紀行記

イタリア南部・スケッチ編(14・終)・バーリのノルマノ・ズベーボ城址

untitledブリンディジでバスから列車に乗り換え、バーリへ向かった。二日間に亘る泳ぎ疲れからか、列車の中では時々瞼が重くなってこっくり、こっくりした。いい気持ちで居眠りをしているうちにレッチェに着いた。

レッチェの駅で20歳台後半かと思える日本の青年が乗り込んで来た。いささかずんぐりむっくりの体格で、背中にバカでかいザックを背負い、前に小さなザックを前抱えにしている。その格好があんまりチンケなので思わず笑ったが、その青年が僕の姿をみつけて近づいてきた。

「日本のお方ですか? ここへ掛けてお話してもよろしいでしょうか?」

ええ、どうぞ、と僕は答え、それから二人の間に会話がはずんだ。

聞けば、彼は関西の高校の社会科教師で、7月末に日本を発ちウズベキスタンを2週間歩き、それから飛行機で南下してレッチェまで来た。あと3日間この辺りを歩いて25日後には日本に戻るのだという。

「中央アジアとイタリア南部?」

随分かけ離れた旅行地の選び方だなァと感じ入った。ちょっとこの人、おかしいんじゃない?

彼は話し続ける。

「毎年、夏はあっちこっち約1ヶ月間外国を歩くことにしてるんです。見聞を広めたいと思って‥‥。そのために私は一所懸命1年間貯金をします」。

ほう、それは感心なことだが。それで今度の旅は何処が一番良かったですか?

ウ、ウズベキスタンです。ブ、ブハラやサマルカンド‥‥。モスクが立派なんで、か、感心しました。

そうでしょ。あの辺のモスクのドームの青は類いない美しさでしょ?

そ、そうなんですヮ。ほ、ほ、本当に青がきれいでした。

彼はその時の感動を懸命に伝えようとするのだが、一所懸命のあまり言葉に力が入りすぎて「ド、ド、ド、ド」と吃ってしまう。ど、ど、ど、どうしてあんなにウ、ウ、美しい色がででで、出来るんでしょう‥‥。

そのうちどうした加減か話が教育論になった。彼のしゃべり方に一層熱が入る。

い、い、今の教育は、だ、だ、駄目です。きょ、きょ、教師の質がも、も、も、問題で‥‥。

この青年は大変に教育熱心な教師に見えたが、吃ることを度外視しても一方でちょっぴりトロいところがあって、話のピントが微妙にずれる。彼の話し方はどう見ても“舌鋒鋭く”でなく、焦点が拡散して間が抜ける。「お人好し」、そんな言葉が彼にはぴったりだったから、些か月並みな教育談議だったが、ふむ、ふむと彼の話を真面目に聞いた。

列車がバーリに着いたら、「これからマテーラに行く」と彼が言い出した。マテーラについての僕の話を聞き、彼の中に猛烈な好奇心が湧いたようだ。

マテーラ行き列車の出るまで3時間の待ち時間があったので、御馳走しようと彼を昼食に誘った。「え、嬉しいなァ!」、大小のリュックの間に埋まった彼の顔が大きく崩れた。とにかく邪鬼のない人なのだ。僕はこの青年が大いに気に入った。

3時間、旅の話だった。彼は僕が話したスペインの巡礼路に強い興味を示した。ピレネー山脈からスペイン西端のサンチャゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼路は、僕がもう一度行ってみたいと思っている場所のひとつだ。この道のここかしこに点在するロマネスク教会と、その柱頭に刻まれたロマネスク彫刻が実に面白い。

それらを見て辿るだけでも巡礼路に行く価値があり。僕はゴシックやバロックに較べてロマネスクがどんなに素朴で心和ませるもんであるかを熱心に彼に説いた。

「ではいずれまたどこかの旅の空で‥‥」

何度も握手をして彼と別れた。彼は今でも夏になると外国を歩いているのだろうか?

彼と別れてノルマノ・ズベーボ城址をスケッチした。この旅の最後の絵だ。翌日、ミラノに飛んで二泊した。ミラノでのお目当ては、ミケランジェロの「未完のピエタ像」にもう一度お目にかかることだ。因みに「ピエタ」とは、聖母マリアが磔刑で死んだキリストを膝に抱えて嘆いている姿を表した絵画や彫刻のことを言う。

ミケランジェロのピエタはバチカンにあるものが一番世に知られているが、彼は生涯で4体のピエタを彫った。ミラノのピエタは未完のままで終らせている。

僕はこの未完のピエタが好きで、ミラノに行くといつもミラノ城を訪れてこれを見る。今度も行ったが考えた。何故未完なのに僕はこの像に魅せられるんだろう?

