フジテレビに対するネットの反感に対して、複数のタレントが「嫌なら見なければいい」という趣旨の発言をしたことが波紋を広げている。これに対する推理作家の深水黎一郎氏による、「そうではなく、マスメディアのあるべき姿が問われているのだ」という反論は、民営によるテレビ局運営の根幹に関わる問題を指摘している。

本来ならば元テレビマンである筆者がその点を深く掘り下げるべき立場なのだが、その前に「嫌なら見なければいい」という発言に感じる違和感について、少し思うところを話しておきたい。

「嫌なら見なければいい」と同じようなことは、TwitterやBlogでもたびたび起こっているが、ネットならばこの理屈は通ると思う。ネットのサービスの大半は、見たい人が情報を引っ張るPull型サービスであり、読者は「わざわざ見に行ってる」わけである。しかも個人が非営利でやっていることに対して、嫌なら見なければいいと本人が言う分には、まさにその通りだ。

しかし、テレビ側のタレントがそれを言うことは、事情が違う。理由は3つある。

電波の公共性ということはすでに深水氏が指摘しているところなので省くとして、テレビは点けている限り強制的に情報を送りつける、Push型メディアであるという点で特殊だ。受け手側には、テレビを消すか、チャンネルを変えるぐらいしか選択肢はなく、そもそも見たいコンテンツを選択する方法がない。

そのメディアに対して、見なければいい、というのは、筋が違うように思える。見たいわけではないのに、送られてくるわけである。そもそも放送枠が元々「韓流ドラマ」であれば、番組表を見てそれを避けることはできるだろう。しかし通常のバラエティ番組の中にネタが差し込まれてくると、事前に知ってそれを避けることはできない。

2つ目は、民放の商業性である。民放の事業モデルはご存じのように広告モデルであるわけだが、これは番組視聴率が上がることで広告がより露出されるという、単純な図式で成り立っている。それをメディアで露出しているタレントが「見なければいい」というのは、民放テレビ局の事業モデルを否定することになる。テレビでメシを食うタレントは、それを言う立場にない。筆者はもうテレビの仕事をしていないが、もし現役のテレビマンの立場だったら、「そりゃないよー」と思うだろう。

3つ目は、「見なければいい」とするコンテンツと視聴者に、発言者が無関係である点だ。これが自分の出演する番組、あるいは制作した番組のことを言うなら、まだ話はわかる。それだけ自分の仕事に対して誇りを持っているということだろう。しかし今回は韓流ものに対して、視聴者に「見なければいい」と言っているわけである。もちろん批判することは誰にでも権利があるが、作品に対する評ならまだしも、視聴者の行動を週刊誌やラジオなどのメディアでタレントが評するのは、ちょっと筋が違うだろう。


だがその一方で、テレビタレントがこのような発言をするということ自体、かなりこれまでとは事情が変わってきたということを感じる。おそらくタレント自身も、すでに韓流押しには無理があるということがわかっているのだろう。気がついちゃった人はもういいから、ほっといてくれよ、という心の叫びなのかもしれない。あからさまにテレビ局批判ができない中で、視聴者に唯一残された抵抗、「見ない」ということで落としどころを付けたいという思いがあったのではないか。実際それが一番効果的である。

前回のコラムで、テレビ局の意識を変えるには視聴率が5%変わるぐらいの人数が必要として、250万人という数字を出したが、これを実際のデモの参加人数と勘違いした人も居たようだ。これは言葉が足りなかった。リアルで集まる人数の話ではなく、視聴率5%に影響を与える規模の不視聴運動が、テレビ局側にとっては一番可視化されるよ、ということを言いたかった。

もう一つこの数字で言いたかったのは、ネットとテレビのスケール感の違いである。例えばブログで10万PV取るとか、Twitterのフォロワーが20万人というと、ものすごい数だと感じる。あなた自身がそれだけのビューを取れるかどうかを考えると、このあたりは非常に生臭い数字に映ることだろう。

しかしテレビ放送を相手にする場合、ネットとは桁が違う数字を常時扱っている巨大メディアなのだということを、今一度意識する必要がある。番組の視聴率5%などたいしたことないと皆さん思っているわけだが、たかだか5%という数字で、250万人が見ていることになる。ネット民数万人が集まって何かやっても、テレビ局のスケールからすると、もう測定されないほどの小さな数字なのである。

話が逸れてしまった。タレントの発言の話に戻すと、彼らがそう発言するようになったもう一つの背景として、ネットの個人個人の意見が、もうタレントまで届いているという点がある。ほんの数年前まで、テレビタレントでネットをよく見ている人というのは少なかった。テレビという業態はその中で自己完結しているので、、ネットの情報を知らなくても、テレビの中での情報さえ知っていれば不便は感じないのである。

従ってタレントがダイレクトに視聴者あるいはファンの意見を目にするのは、ファンレターかブログのコメント欄程度であった。大物タレントになるほど、それらは事務所が間に入って整理するので、ネガティブな意見をダイレクトに目にする機会はほとんどなかった。

しかし現在では、多くのタレントが自分からネットの評判を気にして見るようになっている。ネットでフジテレビと韓流が批判されていることは、テレビや週刊誌があまり取り上げないが、それでもタレントがその事実を詳しく知っているということは、タレントへの情報入力ルートもすでに昔とは変わってきているという証拠である。

タレントも今回の騒動で、どのように立ち回るべきか、もはや踏み絵のようになっているのではないか。大衆に愛されるタレントを目指すか、テレビ局に愛されるタレントを目指すか。俳優の高岡蒼甫氏がフジテレビ批判で事務所を辞めることになったのも記憶に新しいところだが、テレビ側から切られた俳優を大衆が救うことは大変難しい。いくら応援するといったって、1ヶ月もすれば忘れてしまう。テレビ業界とは悲しいかな、コロコロ変わる大衆の「付和雷同的興味本位」をすくい上げることで成り立っているものなのである。

今後もネットの批判が肥大化すれば、テレビ側が表現を変えてくることは、十分にあり得ると思う。火付けがバレたからには、それ以上やっても無駄だからだ。ただし偏向やねつ造があったという確証が出てこない限り、謝罪などはないだろう。いつの間にかやらなくなった、ということになる。民放は編集番組が多いので、仮に一斉にやめたとしてもOAまでは1週間から2週間ぐらいバラバラのタイムラグが発生するからである。

次は別のメディアを使って、着火することだろう。ラジオ、新聞、雑誌などのメディアは、テレビに対して抗議をするような人々とはまた違った層を持っている。特にラジオはPushメディアであることに加え、最近ネットで見直されている点、番組単価が安いため簡単にてこ入れできる点で、可能性が高い。人は多方面のメディアから攻められると、「もしかして本当に流行ってるのか?」と思ってしまうものである。

ネットの登場により、人の好みは非常に分散した。狭い範囲の趣味でも、仲間を見つけることができれば、その状態を維持できるからである。筆者もそれを楽しんでいる一人だ。国民を巻き込んだ大ブームという現象に夢を見続けているマスメディアと、人の生き方のズレが顕著になり、その軋轢がこの騒動の奥底にあるように思える。テレビが示す世の中とネットが示す世の中は、今後も加速度的にズレていき、我々はいつかそれを容認せざるを得ない時が来るだろう。

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