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記事2 077-050 P1280553       慰霊碑と海岸P1060227
    「夕陽の見える日露友好公園」の記念碑 右奥に見える半鐘の櫓の近くに墓碑がある
 昭和7年(1932)12月2日 秋田魁新報の記事

   漂流赤露漁船 遭難の話を聴く (上)

 土崎商校教諭――星野氏の通訳で 本社記者訪問記

   (「赤露」はソビエト・ロシアの蔑称だそうですのでご使用には注意してください。)

 激浪の日本海を漂流すること11日間 死の苦闘を続けながら1 由利郡松ケ崎村に漂着し 同村民に救助された赤露の漁夫4名(1名は死亡)の遭難談を聴くべく本社記者は土崎商業学校教諭星野梅太郎氏をわずらわし 1日午後彼等の保護されている松ヶ崎村協議場を訪問し 星野氏の通訳でその遭難談を聴くことを得た

     

 彼等はウラジオ湾内にあるルスリー島に住んでいる漁夫たちである、松ヶ崎村深澤の漁民のなさけで部落協議場の炉を囲んで バットをウマそうにすっている 星野さんは名前はなんというかというと 一番年長の漁夫イワンザベリベッチアスマーチコ(50) 不器用な手付で鉛筆で書いたのによると モウ2人は イワン・ニギーヂベツ・クリカニー(18) アキモフ・パーウエール・ワシリウッチ(20) 死んだのはニコライ・バクレンコ(16)というもので 皆ルスキー島の漁夫で4人共同で漁夫をしていた、ニコライは4日前に船の中で哀れにも死んで了った(しまった)ものである

     ◇

 星野氏「何日ウラジオを出たものであるか」と問うと、自分だちは露歴の11月(太陽暦11月18日)の夜 午後8時頃西風に乗ってイワシの漁に出たのでした、その時は網10ほど持って漁をしていたが相当漁があったので喜んでいるうち 風が変化し西風が強北風になって5日間ほど北へ流されておりました、その中 また西風にもまれて荒海を漂流していました、丁度3日目で此処へ着いたものらしいのです、漂流中は毎日天候が悪く食物は2日あったきり あと11日間は何一つ喰わず水も呑まずにいた

 「そうして漂流している間 どんな気分であるものか」と記者たちが質問すると

     ◇

 船が大風のため2本の帆柱の中1本が倒れ 舵がなくなってしまうとモウいかんとも出来ず からだが痛んで何もわからなかったと語っていた「どうもからだの工合が悪いから明日医者に診て貰いたい」とイワン老人は異国人の情を身にしみているかの様に感謝と哀願の瞳をかがやかしていた……

     昭和7年(1932)12月2日 秋田魁新報の記事

記事3 077-052 P1280555慰霊碑 P1060197写真3 077-049 P1280552
 昭和7年(1932)12月3日 秋田魁新報の記事    深澤部落協議場内の3人(別記事の写真)

 漂流赤露漁船 遭難の話を聴く (下)

 土崎商校教諭――星野氏の通訳で 本社記者訪問記

   (「赤露」はソビエト・ロシアの蔑称だそうですのでご使用には注意してください。)


 激浪のまにまに死の苦闘をつづけていた此の漁夫たちは
漂流13日目に異邦の海岸に打上げられた 松ヶ崎深澤の漁民50余名が救助に出ると 彼等は恐怖におののきながら容易に船から上がろうともせず 船尾の方に頭を突っ込んでワクワク身慄いしていたそうだ「日本人をみて恐ろしかったのか」と星野さんが聞くと イワン老漁夫は大きな頭を振ってみせて

 いやそうでない、非常に嬉しかったが銃を持っている人がいたり、手まねぎする人があったりして(ロシアの風習では手まねぎは向うへ行けということ)上陸していいのかどうかわからなかった、此処へ着くといろいろなものを食わせて呉れて何より有難かった

と星野さんの手を垢だらけの真黒な手でギューと握って老漁夫はロシヤ人らしい愛嬌を振りまく。

     ○――

 「ここはどこだか判っているか」と問うと「オウオウ判っている、ニッポンだ!」と異口同音に生き残った3名は叫ぶようにいう「漂着するとすぐ午前10時半頃 握り飯を3つづつと味噌汁を腹一杯食わされ日本人に好遇されました、有難い有難い」と目をうるませてイワン老漁夫は力なく笑った、それから3名は「この付近に領事館がないか」と星野さんにきいていた、「函館に領事館がある、多分警察で間もなく其処へ送ってくれるだろう」と星野さんが地図を示していうと アキモフ君(20)もイワン老漁夫も安心の色を眉宇のあたりに浮かべて喜ぶ……。昼には松ケ崎村にパンがないのでワザワザ本荘からパンを取り寄せて3人に與えたそうだ。12日間一物もとらない彼等は貪るようにパンに噛みつき 一人30銭づつぺろりと平らげ 晩もパンを20銭位と部落民の好意から梨と林檎をたべているから もう何もほしくない」と語っている、煙草も與えられて吸っているとバットを3人で甘(うま)そうに吸っている 疲労し切った体をアキモフ君はロシヤ人特有の恰好(かっこう)で長々と炉端に伸ばして元気よく話を続ける

