子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

■津田・国民思想論・11               

明治維新は近代日本の正しい始まりなのか

  ー津田は明治維新をどう見たか              子安宣邦

 

「幕府を倒した薩人もチョウシュウ人も、また彼等の先駆となり彼等と共に活動した志士輩浪人輩も、決して国家の功臣ではなかった。彼等は、しばしば述べた如く、日本の国家の進運を阻害し国民の生活を甚だしく傷つけたものだからであるのみならず、国民の象徴であられる皇室に大なる累を及ぼすような政治形態を構成したからである。」 

             津田左右吉「トクガワ将軍の「版籍奉還」」[1]

 

1 未刊の『平民文学の時代 下』

 津田が「幕末の思想界は多く政権の問題に向って集中せられ、そうしてその政権の推移は一般国民の日常生活とは直接には交渉の浅いものであるが、それに伴って行われた政治組織の変改が、西洋文化の輸入と共に、漸次国民の生活とその間から生まれる思想とを動かしてゆく。著者は次篇に於いて一と通りそれを観察し、そうしてこの「国民思想の研究」を完結させようと思う」と書いて、『我が国民思想の研究ー平民文学の時代 中』の末尾の文章を閉じたのは、大正一〇年(1921)のことであった。この書が刊行されたのはその年の一二月であった。だがここで予告された『平民文学の時代 下』、すなわち幕末動乱から明治維新を経て、国民の生活と思想に甚大な変革的影響を及ぼしながら展開されていく日本の政治的、社会的近代化の初期の過程を扱うはずのこの巻は昭和戦前期に刊行されることはなかった。戦後津田は戦前に書き記した二つの草稿と戦後に公表していった明治維新の前後をめぐる文章などによって『平民文学の時代 下』の編成とその刊行を考えながら[2]、それを果たすことなく昭和三六年(1961)一二月に亡くなった。

 大正一〇年の予告にもかかわらず、『平民文学の時代 下』は津田の手によって書き終えられ、刊行されることなく終わったのである。そのことは津田の『文学に現れたる我が国民思想の研究』とは、その終局というべき明治という国民的変革の時代をめぐる巻を未刊として終わった完結せざる大業である。

 なぜ津田は『平民文学の時代 下』を書き終え、『我が国民思想の研究』を完結させることができなかったのか。あるいはむしろ津田はなぜ『平民文学の時代 下』を書き終え、そして『我が国民思想の研究』を完成させることをしなかったのかと問うべきかもしれない。

 

 2 『我が国民思想の研究』とは何か

 津田の『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』が刊行されたのは大正五年(1916)である。その二年前、すなわち大正三年に津田は『神代史の新しい研究』を出版している。この二つの著作のほとんど同時的な刊行は、それらが津田において共通の動機に基づくものであることを思わせる。家永三郎は「津田左右吉略年譜」[3]の大正五年の項に「一月 吉野作造が「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』に掲載した」と記している。この津田の年譜への家永による参考的な書き入れは、津田の二つの著作とその刊行とがもっている意味をかえって見えなくさせる。これもまた大正デモクラシーの一事例と解することによって、この二著の刊行がもつ意味をそれ以上に考えることを妨げてしまう。

 大正とは二〇世紀の現代世界に日本がアジアの帝国(1895年・台湾を領有し、1910年・韓国を併合する)として登場していった時代である。国内的にいえば日比谷騒動(1895)足尾暴動(1907)といった民衆的騒動や労働争議暴動と大逆事件(1911)という権力による先制攻撃的な社会主義への弾圧を経て時代は明治から大正へと移るのである。大正とは明治の四十年という国際戦争をも含む形成の過程を経て成った日本という国家、すなわち日本帝国を世界史の上に登場せしめていく時代である。だがいま眼前にしている帝国日本がはたして明治の変革以来人びとが求めてきた国民の国家であるかを問うことを人はしなかった。あるいはそのような問い自体を明治国家は人びとから奪い取っていったというべきかもしれない。

 津田は大正二年(1913)に『神代史の新しい研究』を刊行し、大正五年(1916)に『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』を刊行した。大正六年には『我が国民思想の研究 武士文学の時代』が、大正七年には『平民文学の時代 上』が、そして大正一〇年には『平民文学の時代 中』が刊行された。津田におけるこれらの著作とその刊行は何を意味するのか。これは唯一人津田によってなされた明治が形成してきた国家への、列島の始原にまで溯ってした問い直しである。この問い直しを貫くのは、自生的・自立的国民をいかに形成したのか、あるいは形成し損なってきたかという問いである。だがなぜ『神代史の新しい研究』があるのか。明治の新国家は国家と国民の成立を神話的に粉飾したからである。

