2015年09月

2015年09月29日

なぜ、村上春樹か

村上春樹の小説
僕は、現在は時代の大きな転換点にいると思っている。
村上さんのいうランドスライド(地滑り)である。

それは、僕流に言わせてもらえば大量生産、大量消費、高エネルギー消費、自然収奪型、環境破壊型の人工的な、非自然的生きたかの時代の終わりの時代である。

しかし、こうした時代は実は人々の欲望と生き方と社会の仕組みが、これに合うよう形作られている。
その欲望のシンボルがお金である。そして地位や名誉や権力となっている。このことは、決して大組織だけでなく各地域や家庭や友達や様々なレベルでの人間関係に沁み渡っている。
こういう自分の中にも浸透している。
これをどう変えていけるか。

時代が変わっていくということは、そこに生きる人々の思想の転換を伴う。
価値観の変化である。それは徐々に起きる。
このとき、論理や関係性、システムの変化だけではダメだと思う。仏作って魂入れず。

第二次大戦の帝国を打倒した革命家たちの変質。
いや暴力的組織のなかに胚胎された人間観。ヒエラルキーと数の論理。権力の崇拝。
社会主義イデオロギーが、偏狭な人間不信と陰謀と権力闘争に堕する。

それをどう変えていけるか
豊かな心とは、何か。貧しい心とは何か。
そもそも心とは何か。

村上春樹がいう深い井戸を掘っていくと世界に通じること。
あるいは、姫田忠義がいう基層文化。
ユングのいう集合的無意識。あるいは「元型」と共時性(シンクロニシティー)

これらについて、僕はこう考えている。
ダーウインのように種ごとに進化を限定しない。生命圏全体が進化する。進化とは大きな環境変化である。地球が温暖かするスピードが速まっている。すると、地熱も海水も高まる。そこでバクティリアが高熱環境で生きるように変化を起こす。そしてそれを基盤に小生物、昆虫、植物、哺乳類など大動物が次々と変化していく。生命圏が連鎖しながら大きく変化を遂げていく。

同じように、人間圏を考える。
人間を全体として、総体として捉える。そのように心に反映してくる。
つまり心のなかは、人間全体が反映している。したがって、心は多様で複雑だ。
自分が意識できているのは、ほんの上層でしかない。
その基層に低層になにが潜んでいるか。これがわかっていない。

悪人も、善人も、権力闘争も、陰謀も、そのような心は自分の中にある、
それがいまはたまたま表に出ているだけなのだ。だから自分の多層的多様性を知ること。
そうしてその奥深くから、真の深いつながり、分かち難く結びついている全体としての心を知ること。
それが超能力の正体である。しかしそれは普段はできない。知り得ない。

人は、物語の中を生きている。
誰にでも自分を主人公にした物語がある。
その物語の主人公が、様々な逆境や壁を前にして、その苦難を前にして、逃げ出さない。
むしろ試練として捉えて、楽しむこと。冒険である。

人生は、旅。
冒険と、夢と、挑戦と、そうして心豊かな共生の社会へとつづく。
一人ひとりが変わるという偉大な実験。これが村上春樹だと思っている。

うつになったら読んでみよう。
そうになっても読んでみよう。
不思議な勇気が湧いてくる。人は、母親の中で系統発生する。社会に出て、人類史を旅する。
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2015年09月28日

村上春樹 「職業としての小説家」を読む

あの村上春樹がこんなに率直に自分を語るとは思えなかった。ホントに正直に話されている。

なぜ村上春樹か
気になる言葉を羅列してみる

小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではないようです。
しかしあまりに頭の回転の素早い人は、あるいは人並み外れて豊富な知識を有している人は、小説を書くことに向かないのではないかと、僕は常々考えています。小説を書くーあるいは物語を語るーという行為はかなりの低速、ローギアで行われる作業だからです。

また知識の豊富な人なら、わざわざ物語というようなファジーな、あるいはよく得体の知れない「容れ物」を持ち出す必要もありません。あるいはゼロから架空の設定を立ち上げる必要もありません。手持ちの知識をうまく論理的に組み合わせ言語化すれば、人々はすんなり納得し、感心することでしょう。

