No Border

一つのお題に12人が挑むブログ。毎日 9:00 と 21:00 に更新。
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第12回

Hello world

言葉とは、なんぞや?

狭義で示すならば、発話や記述による言語と定義できるでしょう。非常に分かり易く、納得もできる。しかしながら、日々活用している言葉を振り返ってみれば、それは極々一部でしかないことに気づく。目は語る、手は語る、文字は語る、行間を読む、空気を読む…… それらで表現された情報もまた、言葉である。遡って考えれば、言葉は表現に帰着する。



表現者は、何故発信するのか?

表現者は、発話や記述などには拘らない。音楽家は旋律で語り、ダンサーは踊りで語る。犬は耳や尻尾で語るし、花は色や匂いで語る。それは、伝えたいモノである意思が存在するから。生物の伝える理由は、たとえ脳が無くても遺伝子が持っている。そういった視点で見れば、世界は言葉で溢れているのだ。



言葉を理解する

人間同士であれば、発話・記述としての共通言語を持っていなくとも、表情・仕草から相手の意思を読み取ることは不可能ではない。ならば、人間同士に限らなくとも、意思疎通の可能性は存在するだろう。自分の持つ言葉と相手の持つ言葉、それらを理解しようとすることで可能性は生まれる。人種の壁も、種族の壁も、界の壁も、全ては些細な境界でしかなく、可能性は境界を通過する。



No Border

言葉は境界を無くした。世界は言葉で繋がっている。

言葉の妙

幼少の頃、どうして世界の言葉を統一しないのだろうと思ったことがある。そうした方が便利だし、国際化とはそういうことじゃないのかと考えたりした。
しかし、では日本語を捨てられるかと問われたら答えは「否」である。言葉とは文化であり歴史である。そう簡単に切り捨てられはしない。各々の国でも同じだろう。

では、自国の言葉はそのままに、共通の言語を作ってはどうだろう。そう思って調べたら、さすがに同じ事を考え、実行に移した先駆者がいらっしゃった。ご存知エスペラントである。この言語、とても画期的に思えたのに、どうして普及していないのか疑問に思っている。何かきっかけがあれば普及してもよさそうなのだけど。

閑話休題。

結局のところ、言葉というものは伝えたい内容が相手に伝わればいいわけで、究極的には、減退なく電気信号の伝達がなされればいいということになる。
だけど、言葉の面白いところは、言葉にできないこと、その表現にあったりするわけで、一筋縄ではいかない。
長い言葉を重ねるより、短い言葉の方が心に響くことがある。直接的な表現より、暗に喩えた方が言いたい言葉に近づくことがある。

さて、この脈絡もなく綴ってきた文章、おそらく僕が言いたいことが何であるか伝わることはないと思う。実のところ、僕にも分かっていないのだから。

メタファー

 言葉とは何か。これはもう色々な人がそれこそ色々な言葉にしていると思います。

 言葉とは伝達手段
 言葉とは思考のパーツ
 言葉とは記録される事象の表現
 言葉とは存在を表す最小単位
 言葉とは……


 難しいですね。言葉という概念をいきなり把握しようというのはとても難しいことです。
 ですので、ひとつのメタファーで表してみたいと思います。


 言葉は人と人の間をするりと埋めてしまうもの。
 言葉に形はなく、自由自在に形を変えていく。
 言葉を優しく流せば心を洗うでしょう。
 強く勢い良く打ちかけることで、目が覚めることもある。
 冷たく放たれた言葉は凍り、人を傷つけてしまうかも知れない。
 暖かく紡がれた言葉に満たされて癒された人も多いでしょう。
 言葉に着いたそれぞれの色が組み合わさって、ときに濁りながらときに鮮やかな色を持つ。
 悲しい言葉は誰かの涙かも知れない。
 誰かが発した言葉はネットによって気化し、薄まりながら広がって遠くの人の元で液化することでしょう。
 言葉は今や現代人の心や思考にとって無くてはならないものと言えます。

 言葉とは水。そう、水のようなものではないでしょうか。


 そんな、水のように必要不可欠な言葉。水のように大事な言葉。水のように、人間を大きく構成する言葉。それをこうして使うことのできることの喜び。我々は水道の水が当たり前に出るのと同じように言葉も当たり前に使っていますが、これがどれほど凄いことでしょうか。

 今こうして、そんな言葉達をここに残せる幸運と、そのために礎となった人々に感謝を申し上げて、このエントリーの、私のNo Borderでの記事の締めとさせていただきます。

言葉は当てにならない

・目は口ほどにものを言う
・百聞は一見にしかず

言葉というのは信用ならないものだと思ってます。

なぜか?



言葉は人間の内から生み出されるものの中で一番外側に位置するから。

「言葉を発する」というのは思考や考察といった内側のイメージからは遠い、

むしろ手足を動かすのと同じ外側の部類に属するものだと思ってます。

言葉にはフィルターがかけられる



「言葉を発する」ってのは「行動」で、自分がコントロールできるもの。

・「風邪引いた?」「大丈夫」←大丈夫じゃないけどいろいろ聞かれると面倒だからほっといて
・「昨日徹夜でさぁ~」「すごいですね!」←とりあえず言っとけ

自分の心境に反して行動することが容易。

逆に「感情」はコントロールし辛い。それは態度や話し口調に現われ真に知るべき相手の本心。「メールでのやり取りじゃなく、会って話すべきだ」とか「会話を通してコミュニケーションを深めるべきだ」とか、よく言われてますよね。