 私はこの講座で津田の『我が国民思想の研究』を読みながら、神話から平民文学の時代まで、すべての時代の叙述を貫く自立的国民形成への問いにしばしば辟易し、その問いの意味を読み損ねてきた。『我が国民思想の研究』を読み終えようとする今にいたってはじめて、津田が自立的国民への問いをなぜ提示しつづけたのかを理解した。津田はいま眼前にする国家、明治日本が形成してきた国家に向けて問うているのである。自立的な日本国民を形成してきたのかと。だから『文学に現れたる我が国民思想の研究』全四巻とは、明治の形成してきた眼前にする国家への、あの自立的国民の形成への問いとともになされた対抗的な構成物なのだ。
「一時の迎合と権力の抑圧とのために表面上しばらく跡を潜めたように見えるいわゆる逸楽奢侈の風は、その抑圧がゆるむと同時に再び表面に現われて来なければならぬ。或は寧ろ反動の勢いを以て一層激しくならねばならぬ。権力による人為の緊粛は到底永続すべきものでなく、そうして封建制・武士制の窮屈なる羈縛が依然として存在する世に於いては、士風のこうなるのは当然である。もしそれを徹底的に防遏しようとするならば、人の力を自由にまた正当な方向に伸ばし得る機会を与え、社会を民衆的・団体的に組織し、人々の生活が公共的でなければならぬことを実生活の上から切実に覚悟させる外は無いが、そうするには封建制や武士制を根本的に破壊しなければならぬ。それは当時に於いて夢想だもしなかったことであるのみならず、幕府伝来の固定政策を守って、何処までも現在の秩序を維持しようとし、あらゆる方面に於いて人心の抑制鎮圧を努めていた享保の政治家は、全くその反対の方向を見ていたのである。人間の公共的生活を発揮する社会組織が無く、君臣主従という私的関係で人々を結びつけている上に、活動の気象を無くし事業欲を起こさせず、ひたすらに規矩の間に人間をはめ込もうとする結果は、人の生活を利己的にし物質的にし、官能的快楽と奢侈逸遊とを追求せしむるに至るのが当然である。」[4]

 これは『平民文学の時代 中』における享保の改革をめぐる記述である。津田はここで享保の改革にこと寄せながら近代的改革を語っている。引用文中の傍点を付した箇所で述べられているような社会変革は大正一〇年のいまなお達成されていないと津田はしているのだろう。

 津田の『我が国民思想の研究』が明治の形成してきた国家に対する、自立的国民形成の要求にもとづいてなされた歴史的な読み直し作業だとするならば、その作業こそ大正デモクラシーと呼ぶべき作業ではないかと人はいうかもしれない。だがもしこれをそういうならば、大正デモクラシーとは明治が形成してきた国家の国民的な作り直しの要求でなければならない。

 

 3 『平民文学の時代 下』未刊の理由

 津田の『我が国民思想の研究』が、すでにいうように明治維新を成功した正当的な変革としてなされていった明治の国家形成に対する思想史的な構成物であるとするならば、それは終局的に明治維新とそれから始まる明治の国家形成についての読み直しをもつはずである。だから『平民文学の時代 中』に続く明治維新を含む『平民文学の時代 下』は著者が予告する通り著書として成立するはずであった。津田は『平民文学の時代 中』の冒頭の「例言」でこういっている。「いわゆる維新の前後三,四十年間を一つの時期として取り扱う筈の第三篇は、全体についての概括及び結論、並びに、余説として述べようと思う現代思想に対する鳥瞰的観察と共に、他日,下巻として出すつもりである」と。

 津田はこの予告にしたがって、それなりの準備をしていたのであろう。津田の没後、全集の編集者たちは下巻のための総括的文章「文化の大勢一、二」を筐底に見出している。戦後に津田は既刊の『我が国民思想の研究』の改訂作業を進めながら、明治維新とその前後をめぐる論文を発表していくが、津田生前に下巻の刊行を見ることはなかった。津田は彼の畢生の大業というべき『我が国民思想の研究』を完結させなかったのである。なぜか。その理由を問うことは、津田の「国民思想史」の意味を問うことであり、この「国民思想史」をもって明治の国家形成に対した津田の思想的位置を問うことであり、近代日本における津田の国民主義(ナショナリズム)的思想の意味を問うことでもあるだろう。私はここでは下巻を構成することなく残された文章から津田の明治維新観をさぐり、あの理由への追跡の手掛かりとしよう。

