チュニジア

チュニジア編(55・終)「イスタンブール」

untitledやがて八人が掌を挙げたままの姿勢でくるくると体を旋回させ始めた。白い衣裳はしたがスカートになっているから、旋回とともに裾がふくらみ、美しい円錐形となった。それは白い花の大輪がパァッと一斉に花開いたようだ。

音楽のテンポが上り、踊りの旋回のテンポもそれにつれて上っていく。左足を軸に右足を少し蹴ってくるりくるりと回る。右手を上に左手を下にいつまでもいつまでも、続くかと思われる旋回だ。彼らは少し小首をかしげ宙を見ている。目の焦点は宙を漂い、その視界の中に彼らは神を見ているようだ。

長い長い祈りの舞踊だった。旋回は一時間くらい続いたろう。音楽が終わり、旋回がとまり、八人の修道士達は再び両手を胸に交叉させて深々と頭を下げ静かに部屋を出ていった。静寂の時が訪れ、僕はと言えば、僕も修道士のように頭を垂れその場を暫らく動かなかった。「セマ」のあと僕はいつも金縛りに会ったように動けなくなる。

いつの日か、12月のコンヤを訪れ彼らの本当の「セマ」を見たいものだ。僕はそう思った。残余の命いくばくもない僕に、その機会はあるだろうか?

イスタンブール滞在もあと一日を余すのみとなった。明後日、僕はアタチュルク空港から成田に向けて飛び立つ。

明日一日をどう過ごそう。多分、明日も今日と同じに「ハマム」と「セマ」だ。

「ハマム」は今日みつけた「庶民派ハマム」へ行く。明日は力づくのマッサージも受けよう。きっと体がガタガタになること受け合いだが。

「セマ」は、オリエンタル急行終着駅のイスタンブール駅に行って観る。歴史ある古い駅の一室だから、今夜のセマよりももっと見応えがあるかもしれない。

いずれにしても、明日は今日と同じようなことをする。だから明日の旅日記は余程の出来事がない限り今日と同じようなものになる。よって、「チュニジアの旅」の日記は今夜をもってペンを置き稿を閉じることにする。【チュニジア編・了】

チュニジア編(54) 「イスタンブール」

メヴラーナは、「寛容の心」の大切さを訴え、それによって人と神の心が一つになる、人々に諭した。彼の教えに、

untitled 怒りと苛立ちは死の如く葬り去り、
 優しさと謙譲の心は大地の如く
 寛容の心は海の如くあれかし、

という言葉がある。

彼はいまコンヤの地の石棺の中に眠る

彼の死後、その教えを継承する弟子たちの集団は「メヴレヴィー教団」の「スーフィー」と呼ばれ、彼らはメヴラーナの思想を音楽と踊りで表現して、それを以て神と人とが一つになる境地に達しようとした。彼らのその踊りのことを「セマ」と言う。

「セマ」はただひたすら体を旋回させるだけの踊りである。この世のあらゆるものは循環し回っている。生命も地球もだ。だから心を無にして体を回し続ければ遂には神に心が届き自分が神と一つになれると彼らは考えた。

イスタンブールを訪れると決まって僕は「セマ」を見に行く。

その踊りはその優美さ典雅なることで僕の心を打つ。また、その厳粛さで僕の心を虜(とりこ)にする。セマの舞踊を見たあと、僕はいつも自分の背筋をピシャッと叩かれたような気分になる。

メヴラーナの逝去した12月、スーフェスト達はコンヤの町に集い追憶のセマを踊る。本来、セマはコンヤに行かなければ見られなかった踊りだ。しかし、近年この舞踊はすっかり人々の知るところとなり、そのためイスタンブールでも「セマ」が行われて誰もが見られるようになった。

イスタンブールで見る「セマ」は些か観光・ショー化したものである感は否めないが、それでも踊るのは正真正銘のスーフィスト達であり、「セマ」の神髄は決して失われてはいない。

この日、僕が行ったのはアヤソフィアに近い古い建物の一室だった。久留米絣(くるめがすり)、下駄履きの姿で行ったら、受付のお姉ちゃんが「Beautiful!  How mysterious! (きれいッ、神秘的だヮ)」と言った。僕は着物姿で床に正座し、両手を膝の上に揃えて「セマ」を見た。

フルート・ドラム・シンバルによる旋律が、祈るような歌声とともに、薄暗い部屋の中を流れ始めた。と同時に、八人の修道士が両手を胸に交叉させゆっくりした足取りで部屋の中へ入って来た。白い衣裳の上に黒いマントを羽織り、頭には駱駝の毛の長い筒型帽子をかぶっている。

八人が黒いマントを脱ぎ捨てる。これは、これから自分が変わるという予告だ。純白の衣裳となった彼らは、静かに両手を上に挙げる。右の掌を上に、左の掌を下に。これは右の掌は神の恵みを受け取り、左の掌で受け取った神の心を地上に伝えることを意味する。【つづく】

プロフィール
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石川 信義
(いしかわ・のぶよし)

 1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、52年、東京大学経済学部を卒業。安田火災海上勤務ののち、62年、東京大学医学部を卒業。

 東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。

 学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。

 著書に、『心病める人たち―開かれた精神医療へ』(岩波新書・1990年)、『鎮魂のカラコルム』(岩波書店・2006年)、『開かれている病棟 おりおりの記』(星和書店・1990年)など。
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