私は、ウズベキスタン旅行のあと2004年の夏に、カラコルム山脈に向けて旅立った。
私にとって、この旅は特別な意味を持っていた。大仰な表現をすれば、「死ぬまでにどうしても果たさなければならない旅」なのだった。
その訳はこうである。
1965年、「東京大学カラコルム遠征隊」の一員として、私はこの地に入った。目標は7852メートルの未踏峰・キンヤンキッシュ。副隊長・兼・登攀(とうはん)隊長の重責を担っていた。
キンヤンキッシュは、高さこそ8000メートルに届かないが、主峰のぐるりを東西南北の四峰が取り囲み、その山容は複雑にして怪異、カラコルム山群の中でも屈指の難峰である。
私たちの4年前には、イギリス・パキスタン合同登山隊が隊長・隊員の2名を5000メートル地点で失い、そこから引き返している。
いま省みると、この難峰を極めるに、当時の登山技術や装備ではいかにも未熟で足らなかったと思うのだが、危険を承知で私たちは敢(あ)えてこの山に挑んだ。
結果は、無残な敗退であった。
私たちは、中村岳生隊員、通称ガクさんをこの山で失ってしまった。痛恨の極みだ。
それは、ベースキャンプを出てから60日目のこと、粘りに粘って食糧もいまや尽き果てんとする直前、漸(ようや)くにしてアタック体制が整った時であった。
明日はいよいよ頂上だ! 事故はその前日に起こった。
最終キャンプ設営の途上、ガクさんの立っていた雪稜がいきなり崩れた。それが大雪崩となって、彼がそれにのみ込まれた。ガクさんは、ドーンという轟音(ごうおん)とともに、あっという間に1000メートル、2000メートルと氷壁を落下していった。
必死の捜索も空(むな)しかった。やがて現場は吹雪で蔽(おお)われ、涙をのんで私たちはそこから引き揚げざるを得なかった。
帰国の途次、次第に遠ざかるキンヤンキッシュをふり返りふり返りしながら、そこに眠るガクさんに向かって、私は何度も何度もこう呟(つぶや)いた。
「ガクさん、僕は、いつの日か、必ずここに戻ってくるからな」
私は彼に約束をした。約束なら果たさなければならぬ。
しかし、その約束を実行する機会はなかなか訪れなかった。私の仕事が長いこと日本を留守にすることを許されなかったからである。
私の所蔵する本の書き込みに、こんな言葉が散見される。
「山に行きたしと思えども山はあまりに遠し」
あれから、長い長い歳月が流れた。
私たちは徒(いたずら)に年齢を重ね、七十有余歳となって実質的診療を休止することにした。
2004年夏、“いまが最後のチャンスだ”と思った。いまこそガクさんとの約束を果たすべき時だ。いまそれをしなければ、いずれ私は老いさらばえ、キンヤン氷河を辿ることすらできなくなってしまうかもしれない。
行こう、這ってでも、いや息絶えてでも。
そう私は決心をし、かくして、2004年の夏に私は「宿願のカラコルムへの旅」に出たのだった。
そこで、読者の皆さんにあらかじめご承知おき願いたい“前書き”である。
1. この時の「旅日記」は、『鎮魂のカラコルム』と題して、岩波書店から単行本で出版済みである。
そんな訳で、「昔とんぼの旅日記」は、前回の「ウズベキスタン編」に続いて、次に「カラコルム編」と続くのが本来なのだが、この「旅記録」はサイトから外させていただくしかない。
2. 『鎮魂のカラコルム』の本にはスケッチが掲載されているが、モノクロだから色彩入りの絵を見てみたい、そうおっしゃる方も居られるとか。
つたないスケッチであるにかかわらず、誠にありがたいお言葉である。結局、それらの絵を「カラコルム・スケッチ編」として、このサイトに連載する話になってしまった。
3. このサイトには、「二度目のカラコルム旅行」のスケッチも加える。
実は、2006年にも私は再びこの地域に入っていったのである。
2004年の旅で老齢の私をサポートしてくださった飛田和夫・寺沢玲子のご両人が、私たちの辿った南稜からキンヤンキッシュの登頂を目指すことになった。私は矢も盾もたまらなくなって、彼らのベースキャンプに向かってひとり旅立ったのである。
悪天候も災いし、彼らの登頂は成らなかったが、その旅でも私は十数枚の絵を描いた。その時のスケッチも2004年の絵に併せて、今回「カラコルム・スケッチ編」として掲載する。
4. 掲載に当たっては、一枚一枚のスケッチに、その場に応じた短い文章を添えることになった。
その文章には、岩波書店の御理解で、単行本『鎮魂のカラコルム』からの引用文もかなり使われることになる。
一枚のスケッチ画と短文、それらが繋がってまとまった「旅日記」となれば幸いである。
5. 「カラコルム・スケッチ編」が終わると、次は2004年冬の「ラオス編」となる。
