[2] 欧米諸国の「精神病者の再生」

欧米で精神医療改革の口火を切ったのはイギリスである。

第2次大戦下、ロンドンなどの諸都市はナチの爆撃に曝された。その時、精神病院は入院患者に「爆撃が終わったら病院に戻るように」と告げて、彼らを鍵の外へ出した。空襲が終わると、殆ど全員の患者が病院へ戻ってきた。

これは予想以上のことで、この経験は心ある精神科医をして「鍵とはいったい何だったのか」と考えさせる契機となった。

戦後、M・マクラミンやM・ジョーンズらを先頭とする先進的精神科医が、精神病院の開放・無拘束を唱えてその実践に着手する。彼らは戦後4年目にして早くも全開放制の実施を試みている。

彼らは、また、病棟の運営を“治療共同体”とする活動を始める。これは治療者と患者が同じ地平に立とうとする試みであり、“これまでの抑圧型専門家支配はもう行いません”という治療者側の意志表明でもあった。

こうした現場での実践は、病院の底に澱んでいた患者の生気を蘇らせ、彼らが病院から町へ出て移り住む流れを作りだした。

すなわちこれが、「開かれた精神医療」の始まりであり、精神病者の復権に向けての第一歩だった。地域へ戻ることで、彼らは、“私達は社会のゴミではない”、“社会の一員なのだ”と胸をはる第一歩を踏み出したのである。

イギリスでは、これら先駆者のあとに続いて、すべての精神病院が開放率を高める努力をした。その結果、1968年には、総入院者の90パーセント以上の者が開放処遇のもとで治療を受けている状況になる。

国家即ち政府も、病院とともに改革に取り組んだ。いや、むしろ政府が医療現場をひっぱったと言ってもよい。

イギリス政府は精神医療体系全体の見直しを行い、具体的な達成すべき目標を数値で掲げる。54年、保健省は「今後の10年間で10万床の精神病床を削減する」と発表、それに見合ったケア施設を地域に設置することを決めた。続いで61年、71年とさらなる病床削減を計画、遂には「長期的展望として精神病院の閉鎖の必要を確認する」と言明するに至る。

実際、イギリスの精神病床数は、55年の「人口1万に対し33床」から減少を続け、90年「1万:12床」、その後さらに減少して、もうとうに「10床」を切った。

この減少した分だけの入院者が病院を出て地域へ移り住んだわけである。

イギリスはまた、「地域化」のこの流れに合わせて、“精神病者に関する法律”も次々と手直しをした。強制入院と収容を目的とする法律から、病者の人権を守る法律、地域ケアを医療の主流とする法律へと、国家の主導でその内容を変えていった。

以上のような経緯をみると、イギリスの「開かれた医療」の構築は、“医療現場の改革実践”と“国家の方針”がうまく噛み合って有機的に結合し、現実的かつ計画的にすすめられていったことがわかる。イギリスらしい着実さだ。

イギリスが精神医療改革の道筋を世界に示したことの功績は大きい。

以来、欧米諸国はイギリスに学び、その時期、方法はそれぞれ異なったとしても、全ての国が「開かれた精神医療」を目指してその整備に取り組んだ。

その共通の合言葉は、「精神病院の縮小」と「入院者の地域化」である。

[1]の章で、「閉じこめの時代」を説明するためにフランスを登場させたが、その後、当のフランスはどうなったか?

フランスでは、ポメルという先駆的実践者が出た。彼はパリ13区に精神病者のための共同作業所やデイケア施設や共同住居などの地域施設を作って、“地域モデル”を示した。このポメルの活動やイギリスの動きに誘発されて、フランス厚生省は1960年に「地域精神医療分区制に関する通達」というのを出した。

「分区制」とは、フランス全土を6万7千人単位の区域に分け、その区域ごとに精神衛生相談所と外来診療所を設置し、そこに「社会医療チーム」を配備するというものである。

かつての巨大な“ゴミ捨て場”だった精神病院は200人単位の病棟群に分割して、各病棟群を分区社会医療チームに割り当てることにした。つまり、入院・退院・地域のケアまでを一貫して分区チームが受け持つという仕組みにした。

これは、一見、合理的なシステムのようにみえたが、成果は案外のものだった。理由は、分区の受け皿たる地域ケア施設があまり整備されず、そこに十分な費用が投ぜられなかったからである。そのために200人単位の病棟群の縮小もあまり進まず、フランスにおける精神病床の減少スピードは鈍かった。