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。

しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだとということになります。

別のところではこう言っている。
一言で言えばそれは精神の「タフさ」ではないかと、僕は考えています。迷いをくぐり抜けたり、厳しい批判を浴びたり、親しい人に裏切られたり、思いもかけない失敗をしたり、あるときは自信を失ったり、あるときには自信を持ちすぎてしくじったり、とにかくありとあらゆる現実的な障害に遭遇しながらも、それでもなんとしても小説というものを書き続けようとする意思の堅固さです。

そしてその強固な意志を長期間にわたって持続させていこうとすれば、どうしても生き方そのもののクオリティーが問題になってきます。まず「十全」にいきること。そして「十全に生きる」というのは、すなわち魂を収める「枠組み」である肉体をある程度確立させ、それを一歩ずつ着実に前に進めていくことだ、というのが僕の基本的な考え方です。生きるというのは(多くの場合)うんざりしてしまうような、だらだらとした長期戦です。

肉体をたゆまず前に進める努力をすることなく、意志だけを、あるいは魂だけを強固に保つことは、僕に言わせれば、現実的にはほとんど不可能です。人生というのはそんなに甘くありません。傾向がどちらかひとつに偏れば、人は遅かれ早かれいつか必ず、逆の側からの報復(あるいは揺れ戻し)を受けることになります。一方に傾いた秤は、必然的にもとに戻ろうとします。フィジカルな力とスピリチャルな力は、いわば二つの車の両輪なのです。

学校についての言及もおもしろい。
僕は、高校で暴れて中退しているので、なおさら村上春樹のいうことが身にしみてわかる。

日本の高校における英語の授業は、・・・何を目的にしているか。大学の英語テキストで高い点数を取ること、それをほとんど唯一の目的としているのです。
それよりもっと大事なのは「自分は何のために英語(あるいは特定の外国語)を学ぼうとしているのか」という目的意識です。それが曖昧だと、勉強はただの「苦役」になってしまいます。

そしてその傾向は教育のみならず、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものにまで及んでいるように見えます。そしてそれはーその「数値重視」の硬直性と、「機械暗記」的な即効性・功利性志向はー様々な分野で深刻な弊害を生み出しているようです。

たとえば2011年3月の、福島の原子力発電所事故ですが、その報道を追っていると、「これは根本的には、日本の社会システムそのものによってもたらされた必然的災害(人災)なんじゃないか」という暗澹とした思いにとらわれることになります。

想像力の対極にあるものひとつが「効率」です。数万人にも及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想から結果的にでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。

我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。そしてその軸を、共同体=コミュニティーへと伸ばしていかなくてはなりません。

社会基盤・構造の大きな変更が、人々が日常的に抱いているリアリティーのあり方に強い影響を及ぼし、また改変を要求するというのは当然のことであり、自然な現象です。現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人々の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代にあっても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します、

そう考えれば、日本という社会は、そのような総体的ランドスライド(地滑り)を、欧米社会よりもむしろ早い段階で、ある意味では自明のものとして、自然に柔らかく察知していたのではないかという気もします。

村上春樹はシャーマン
心の、精神のもっと奥底を表現できるパワーを持っている。
その物語が世界と日本の大転換の時代を予言し、大いなる心豊かな世界の創造へと僕たちを駆り立てる。旅へ、冒険へ、そして走り続けること。

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2015年09月22日

村の敬老会

20日は小学校区の運動会
各集落ごとに選手を立てて、実際は全員参加でゲームを行う。
今年は僕は選考までで、新潟へ行っていて参加できなかった。

翌日21日は村の敬老会
午前中はグランドゴルフ大会
各チーム5、6人に分かれてパークゴルフだ。
これが高齢者だと軽く見ていると、とんでもない。電動カートのような物に乗っていたり、手押しカートに掴まったりしてるが、いざタマを打つ段になるとピシッと決める。これがうまい。

ついて行けない
優勝や上位はおばあちゃんたちの独占だった。
その後でお昼から食事会。お刺身や仕出し。公民館を音響道具もしつらえて盛り上がる。愉快に踊ったりどんちゃん騒ぎ。