さて、ブログ



インターネット上でもっとも一般的な意思疎通の手段として用いられている"文章"もこの欠点を抱えているわけです。

・どこでもいつでも書くことができるというアウトプット側のメリット
・どこでもいつでも自分のペースで読むことが出来るというインプット側のメリット
・少ないデータ量で多くの情報を保存できるというリソース的なメリット

この3つのメリットに支えられた結果が今のインターネット。

技術の進歩で3つ目のメリットは消えつつあるけど、発信者と受信者の時間が解決しない限り、インターネット上での"文章"の立ち居地は普遍。仮に発信者が時間を割いて"自分の本心"が伝るよう、音声・動画を用いたとしても、それが"文章"に書き起こされたものが広まるでしょう。

言葉に頼る限り、相手の本心は分からないし、僕もこうしてブログ書いてますけど、結局インターネットじゃ自分の本心は伝えられない・伝わらない・むしろ誤解されるということを前提に考えています。

あらゆる揉め事はコミュニケーションの不足から起きる

ブログやTwitterやメールやチャットや掲示板は、書いたことが一度誤解されてしまうと、弁解しようとしても、さらにこじれてしまって難しい。沈黙は金なり。コマンドーは筋肉モリモリマッチョマンの変態なり。昔の人は悟っていたんだなぁ。

そういうことも踏まえつつ、人間何かを自分の言葉で伝えなければコミュニケーションできないわけでして。
今日はそんな話。

友人と遠くに遊びに行こうって話があって、
まぁ予定の調整とかそこに向かったら何して遊ぼうとか、費用は、旅館は・・・等々掲示板を作ってやり取りしてたんですけど、目的地が東北に旅行しに行こうって計画で。
準備も整ったし、あとは当日楽しむだけだうおおお!って時の一週間前に東日本大震災前がありまして。

当然旅行の計画はそこで延期。
いや無理にでも行こうとはしてたんですね。
結局交通がダメっぽいので全部キャンセルに。

んでもってまた掲示板に気を取りなおしてまたやり直そうって書き込みだした時のことを思い出すと、
楽しみにしてた旅行がパァになったし、震災当時の不安な状況から、
今思い返すとみんな確かにイライラしてたよなぁと。

ケンカ別れってわけでもないし、その後旅行の計画をその時の掲示板で決めたことを再度行う形で進めてスムーズに決めたし、旅行自体は大成功だったし、俺自身もすごく楽しかったんですけど。
俺は被災地からかなり離れたところに住んでるので特に被害も心理的影響もほとんどなかったから余計そう思うのかもしれませんが。
俺が果たしてちゃんとコミュケーション取れていたのは疑問でしてね。

ひょっとしたら俺がもうちょいなんか頑張ってたらよかったかなーとはほんのちょっとですが考えてしまう。

コミュニケーションは「不足」するより「余計」であるほうが、問題は少なくなる。

これは友人が言ってた言葉で俺は震災以来なるほどと思って、割りと心がけていることなんですが、
大人になればなるほどプライドが高くなるっていうか、
自分の方から「降りる」ことができなくなるなって。

この企画も執筆者の一人いないままだったりしてますが、
そうなった理由は元々はTwitter上の大人げないやり取りというか、
ちゃんと自分の落ち度を言葉で説明しなかったコミュニケーションの不足から起きたことだしなぁ。

俺はその時のやり取り見てた(出かけてたので携帯からチラッと見た程度なんだけども)のでそこで横槍入れなかったってのも後悔してますね。
それぞれの執筆陣の記事ごとのつながりはほとんどないですけど、
同じ企画に参加してるチームですしね。

前述の掲示板の件も、後半のことも、
人とぶつかるということを恐れるというか、トラブルに関わりたくないっていうか、
なんつーか、言わないことでまた別の誰かが迷惑するってことを想定してないってのは現代の個人主義的な傾向なのかなと思ってしまう。

うわあ説教くせぇなオイ!
でも誰も何も言わないんだもん、俺が言うしかねぇよと。ヨゴレ枠だしね。
他の人も俺と同じ思ってたのかもしれません、てか思ったはず。
 
しかし時代が追いついてないので、
頭の中で思ったことを相手に理解してもらえる機械や超能力とかないので、
自分で腹くくって何か発言するとか、リスクを背負って覚悟決めて言わないと、
理解すらしてもらえねーんだよなぁ。
トラブルやますますこじれるってことがあっても。
仕事じゃなくて遊びでやってるんだから全力でやってるわけだし。
自分のことを棚に上げてるわけじゃなくてむしろ自分に言い聞かせてるみたいになってる気もするが。

人同士っていうは幾ら好き同士でも、口にしないと通じないことだってあるんだよ?

ということをお題の「言葉」に対して何を書くかを決めた時に思い出した、なるほどとポンと膝をついた言葉。

これは親戚の少年を強姦レイプしてそのまま恋人に調教するっていう「ショタ調教物語」っていう同人エロゲの台詞ですけどねコレ!

ネット上(に限らずあらゆることも含まれるかもしれませんが)の揉め事ってだいたいコミュニケーションのすれ違いがあって、それを言葉で説明し切れないことから起こるからなー。何か見かけたらそこに注目するとちょっと面白いと思いますね。

というわけで俺の記事はおしまいです。閲覧ありがとうございました。
コマンドー系ニュースサイト@nikutyせかんどもよろしく!

■関連:文豪騎兵ボトムズ ノーボーダー・ファイルズ(@nikutyせかんど)
なぜか執筆者なのに最後のお題にトラックバックした改変ネタ投下するっていう3ヶ月前から仕込んでた一発ネタ。

この改変ネタに合わせるために12人の執筆者が全員完走してることが望ましかったので、
俺はあん時必死だったのよみなさん。
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