「昔とんぼの旅日記」の稿を閉じるに当り、「精神病者の受難と再生」なる一文を最後に掲げさせて頂くことにした。“旅日記なのに精神医学?”、看板に偽りありの謗りは免れまいが、「日本の精神病者の置かれた状況」をお分かり頂きたいがための出稿である。これを了とせられたら有難い。
(註)本論は慶応義塾大学経済学部編の「マイノリティからの展望」(弘文堂)と関東弁護士会連合会編の「精神障害のある人の人権」(明石書店)に掲載したものを訂正加筆した。
『精神病者の受難と再生』
はじめに
欧米諸国の精神病者に対する過去数百年の歴史は悪夢の連続であった。中世から近世にかけて熾烈をきわめた「魔女狩り」は宗教権力の狂気そのものであったし、そこから今世紀半ばに至る「狂気の収容」は国家権力の悪の象徴だった。
精神病院は社会の“ゴミ捨て場”と化し、精神病者はそこに無惨に打ち捨てられていた。
1950〜60年代、欧米諸国はようやく悪夢から目覚めてその是正に動きだす。以来、精神病者は“障害者地域化(ノーマライゼイション)”の波の中、いま、社会の一員として復権を遂げつつある。
日本はどうだったか?愚かなことに、我が国は欧米諸国が誤りに気づいて改革に乗り出したのと時を同じくして、突如、かつてない規模の「精神病者収容」を猛烈な勢いで開始した。ために、日本の精神病者は彼らの経験したことのない不幸に見舞われることになる。
遅まきながら、僅か十数年前から国はその軌道の修正を始めた。しかし、過去に侵した負の遺産はあまりに重く、我が国では今もなお多くの“心病める人たち”が、精神病院の中で希望のない日々を送ることを余儀なくされている。
本稿は、欧米の精神医療の歴史的な歩みをまず概観し、それと比しつつ、日本の精神医療が如何なる道を辿ったか、いまどんな状況にあるかについて述べたものである。
[1] 欧米諸国の精神病者の受難
1 魔女狩り
精神病者の大量受難の歴史は「魔女狩り」から始まる。苛烈な魔女狩りの話はあまりに有名だから、多くを語る必要はないだろう。
「魔女狩り」は「異端者狩り」が変容したものである。12-13世紀、ヨーロッパは深い森の海に沈み、ローマ教権勢力がその上を覆っていた。南仏アルビ派の抹殺に端を発したかの悪名高き異端審問所は、忽ちにして網の目のごとく欧州各地に張りめぐらされて異端者撲滅に猛威を振った。
だが、1318年に法王ヨハネス22世による「魔女狩り解禁令」が発せられるや、異端審問所はその攻撃の鉾先を異端者から魔女へと変える。
以後、18世紀に至る300有余年の間、魔女狩り旋風は西ヨーロッパ全域に吹き荒れ、遂には新大陸にまで及んで、数十万とも数百万ともいわれる“魔女”を捕らえ、拷問し、自白させて、そのことごとくを火刑台で焼き殺した。
魔女狩りが最も激しく行われたのは、30年戦争(1618年〜48年)を挟む前後の100年間であった。注目されるべきだが、14-16世紀は文芸の花開いたルネサンス期に当たる。
しかも、旧教(カソリック)と新教(プロテスタント)との双方が、両者あたかも競い合うかのごとく魔女の摘発と焚刑に狂奔したのであった。
さて、魔女として焼かれた犠牲者の中に、どれくらいの精神病者が混じっていたものか?精神病概念のいまだ生まれいない時代のことだったからその数までは不明である。
「狂気」への見方は時代によって変貌する。
中世前期まで、彼らは神憑りとも偉大なる者とも見られて世間に大手を振っていたという。しかし、中世も後半に入ると、“狂気はあらゆる悪の象徴的存在”と見られるようになる。
狂気の常ならざる姿が、魔女の姿と重ったとしても不思議はない。まして、魔女告発の大半が噂話や密告によったものであってみれば、魔女とされた者の中に精神分裂病者などの“精神病魔女”が高率に含まれていただろうことは想像に難くない。
もとより、精神病者と魔女を区別する目など、異端審問官が持っていたはずがない。現に、自分から魔女だと申し出て焼かれた“精神病魔女”と思える記録も残っている。しかしその記録に、その人を狂気と見なした痕跡はまったくない。ただ「魔女」と記してあるだけである。「魔女狩り」を精神病者の大量受難史の始まりとみる所以だ。
