[3] 日本精神病者の受難―(逆行した政策とその結果を中心に)

[1][2]の章で述べてきた欧米諸国の流れに対比すると、日本の精神医療はかなり特異な道を辿った。結論から先に言ってしまえば、日本はまことに愚かな道を歩き出してしまったのである。

それは欧米が取った道とまったく逆を行くものであった。その道を選択したための負の遺産は今も肩に重くのしかかっていて、ために日本の精神医療の今の状況は欧米諸国の非難の的となっている。

以下に順を追ってことの次第を述べよう。

明治維新をもって日本は近代国家形成への道を踏み出すことになった。だが、日本の場合は欧米と違って、国家権力による精神病者収容は緩やかで、組織的かつ大規模な収容はそう大掛かりには行われなかった。

その理由は、病院に精神病者を収容・管理する代わりに、家族制度に国がその責めを負わせたからである。

1900年、日本で初めての“精神病者に関する法律”である「精神病者監護法」が作られたが、その第一条には、「家族・親族が精神病院に代わって精神病者を監護する義務を負う」と謳われていた。つまり、日本では、病者の家族が社会保安の一翼を担わされ、家族の責任で病者の監督をさせられたのだった。

それ故、日本の精神病者は、ある者は自宅の座敷牢に押し込められたり、ある者は大手を振って往来を闊歩したりで、長い間それぞれに違った生を送った。

この「精神病者監護法」は1919年に「精神病院法」、1950年に「精神衛生法」と改正され、自宅監置の禁止や病院の設置促進が唱われたが、1960年代末まで実際の状況はそう変わることなく推移した。

戦前の精神病床総数は公立・私立を含めてせいぜい2万床か3万床そこそこ、終戦時が最も少なくてわずか4千床であった。戦後10年を経た55年でも4万4千床である。この点だけで言えば、日本は近代国家に類を見ない精神病者収容におおらかな国であったと言える。一方、家族に監督義務を負わせて公立精神病院の設置を怠ったという点では前近代的だったと言うこともできる。

いずれにせよ、当の精神病者にとって日本は、一部の人を除いて、比較的自由に彼らなりの生の営みができる国であった。戦後、経済的復興が進むにつれ精神病床数も漸増し、65年には9万5千床となるが、この程度の病床増加は当時の社会状況からしてやむを得ないところであったろう。

問題は1964年以降である。

64年の3月、日本の精神医療政策に大転回をもたらした「ライシャワー大使刺殺事件」が起こる。精神分裂病の青年がアメリカ大使館の塀を乗り越え、ライシャワー大使を短刀で刺した事件である。幸い、大使は一命をとりとめたが、この出来事は当時の日本を震撼させた。

その頃の日本はアメリカ一辺倒であったし、その大使が刺されることなどあってはならないことであった。政府も国会も騒然となる。

精神病者をどう取り締まるべきか、この種の事件をいかに防止するか、侃々諤々、さまざま意見が国会にとびかった。その意見の大半が社会保安維持の視点からなされた。出た結論は「精神病院増設すべし。精神病者を収容せよ」である。

この方向を選んだとき、日本は取るべき道を誤ったのであった。

この時期、欧米諸国は「如何にして精神病院を縮小し、如何にして精神病者を町へ戻すか」に腐心していた。収容型精神病院が必然的に肥大・増殖・腐敗していくことは既にもうはっきりしていた。

にもかかわらず、この時日本は世界の流れに逆らい、収容中心主義の政策に向かって走り出してしまった。冒頭に、日本は愚かであったと述べた所以である。

ライシャワー事件の2年後の66年、「精神衛生法」を“改正”する。改正法は、「各自治体は精神衛生センター及び公立精神病院を設置し」云々ともっともらしい文言も入っていたが、結局それは、「精神病者をどう予防的かつ合法的に精神病院へ収容するか」「彼らの拘禁をどう法的に継続せしめるか」を眼目とする法律であり、本体は(収容強化令)であった。

以降、日本は精神病者の収容にこぞって血道をあげることになる。

マスコミもそれに同調して収容キャンペーンをはった。精神病者が騒ぎを起こすと、「またも野放しの精神病者」と大きな見出しを掲げた。社会の木鐸たるべき新聞が世間に向かって「精神病者は野犬と同じだよ」と言ったのである。