この像はマリアとキリストの目がよい。見る角度によってひどく美しく見える。次に、未完だから荒削りのノミの跡が生々しい。その彫り跡を見ていると、恰(あたか)もミケランジェロがいま目の前でピエタを彫っているかの如く僕の目には映る。つまり僕はこの像とミケランジェロを一体の姿としてひっくるめて見ているわけだ。この像の上部には一本の腕が彫り残してある。彼はここに何を彫ろうとしたのだろう? それは僕の想像力をかき立てる。

「未完のピエタ」を見ている時、ひょいと、今日が誕生日であったことを思い出した。迂闊にも自分の誕生日をすっかり忘れていた。

Congratulation! (おめでとう!)と言いたいところだが、この年になると誕生日なんか「冥土の旅の一里塚」だ。お目出度くともなんともない。「もういい加減この辺でいいんじゃないかな?」と思うこともある。なんてったってもうキリスト様の2倍以上を生きてきたのだから‥‥。

 (ミケランジェロを見ていたら、突然、日本の仏様の像をみたくなった。それで僕は、日本に戻った当日に空港から奈良に直行、室生寺に行った。室生寺で、十一面観音、文殊菩薩、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩の五体の仏様がずらりと並んでいるところを見たい‥‥。

釈迦如来にあらためて感動をした。光背の色と如来の胸下から足元にかけての薄紅色の衣の色、その絶妙な調和にほれぼれ見惚れた。

日本の仏の姿に較べれば、ミケランジェロのピエタなど、僕の中では遠く及ばないことを再確認した)

(イタリア南部・スケッチ編 終わり)

イタリア南部・スケッチ編(13)・“紅の豚”の海岸線

untitled「タクシーが来ました」、フロントの姉ちゃんが呼びに来た。やってきた車は、よくもまあこれで動くものだと思うくらいのオンボロ車で、コロンボ刑事の車よりもっとデコボコだ。おまけに運転するのが推定年齢60歳のアッパッパァを着た漁師のオバァちゃんだった。

このオバァちゃんの運転はひどかった。海際の崖っぷちの細い道を走るのだが、時々車がヨロヨロッとよろめく。“オットット、are you okay?”(あなたァ、大丈夫?)と声をかけるのだが、このオバァちゃん英語が分からないから返事のかわりに何やらブツブツッ呪文のような言葉を呟く。運転速度は時速20キロだ。1時間くらい走ってやっとホテルのある村に着いた。「ここだよ」。

「ここってどこ?」「あれッ、ホテルの名前は何だっけ?」

どうも頓馬なことに、僕もオバァちゃんも予約したホテルの名前を忘れてしまっていた。

「あれッ?」、「なんだっけ?」。

年寄りどうし、甚だ頼りない。仕方がないから海辺に並んでいる数軒のホテルのフロントで聞くことにした。

「泊まるホテルの名前を忘れてしまったのですが、私が泊まるホテルはどこでしょう?」
 
これでは分かりっこない。フロントが笑ったのでバカにしていやがると僕とオバアちゃんは必死にホテルの名前を思い出そうとした。

「ねぇねぇ歌の名前ではなかった? 帰れソレントへ? 違う。フニクラ・フニクラ? いや違う。そうだ、オーソレミヨだ、いや違う。わかった、サンタ・ルチアだ!!」

「サンタ・ルチア・ホテル」の道順を教えてもらい、またオバアちゃんの運転で走り出した。車は曲がりくねった山道を登っていく。えーッ、ホテルはこんな山の中なの?これでは「紅の豚」の入り江どころの話ではない。

着いたところはアメリカンスタイルのモーテルそのままの建物だった。「海は? ここに泊まる皆さんはどこで泳ぐのですか?」

フロントが指さす方を見たら中庭に小さなプールがあり、そのプールを取り巻くように沢山のマグロがデッキチェアに寝そべって日光浴をしていた。

「おいおい、冗談じゃねえ。誰がこんなプールへ入るためにわざわざ南部イタリアくんだりまで来るもんかよ!」

僕は憤然と呟き、断固、山を降って海辺まで歩くことにした。まだ陽は高い。絶対「紅の豚」を見つけてやる!

山を降り、海辺にたむろする“マグロ”どもには目もくれず、僕は海の崖っぷちの道を汗だくになって歩いた。小さく湾曲する場所に来るとその都度、下の海を覗きこんだ。格好の入り江はないか? 1時間くらいして見つけた。小さく小さくくびれた入り江で、海は底なしに透きとおってきれいだ。白砂の浜もある。無論、人っ子一人居ない。よし、ここだ!

海辺へ降りるのに苦労した。50mはあろうかという断崖絶壁だ。落ちたら確実に死ぬ。草つきの岩場をソロリソロリと慎重に降りた。こんなところでロック・クライミングの真似事をするとは思わなかったなァ!

