コデラノブログ4のスタートである。4回目の開設を記念して、特別企画としてシリーズ「日本のカタチ」というテーマを数回にわたってお送りしようと思う。タイトルは、司馬遼太郎の随筆「この国のかたち」から連想している。
具体的には、僕の得意とするフィールドのうち、ネットコミュニケーションと携帯電話、そしてテレビなどの放送メディア、それらと日本人との関わり方などを、仮想のQ&A方式で考えてみたいと思う。
Q.1:沢山の情報が溢れる時代に、多くの人が翻弄されつつあるが、むしろ若者のほうがその洪水を賢く、逞しく生きているのではないか?
A:情報化社会なるものが出現したのは、98年ぐらいからだという見方が主流のように思う。Windows98の発売を契機としてインターネットが一般家庭に広く普及し初めたのは、丁度これぐらいの年代である。
ここで、情報化なるものについて考えるのも悪くない。今「情報化」という言葉が表わすのは、すなわち「デジタイズ」である。アナログとして存在した記録をデジタル化し始めたものとして、もっともコンシューマに関わりが深いのが、CDである。音楽販売がレコードからCDになった時代、すなわち83年あたりから、現在意味するところの「情報化」はすでに始まっていたと考えられる。
当時デジタイズのメリットは、経年および伝送劣化に強いという点、複製が用意という点であり、検索性のメリットはそれほどでもなかった。しかし多くのデジタル化された情報がコンピュータ内に蓄積され、コンピュータ同士が繋がり、情報として共有され始めた。これが情報化社会の姿である。
「情報化」は、これまでアナログであった情報をデジタル化する時代を終え、これまで情報という形をしていなかった事象でさえも情報化していくことを実現してきた。そして現在ほとんどの機器がデジタル化され、情報は直接コンピュータやネットワークに流し込まれていく。これは「情報化社会」の時代が終わり、「情報社会」の時代へと進みつつあることを示している。
質問における「若者」の定義も、実は以前のような就学児童を全般を広く指して考えるのは、難しくなっているのではないかと思う。例えば大学生の就職活動を考えてみると、多くの学生はネットで情報収集や分析を行なっているが、それは単に知識として蓄積されるだけで、具体的な行動に移し替えるというところでつまずくものがいる。例えばどこへ行って、なんと言って書類を貰えばいいのか、といった、ごく単純なことがわからなかったりする。
これは、事象を情報に変える「情報化」という手法を経験せず、すでに存在する「情報」へのアクセス方法しか知らないから、とも考えられる。例えば「総当たりで調べていって正解を探す」ような実作業に価値を見いだすことが出来ず、それは無駄ではないか、どこかに正解があるのではないか、と考える傾向がある。これには、体験し、失敗からから学ぶというプロセスが学校教育の中で軽視され、正解への最短コースを目指す効率的なパターン学習に比重が置かれている現実があるのではないか。そしてそれを助長しているのは、子供に苦労させずにエラくしたい親の勝手な理想ではないかと考える。
若者の定義を、ネットに散見される、パターンとしての「若者」に変えて考えてみよう。掲示板やコミュニティに出現する若者の特徴は、マスメディアが発信する情報に対して懐疑的で、その背後にあるとされる架空の権力や圧力を探しているように思える。メディアによって洗脳されないという点では、プロパガンダが通用しなくなった時代とも言える。
しかしながらコミュニティでの場での噂には根拠がなく、ほとんどがおもしろがっているだけである。すなわち、それが真実である必要性はなく、真実よりも話が面白いほうを無責任に信じたがる傾向がある。これは若者に限らず、オバチャンの井戸端会議のようなアンオフィシャルな人の集まりのほとんどで見られる、普遍的な傾向である。
ネットでのコミュニケーションの特徴は、話としては信じているが、それが具体的な行動に直結していないという点である。そういう意味では一つの安全弁があるとも言えるが、時としてその裏話を真に受けて行動を起こし、大きく社会問題化してしまうものが出てしまう。
興味深いことに、2ちゃんねるでの言論を真に受けて行動を起こし、逮捕されてしまう人というのは、大抵40すぎのいい大人である。物心ついた頃からネットがあった世代ではなく、さりとてパソコン通信時代から連綿とコミュニケーションの経験を積み上げてきたわけでもない。まさに情報化への波とともにいっぺんに情報の大海に放り出された世代およびタイプの人たちは、「ネットで真実とされている話」を本物の真実と区別することができない。いわゆる、「シャレがわからない」のである。
この点で若い世代がネットの言論を真に受けて行動しないのは、
もっと若者、例えば携帯を持った中学生ぐらいの人たちに対して懸念しているのは、活字化された情報を、無条件に正しいものと信じてしまうことだ。これは情報化が加速した2000年前後にも、大人でさえよくあったことである。しかし裏を取る、一次ソースにあたる、といったことをおこなうべき、という啓蒙がなされることで、この問題をクリアしてきた。従って子供たちへの情報教育も、ソースの真偽に対する啓蒙を行なうことで学習し、クリアできるものと考えている。
もちろんこのブログに書かれていることも、はたして根拠があるのかと裏を取らなければ、信用してはいけないわけである。多くの書き手は、自分が書いたことを信用して欲しいので、情報が不正確かもしれないとか、これは単なる妄想であるとかをいちいち断わったりしない。そこが活字化された情報を、誰でも発信できることのデメリットであると言える。そもそもこんなことを書かなければ、この本文も黙って信用する人がより増えるわけだが、それでも今こういうことを書いちゃうのは、書き手であるオジサンがバカだからである。
具体的には、僕の得意とするフィールドのうち、ネットコミュニケーションと携帯電話、そしてテレビなどの放送メディア、それらと日本人との関わり方などを、仮想のQ&A方式で考えてみたいと思う。
Q.1:沢山の情報が溢れる時代に、多くの人が翻弄されつつあるが、むしろ若者のほうがその洪水を賢く、逞しく生きているのではないか?