部落長の保男さん
副会長のミチヒコさんや体育指導の和秋さんや仲間たちがさりげなく準備をしたり盛り上げる。
いやー酔ったな。バカになる。

村はみんなで盛り上げていく
70歳以上の人は15人、他に集まっても50人弱。
それでも暖かな時間が過ぎていく。

そうはいっても村の中
しょっちゅう人間関係の問題が言われている。だが、それを包み込んで守られていく。
秋もいよいよ姿を見せはじめる。
島のひととき
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2015年09月17日

下手くそな草刈り

田んぼとその山道の草刈り
家の裏の道路を上がると、曲がり角に景色のいいところがある。ここが木折り坂。ここを左にカーブして、もう少し上に行った所に左へターンするような小道がある。そこを奥まで行って、アスファルト道から、右に下るように続く山道の終点がウチの田んぼ。

8月上旬にはすでに稲刈り
が終わり、刈り取った株からもうひこばえが生えている。

その田んぼの畔を草刈り
この間は、田んぼの脇のチンチクの竹の子も採った。アクが強いがうまくアク抜きをすると美味い。

ヘビ
黒と黄色のヘビを見た。おわっと驚いた。軟弱者。広美の方がタフ。ぜんぜん気にしない。へいちゃら。

赤トンボ
少しくすんだ茜色。たくさん飛んでいる。バッタもいた。ときにオニヤンマも見かける。

田んぼの畔を終えると山道へ
最初は、真ん中に残るかなり伸びた草を刈る。石ころに注意するが、ときどきチィーんと当たってしまう。刃こぼれ。

両脇の長い草丈
に絡まる。そのたびにエンジンを止めて絡まった草を取っていた。たまたま近くにいた和明さんが見るにみかねて指導に来た。

その要点
右から左へ刈る。左からは刈らない。
刃はそのようにできている。なるほど。
回転盤の先の半分を使う。そして少しづつ前進する。無理しない。
良く切れる回転数に調整する。
刃は少し左を下げて、切りながら刈った物を左に払うように持っていく。

やってもらう
おもしろいように刈っていく。かつ、腰を使う。無理しない。

毎日、時間さえあれば通う
だんだん面白くなってくる。慣れれば慣れるほどラクになってる。

まずは草刈りから
山仕事へ
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2015年09月15日

心の探求 森山 徹 「オオグソクムシの謎」を読む

心の正体は何か
動物に心はあるか

よくある話に心は、脳にありその脳の活動をコントロールすれば心をコントロールできるという。
いつもそれは違うと思っていた。なぜなら、体と心はややこしい関係にあり体が不調だと心も落ち込みやすい。それだけでなく逆に体調がいいと心も軽くなる。あたりまえだが。
そこで、心をコントロールするときに体を使うことでしやすくなる。

しかし、この森山先生の話はもっと深い。
まずダンゴムシの研究、そしてその仲間の海の中のオオグソクムシの話が出てくる。
ダンゴムシが丸くなる。あるいは迷路を動く。特に丁字路で方向をどう転換するか。
その丁字路で予期しない行き止まりになると、突然壁を登ったりするという。
それを機械とは異なる動物に固有する心の動きとして捉えている。

心を、「私がある活動を発現させているとき、私の内には、『活動しているものの、伴われる(意識的、及び無意識的)行動の発現を抑制する部位」が複数存在します。このような部位を、私は『隠れた活動部位』と呼ぶ」この「隠れた活動体」を森山先生は「心を持つ」と表現している。
これはすべての動物に当てはまるという。

面白いのは、ダンゴムシやオオグソクムシの詳細な研究が述べられているが、じつは後半で心は妖怪という章がある。ここはものすごくおもしろい。

ここで彼は述べている。
「ある部位が隠れた活動体となるきっかけは、別の行動が断りもなく、突然発現することです。さらに元をたどれば、その行動を発現させる刺激が動物に対して突然割り込んでくること、すなわち『刺激の刷り込み』なのです。
動物体を含むあらゆる自然物は、それぞれ独自の時間を生き、かつ、互いに接点を持ちます。すなわち、互いの生きる時間、生活のペースを知らないまま、互いに作用してしまうのです。
この意味で、『独自の時間を生きるものが接点を持つこと』、すなわち『うかがいしれない他者との共存』が、隠れた活動体が生まれること、すなわち『心の起源』であると言えます。