なんとか無事に降り切った。嬉しいことに、上からは見えなかったがここには小さな洞窟まであった。この穴にもぐって寝たら快適だ。つまらんあのモーテルの部屋が一瞬頭に浮び、よし今夜はこの洞窟にもぐって眠ろうと考えた。

汗まみれ、泥まみれだった僕は、下に着くや否や素っ裸となり、ワーッと快哉の声をあげて海へ跳び込んだ。海水が存外に冷たくて、ヒヤーッと言った。さっとクロールでひと泳ぎした。入り江の外に出て潮流に流されるとヤバイから、入り江の中をぐるぐる泳いだ。

水中眼鏡をつけて岸辺の岩で遊んだ。小魚の群れが藻にたわむれていて、タオルでそれを掬おうとするのだがなかなか捕れない。入った! と思うとすぐ逃げられてしまう。小学生の頃、僕は真暗になるまで桐生川で魚を追いかけて毎日を過ごした。その頃を思い出した。

気がついたら、尖った岩の角で足のあちこちが傷ついていた。膝小僧や足の指にうっすらと血が滲んでいる。しかしそんなことすらもこの日の僕には嬉しい。

海で冷えた体を砂浜に腹這って暖めた。
 
“砂山の砂に腹這い初恋の
 痛みを遠く思い出ずる日”

啄木のこんな歌がひょいと頭に浮んだりした。

あそび呆けてふと気がついて時計を見たら既にもう午後七時だ。あと一時間もすると暗くなる。さあどうしよう? やはりこの洞窟にもぐって寝るとするか? お腹は? ん? と考えてみたら、今朝レッチェのホテルでパンを齧っただけでそれから何も食べていない。猛烈な空腹を覚えた。

ムール貝が食べたい。海辺のレストランなら捕れたてのムール貝が食べられる。ターラントの丸っこいプチュッとしたムール貝! 思い出したら我慢が出来なくなった。僕は身支度をし、再び断崖の岩登りをして帰路についた。

カストロのホテルレストランに飛びこんで遅い夕飯を食べた。無論、ムール貝の塩茹で。二皿だ。それに舌びらめ、魚貝のスープ、蛤のパスタ。

満腹して夜の山道を登った。懐中電気で足元を照らしあえぎあえぎ登る。些か泳ぎ疲れ、そのうえ一時間以上も登り坂を歩いたから息もたえだえとなって、「もう年齢(とし)だからなァ」とぼやいた。

朝、早々にモーテルを引き払った。こんな所に長居は無用だ。今日は、昨日見付けた“紅の豚”の入り江で一日を過す! 泳いだり、小魚を追いかけたり、砂浜に腹這ったり、洞窟の中で昼寝をしたりだ。

幸運なことに? 昨夜食事をしたホテルの前を通りかかった時に何気なく空室ない? と聞いてみたら、キャンセルがあって一室ありますと言った。これで今夜は空きっ腹を抱えて洞窟に寝ないで済む。

でも、「満腹のホテル」と「空腹の洞窟」とどっちがよかったか? 多分、洞窟の方がよかったかもしれない。

“紅の豚”に向かう途中の村はずれの一角で、アフリカから来たおばちゃん達が民芸品の露店を開いていた。みんな堂々たる体躯でダボッとした民族衣裳を身に纏っている。その格好が面白かったので絵に描こうとしたら彼女らからえらい剣幕で怒鳴られた。モスレムの女性は自分の姿を写真に撮られたり絵に描かれたりすることを極端に嫌う。それを十分に承知していながら描いた僕が悪かった。

バツが悪かったからお詫びのしるしに日本のノド飴をおばちゃん達に配り、その場に腰を降ろして向こうに見える海岸線の絵を描いた。その絵を覗きこんで彼女らがヤンヤと手を叩いてくれる。陽気で気のよい人達だった。冒頭のスケッチがその時の絵だ。

その日、“紅の豚”の入り江でまる一日を過ごした。十分に海を楽しみ、また夜は夜で、ムール貝の塩茹でを十分に楽しんだ。至福の一日であった。

明日はここからバスでブリンディジまで行き、そこから列車でバーリに向かう。バーリで泊り、明後日早朝には飛行機でミラノへ飛ぶ。その次の日はミラノから成田。

イタリア南部の旅は明日でとうとう終りを迎える。【つづく】

プロフィール
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石川 信義
(いしかわ・のぶよし)

 1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、52年、東京大学経済学部を卒業。安田火災海上勤務ののち、62年、東京大学医学部を卒業。

 東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。

 学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。

 著書に、『心病める人たち―開かれた精神医療へ』(岩波新書・1990年)、『鎮魂のカラコルム』(岩波書店・2006年)、『開かれている病棟 おりおりの記』(星和書店・1990年)など。
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