 

 4 「さいごう・たかもり」

 われわれはいま津田の没後に編集された『国民思想の研究 五ー平民文学の時代 下』(『津田全集』第八巻)によって津田の明治維新観を残された文章の範囲内で知ることができる。ただ津田の没後に書斎の筐底に見出された「文化の大勢一,二」という二つの文章を除いて、いずれも戦後に公表された文章である。戦後に書かれた文章ではじめて明確にいいえたことは当然あるであろうが、明治維新についてのとらえ方において、私が読むかぎりそれは藩閥的権力による徳川政権の奪取という否定的なとらえ方であるが、そのことにおいて戦前・戦後の津田に変化はない。全集の編集者は、「二十七,八歳ころの先生は、維新という転換期に深い興味を懐いて、多くの資料を渉猟してはノートをとり、世のいわゆる維新史に対し、批判的たちばにおいて研究に手をそめられ、独自の見解と構想とをもたれるに至った」(全集第八巻「編集後記」)といっている。とすれば津田の批判的な「明治維新」観が彼の国民思想史的研究と著述作業の出発点にあったということになる。そうであれば、津田の『我が国民思想の研究』という大業は、明治維新を正統的始原とする明治の国家形成への対抗的な思想作業ではないかとする私の推定は間違ってはいなかったことになる。

 『国民思想の研究 五ー平民文学の時代 下』(『津田全集』第八巻)は「附録二」として「さいごう・たかもり」という文章を収めている。この文章は津田の晩年昭和32年11月の『中央公論』に掲載されたものである。私は当初この文章を津田の未知の「明治維新」像を窺い見るためにわずかに開かれている入り口のように思っていた。だが『全集』第八巻が載せる戦前の草稿や戦後の論文を読んでいくうちに、「さいごう・たかもり」とは津田の「明治維新」論への入り口というよりは、これは正門ではないか、あるいは「さいごう」論とは「明治維新」論そのものではないかとさえ思うようになった。「さいごう・たかもり」とは津田の最晩年に属する文章である。彼は『平民文学の時代 下』の代わりに「さいごう・たかもり」を書き残していったのである。

 津田はそれ以上でも以下でもない、端的に謀略家である西郷像を刻みつけていく。「幕府の外交上の処置に関するサイゴウの言動が、曲解や猜疑の上に成り立っているのみならず、外国人の力を借りて日本の国政を動かそうとしていて、それらが譎詐と権謀とによって充たされている」ことをいった後で津田はこういうのである。
サイゴウのこういう言動は、いわゆる維新の際において最も著しく見られる。チョウシュウと結託して幕府の武力的倒壊を画策し、現に軍事的行動を起こしていながら、それと同時に将軍ケイキの政権奉還を容認したのも、その一つであって、そこに彼の権謀が現われている。だから冷静に観察すれば、彼の行動には互いに矛盾していることが多く、従って時によって変化もする。ただ一貫していたのは幕府を敵視してそれに反抗することであり、そうしてそれを実現するためにはどんなことでもするを憚らなかったことである。虚言を吐いても術策を弄しても少しも意に介しなかった。この点では浪人輩の行動と全く同じである。」

  明治維新の最大の功労者とされ、一代の英傑とみなされてきた西郷隆盛を津田は、あらゆる偽詐と策謀をもって徳川政権の覆滅だけをはかった謀略家とするのである。西郷を謀略家とする津田の見方の徹底さは、西郷と計って江戸の無血開城を導いた勝海舟をも津田は西郷に等しい策謀家にしてしまうのである。「カツとサイゴウとの交渉を想見すると、博徒の親分の間にでも行われたもののような観がある」[5]と津田はいっている。津田の勝に対する評価は厳しい。勝ぎらいといってもいい。しかし津田は西郷ぎらいでもあり、勝ぎらいでもあったと知ることは私には新鮮な驚きをもった発見である。

