子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

「思想史講座」のお知らせー10月のご案内      子安宣邦

*だれでも、いつからでも聴講できる思想史講座です

*津田の国民思想史というべき『我が国民思想の研究』の問題とは、近代日本の国民国家の成立を日本の歴史を辿りながらどう考えるかという問題に帰着するように思われます。その意味で、津田「国民思想の研究」を読む講座は、幕末から明治維新というもっとも重要な時期にさしかかっています。
*仁斎によって『論語』を読む論語塾も、最終章の講読の段階を迎えました。ここに至ってあらためて『論語』とは、『論語』を読むこととは何かが問われているように思われます。


*10月の講座

思想史講座―「未完のナショナリズムー津田左右吉『我が国民思想の研究』を読む
*「未完のナショナリズム」というタイトルで始めました。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』をテキストとして読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題を論じていくことを考えています。

*大阪教室:懐徳堂研究会

*今期は講座開催日が日曜日になりましたのでご注意下さい。 

 10月22(日)・13時10分〜15時10分
 津田『国民思想』論・9
                            
   「爛熟と停滞と閉塞としての江戸」

 
 会場:梅田アプローズタワー・10階1005号室

 

東京教室:昭和思想史研究会

 10月14日(土)・13時〜15時
 津田「国民思想」論・9
    
   「爛熟と停滞と閉塞としての江戸」
    (9月にお話したことを完成させた形でもう一度お話いたします。)


  会場:早稲田奉仕園・セミナーハウス・101教室

     早稲田奉仕園はバス「馬場下」下車、穴八幡宮の裏手

 
  *資料は当日配布します。

  *参考文献:津田『我が国民思想の研究ー平民文学の時代 上』第一篇「 平民文学の隆盛時代」第13,14章「武士道」、『我が国民思想の研究ー平民文学の時代 中 』第二篇「 平民文学の停滞時代」  



論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
 途中からでも自由にご参会ください。
 私の『論語古義』の解読作業も最終段階に入りました。『論語古義』の読み終えを共にしませんか。

 
 *開始時間が午後1時からとなりました。ご注意下さい。 

 10月28日(土)13時〜16時  ① 堯曰篇  ② 次講座のご相談
 

 資料は当日配布します。

 会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


「思想史講座」のお知らせー9月再開のご案内      子安宣邦

*この2ヶ月余りお休みしてきた思想史講座を9月から再開いたします。
*だれでも、いつからでも聴講できる思想史講座です。
*津田の「国民思想の研究」の問題とは、近代日本の国民国家の成立を日本の歴史を辿りながらどう考えるかという問題に帰着するように思われます。その意味で、津田「国民思想の研究」を読む講座はもっとも重要な時期にさしかかっています。
*仁斎によって『論語』を読む論語塾も、最後の数章の講読の段階を迎えました。ここに至ってあらためて『論語』とは、『論語』を読むこととは何かが問われているように思われます。毎回この本質的な問題をめぐる熱い論が展開されています。


*9月の講座

思想史講座―「未完のナショナリズムー津田左右吉『我が国民思想の研究』を読む
*「未完のナショナリズム」というタイトルで始めました。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』をテキストとして読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題を論じていくことを考えています。
第7回は「平民文学の時代」に入ります。津田の「国民」概念を実質的に構成するのは「平民」です。この「平民」が歴史を構成する主要な契機として登場する近世という時代を津田はどのように見るのか。津田の「平民文学の時代」とはいかなる時代であるのか。明治近代の「国民の時代」を向こうに見ながら、津田の「平民の時代」とは何かを考えてみたいと思います。

*大阪教室:懐徳堂研究会

 9月16日(土)・13時〜15時
 津田『国民思想』論の7
                            
   「平民の時代は国民の時代か」

 
 会場:梅田アプローズタワー・14階1401会議室

 

東京教室:昭和思想史研究会

 9月23日(土)・13時〜15時(教室の都合で23日に変更いたします。)
 津田「国民思想」論の8
    
   「日本近世社会と武士

 会場:早稲田奉仕園・セミナーハウス・101教室
     早稲田奉仕園はバス「馬場下」下車、穴八幡宮の裏手

 
  *資料は当日配布します。

  *参考文献:津田『我が国民思想の研究ー平民文学の時代 上』第一篇「 平民文学の隆盛時代」
   第13,14章「武士道」、第20,21「知識生活」
    



論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
 途中からでも自由にご参会ください。
 私の『論語古義』の解読作業も最終段階に入りました。『論語古義』の読み終えを共にしませんか。

 
 *開始時間が午後1時からとなりました。ご注意下さい。 

 9月30日(土)13時〜16時  ① 子張篇  ② 子張篇
 

 資料は当日配布します。

 会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話

子安美知子ーその生と記憶           子安宣邦
 

 [これは「子安美知子を偲ぶ会」のために私の用意した言葉である。30日の「偲ぶ会」は子安美知子の初志を甦らせ、それを記憶に留める会にしたいという私の思いを、十分に実現する形で進められていった。三瓶・多和田。堀内・鈴木さんの話は感動をもって参会者に受け取られていった。これで十分であった。私が用意した話をする必要はなかった。これは「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話である。]

 ドイツの知人たちからの弔問のほとんどのお手紙に、「あなたの記憶は私の心の中にずっとあります」と書かれています。これは慣用句かもしれない。しかしこの慣用句は、われわれにおける「安らかにお眠り下さい」という慣用句よりも、人との死別にあたってはるかに意味ある、大事な言葉であるように私には思われます。「安らかにお眠り下さい」は「お別れの会」には相応しいかもしれません。では「あなたの記憶はずっと私の中にあります」という言葉が相応しいのは、どのような会でしょうか。それは故人を「語る会」かもしれません。私は岡村先生のご同意をえてこの会を「偲ぶ会」と呼ぶことにしました。