それでも「地域化」の国の方針は続けられたから、少しずつでも病床は減少していき、いまはかつての半分にまで精神病床総数は減った。

精神病者開放の歴史の中で、最もドラスチックな改革を行ったのがイタリアだ。

その主役を演じたのは、フランコ・バザーリア(Franco Basaglia)という精神科医である。彼を軸としてイタリアの話を進めよう。

1978年、「180号法案」が極右を除く全党の賛成を得て国会を通過した。

この法案は、「今後は州立精神病院への入院を禁止する。2年後は再入院も禁止」というものだった。州立が殆どのイタリアでは、事実上これは、精神病者の収容取り込みを今後やらないという国家の意思表明であった。

以後、精神病者は治療やケアを精神病院でではなく、地域毎に設けられた精神衛生センターで受けることになる。

時代を画するこの180号法案が成立した背景には、精神医療改革派の強力な運動と時代の空気があった。

バザーリアを中心とする改革派は、「精神医療は政治の地平で闘われなければならない」と考えた。彼らは「民主精神科連合」、通称「P・D」を結成し、ゴリツィアで第1回大会を開く。そこへ、医者、科学者、政治家、教師、労働者、学生ら、二千数百人が参集した。

68年のパリ5月革命以降、革新への昂揚は世界的な拡がりをみせていて、当時のイタリアもストライキが続発、街頭では堕胎法廃止を求めるフェミニスト達などのデモが連日のように繰り広げられていた。

P・Dはこれらの革新勢力と手を結び、旧法廃止案を国民投票にかけるぞ、という姿勢をちらつかせつつ180号法を議会に提出する。巧妙な戦術が功を奏してこの法案はあっという間に可決された。従来の収容型精神医療体系が根底から覆された歴史的瞬間であった。

ここに至るまで、フランコ・バザーリアは何をしてきたのか?彼の足跡をたどることは180号法案の意味を知るうえでの重要な手がかりとなるだろうから、以下にそれを些か詳しく記そう。

バザーリアは1924年のヴェネツィア生まれ、12年間をパドヴァ精神医学教室に学び、招かれてゴリツィア州立精神病院長に就任する。

精神病院の実態についてまったく無知だった彼が象牙の塔を出て見たもの、それは、悲惨なまでの精神病者の姿であった。彼らは暗い鉄格子の中、保護着を着せられて床に転がされ、虐待と暴力のもとに呻吟していた。これはひどい、これは犯罪行為に等しい、そう彼は考える。

犯罪者となるか加害者となるかの岐路に立って、彼は改革者たる道を選んだ。

はじめ彼はイギリスに見習って開放制と治療共同体の活動に取り組むが、人間としての誇りと生活習慣を長いこと奪われてきた患者たちは、どう努力しても町で住めるようにはならなかった。やがて彼は、病院という枠組み内での改革は患者への新たな操作を生むに過ぎないと悟り、精神病院の存在そのものが問題なのだと考えるに至る。

この結論に達した彼は、その後、猛烈な勢いで入院患者を町へ出し始める。

町のアパートを借りては出し、借りては出しで、800人いた患者を2年後には500人、3年後には400人にしてしまった。

そこへ68年の不幸な事件が彼を見舞った。外泊中の患者が夫婦喧嘩をして妻を斧で撲り殺してしまったのだ。外泊させたのは他の医師だったが、この事件でバザーリアは告訴される。

告訴したのは改革反対派の医師達で、「この事件の根はバザーリアの思想にある。狂気を容認するから狂気がまかり通るのだ」彼らはと主張した。

一方、バザーリアの思想の根幹は、「大事なのは狂気を支配することではない。病者を病者として認めたうえで、彼らが地域で生きられるための社会的仕組みを作る」ことだ。

つまりこの対決は、医療者が精神病者にどう向き合うかの基本的対立であった。

結局、この裁判でバザーリアは無罪となるが、病院長としての地位は追われる。一緒に仕事をしていた若い医師たちも、彼ともにゴリッアを去った。彼らは各地に散って再び改革の仕事を続ける。かくして、イタリアのあちこちに180号を生む種が播かれていった。

バザーリアはどうなったか?

