Aerostats

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2009年05月

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※5月29日 内容について加筆修正した。



  映画公開間近にあたり、押井守氏のインタビュー記事が公開された。

『宮本武蔵―双剣に馳せる夢―』 原案・脚本押井守氏インタビュー

  宮本武蔵といえば、吉川英治作のものが一般的に認知されている。この吉川の武蔵像は、当時戦中の世相もあってか、いわゆる「剣一筋」、単純剛直な剣士が、次々襲いかかる卑劣な剣客をばったばったと斬る類のものだった。

  当時、吉川が「宮本武蔵」を書くにあたって、菊池寛氏と直木三十五氏の間で、宮本武蔵が名人か否かで論争があり、いわく、「狂気に満ちた殺人者なのか、求道者としての武芸の達人か」といったものだった。吉川は連載「宮本武蔵」をもって、その答えとした。武蔵は剣の道に生きたストイックな人物であると。

  武蔵といえば、小次郎との決闘が有名であるが、この立ち合いの際、武蔵が二度までも卑劣の手を使ったことが記録に残っている。ひとつは待ち合わせの時間から大幅に遅れたこと、次に小次郎が抜き放った鞘を捨てたのに対し、言いがかりをしたこと。また、武蔵が相手より長い得物を用いたというのも、あるいはこれ に含まれるかもしれない。

  つまり、武蔵とは一つの戦いをとっても用意周到であって、勝つための手ならば剣道外の振る舞いもいとわない人間だった。こうみると正々堂々とは縁遠いようだが、吉川の物語では、卑劣漢のそしりは敗者である小次郎が負い、武蔵は上に書いたように剛直な求道者となっている。

  さて、空手に取り組んでいるという押井氏が表すのは、狡知うずまく闘争のスリルか、神に祈るより確実に脅威をしずめる武蔵の悪びれの想像力か。少なくとも、退屈な吉川的武蔵への批判は、押井氏がインタビューで語るところだ。楽しみにしていることにしよう。

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日本製「性暴力ゲーム」を批判 自民女性局長「規制を検討(産経)


●経緯

  二月、Amazon.com のマーケットプレースに出品されていた「レイプレイ」という18禁ゲームソフトが、イギリスの国会議員 Keith Vaz 氏によって取り上げられ、話題となった。この騒ぎを受け、Amazon JP 、ILLUSION 社のラインナップからも当該作品が削除された。

  抗議を行ったのが Equality Now という、性暴力ゲーム禁止の運動をしていた団体で、問題の重点とされたのは「児童ポルノ」ではなく「性暴力ゲーム」であることのようだ。言ってることはそのまま、女性へのわいせつな行為がけしからんということだが、本作品の内容は国内でふつうに販売されているものと変わらない。

  イギリスでは最近 Coroners and Justice Bill という、性暴力描写のある創作物を規制する法案が審議されていて、その審議開始が2月2日、レイプレイ報道が2月12日だった。どうもこれに合わせての運動みたいに見える。ここらへんの事情については 崎山信夫氏 の記事が詳しい。

  当該作品は日本国内では合法であり、ソフトウェア倫理の審査によって、18歳以下がセックスに関わっていないと認定されている。また、販売されていた場所はマーケットプレイスで、Amazon, ILLUSION 自身がイギリス向けに売っていたわけではない。

●自民党議員の反応

  ここまでは新しくない話だが、今回、日本自民党の議員がコメントを表明した。

自民党の山谷えり子女性局長(参院議員)は22日、国会内で記者会見し、日本の業者が開発、販売している「性暴力ゲーム」を批判し、実態を調査するとともに規制策を検討していくことを明らかにした。(sankei.jp)

  この人は、作品の性表現などをよく批判するので、オタクの嫌われ者であるらしい。この機をのがさんとばかりに前に出てきた>類例

  イギリスでは、そのようなゲームの批判は主にさきほどの Equality Now などの団体が「女性の平等権の推進」を掲げて行っている。かの団体は基本的に古めかしいジェンダー中立を叫んでいて、「女性がしないことは、男性もするべきではない」といった調子だ。

  古い男女平等化の考えは、肉体的差異を(権利で)穴埋め、あるいは無視することで平等とされ、弱者の女性が自らの権利を取り戻すという物語により推進する。そこからエスカレートし、女性の感覚にないものは、男性もこれを捨てるべきだという主張がおこる。

  さて、性のうちでも性暴力の創作を禁止するとのことだが、それでは何を許可するというのだろう? うつくしくきよらかな恋愛のセックス?