長い“前書き”となった。次回より本文に入る。【つづく】
私にとって、この旅は特別な意味を持っていた。大仰な表現をすれば、「死ぬまでにどうしても果たさなければならない旅」なのだった。その訳はこうである。
1965年、「東京大学カラコルム遠征隊」の一員として、私はこの地に入った。目標は7852メートルの未踏峰・キンヤンキッシュ。副隊長・兼・登攀(とうはん)隊長の重責を担っていた。
キンヤンキッシュは、高さこそ8000メートルに届かないが、主峰のぐるりを東西南北の四峰が取り囲み、その山容は複雑にして怪異、カラコルム山群の中でも屈指の難峰である。
私たちの4年前には、イギリス・パキスタン合同登山隊が隊長・隊員の2名を5000メートル地点で失い、そこから引き返している。
いま省みると、この難峰を極めるに、当時の登山技術や装備ではいかにも未熟で足らなかったと思うのだが、危険を承知で私たちは敢(あ)えてこの山に挑んだ。
結果は、無残な敗退であった。私たちは、中村岳生隊員、通称ガクさんをこの山で失ってしまった。痛恨の極みだ。
それは、ベースキャンプを出てから60日目のこと、粘りに粘って食糧もいまや尽き果てんとする直前、漸(ようや)くにしてアタック体制が整った時であった。
明日はいよいよ頂上だ! 事故はその前日に起こった。
最終キャンプ設営の途上、ガクさんの立っていた雪稜がいきなり崩れた。それが大雪崩となって、彼がそれにのみ込まれた。ガクさんは、ドーンという轟音(ごうおん)とともに、あっという間に1000メートル、2000メートルと氷壁を落下していった。
必死の捜索も空(むな)しかった。やがて現場は吹雪で蔽(おお)われ、涙をのんで私たちはそこから引き揚げざるを得なかった。
帰国の途次、次第に遠ざかるキンヤンキッシュをふり返りふり返りしながら、そこに眠るガクさんに向かって、私は何度も何度もこう呟(つぶや)いた。
「ガクさん、僕は、いつの日か、必ずここに戻ってくるからな」
私は彼に約束をした。約束なら果たさなければならぬ。
しかし、その約束を実行する機会はなかなか訪れなかった。私の仕事が長いこと日本を留守にすることを許されなかったからである。
私の所蔵する本の書き込みに、こんな言葉が散見される。
「山に行きたしと思えども山はあまりに遠し」
あれから、長い長い歳月が流れた。私たちは徒(いたずら)に年齢を重ね、七十有余歳となって実質的診療を休止することにした。
2004年夏、“いまが最後のチャンスだ”と思った。いまこそガクさんとの約束を果たすべき時だ。いまそれをしなければ、いずれ私は老いさらばえ、キンヤン氷河を辿ることすらできなくなってしまうかもしれない。
行こう、這ってでも、いや息絶えてでも。
そう私は決心をし、かくして、2004年の夏に私は「宿願のカラコルムへの旅」に出たのだった。
そこで、読者の皆さんにあらかじめご承知おき願いたい“前書き”である。
1. この時の「旅日記」は、『鎮魂のカラコルム』と題して、岩波書店から単行本で出版済みである。
そんな訳で、「昔とんぼの旅日記」は、前回の「ウズベキスタン編」に続いて、次に「カラコルム編」と続くのが本来なのだが、この「旅記録」はサイトから外させていただくしかない。
2. 『鎮魂のカラコルム』の本にはスケッチが掲載されているが、モノクロだから色彩入りの絵を見てみたい、そうおっしゃる方も居られるとか。
つたないスケッチであるにかかわらず、誠にありがたいお言葉である。結局、それらの絵を「カラコルム・スケッチ編」として、このサイトに連載する話になってしまった。
3. このサイトには、「二度目のカラコルム旅行」のスケッチも加える。
実は、2006年にも私は再びこの地域に入っていったのである。
2004年の旅で老齢の私をサポートしてくださった飛田和夫・寺沢玲子のご両人が、私たちの辿った南稜からキンヤンキッシュの登頂を目指すことになった。私は矢も盾もたまらなくなって、彼らのベースキャンプに向かってひとり旅立ったのである。
悪天候も災いし、彼らの登頂は成らなかったが、その旅でも私は十数枚の絵を描いた。その時のスケッチも2004年の絵に併せて、今回「カラコルム・スケッチ編」として掲載する。
4. 掲載に当たっては、一枚一枚のスケッチに、その場に応じた短い文章を添えることになった。
その文章には、岩波書店の御理解で、単行本『鎮魂のカラコルム』からの引用文もかなり使われることになる。
一枚のスケッチ画と短文、それらが繋がってまとまった「旅日記」となれば幸いである。
5. 「カラコルム・スケッチ編」が終わると、次は2004年冬の「ラオス編」となる。
長い“前書き”となった。次回より本文に入る。【つづく】