彼は、事件から3年後の1971年に、オーストリア国境近くの町トリエステの州立サンジョバンニ病院に、病院長として懇われて赴く。

招いたのは保守派の政治家、ザネッティ(M.Zanetti)だった。彼は敬虔なクリスチャンで、精神病者を縛ったり幽閉したりするのは人道に悖(もと)ると、かねがね考えていた。だから革新派のバザーリアを招いた。

保守派と革新派、政治信条を異にする2人が、その違いを乗り超えて不幸な病者のために握手をしたのだった。

「私はこの病院を良い病院にするために行くのではない。病院を解体するために行くのだ。」とバザーリアは言い、ザネッティもそれに同意した。バザーリア就任早々、イタリア各地に散っていた若手医師20数名も彼のもとへに続々と集まってきた。

当時、サンジョバンニ病院には1150人の入院者がいた。うち、840人が強制入院者だった。

バザーリアらは次々と彼らをフリーの身分に変え、法的規制を外して拘禁から解き放った。不潔病棟(不潔な行為をする者の収容棟)や狂躁病棟(規則違反者やさわぐ者の収容棟)の鍵や拘束着を大変な努力の末に外していった。

この病院には、患者の洗濯物を運ぶ「青い馬」がいて患者らに愛されていた。その「青い馬」を開放のシンボルとして、家ほどもある巨大な馬の張り子を作った。バザーリアが先頭に立ち、患者や職員が張り子の馬の綱を引いてトリエステの町を練り歩いた。

それは、「私たちはこれから町へ出ていきます」というデモンストレーションだった。彼らは集まってきた市民たちと議論を交わした。もちろん、患者も加わって。

バザーリアらは、また、病院で数々のイベントを催して市民を院内に呼びこんだ。

こうした動きの中、患者を次から次へとトリエステの町なかへ移り住まわせた。

やがて入院者の数は1150人から800人、500人と激減していった。入院者数が減れば職員の手が余る勘定だ。余剰となった職員は、町に出た患者支援のための精神衛生センターへ移された。

この移動には、はじめ、職員側にかなりの抵抗があったという。

それも道理だ。病院にいれば医師や職員は“患者の主人”でいられる。外に出ればお互いの位置は水平となる。支配・被支配の関係よりも、援助・被援助の関係の方が手間も時間も労力もかかって大変なのだ。みんなが納得するまで議論がつくされ、職員は地域へ移った。

かくして、早くも4年目には4カ所の精神衛生センターが町に作られ、病院から出た120人の職員がそこで仕事をしていた。

1977年1月のある朝、県代表ザネッティと病院長バザーリアは、報道陣や各種団体の代表を病院前の広場に集めて声高らかにこう宣言した。

「この秋、この病院の門は閉ざされます。」

宣言通り、その秋に入院者はゼロとなり、サンジョバンニ病院は廃墟となった。バザーリアの就任から6年後のことだった。

その翌年が例の1978年である。この年に180号法案が国会を通過した。すなわち、イタリアの全州立病院が彼の後に続くことになった。

この2年後、バザーリアは病を得て死んだ。

いま、トリエステに行くと、サンジョバンニ病院は工業高校や大学や市民の施設になっている。もと「狂躁病棟」は幼稚園だ。往時の凄惨な病棟は影も形もなく、その前庭に歓声をあげて遊ぶ無心な子供たちの姿が見られる。

病院敷地中央にカサ・ローザ・ルクセンブルクという病院長公邸がいまも残っている。シャンデリアきらめき、何人もの召使がいた豪邸だ。バザーリアは就任早々、この公邸を患者の社会復帰訓練施設に使った。いまは年老いた元女性患者らが住んでいる。

公邸の外壁に大きな文字の落書きがある。

≪自由こそ治療だ≫(La Liberta e Terapeutica)。

この言葉にこそバザーリアの理念がある。良い羊も悪い羊もない。ありのままに受け入れること。自由こそが彼らを生かす道だ。

町に出てみると、アパートやグループホームに元入院患者が住んでいる。トリエステに精神衛生センターは7ヶ所、多勢のスタッフが町で患者を支える仕事をしている。食事もここで提供される。ショートステイのベッドも数床ある。コオ・オペラティーバという患者らの共同組合もあって、ここは職の斡旋をしたり、商店やレストランの経営までやっている。かつて保護着で床に転がされていた人たちがだ。

いまイタリア全土の状況はどうなっているか?

イタリア改革の最新事情は、大熊一夫著「精神病院を捨てたイタリア捨てない日本」〈岩波書店〉に詳しい。それによれば、180号の精神はずっと一貫してイタリア精神医療の根幹であり、今もなおイタリアはそれに向かって前進を続けている。

イタリアの精神医療改革は、その理念において、またその実践において、他国に卓越している。国をあげて精神病院の廃絶を目指すその志は、世界の精神医療史のなかでもひときわ精彩を放っている。

スペインの改革派はイタリアと手を結んでいる。スペインは“精神病者に関する法律”を改正ではなく廃止してしまった。精神病者の特別法など要らない。民法と刑法でやればそれでよいというのである。


“福祉の模範国”とよくいわれる北欧諸国はどうだろう?