 津田は勝の日記によりながら、その言動をなじり、「反動勢力としての薩長に慴服した」ものと非難している。会津の若松城の落城に際して、勝が「会賊父子・・・謹慎蟄居」といい、「会賊」の語を用いていることについて津田は、「カツが他人に示すものでもない私の日記にアヒヅ侯を呼ぶに「会賊」の名をもってしたのはそれとは違って、彼が精神的に反動勢力としての薩長に慴服したことを示すものといわねばならぬ。或はこれもまたアヒヅを敵視していたチョウシュウ人や浪人輩が元治・慶応のころから用いていた称呼をまねたものであるかも知れぬ」といっているのである。われわれはここで津田が勝を嬲るようにいった言葉を読み直さねばならない。勝は「精神的に反動勢力としての薩長に慴服した」と津田はいっているのである。津田は討幕を推進した薩長勢力を反動勢力としているのである。とするならば、この薩長の反動勢力によって遂行された明治維新とは、反動的な性格をもった政治事件とみなされることになるだろう。

 

5 明治維新は正しい変革か

 戦前のものと見なされる草稿において津田は、一九世紀後期の国際環境の中で国を開きつつ国家改革を進めようとする政府(幕府)に、武力的攘夷を叫びながら鎖国の旧態に復帰させようとする勢力が声を高めて世情人心を攪乱に陥れていたと書き始めている。
「対外問題が起ってから政府は鋭意そのその処理に努め、種々の困難をきりぬけて、ともかくも日本に国際間における一独立国としての地位を得させて、戦敗によらず武力的強圧を受けずして列国と平和の交を開いたのは、東洋においては、我が日本あるのみであった。これは『国民思想の研究』四、第三章で述べておいた如く、日本人が有為の気象を帯び、政治上・経済上の実力と文化とをもっていたがため、また列国がそれを認めていたがためである。だから日本は、かくして占め得た新しい地位の上に立って、更にその実力を養い、それによって新しく世界列国の間に活躍する道を開いてゆくことに、国民みな心を一つにして努力精励すべきであった。阿部や堀田の指導の下にあった政府の意図もまた実にここにあった。然るに、何事ぞ、世にはそれを妨げ、或は戦敗を招くことの明らかな武力的攘夷の実行を主張し、或は鎖国の旧態に復帰させて日本を世界から隔離すべきことを叫ぶものがあり、そうしてその声高き騒音が四方に響きわたって、世情人心を甚だしく攪乱した。」[6]

 1860年代の日本が直面する国際的な歴史状況にあって日本のとるべき積極的・前進的な方策は当時の政府(幕府)内の阿部・堀田という開明的なリーダーによって図られていたこと、その政府の方策に反対し、尊皇攘夷の旗幟を掲げながら世を騒乱に導いている反政府的武士や浪士たちは歴史に逆行した反動勢力であることを津田ははっきりといっている。この文章がいつ書かれたものか明らかではない。昭和初期という時期であろうか。いずれにせよこれらの文章は書かれたまま筐底に置かれて45年の敗戦を迎えることになる。戦後に津田は『国民思想の研究 五』の完成を意図しながら、「維新前後三、四十年」の政治的、思想的状況をめぐる文章を発表していった。そこでは開明と反動との対立的輪郭をいっそうはっきりとさせながら、歴史的具体性をもってこの時期の政治状況が書かれている。
「アベとホッタの指導下にあった日本の政府としての幕府が、日本に国際的地位を得させようとして定めた新しい国策は、種々の紛乱を経た後、条約勅許の名において公式に承認せられ、明治の政府もそれを継承するようになってゆくのであるが、封建諸侯の存在と、その諸侯の家臣たる武士及びそれと共に暴悪の限りをつくして国家の秩序を壊乱させた志士輩浪人輩の行動とは、事実において戦国割拠の形勢の復活となって現われ、日本の国家の政治的統一はそれによって破られた。これが幕府の国策を妨害し攪乱しようとした反動勢力の活動であったのである。」[7]

 明治維新とは新しい国家・国民の成立へと歴史を転ぜしめた称うべき変革ではない。それは封建反動と呼ぶべき勢力によってなされた政権奪取のための謀略をもってしたクーデターである。この謀略的な政権の奪取者の手に近代日本国家と国民の形成が握られていったのである。
「幕府を倒した薩人もチョウシュウ人も、また彼等の先駆となり彼等と共に活動した志士輩浪人輩も、決して国家の功臣ではなかった。彼等は、しばしば述べた如く、日本の国家の進運を阻害し、国民の生活を甚だしく傷つけたものだからであるのみならず、国家の象徴であられる皇室に大なる累を及ぼすような政治形態を構成したからである。彼等は維新の功臣と呼ばれることになったが、よし維新といわれた当時の国政変革のためには功臣であったとするにしても、永遠の生命を有する国家の功臣ではなかった。そうして真に国家の功臣なる幕府の達識ある当局者や諸有司の大なる功業は、その蔭に隠されてしまった。一時的の権力者の自己称揚や浅慮にして軽浮なる衆人の評判に隠されてしまった。」[8]

