブログ4のスタートである。4回目の開設を記念して、特別企画としてシリーズ「日本のカタチ」というテーマを数回にわたってお送りしようと思う。タイトルは、司馬遼太郎の随筆「この国のかたち」から連想している。

具体的には、僕の得意とするフィールドのうち、ネットコミュニケーションと携帯電話、そしてテレビなどの放送メディア、それらと日本人との関わり方などを、仮想のQ&A方式で考えてみたいと思う。

Q.1:沢山の情報が溢れる時代に、多くの人が翻弄されつつあるが、むしろ若者のほうがその洪水を賢く、逞しく生きているのではないか?

A:情報化社会なるものが出現したのは、98年ぐらいからだという見方が主流のように思う。Windows98の発売を契機としてインターネットが一般家庭に広く普及し初めたのは、丁度これぐらいの年代である。

ここで、情報化なるものについて考えるのも悪くない。今「情報化」という言葉が表わすのは、すなわち「デジタイズ」である。アナログとして存在した記録をデジタル化し始めたものとして、もっともコンシューマに関わりが深いのが、CDである。音楽販売がレコードからCDになった時代、すなわち83年あたりから、現在意味するところの「情報化」はすでに始まっていたと考えられる。

当時デジタイズのメリットは、経年および伝送劣化に強いという点、複製が用意という点であり、検索性のメリットはそれほどでもなかった。しかし多くのデジタル化された情報がコンピュータ内に蓄積され、コンピュータ同士が繋がり、情報として共有され始めた。これが情報化社会の姿である。

「情報化」は、これまでアナログであった情報をデジタル化する時代を終え、これまで情報という形をしていなかった事象でさえも情報化していくことを実現してきた。そして現在ほとんどの機器がデジタル化され、情報は直接コンピュータやネットワークに流し込まれていく。これは「情報化社会」の時代が終わり、「情報社会」の時代へと進みつつあることを示している。

質問における「若者」の定義も、実は以前のような就学児童を全般を広く指して考えるのは、難しくなっているのではないかと思う。例えば大学生の就職活動を考えてみると、多くの学生はネットで情報収集や分析を行なっているが、それは単に知識として蓄積されるだけで、具体的な行動に移し替えるというところでつまずくものがいる。例えばどこへ行って、なんと言って書類を貰えばいいのか、といった、ごく単純なことがわからなかったりする。

これは、事象を情報に変える「情報化」という手法を経験せず、すでに存在する「情報」へのアクセス方法しか知らないから、とも考えられる。例えば「総当たりで調べていって正解を探す」ような実作業に価値を見いだすことが出来ず、それは無駄ではないか、どこかに正解があるのではないか、と考える傾向がある。これには、体験し、失敗からから学ぶというプロセスが学校教育の中で軽視され、正解への最短コースを目指す効率的なパターン学習に比重が置かれている現実があるのではないか。そしてそれを助長しているのは、子供に苦労させずにエラくしたい親の勝手な理想ではないかと考える。

若者の定義を、ネットに散見される、パターンとしての「若者」に変えて考えてみよう。掲示板やコミュニティに出現する若者の特徴は、マスメディアが発信する情報に対して懐疑的で、その背後にあるとされる架空の権力や圧力を探しているように思える。メディアによって洗脳されないという点では、プロパガンダが通用しなくなった時代とも言える。

しかしながらコミュニティでの場での噂には根拠がなく、ほとんどがおもしろがっているだけである。すなわち、それが真実である必要性はなく、真実よりも話が面白いほうを無責任に信じたがる傾向がある。これは若者に限らず、オバチャンの井戸端会議のようなアンオフィシャルな人の集まりのほとんどで見られる、普遍的な傾向である。

ネットでのコミュニケーションの特徴は、話としては信じているが、それが具体的な行動に直結していないという点である。そういう意味では一つの安全弁があるとも言えるが、時としてその裏話を真に受けて行動を起こし、大きく社会問題化してしまうものが出てしまう。

興味深いことに、2ちゃんねるでの言論を真に受けて行動を起こし、逮捕されてしまう人というのは、大抵40すぎのいい大人である。物心ついた頃からネットがあった世代ではなく、さりとてパソコン通信時代から連綿とコミュニケーションの経験を積み上げてきたわけでもない。まさに情報化への波とともにいっぺんに情報の大海に放り出された世代およびタイプの人たちは、「ネットで真実とされている話」を本物の真実と区別することができない。いわゆる、「シャレがわからない」のである。

この点で若い世代がネットの言論を真に受けて行動しないのは、
  1. そもそも行動力がない
  2. 行動に移す方法がわからない
  3. 情報をゲーム(仮想)感覚で捉えている
  4. 社会を変えるということに関心がない
ということであると想像する。ところが人間40を越えると、上記の条件ぐらいはクリアしてしまうため、直接行動に出るということなのかもしれない。

もっと若者、例えば携帯を持った中学生ぐらいの人たちに対して懸念しているのは、活字化された情報を、無条件に正しいものと信じてしまうことだ。これは情報化が加速した2000年前後にも、大人でさえよくあったことである。しかし裏を取る、一次ソースにあたる、といったことをおこなうべき、という啓蒙がなされることで、この問題をクリアしてきた。従って子供たちへの情報教育も、ソースの真偽に対する啓蒙を行なうことで学習し、クリアできるものと考えている。

もちろんこのブログに書かれていることも、はたして根拠があるのかと裏を取らなければ、信用してはいけないわけである。多くの書き手は、自分が書いたことを信用して欲しいので、情報が不正確かもしれないとか、これは単なる妄想であるとかをいちいち断わったりしない。そこが活字化された情報を、誰でも発信できることのデメリットであると言える。そもそもこんなことを書かなければ、この本文も黙って信用する人がより増えるわけだが、それでも今こういうことを書いちゃうのは、書き手であるオジサンがバカだからである。
プロフィール

小寺信良
WEBに巣食うモノカキ。
原稿依頼、取材などのご連絡は、nob.kodera(at)gmail.comまでお願いします。

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