ライシャワー大使事件のあと、日本の精神医療の状況は悪化の一途を辿った。
ところで、これに歯止めをかけ、「開かれた精神医療」に向かってその流れを変えようとする動きは日本には起こらなかったのか?
その動きを中心に、現在に至るまでの流れを以下に述べよう。
1960年代は反体制の学生運動が世界各地で激しい高まりを見せた時代であった。日本でも然りで、そのうねりから若い精神科医らが精神医療界で立ち上がる。
1969年の金沢で開かれた「日本精神神経学会」では、不祥事件が続発する精神病院とそれと癒着する大学講座制など、精神医療の抱えるありとあらゆる問題が俎上にあげられ、批判が一挙に噴出した。
常ならば“学問のおごそかな発表の場”であった学会は大荒れとなり、会場は罵声と怒号とがとびかう場と化した。
これが改革運動の発端である。この「金沢学会」以降、「病院精神医学会」「地域精神医学会」「臨床心理学会」「作業療法士学会」等々、精神医療にかかわるあらゆる団体が揺れに揺れる。どこも“糾弾学会”だ。潰れた学会もあれば、分裂してしまった学会もあった。
一方、全国各地に精神医療の現場を改革するための集会が発生する。“精神医療を良くする会”、“精神医療を考える会”の類いである。これらの会に地域の改革志向者らが集って論議し、それを現場に持ち帰って病院を変えようとした。
しかし、骨の髄まで管理・収容に徹した精神病院の壁は厚かったし、ひと握りの者がどうあがいてもその壁はピクリともするものではなかった。まして、改革者の一人とていない精神病院が殆どだったから、日本全体はまったく変わらなかった。
改革勢力は、声の割には多数を巻きこめなかったし、実践の場も拡げられない。挙げ句、分派闘争まで巻き起こる始末で、無駄なエネルギーが費やされ彼らはやがて消耗していった。国は、“触れぬ神に祟りなし”と、これらの運動にそっぽを向いていた。いっとき激しく燃え上がった炎は次第に下火となる。
精神病院のなかには、精神病院の開放・自由化に向けて熱心に取り組んだ病院もいくつかあった。しかしそれらはあくまでも点に止まり、面として他の精神病院に拡がってはいかなかった。医療経済の仕組みが大きな障壁となったからだ。病院の開放・自由化や、地域化は労多くして報われること少なく、それを推進しようとすればするほど経済的には病院マイナスとなる。損にしかならない活動が拡がる筈がなかった。そういう活動をする医療者がいると精神病院はクビを切った。
精神病院は批判にも馬耳東風で旧態依然だ。そんな病院に絶望して、入院阻止の防波堤たらんと精神科診療所や地域ケア施設を作って町に出る医療者もいた。
しかしこれらも孤軍奮闘となった。その仕事は経済的にも苦しく、“志と熱意”でしかやれない仕事だったからだ。
一方、精神病者も“病者の会”を結成し、彼ら自身が各種の学会へ顔を出して、精神病院のひどさを訴え、厳しい糾弾の声をあげた。しかし、彼らの声に耳を傾ける精神病院など殆どなかったし、国も聴こうとはしなかった。
日本の精神医療改革の運動は、こうして、みんな疲れ果てていった。それは先も見えず、あまりにも実りない果てしない闘いだったからだ。
これらの運動で特筆さるべきは病者の家族たちの運動である。
彼らは、1965年秋、「全国精神障害者家族会連合会」通称「全家連」を結成する。「全家連」は、「精神障害者福祉法制定」に向けて、また「地域共同作業所作り」に向けて、驚嘆に値する粘り強さをもって全国各地に運動を展開していった。
この家族会の活動が日本の精神医療を変える大きな原動力となるのだが、これについては後で詳しく述べる。
ともあれ、このような改革運動にもかかわらず、日本の腐敗した精神医療体制は少しも変わることなくそのまま続いた。
その腐敗の果て、「金沢学会」から数えて15年後の1984年に、「報徳会・宇都宮病院事件」が起こる。
皮肉にも、悪徳の極みとも言うべきこの宇都宮病院が、日本の精神医療を良い方向へと変える口火になった。この事件によって、日本の精神病院の無惨な実体が白日のもとに曝され、内外の目が精神病院に集まることになったからである。
1984年、「宇都宮病院」で一人の患者が文字通り撲殺された。そのいきさつはこうである。
食事に手をつけない患者がいた。「なんで食わねえんだヨッ」。そう怒鳴りつける看護士に「その患者はまずいから」と答えた。「生意気だッこの野郎!」。四人の看護士が彼を看護室へ引きずり込んでいきなり鉄パイプで撲りはじめた。
彼は食堂へ逃げたが、看護士たちは追いかけて行って撲り続ける。床に倒れた彼を机の上から何度も飛び降りて踏みつけた。「助けてくれぇッ」と彼は叫んだが、まわりにいた他の患者たちは黙って目を伏せていた。「見るなッ」と看護士が怒鳴ったからだ。
ぐったりして食堂に置き去りにされた彼を部屋へ運んだのは患者達だった。まもなく彼は息を引き取った。
病院は彼の死について、「てんかん発作による心臓死」「額の傷は発作でドアにぶっかった時のもの」と説明した。しかし、ことの真相がやがてマスメディアの知るところとなった。
新聞・テレビが一斉に宇都宮病院の実体を連日あばき立てた。精神病院の悲惨な患者の姿がそれによって浮き彫りになる。
院長、石川文之進。彼は自分の病院を千床の大病院とする目標を立て、役所の手を借りて誰彼なしに入院患者をかき集めた。