といっている、これはすごい。
いわば、仏教の世界を科学が接近してきていると思う。
もちろん、森山先生が科学界で主流とは思えない。
だが、彼の凄さ。その世界はものすごくおもしろい。

今後、楽しみな存在である。と思う。
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2015年09月09日

田んぼで花火大会 9月にタケノコ

種子島の山の中、奥まった集落の外れの田んぼ
ここにステージを仮設して、見学客向けの桟敷席を配置し、夜店も並ぶイベント会場に変身していた。
空地の駐車場はすでに満杯。延々と続く山道の傍に車が停まっていた。
綱引きなどのイベントが終了して、いよいよ花火大会。

大きなスピーカーで司会がカウントダウン。
レーザービームが夜空に光の線がリズミカルに照射される。
その中を突き抜けて花火が打ち上げられた。
バックグラウンドミュージック。

その花火の豪勢なこと。
金色の輝く火花が連打していく。ええっと思った。
驚いた。8月に見た西之表市の鉄砲祭りの花火大会。これは地方都市のまあそれなりの花火だった。
だが、これはスケールが違う。しかもデザインがオシャレ。

これが西田農産たった1社の地元還元イベントだという。
いったいいくらかかってるのだろうかとつい余計なことを考えてしまう。
だが、従業員総出で企画運営していると聞いた。
不況で経営不振の時も続けたという。
一夜明けた後も、まるで何も無かったかのように後片付けしてあるという。
すごい。
田んぼの花火大会。畦でそれを見た。

9月のタケノコ
「チンチク」と呼ぶ。9月にタケノコが取れる。
普通の竹に見えるが、よく見るとタケノコが出ている。すでに40僂らいか。
それを根元からへし折るように取る。
これが皮がエラく堅い。それを手を切らないように気をつけて剥く。
すると柔らかい身が出てくる。アクは強い。
アク抜きを丁寧にするととても美味い。

「チンチク」の林は、チンチクリンか。
調べて見ると、「珍竹」か「沈竹」と書き、せい「蓬莱竹」というそうだ。
9月にタケノコが取れる。嬉しい。
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2015年09月05日

未来をどう構想するか アメリカのシリコンバレー

日本の原発会社「東芝」の惨めな腐敗と崩壊
その真実を文藝春秋9月号に川端寛氏が「東芝『不正の連鎖』を招いた真犯人」で書いている。

不正の背景は、アメリカの原発会社「ウェスティングハウス(WH)」の買収から。経済産業省と組んで原発輸出を目論んで適性価格の数倍で買った。そして3.11。暴落と原発撤退の世界化。
要は、経済産業省、東京電力、東芝という国家経済乗っ取りの原発村の破たん。
醜い無責任。東芝の不正会計処理は普通市場経済では、即退場の重大経済犯罪。
それがマスコミではさほど問題とならない。なぜか。
誰が、その背景にいるのか。原発の黒い霧。

オリンピックもだが。
国の財政を棄損しても犯罪とならない。マスコミは追求しない。すでに過去となった産業の復興目指して、政権と独占企業体と半官企業、行政が無責任に国を、財政を食い散らかす。誰も責任を取らない。取れない。
オリンピック組織委員会は、もともと委員長含めて黒い利権集団と噂が絶えなかった。
壮大な利権あさり。無責任体制。

戦争への道
これもそう。
すでに三菱重工はじめ戦争武器の売買、戦争で儲ける企業と国の部局が動いている。
自衛隊は、命令を受けたら命をかける。かけざるを得ない。
戦争は、誰のためか。それは儲かる企業と国の一部省とそして操られる「反知性(あほ)右翼集団」による。反知性集団の方々の実態が最近、おもしろおかしく取り上げられている。だが、最低の人だけではない。要は、虐げられている人の劣情を刺激して、真の権力を容認するように扇動する人々。