A:情報化社会なるものが出現したのは、98年ぐらいからだという見方が主流のように思う。Windows98の発売を契機としてインターネットが一般家庭に広く普及し初めたのは、丁度これぐらいの年代である。
ここで、情報化なるものについて考えるのも悪くない。今「情報化」という言葉が表わすのは、すなわち「デジタイズ」である。アナログとして存在した記録をデジタル化し始めたものとして、もっともコンシューマに関わりが深いのが、CDである。音楽販売がレコードからCDになった時代、すなわち83年あたりから、現在意味するところの「情報化」はすでに始まっていたと考えられる。
当時デジタイズのメリットは、経年および伝送劣化に強いという点、複製が用意という点であり、検索性のメリットはそれほどでもなかった。しかし多くのデジタル化された情報がコンピュータ内に蓄積され、コンピュータ同士が繋がり、情報として共有され始めた。これが情報化社会の姿である。
「情報化」は、これまでアナログであった情報をデジタル化する時代を終え、これまで情報という形をしていなかった事象でさえも情報化していくことを実現してきた。そして現在ほとんどの機器がデジタル化され、情報は直接コンピュータやネットワークに流し込まれていく。これは「情報化社会」の時代が終わり、「情報社会」の時代へと進みつつあることを示している。
質問における「若者」の定義も、実は以前のような就学児童を全般を広く指して考えるのは、難しくなっているのではないかと思う。例えば大学生の就職活動を考えてみると、多くの学生はネットで情報収集や分析を行なっているが、それは単に知識として蓄積されるだけで、具体的な行動に移し替えるというところでつまずくものがいる。例えばどこへ行って、なんと言って書類を貰えばいいのか、といった、ごく単純なことがわからなかったりする。
これは、事象を情報に変える「情報化」という手法を経験せず、すでに存在する「情報」へのアクセス方法しか知らないから、とも考えられる。例えば「総当たりで調べていって正解を探す」ような実作業に価値を見いだすことが出来ず、それは無駄ではないか、どこかに正解があるのではないか、と考える傾向がある。これには、体験し、失敗からから学ぶというプロセスが学校教育の中で軽視され、正解への最短コースを目指す効率的なパターン学習に比重が置かれている現実があるのではないか。そしてそれを助長しているのは、子供に苦労させずにエラくしたい親の勝手な理想ではないかと考える。
若者の定義を、ネットに散見される、パターンとしての「若者」に変えて考えてみよう。掲示板やコミュニティに出現する若者の特徴は、マスメディアが発信する情報に対して懐疑的で、その背後にあるとされる架空の権力や圧力を探しているように思える。メディアによって洗脳されないという点では、プロパガンダが通用しなくなった時代とも言える。
しかしながらコミュニティでの場での噂には根拠がなく、ほとんどがおもしろがっているだけである。すなわち、それが真実である必要性はなく、真実よりも話が面白いほうを無責任に信じたがる傾向がある。これは若者に限らず、オバチャンの井戸端会議のようなアンオフィシャルな人の集まりのほとんどで見られる、普遍的な傾向である。
ネットでのコミュニケーションの特徴は、話としては信じているが、それが具体的な行動に直結していないという点である。そういう意味では一つの安全弁があるとも言えるが、時としてその裏話を真に受けて行動を起こし、大きく社会問題化してしまうものが出てしまう。
興味深いことに、2ちゃんねるでの言論を真に受けて行動を起こし、逮捕されてしまう人というのは、大抵40すぎのいい大人である。物心ついた頃からネットがあった世代ではなく、さりとてパソコン通信時代から連綿とコミュニケーションの経験を積み上げてきたわけでもない。まさに情報化への波とともにいっぺんに情報の大海に放り出された世代およびタイプの人たちは、「ネットで真実とされている話」を本物の真実と区別することができない。いわゆる、「シャレがわからない」のである。
この点で若い世代がネットの言論を真に受けて行動しないのは、
- そもそも行動力がない
- 行動に移す方法がわからない
- 情報をゲーム(仮想)感覚で捉えている
- 社会を変えるということに関心がない
もっと若者、例えば携帯を持った中学生ぐらいの人たちに対して懸念しているのは、活字化された情報を、無条件に正しいものと信じてしまうことだ。これは情報化が加速した2000年前後にも、大人でさえよくあったことである。しかし裏を取る、一次ソースにあたる、といったことをおこなうべき、という啓蒙がなされることで、この問題をクリアしてきた。従って子供たちへの情報教育も、ソースの真偽に対する啓蒙を行なうことで学習し、クリアできるものと考えている。
もちろんこのブログに書かれていることも、はたして根拠があるのかと裏を取らなければ、信用してはいけないわけである。多くの書き手は、自分が書いたことを信用して欲しいので、情報が不正確かもしれないとか、これは単なる妄想であるとかをいちいち断わったりしない。そこが活字化された情報を、誰でも発信できることのデメリットであると言える。そもそもこんなことを書かなければ、この本文も黙って信用する人がより増えるわけだが、それでも今こういうことを書いちゃうのは、書き手であるオジサンがバカだからである。