  人間の恋愛感情は、ドーパミンやノルエピネフリンといった脳内ホルモンが 多量に分泌されるさい、起こるといわれる。これには興奮作用があり、さらに脳内ホルモンのバランスが崩れ、セロトニンが減少する。これによって強迫神経症の症状が出、理性が崩れだす。同じくテストステロンが増え、これは暴力性に関わっている。(参考:本田透「脳内恋愛のすすめ」)

  これは現実に際してのことだが、もちろん創作にも用いられる概念だ。ひとをよろこばせる作り話なら、すこしくらい暴力表現がオーバーになるかもしれないが、こういったほんとうのこと(恋愛は本質的に凶暴であること)を取り入れない作品というのは、意味がなく、まるで空虚なものだ。そんな退屈な作品たちが、どうして人を怒りっぽく、乱暴にしないと言えるだろう? あるいは、そういった暴力的な感覚をきざした人々が、自分を異常だと思ってしまったらどうするのだ。

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前エントリ(25話まで感想)は後で見直して酔っ払ったような文章だと思ったものだが、言ってることはそんなに外れていなかった。チーに手がかかることを思った両親は、よーへいが赤ん坊だったときを回想する。また、今度はよーへいがチーを注意するという、受け継がれていくものを提示している。

よーへいのなんと純で、健気なことだろうか。視聴者にはチーのエモーションが見えているが、これは現実ではよくよく観察しなければみえてこない。よーへいの友達がそれを示してくれている。なんと驚くべきことか、視聴者はそのような絶対無垢の少年の視点で、猫を眺めることができるのだ。この可笑しさ、スリリングさといったら他とは比較できない。

日本のアニメとはこの、「誰かにしか見えない世界」を描くことが求められてきたのではないか。鉄腕アトムを描いた手塚治虫の絵は、セクシャリティによって歪んだ、彼にしか見えない世界だった。博士がわが子としてアトムを抱きしめるときの、快感の発露といったら!

昨今のアニメといえば、もはや共通認識となった「アニメ絵」にのせて、つまり誰かの視点を借りた上で、物語を進行させていくものでしかなくなった。だれもが自意識を投げ出し、一般的なフォーマットに沈溺していくのだ。誰かと同じ悲しみ、楽しさ、喜びを感じなければ我慢ならないといったように。

だが、はたして、そのようなもの、誰かと同じ感情といったものは存在するのだろうか?

先日のエントリ > X61 tablet 不調

IBMの修理サービスにPCを出していたのだが、それが今日帰ってきた。報告書には「LCDケーブルの故障による障害」と記述があり、ハードウェアの問題だったようだ。修理のためにあちらが配達を手配してくれ、預けてから一週間足らずで戻る迅速な対応だった。保障期間中であったため費用はかからず。

●雑記

さいきん県立図書館に行って、ずっと読みたかった本を三冊、さらにCDを5枚借りてきた。今まで注目していなかったのだが、本はもちろんCDもなかなかの品揃え、特にクラシックの棚を眺めるのは楽しかった。ただ、ソートの方法に問題があって、ひどいところではファースト・ネームとファミリー・ネームで、同一人物が別に並んでいるのがあった。

いちおう県の主要街の図書館であるため、机には張り詰めた表情でノートに向かう生徒・学生の群れが。その中で、閉架にある本貸し出しのためのレシートをがりがりと印刷する。図書館には地下書庫もあって、こちらは来館者が自由に入っていって探せるようになっている。人気がなく、足場が揺れて、せまい通路に本が天井まで並ぶ、わくわくする場所だった。

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さて、アニメのエントリを書くのは久しぶりだ。前記のファントム感想も、ついいましがた該当話を観てから書いた。これは現行からずいぶん遅れてしまっている。しかし、どれをさしおいても、チーズスイートホームは欠かさずに観ている。

●チーズスイートホーム 第25話まで

必要に迫られて観るアニメを除けば、楽しみでこれに勝るものはないだろう。これについては手放しでほめることができて、この作品の中心はつねに動物であり、猫が支配する世界だ。我々が赤ん坊に対して支配者であるというよりも、むしろ奴隷であるように。

猫からの被支配のよろこびは赤ん坊を持つことに似ているが、猫との関係は、当然ながら人間の異性愛におけるドロドロとした生殖の感覚を誘起しない。赤ん坊は生の象徴であるが、同時に死の象徴でもあり、男性にとっては脅威となる。

そういったネガティブな経験なしに寄り添ってくれる猫は、男性にとってすばらしい存在で、これはオタク的文化にみられる女性の生理的な浄化(二次元、トゥーンレンダリングなどの人形化)にも結びつく。それは性的、精神的充足の両方を求めた例だが、現実の猫に求められるのは後者のみであり、前者が限定的(年とともに減衰する)であるのに対して、後者は常に求められている。巷の人が自分の伴侶を悪く書き立てることのなんと多いことか。

よく、特定の作品を絶賛して譲らない人を信者というが、そういった人たちは硬化して想像力がないのに対し、動物を崇める場合はどうだろうか。動物は自然であり、自然には無限の含蓄がある。日本ではいまや宗教はネタ扱いだが、かつては自然を崇めていたこともあった。そこに、精神の充足の鍵がある気がする。

そういうわけで、このアニメを心から楽しんでいる。

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