では、未来をどう構想するか
アメリカの変革
未来への構想と挑戦
やはり、アメリカは先をいく。それも壮大な構想。ビジョン。
もちろんアメリカの軍需産業や権力がまもともだとは言わない。
だが、その一方で大きな流れを生む人々がいる。

池田純一著 <未来>のつくり方ーシリコンバレーの航海する精神
望田梅夫氏以来のシリコンバレーの力のこもった報告である。
僕たちは、劣化した日本の大企業や悪質で無責任な経済産業署、軍事産業の国家財政の破局とすでに
終わっている産業復興に幻惑されてはならない。
いま、世界の新たな挑戦がどこにあり、どこへ向かおうとしているか、知ることが求められる。
その一つは、やはりアメリカにある。

この本では、のっけからこう問う。
未来は、待てば自らやってくるか
それとも未来は、自らの手で引き寄せ、構築するか

ムーアの予言
ゴードン・ムーアのコンピューターの演算能力が18ヶ月で倍になるというもの。
10年で100倍、20年で一万倍。これを前提に技術開発や投資が行われる。
そして爆発的なインターネットやハイテクの進化が起こる。イノベーションの世界的改革。
そこには、驚くような冒険家や天才たちがキラ星のごとく登場してくる。

もちろん、スティーブ・ジョブス、ラリー・ペイジなどの成功起業家だけではない。
レイ・カーツワイルのビジョンのシンギュラリティ(特異点;人工知能が人間の能力を超える)、まさにSFを地でいくイメージ。

彼らは、生命科学(遺伝子工学)、ナノテクノロジー、ロボット工学、人工知能(AI)、脳科学の最先端のハイテクを駆使して、すべての人とモノをネットワークすること、そこからシンギュラリティを生み出さんとしている。恐るべき構想である。
ターミネーターの世界。冗談ではない。

ここを理解しておく。
そのうえで、日本の未来をもうひとつの世界。未来へと構想する。
そこでは、むしろ過去へさかのぼる。
あるいは、身体へ向かう。

原始神道、あるいは里山資本主義。
そして、インド哲学(ヒンドゥ)、ヨガ、チベットラマ僧、中国老荘思想、禅の思想
農の豊かさに学ぶ。

だが、アメリカ、シリコンバレー。
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2015年09月04日

山道の草刈り

田んぼへ行く山道の草刈りをした。
午前中に小一時間ほど。無理はしない。
だが、まだ慣れないためにへろへろになる。汗びっしょり。

草刈り機
も上手く使えない。
石に当ててチィーンとなる。ヤバイ。
草が長くて強くしなるヤツは絡まって切れない。
四苦八苦。

夢中でやって、ふと腰にくる。
息を抜いてゆっくりと慣れていく。

種子島の農作業のほとんどが草刈り。
これに慣れないと始まらない。
じっくりとコツを掴むまで焦らず楽みながら慣れていく。

久しぶりの晴天
入道雲が見える。image

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2015年09月01日

新百合ケ丘のミンミンセミ 組織のウチ外

小雨の中にミンミンセミのなきがら
昨日、あんなに元気に鳴いていたのに。
蝉は7年間も地下で過ごす。地上に出てしまうと、たった一週間のいのち。
鳴きわめきながら、逝った。はかない。

だが、けっして消滅してはいない。
セミの卵のもっと先、セミのなきがらのもっと先。食べられて、食べていく。いのちの連鎖。いやもっとだ。分子や原子になっても再構成されて、そして蘇る。
地球上の生命圏を漂い循環している。
いのちは動的平衡状態
それを感知できるか、見えるか。

パルシステムを退任して、久しぶりに事務所に行った。
一旦辞めると気おくれする。敷居が高く感じる。外から城を見上げるように。
だが、みんな暖かく迎えてくれた。
元気に仕事をしている姿を見ると嬉しい。人と社会のためにと動いている。
ありがたい。素敵な場である。

自分のこころにかべを設けない。
いつも自在に境界域を出入りする。組織は流動する。動的平衡状態。
心豊かなくらし、共生の社会へ。
地域と社会になくてはならない。

豊かな人生
大勢の仲間たち。バカになろう。
いのちの連鎖。いのちの豊穣。
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