いちはやく知的障害者・身体障害者・老人福祉に取り組くんだデンマークやスウェーデンなどでも、精神障害者に関してはやや出足が遅れた。北欧諸国が精神障害者福祉に本腰を入れ出したのは70年代も後半のことであった。

しかし、さすが“福祉国”だ。ひとたび改革に着手するやそのスピードは速かった。例えばデンマークでは75年に「1万:21床」だった精神病床数が98年で「8床」、スウェーデンでは75年に「1万:39床」だったのが98年には「7床」と激減している。

病院を出た者の殆どがグループホームなどに移り住み、手厚いケアのもと、近隣の人たちと普通の交流をして暮らしている。国民全体が「それが当たり前なのだ」と思うようになっている。「開かれている」とは、こんな状況のことを言うのであろう。

もうひとつ、アメリカの場合について述べておきたい。アメリカの変革過程は極めて特異であったから。

アメリカの州立精神病院が巨大化して悲惨な場と化したことは既に述べた。1995年にはアメリカ国内の入院者数は実に55万人に達した。1960年の精神病床数は「1万:40床」である。

この惨状にJ・F・ケネディは63年の大統領教書のなかでこう訴えた。

「アメリカの精神病院は恥ずべき状態にある。患者は死ぬこと意外にそこから逃れる術のない日々を送っている」。

彼は全州に向かって病院改革や医療体制の整備を督促したが、彼の言葉にもかかわらず事態はあまり変わらなかった。実際にアメリカを動かしたのは大統領ではなく、入院患者自身だった。それがいかにもアメリカらしい。

いきさつはこうだ。

70年にアラバマ州で、入院患者が州裁判所に裁判を起こした。訴えの内容は、「私は治療も受けずに拘束されている。これは違法である」というものだ。この問題では、患者と州政府・病院との間で長い間の論争が交わされたが、結局、患者側が勝訴する。

アラバマ州でのこの勝訴判決は、判事の名前をとって「ジョンソン判決」と呼ばれるが、この判決がその後、アメリカの全州立精神病院を大きく揺さぶることになる。

ジョンソンの判決は「治療のない拘束は違法である」と断じたうえで、州立病院が早急に整えるべき条件を35カ条に亘ってこと細かに示した。入院数に見合ったスタッフ配置や治療システムや施設整備基準などなどの改善命令である。

この判決以降、全米各州で患者の提訴が相次い出されることになり、いずれも同様の判決が出て患者側が勝った。

これで困ったのは州当局である。判決通りの条件を整えると莫大な費用がかかり、州財政が破綻してしまう。そのため当局は州立精神病院に向かって矢の催促をした。

「もっと入院者を減らせ。もっと患者を出せないか」。

かくして、あっという間に多勢の患者が退院させられた。退院というより追い出された。彼らは倒産したモーテルや古倉庫を改造した「ボーディングホーム」なる安上がり施設に移される。やがてその一部が路上に流れ出し、路上生活者となった。

ともあれ、アメリカの入院者数は驚異的なスピードで55万人から10万人を切るまでに減少した。しかし、それに見合う地域ケア体制はほとんど整えられなかった。

シカゴ北部郊外では1万5千人近い患者が無資格施設に住まわされ、そこは“精神科ゲットー”と呼ばれた。彼らの生活交付金はマフィアら略奪者の格好の餌食となった。ニューヨークのマンハッタンでは2万5千人が安ホテルなどに住まわされて同様の憂き目をみた。

要するに彼らは、かつて“病院に捨てられた”と同じように、今度はゴミの如く“町へ捨てられた”のである。金はベトナム戦争で使われていたし、その後の経済の悪化で彼らに十分な資金が投ぜられなかった。

こんな状況を評して、「アメリカの改革は“脱入院化”であって“地域化”ではない」と批判する人は多い。精神病院の解体が、真の地域化理念からではなくて、経済の都合から進められた結果である。

だが一方でこんな見方をする人もいる。

「たしかにアメリカの改革は失敗だった。でも、以前にくらべればまだましだ。何故なら、精神病者はいま精神病院の中にではなくその外にいるのだから」と。

確かに、これも「開かれた精神医療」の一型ではあるだろう。

以上、第二次大戦後から今日に至るまでの、欧米諸国の精神医療改革についていくつかの国をあげて概観した。

見ての通り、それぞれの国によって、その開始の時期や方法や質や内容に違いはある。だが、すべての国に共通している事柄があることも容易にわかる。

その共通項は、「めったやたらの収容政策の放棄」と「精神病院の縮小」と「精神病者の地域化」だ。

第二次大戦を境として、欧米諸国は精神医療政策を「収容」から「地域」へ、「閉ざされた精神医療」から「開かれた精神医療」の構築へと、その舵を大きくきったのだった。(つづく)