 われわれはこれらの文章によってはじめて津田が明治国家・国民史に対抗的に『我が国民思想の研究』を書き続けていった理由とその最終巻が未刊に終わった理由とを理解するのである。



[1] 津田「トクガワ将軍の「版籍奉還」」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代 下』所収、津田左右吉全集・第八巻。

[2] 津田が戦前に書き置いたとみなされる二つの草稿と戦後に公表された明治維新などをめぐる文章によって全集の編集者は『我が国民思想の研究 五・平民文学の時代 下』を再構成し、全集第八巻に収めている。

[3] 「津田左右吉略年譜」、家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』所載、岩波書店、1972.

[4] 津田『文学に現れたる我が国民思想の研究ー平民文学の時代 中』第二篇 平民文学の停滞時代・第二章 文化の大勢 上、津田左右吉全集・別巻五。引用文中の傍点は子安。

[5] 津田「幕末における政府とそれに対する反動勢力」『国民思想の研究 五』所収、『津田全集』第八巻。

[6] 津田「第三 文化の大勢 二」『国民思想の研究 五』所収、『津田全集』第八巻。 

[7] 津田「幕末における政府とそれに対する反動勢力」。この論文は昭和32年3,4月の雑誌『心』に書かれたものである。

[8] 津田「トクガハ将軍の「政権奉還」」。この論文は昭和32年9〜12月の雑誌『心』に書かれたものである。

「思想史講座」のお知らせー新春1月のご案内      子安宣邦

*だれでも、いつからでも聴講できる思想史講座です。
*津田「国民思想の研究」を読む講座は、「国民」という津田の主題自体を問う最後の段階に来ています。ナショナリズムという近代日本の最大の思想主題の津田における運命を見定めたいと思っています。

*論語塾は「鬼神論」をテーマにして新しい講座を始めました。「鬼神」とは「祖霊」であり、「霊魂」でもあります。これを「祖霊」といば鬼神論とは祖先祭祀を基礎づける論の性格をもち、これを「霊魂」といえば人の生死、生前と死後とを包括した人間論の性格をもちます。
*論語塾では鬼神論とともに『朱子語類』の巻一「理気」上、巻三「鬼神」を読みたいと思っています。


*新春1月の講座

思想史講座―「未完のナショナリズムー津田左右吉『我が国民思想の研究』を読む
*この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』をテキストとして読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題を論じていくことを考えています。

*大阪教室:懐徳堂研究会

*今期は講座開催日が日曜日になりましたのでご注意下さい。 

 1月21日(日)・13時10分〜15時10分
 津田『国民思想』論・12
                            
 「津田は明治維新をどう見たか」

 参考文献:津田「メイジ維新の取扱いについて」ほか、『我が国民思想の研究 5』所収、『津田左右吉全集』第8巻。
 
   
  会場:梅田アプローズタワー・14階1408号室

 


*東京教室:昭和思想史研究会

 1月13日(土)・13時〜15時30分
 津田「国民思想」論・12
    
  「津田は明治維新をどう見たか」

 
 参考文献:津田「メイジ維新の取扱いについて」ほか、『我が国民思想の研究 5』所収、『津田左右吉全集』第8巻。


   会場:早稲田奉仕園・セミナーハウス・101教室

     早稲田奉仕園はバス「馬場下」下車、穴八幡宮の裏手

 
  *資料は当日配布します。



論語塾―「鬼神論」を読む


 
  1月27日(土)13時〜15時30分 

      ① 鬼神論ー徂徠鬼神論と鬼神祭祀論  
      ② 『朱子語類』を読むー巻一「理気・上」
 

 資料は当日配布します。
 
 参考資料:子安『徂徠学講義』岩波書店。『事件としての徂徠学』青土社。三浦国雄『「朱子語類」抄』講談社学術文庫。

 会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


「緋哭〜ひのさけび」を観る          子安宣邦

 