かくして、全国いたるところで大規模な“野犬狩り”が開始された。

折柄、日本は高度成長期にさしかかっていて、民間資本の活用がさかんに謳われていたから国は私立の精神病院を作ることをさかんに奨励した。精神病院を作るとあれば、創設者が適格であるや否やを問わず、低利の公的資金を簡単に貸し付けた。

そのうえ悪いことに、国は「精神科特例」というおまけまでつけた。これは、“精神科に限って医師や看護者数は一般病院より少なくてよい”とする条例だ。

つまり国は、「精神病院は他の病院よりも治療など手薄で結構」「治すことよりも入れておくことが大事」、そう言ったのである。この時、日本の精神病院は、“病院”ではなく“監禁収容院”たるべく運命づけられた。

「これからは精神病院だってよ。精神病院てぇのは、鉄格子をつけた建物を作って、そこへ患者をぶちこんでおきさえすればそれで儲かる」。

かくして、精神病の何たるかも知らぬ阿漕(あこぎ)な人たちまでが、精神病院の経営に乗り出した。以後、雨後の竹の子の如く、日本全土に私立の精神病院が乱立していく。

具体的な数字で示そう。精神病床数は、1955年に4万4千床だったのが、70年には20万床、75年に30万床、その後も増え続けて遂には36万床にまで達する。精神病院の数は1600有余である。

 【ここから前回の欠落部分、以下(欠落ここまで)まで】

新しく精神病院を立ち上げると、そこの事務長はベットが満杯になるまで、まず役所廻りをする。保健婦や福祉課の人がそれを承けて、“おかしな人”を見つけると直ちにその病院へ連れていく。即、入院だ。本来、地域で患者を支援するべき人たちが国家収容政策の尖兵となる、そんな時代が続いた。

病院の腐敗は必然である。

例えば、200床の病院に常勤医が1人いるか無し、登録医師や看護者は名義だけの幽霊、そんな病院が少なくなかった。役所の監査はその実体を知っていても「合格」である。

「俺たちは世間の厄介者を預かっているんだ。役所の連中にツベコベ言われる筋合いはない」と病院は居直る始末だ。

「精神病院はね、野菜なんか“作業療法”で患者に刻ませりゃいいんだから、賄い婦なんか少なくて済むんだ。便所掃除も患者にやらせるんさ!」、なのである。

全部の病院がこうだったとは言うまい。無論、“良心的な病院”“親切な病院”も数多くあった。しかし、それらの病院も含めて、収容・管理の責を国から委託された日本の精神病院の殆どは、「死ぬまで客の出て行かない慢性宿屋」と化していった。

こんなだから、精神病院には不祥事件が続発した。

1968年、大阪の安田病院で、“逃亡を企てた”患者を看護者3人がバットで撲殺した。そこは大和川病院と名前だけ変えたが、79年にも患者を撲り殺した。“寝ていてはいけない時間に寝ていた”からだ。この医療法人はそれでも3つの病院を擁して繁栄を続ける。ここは97年に至って、脱税と幽霊職員が摘発され、やっと腰の重い行政が「廃院」を命じて姿を消した。

最初の殺人から廃院まで実に30年もの長い歳月が経っている。これは、精神病者の人権や処遇について行政がいかに無関心であったかの証である。

事件はまだある。1962年に大阪の栗岡病院で、院長と看護者が一緒になって、逃亡を相談したからと十数人の患者を裸にして角材で撲った。一人が死亡した。その3年後、福岡の中村病院で、全身に29ヶ所の傷を残して1人が死んだ。精神病院の不祥事件を挙げたら枚挙に暇(いとま)がない。闇から闇へ葬り去られた事件もあったろう。

まして、患者をこづく、ひっぱたく、蹴とばす程度のことは、全国いたるところで数限りなくあった。鉄格子で囲まれた密室がそういうことを可能にした。面会も制限され、通信の自由もなく、訴えの術(すべ)を知らぬ患者たちはただ黙って病院の命に従い、ひたすら耐えるしかない。

何故、早くに彼らに救いの手が差しのべられなかったか?その答えは簡単である。誰もが“精神病者は社会のゴミだ”と思っていたからだ。(つづく)