魔女狩りは、18世紀に至ってやっと終結する。教権の勢力が衰え、国家が権力を増して、時代が人々を魔女に仕立てて処刑する必要がなくなったからである。
これでようやく精神病者は拷問され焼かれる悲惨から免れることとなるが、それに代わってまた彼らは新たな受難の時代を迎える。
魔女狩りと同じ世紀に、今度は権力を増した国家の手によって、彼らは「収容院」の中へ、さらに世紀が進むと「精神病院」の中へと放り込まれる。ミッシェル・フーコー(Michel Foucauet)言うところの、「大いなる閉じこめ」が始まる近代へと時代が入ったからだ。
2 収容院
1656年、フランスで発せられた「一般施寮院設立令」とその「強化令」は「大いなる閉じこめの時代」の序曲である。
異端審問所の時と同様、この種の収容施設は瞬く間にヨーロッパ全土に拡がった。施設には、“人気ない区域”の元癩施設が使われた。そこに投げ込まれたのは、「魔女」ならぬ「貧者」、すなわち、「労働をしない」人たちだった。
パリに例をとる。
ノートルダム寺院前の広場に、パリ警視庁の警史によって大勢の人たちが連日かき集められた。集められたのは、浮浪者、乞食、怠け者、ならず者、売春婦、それに「狂人」だ。親不孝者というのもその中にいた。彼らは警視庁鑑別所を経て「施療院」と称する収容所へ投げ込まれた。そこは陽も射し込まぬ地下牢であり、怠け者も浮浪者も狂人もみな一緒くたで鎖に繋がれた。泣き騒ぐ者には手枷・足枷・首枷だった。
何故、「労働しない者」だったか、何故、かかる次第となったか、その背景はこうである。
17-18世紀は近代国家の形成期に当たる。近代国家は強力な権力機構を構築してそれをもって社会的・倫理的秩序の維持を図る。
フーコーは近代国家の特徴を「牧人権力」と表現した。“牧人”はすべての羊を善導することが神の意思だと考える。悪い羊は群れから離し懲らしめて矯正する。
当時の国家にとっての悪い羊とは誰か?
18世紀には宗教改革の影響が色濃く、「労働は神聖なもので神の御意思」と考える時代になっていた。だから、「労働しない者」は神や国家に反逆する者、即ち、「悪い羊」なのであった。
一方、この時代、「労働しない者」が生まれる背景も生じつつあった。工業化の進行である。それによって、多くの農民が住み慣れた村を離れて都市に流れ込んだ。
中から、あぶれ者やはみ出し者が出てくる。働かない怠け者という理由で、彼らは国家が求める者とは、“異質なる者”である。狂気=精神病者も無論それに含まれた。収容令によって「施療院」へ監禁されたのは、このような人たちだった。
つまり、施療院という名の収容施設は、国家の意に沿わぬ者、当時の社会で異質なる者、悪い羊を排除遺棄せんがための「ゴミ捨て場」なのであった。
やがて、このゴミ捨て場から、「狂人」というゴミが選り分けられる時代がくる。工業化のさらなる進行は、労働力として貧困者をも必要とするようになり、時代が「貧者」と「非理性の狂人」とを区別して扱うことを要請したからだ。
その要請をうけて、狂人と他の収容者とを選り分けたのは、「精神医学」という“近代科学”である。医学者はこののち「狂人の専門家」として精神病者の上に君臨することになる。このことが、次のさらなる不幸を精神病者にもたらすことになった。
3 近代的精神病院
1853年、皇帝ナポレオン?世からセーヌ県知事に任命されされたオスマン(G・E・Haussmann)は「パリ大改造計画」に着手する。街路を拡げ、広場を作り、マロニエを植えた。ジャンバルジャンでお馴染みの地下大下水道もこの時作られた。
これが今に見る“花の都”パリである。
この時、オスマンは精神病院の整備をも構想した。それに従って、セーヌ左岸にサンタンヌ病院が、郊外に精神病者専用の収容院が11カ所作られた。そこへ、一般施療院から選別された精神病者が移送された。これが即ち「近代的精神病院」の誕生である。
ただし、ここでいう「近代的」とは、病者なるが故に手厚く治療・介護をするの意で「近代的」なのではない。“雑多なゴミ”から“特殊なゴミ”を選別・分離して管理支配するの意で「近代的」なのであった。別の言い方をすれば、「狂気」が医学専門家の管理のもとに置かれることになったの意で「近代的」なのである。
そこへ移送された彼らがどんな処遇を受けたか?