     ○――

 木綿のは入ったモクモクする厚い上着に 下にルパシュカを着てその上に雨外套をヒッカケた きたない服装で 生魚の臭気がしみ込んでムッとする程であるが 大陸的なおうようさを備えた彼等は いたって好人物であるようだ「フアイガ」というこの粗末な漁夫の着物はどんな海の寒さの中にあっても温かいから少しも寒くない、とイワン老漁夫は語っている、「遭難中にあの小船に水がは入らなかったのか」と星野さんは話をむける

 私達のクンガース(漁船)は非常に丈夫なものである、大風に襲われて激浪にもまれるとすぐ船の上に盤を張ってカブセ蓋をして了う(しまう)から 船には水が少しもはいらない、其上(そのうえ)風が当らないので中は非常に温かに出来ている 船は2トンのもので帆柱が2本あったが 今は1本をとり 舵も何もみな失って了った、船はおしいがこのままにして行くよりほかに方法がないでしょう

とイワン老漁夫は此の難破船にまだ執着をもっているような口吻(こうふん)である。それにしてもよく此の小船で日本海の荒浪を乗り切ったものだと松ヶ崎の漁民たちを感心させている「日本人であったなら此の小船で、4 5日も食わずにいたらとても生きてはいないものだそうだ。

     ○――

 彼等は何づれも薄幸な身の上のものばかりで 話をきいてみるとそぞろ哀を誘うものがある、イワン、サベクベッチ(50)にはルスキー島に18歳になる息子が一人いるが 妻君はゾルフ海にいた当時漁に出て死んでしまった、彼は18 9歳の頃から漁夫となり もとゾルフ海付近の漁村にすんでいたものらしい、妻を失ってからウラジオストッキーの方に移って来たもので 赤系ではないと語っている。イワン・ニギリベチ君(18)には父親があるだけで兄弟も無く アキモフ・バーベニール君(20)は父親が死亡してしまって今では身寄のものとて一人もない天涯の孤児であるのだそうだ。死んだニコライ・バクレンコ(16) 激浪の中を漂流しているうち4日前に哀にも餓死してしまった。「吾々もモウ2、3日あのまま漂流していたらきっと死んでしまったに違いない」と3名は今更の如く難船中の苦闘を想起しているかのようなまなざしであった。

     ○――

 「金もない吾々はどうなるでしょう」イワン老漁夫は不安な面持で星野さんにきいていた、が「何も心配いらない」と慰められると それでもニコニコとして我が社の夕刊所載の自分たちの新聞写真に見入っていた、そして「この写真を一枚ほしい」と言い出した「何か外にほしいものはないか」と星野さんがきくと「日本の酒をのみたい」とねだる、部落に酒がないので大騒ぎをしたらしかった「からだが痛いしそれに咽喉が痛いから 明日でもいいから医者を招()んでほしい」とくりかえしていっていた。哀な異国の漁夫たちが漂着するに相応しい淋しい松ヶ崎村深澤部落は この珍客を迎えて1日夜青年団員や老若男女は協議場に押寄せてくる まるで黒船到来で騒いだ昔の浦賀の騒ぎのようだ、会場前の日本海は暗黒の空に蔽われて無気味な荒浪が海岸に吠ている、やがて上弦の月が出かかり はるかの水平線上の空を明かるく染て 黄金色の海面が静かにゆれていた。イワン老漁夫は述懐するように「私たちはモウ死んだものとして故郷のルスキー島では騒いでいるでしょう、こうして3名帰って行ったらビックリするだろう」と語っていた、記者たちはお別れに握手をもとめると喜んでイワン老人は黒い大きな手をさし出して堅く堅く握った(凸版は老漁夫イワンの書いた4人の氏名と年齢)

   昭和7年(1932)12月3日 秋田魁新報の記事

ニコライ少年は、3人の漁夫がそのむくろの前に跪く中、深澤部落の德昌寺の住職が読経し供養しました。その情景は深澤の人達にも漁村の漁夫らしいどこか一致した哀情をそそるものがあり、人々の涙をそそりながらの仮埋葬であったそうです。同部落の共同墓地に葬られたと別の記事で新聞報道されています。漁夫3人については、12月4日、午後6時10分本荘駅発列車で、函館ロシア領事館領事アイセンスタート氏の見送りを受けながら敦賀経由で帰国の途につきました。


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