 長く身近にいたものとの死別の体験は私にとってこれが初めてであります。私は初めて肉体をもった存在から、肉体をもうもつことのない、現世的な、時空的関係づけを私との間にもつことのない存在への転移の体験を身近なものの死として初めてもちました。

 その体験は、呼吸することを終えた彼女の上に、彼女の初志というべきものを甦えらせました。エンデの『モモ』的譬喩をもっていえば、彼女の死は子安美知子がもって生まれた時間という花を見事に咲かせた人生だという思いを私に強くさせたのです。彼女の死に際して、私が「見事な人生であった」といった感慨をもつなどということは彼女が生きているときには予想もしないことでした。これも『モモ』的にいえば、肉体をもって生きる彼女とは絶えず時間をせめぎ合う仲であったからです。

 私は7月2日の彼女の死の数日後からエンデの『モモ』の読み直しを始めました。この30年ぶりの『モモ』再読は私にとって大きな教えであり、救いでもありました。私は彼女の死後の対応に周章狼狽しておりました。お別れ会の会場として幸いに早稲田大学のこの国際会議場をお借りすることができても、450名定員のこの会議場の席をどう埋めたらよいのか、途方に暮れるような思いでおりました。その時『モモ』を読んで、大事なことはそんなことではない、たとえ少ない人数の参会者であれ、ここで意味ある時間を共にすることだということを私は教えられました。それから気持ちが楽になりました。『モモ』の再読が私にもたらしたものはそれだけではありません。彼女の初志をもってその生涯を見直すことを私は教わりました。その初志とは、『モモ』に見る人間観をもっていうことのできるものです。人はそれぞれにもって生まれた芽生えを花としてそれぞれに咲かせる生(時間)をこの地上に与えられているという人間観です。

 1971年から73年にかけて私たちはミュンヘンに滞在する機会を得ました。それは私たちそれぞれにとって重要な、意味ある滞在でした。私にとってこの滞在は、日本を外から見ることを可能にしました。私たち家族にとってこの滞在は、シュタイナー学校というものに根底的に揺さぶられるような思想体験をした時期でありました。その体験の記述は『ミュンヘンの小学生』に尽くされておりますが、私たちの驚きはその入学の一日目から始まるものでした。一日目に娘は一本の線をクレヨンで引いた画用紙だけをもって帰ってきました。それが縁取られて太くなるような日が何日か続きました。その一本の垂直の線を引くことが、「私(Ich)」ということの文字表象による自覚化的な学習を意味することを知ったのは大分たってからのことです。
 このミュンヘンのシュタイナー学校での二年の体験は私たちにとって衝撃的な体験でした。それはわれわれが日本で受けてきた学校教育を根底的に問い直させるものでした。人はそれぞれにもって生まれた花を豊かに咲かせるための時を与えられてこの地上にあるのだし、それぞれにおける開花を助けるのがまさしく教育なのだといった教育観、人間観を彼女はミュンヘンで「初志」としてもったのです。 

 『ミュンヘンの小学生』を書いたとき、晩年にいたるまでの現実の苦闘がそこから始まることなどまったく予想しませんでした。1980年代の後半から日本のシュタイナー教育運動は紹介的啓蒙の段階から、日本的土壌に学校として実現する過程に入ります。それからの関係者たちの苦闘の過程を私は確実に知るものではないし、また語る資格をもつものではありません。それらのことはは彼女が残していった編著『日本のシュタイナー学校が始まった日』に譲って、その時期家族の内側から見た彼女についてのみ語ってみたいと思います。私たちはある時期から家庭内で線引きをしておりました。すなわちそれぞれが社会的に関与していることから生じる問題を、家庭内には持ち込まないという線引きです。この線引きぱら家内に向けてなされたものです。 

 この線引きにもかかわらず、日本のシュタイナー運動をめぐる葛藤と軋轢といった問題をどれほど聞かされたことか。そして事柄が一層深刻にしていったのは、彼女がこの軋轢における一方の因をなしているかもしれないということです。それはベストセラー『ミュンヘンの小学生』を背負った彼女のシュタイナー運動がもった宿命かも知れません。すぐれた理念が制度や組織を通じて現実化していく過程は、すでに力や支配を背景にした政治の過程でもあります。彼女はこの過程をその初志を信じて突き進み、傷つき、苦しみ、最終的には挫折したように私は思います。

 「あしたの国」の挫折と2012年のミュンヘンにおける命拾いの入院体験とがほとんど継続するように彼女に生じたように思います。それからこの7月2日の彼女の死に至るまでの4,5年は、彼女の人生でもっとも精神的に安定していた日々であったいように思われます。私が奇跡といっているようなこの安定した年月は、最後の肉体的苦痛の三週間を迎えることになります。だがそれは彼女の初志を思い起こしながら、それを貫き得たことの満足を見出すための最後の試練の時であったように思われます。
 彼女はその人生に満足感をもって、感謝の言葉を口にしながら死にました。そしてこの私も。三週間の苦しい時をともに過ごした私も、その死とともに彼女の上に見出したのは、初志を貫き通した生のあり方でした。私は「見事な人生であった」と思い、それを口にしました。それは彼女と時間をせめぎ合っていた時期には、思いもしなかった言葉です。私はこれを彼女の死がもたらした一時の感傷だとは思っていません。私はこれを常に新たに思い起こすべき彼女の初志の記憶だと思っています。私がお別れの会ではないこの会を開いて頂いたのは、この初志の記憶を皆さまと共にすることを願ってです、(2017年7月30日)
 

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