彼らは依然として社会の邪魔者であり、“理性なき人”として人間のゴミと見なされた。「病院」と聞こえは良くなったが、その実態は以前の収容院と少しも変わらなかった。そこは牢獄であり、彼ら、彼女らをつなぐのは鎖であり、手枷・足枷であった。
往時のパリ市民が楽しみとした娯楽のひとつに、精神病院へ入場料を払って入り、鎖に繋がれた“狂人”をあざ笑いながらひやかして歩くというのがあった。この話は、当時の人が精神病者をどんな目で見ていたかをよく物語る。
ともあれこれ以降、精神病院は医療の名のもとに社会の秩序・保安を維持する役割を担い、監獄とともに国家権力機構の重要な一機関として機能するようになる。
さて、その「近代的精神病院」だが、つまるところ、そこが社会の“特殊なゴミ”捨て場であった以上、投げ捨てられた者の殆どが、その中で一生を終わらざるを得なかった。そこへ、次から次へと新たな者が入れられてくるから、当然、精神病院はやがて病者でふくれあがり肥大する一方となった。それは必然的に、より一層劣悪な処遇を生み出すこととなり、急速に精神病院は腐敗していった。
これまでフランスを例とって書いてきたが、イギリスもアメリカも、要するに欧米のすべての国が同じ道を歩んだ。どの国も社会整備の名のもとに各地に精神病院網を張りめぐらし、やがて、それらは肥大し巨大化して、例外なく腐敗していくのである。
例えばイギリスでは「狂人塔」と呼ばれる収容所が各地に作られ、“狂気には恐怖を”と治療の名のもとに鞭打ちやら井戸に投げこんでの水責めが行われた。
アメリカでは、はじめ病者は救貧院や刑務所、あるいは自宅の地下室や納屋に居た。
1830年代、D・ディックス女史が、「州立精神病院を作って彼らに手厚い介護を」と提唱し、全米各地に州立病院が設けられる。
だが、ひとたび病院への収容が開始されるや、収容はとめどがなくなり、当初の意図に反して事態は急速に悪化した。南北戦争に続く経済危機や急激な人口増加の時代を反映して、州立病院は土地代の安い人気ない僻地にバラック材で建てられた。やがてそこは入院者が1万人、2万人という巨大収容所に変わっていく。医師はたったの2人か3人、病院は無治療と暴力的管理支配のもとに置かれた。
この惨たる状況はどの国も例外ではなかった。欧米のあらゆる国の精神病院が同じ道を辿った。ゴヤ描くところの「癲狂院」の画をみれば、当時の精神病院がいかに悲惨な場と化していたかがよくわかる。
ただし、かかる近代国家形成に伴う精神病院暗黒史のなかで、一瞬ではあったが一筋の光射す時代もあった。
19世紀の前半、フランス革命のうねりをうけて、フランス・イギリス・アメリカの一部の精神病院が、「病者を人道的に」扱う所謂(いわゆる)「道徳療法」を提唱し実践をした。その結果、これらの病院では病者は穏やかとなり、初発入院者には少なからぬ退院者も出た。
それら実践者の筆頭にピネル(Pinel・Philippe)の名がよく挙げられる。エスキロール、テユーク、コノリーらの名も残る。