スタッフ不足は患者を入院のままで“看護助手”に任命して使った。病室では、元ヤクザの患者を“牢名主”として任命し、その子分も配置して完璧な暴力支配体制を敷いた。
少しでも不満を洩らす者は、「ガッチャン部屋」と呼ばれる“保護室”に入れられた。そこで撲る、蹴るの暴行を加えた。「助けてくれぇ」「殺さないでくれぇ」という叫び声が、そこからはいつも洩れてきたという。
院長は、ゴルフのアイアンをいつも“回診”時に持ち歩き、それで患者を突いたり、こづいたりした。それは、“院長の十手”と呼ばれた。「おめえは、まだ処女か?ウヒヒッ」とあざ笑った。「ギャンギャンやられたか?こりたか?ここは関東医療刑務所だぞ、ウヒヒッ」
彼は、ただ同然で患者に過酷な使役を課した。院長宅の広大な庭の造成をさせたり、一族の経営する会社の零下40度の冷凍庫で身を凍らせて働かせた。「死ぬ思いだった」と元患者はいう。
入院と決まると、院長は「お前は3年」と入院期間を患者に宣言する。抗弁すると「5年」になるから黙って従うしかなかった。
「退院させてください」といったばかりにめった打ちにされ半殺しの目に合わされた患者もいる。ウソのようなホントの話だ。
宇都宮病院の話は書いていたらきりがない。
ここは、看板だけは立派だった。有名大学の教授がずらりと顧問に名を連ね、その人達の名が薬袋にまで印刷されていた。これを見たら誰もが「ここは信頼できる病院だ」と思ったに違いない。玄関口だけならそうだろう。
ともあれ、この「宇都宮病院事件」は国の内外に大きな反響を呼び起こした。
「日本の精神病院は程度の差こそあれ体質はみな同じだ」「いやそんなことはない」「いや同じだ」。そんな自己弁護や自己批判の声が精神医療界に交錯する。
国連もこの事件に注目した。
事件の2カ月後、国連法律家委員会は日本の首相に、「早急に精神病院調査委員会を設置されたし」と要請する。翌85年には、国連人権小委員会が日本に調査団を送ってきた。その調査結果は「勧告文」として日本政府に突きつけられた。
曰く、「日本では患者の人権保護が法的に十分為されていない。入院中心の医療が主流を占めていて、入院者数が極めて多い。しかもその3分の2が鍵の中に置かれている。入院者の大部分は長期入院者であり、平均在院日数が異常に長い。しかもその人達への社会復帰活動は不活発である。地域医療体制は整備されておらず、そのためのスタッフや施設も極めて乏しい」云々。
この「勧告文」の内容は、1967年、世界保健機構(WHO)の顧問クラークが、日本の精神医療状況を視察した時に書いた「報告書」の内容を複写したように、そっくり同じである。
そのクラークは10年後も再来日し、「日本の状況はまったく変わっていない」と驚きの声を発し、病床数がさらに増えたことを嘆いた。つまり、67年のクラーク報告書から85年の国連勧告文までの17年間というもの、日本は少しも変わらなかった、国も何もしなかった。そういうことなのであった。
だがここに至って、日本も知らんふりはできなくなった。
政府は、その後の国連の席上で「精神病者の人権を守るために、精神衛生法の改正に着手する。」旨の言明を行った。
これを起点として、日本の精神医療界は沸騰する。精神病院協会、全家連、精神病者の会等々、右も左も、精神医療にかかわるあらゆる団体がそれぞれの立場から改正点を強く主張した。こうせよ、ああせよと互いに譲らない。その故か、出来上った“政府案”は妥協の産物となり中途半端で不徹底なものとなった。それでまたもめた。
政府最終案は1987年9月の国会で通過成立した。これが「精神保健法」である。
この法には、各界の意見を纏めきれなかったことを象徴するかの如く、「5年後に見直し」という条項が末文に附帯された。
宇都宮病院事件から3年後のことであった。
さて、この「精神保健法」である。
この法、旧法の「精神衛生法」の残滓も色濃く残り「抜本改正」と呼べるような代物では到底なかったが、ともかくもそれは、“病院中心から地域中心へと医療を移行させていく方向”がともかくもそれは示されていて、国の転回をわずかに予感させるものがあった。
この法には、「通所授産施設や福祉ホームや援護寮などの地域ケア施設を、市町村・社会福祉法人・医療法人が設立することが出来る」と記されていた。市町村に“設置義務”が附されるようだったらなお良かったが、これでこれら地域ケア施設が従来少し作り易くなった。
この法律は入院者の人権を守る条項も不十分だが設けられた。例えば「通信・信書の自由」の保証。この条項は精神病院の密室に風穴をあけるという点で重要であり、これによって今後は患者への暴行や虐待に歯止めがかかるであろうことが期待された。
「精神保健法」では旧法にはなかった「任意入院制」という言葉が登場した。これは患者自らの意志で入院をし、退院も本人の希望で出来るという入院形式のことである。
「出来るだけ本人の同意に基づいた入院を」と新法はこの制度の活用を奨励した。当たり前のことなのだが、これまでの法には「任意」という考え方のかけらすらなかったのである。
「任意入院制度」の新設は、精神科医をしてインフォームド・コンセントを得るための努力をさせるに役立った。(欠落ここまで)(つづく)