 書踏譜「緋哭〜ひのさけび(舞踏 吉本大輔・墨刻 原賢翏・ブルースハープ 関口大)」を12月10日の夕刻、私の住む登戸から歩いても行ける東生田町の会館で観た。私の旧友吉本大輔さんにフェイスブックで次のような感想を書き送った。

「すごいな、やりましたね。突き抜けた感じがしました。3人のアンサンブルが見事で、3人ともに突き抜けたように思いました。観る者の下手な感情移入を突き抜けて向こうに行ったようで、すごいと思いました。私のような口舌の徒は、常に目の前のものを言語化することで分かった気になるのですが、今回は初めから終わりまで、言語化を拒絶され、ただ見入り、聴き入りました。緋哭とは黄泉の声なのかとまた言語化したくなりますが、舞踏も墨刻も音楽もそれを拒絶しているのだから、この拒絶からくる感銘とは何かをやはり私は考えてしまいます。最初は体力、気力から生田の1時間余に耐えうるか,自信がなかったのですが、行ってよかった。やりましたね、緋哭~ひのさけび。」

 大輔さんからあえてした私の言語化の跡を見たいとの注文があった。だが観るものの感情移入的な言語化を拒絶しているような舞踏に、言葉をもって応じることは、言説者の独りよがりではないのかと思いながら、ずるずると返信を遅らせてきた。そのうちに七月に亡くなった家内の税務上の処理を年内に済ませようと考えていたその時期も迫り、ますます遅れてしまった。受験時代に数学の問題に取り組んでいた時のような一週間を経て漸く申告書を書き上げ、昨日ぎりぎりに税務署に提出した。そんなこんなで「緋哭」の言語化は遅れてしまった。これは私の言語化の遅延へのお詫びであるとともに、畢竟舞踏の言語化とは独りよがりの言語でしかないことの釈明でもある。

 ほとんど裸身で演じられる舞踏は、観るものの感情移入的な言語化を拒むような性格をもった肉体的な演技表現だと思ってきた。だがそれは演技表現として何を表現するものなのか。私は裸身の演技は「生」と「死」と「性」をしか表現しないと思ってきた。だがしばしば舞踏家はドレスや布で身をつつみ、洋傘などの小道具をもち、装置を施された舞台に、音楽とともに登場する。

 私はミュンヘンで大野一雄が客席から女性のドレスを身につけてすっと立ち上がって舞台に登場したときの、全観客を襲った衝撃を忘れない。いつかやはり東生田で見た大輔さんの舞台は廃園であった。その廃園に便器が一つ置かれていた。それらの衣装も小道具も装置も音楽も人間の文化であり、それらは直ちに観客の文化的な言語を誘発する。だが舞踏家の裸身に化していく舞踏がわれわれの言語による解釈的な追跡を粉々に砕いていくようだ。われわれは言語化的な解釈的追跡を諦めて、ただ舞台上の舞踏を見つめるしかない。己の文化的な言語化が砕かれてはじめて、われわれは人間の「生」と「死」と「性」との本源を見ることになるのかもしれない。

 私はこの七月に妻を失ってはじめて死は語ることのできないことを知った。死を語るとすれば、己れにおける死者の死であって、死んだその人の死ではない。死者の死は生者から断絶している。これを三木清は「死は絶対的だ」といった(三木『人生論ノート』)。死が絶対的であることによってはじめて、死者の生命は残されたものの上に甦ると三木はいっている。この三木の言葉の意味を私は妻の死を通じてはじめて理解した。

 死者の死は生者の言語化を阻むものとしてある。私は「緋哭」の舞台の始まりとともにそのことを思った。暗闇から響き始めるブルースハープの声はまさしく「黄泉の声」ではないか。決してそれはこの世のものではない。墨刻もまた死者の国に通じる扉の呪文を書き連ねているようであった。そして夢幻能の死者を不動の動をもって演じる能役者のように不動の動を演じる舞踏家もまた、観るものとの言語的な交渉関係を断ち切るもののようであった。だが緋の叫び声を強くしていく演奏者に舞踊家は狂ったように挑みかかり、緋の縄を以て縛り上げようとする。それは死との断絶をついに超えることの出来ない裸身の生者による緋哭の演奏者への嫉妬に満ちた挑みかかりのようであった。

 私は死者との断絶にはじめて挑む舞台、観客の言語化を拒絶するような舞台をはじめて観た。私がここに書いたのは、その舞台のあえてした言語化である。これは妻に死に別れた老人の独りよがりの言葉である。

 

 

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