だが、この道徳療法への動きもほんの一時期にしか過ぎない。19世紀も後半に入ると、これらの諸国が帝国主義的傾斜を深め、それと相呼応するかの如く、すべての精神病院がまた暗い闇の底に沈んでいってしまった。
この逆行については、近代医学も共犯関係にある。
精神病院に集められた“狂気の集団”は、医学者をして「精神分裂病」(当時は“早発性痴呆”と呼ばれた)という病の存在を認識せしめる。彼らは、この病気はどんな経過を辿るにせよ、行き着く先はいずれ“人格の荒廃”であるという見解を示した。
「早晩、狂人になってしまうなら、どんな治療をしても無意味だ」、そんな治療悲観論が台頭する。それに精神病の脳器質論が輪をかけた。
かくして、一時期「道徳療法」に熱意を傾けた上記の病院も、病者への働きかけを停止してしまって、元の監禁収容施設に戻ってしまった。とたんにそれら病院の退院者は激減したという。
ともあれ、この精神医学の楽観主義から悲観主義への揺れ動きは、革命の希望時代から帝国主義植民地政策の暗黒時代へと、国の舞台が暗転するのと時期がよく一致している。弱者を犠牲にして己の安泰を図り利を貪るの点で、ともに思想基盤が同じなのであろう。
当時の精神医学者は“学問的興味”から精神病者の病理記載に熱中する。
鎖や手枷・足枷は、そのうち、手足も動かせぬ「保護具」と称する“近代的”拘束具にとって変えられるが、芋虫さながらの格好で床に転がされ、冷徹な“科学者のまなざし”に曝されている精神病者のこの姿は、以前よりもむしろ無残である。
繰り返しとなるが、近代医学誕生ののち、欧米諸国が設けた精神病院はみな同じ道を辿った。世間からの隔離収容を目的とした精神病院は、やがて肥大し、増殖し、腐敗していくのである。
第二次大戦下、ヒトラーは治る見込みのない精神病者は殺すように命じた。
北杜夫の「夜と霧の隅で」や帚木蓬生の「ヒットラーの防具」にも、そのことが描かれている。ヒトラーはユダヤの抹殺と並んで知的障害者や精神病者の抹殺も企んだ。それがドイツ民族の血の優越性を高める道だとした。
彼は精神病院に重症精神病者の名簿提出を求める。選び出す人数を指定した。名簿に記載された者は、“特殊治療を施す”ために“特殊病院”に送られる。無論、そこで殺された。
医師の中には、名簿提出に応じた者、亡命という形で逃げた者、拒んで命を落とした者もいた。北杜夫の小説に描かれているのは、協力も拒否も出来ず、期日までに患者をなんとか良くしようと絶望しつつあがく医師の姿である。
「ヒットラーは特別だよ」と考えるなかれ、ヒトラー指令の思想はつまるところ、「精神病者は社会の厄介者であり社会のゴミだ」と考える近代国家思想の行きついた果てである。
第2次世界大戦が終わると、このような欧米の精神病者にようやく暖かい光が当たりはじめる。
この戦争で人類は大きな血の犠牲を払わなければならなかった。流された血の上に立って、国家のありようも変わらざるを得ない。欧米諸国は植民地支配という利己心を捨てた。同じ思想基盤から精神医療も変えることになる。即ち、欧米のあらゆる国が「収容」をやめて「地域」へ、「閉ざされた精神医療」から「開かれた精神医療」へと、精神医療制度の改革を志向するようになるのである。(つづく)