子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

■津田・国民思想論・5               

津田の『源氏物語』評価と「国民」概念            子安宣邦

 

「恋は光景によって更に数層の深さを増す。恋そのものについては興味の乏しい平安朝人の恋愛に特殊の趣のあるのはこれがためである。只それ画裡の景である。詩中の趣である。われを画裡の男と見、われを詩中の女と見るところに興趣がある。詩中の恋は遊戯で、画裡の光景は空想世界である。そこに情熱は無くそこに生活は無い。道義の無いことは勿論である。」

          津田左右吉「貴族文学の成熟時代・恋愛観」

 

1 貴族全盛時代と国民

 津田の『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』の中心をなす第二篇「貴族文学の成熟時代」の第一章「文化の大勢」は次のような言葉をもって始められている。「平安朝の政府は貴族文化の中心であるということの外に意味がなく、其の政治はただ貴族文化を維持し、発達させるということの外に何もない。」

 平安朝藤氏政権による政治がただ自分たち貴族とその文化のためのものであったとは歴史的事実をいうものである。だがそれをいう津田の言葉には決定的な否定的響きがある。一般に〈国風文化〉の成立の時代とされる平安貴族時代の始まりを記すものとしては、津田の言葉はあまりに厳しく否定的である。津田はこの言葉に続けて、平安朝貴族国家の歴史的環境をめぐってこういうのである。「民族的競争がなく国際関係が疎遠で、国民にも政府にも、国家存立の意識が弱い時代に於ては、政治的経綸の念が無くなるのは自然の勢いである。」貴族政権下日本の国際環境の変化が、日本の政府にも国民にも国家意識をもたなくさせていると津田はいうのである。

「中葉以後の唐は殆ど国家としての勢力が無く、半島の新羅も漸く衰運に向っていて、列国は何れも政治的に頽壊の時期に入っているので、太平洋の水に何等の波瀾を起す気遣いが無い。だから我が国は、外国に対して国家的活動をなすべきことが何も無く、従って対外関係に刺戟せられて国家経営の策を講ずるようなことは、毫も無かった。」

 したがってこの時代、日本の政権を担う貴族らは彼らの盛んな文化と生活の繁栄と持続だけを考え、「国民の文化と富とを発達させようというような意志は、夢にももつ」ことはなかったのである。都の貴族たちは、「文化も富もただ自分等の社会にのみあるべきものと考えて、狭い京都の天地の外は、彼等の生活すべき場所では無いと信じていた」[1]のである。

 『我が国民思想の研究』の「貴族文学の成熟時代」を津田は、ここに見てきたような厳しい否定的言辞をもって語り始めるのである。ところで私がいま津田の著述からの引用文を連ねながら見てきたのは、平安朝貴族時代と文化に対する津田の否定的言辞のその〈否定性〉の由来を知りたいと思ったからである。彼はどこから批判し、何に否定的であるのか。

 津田はいっている。「貴族等は多年の習慣上、平民を租税を納める器械、使役する道具とのみ思っていたから、そういう国民の文化と富とを発達させようというような意志は、夢にも有っていない」と。津田の否定的な言辞の由来はここに明らかである。津田の否定的な言辞の由来は「国民」の不在にある。この時代と貴族の政治・文化・社会意識における「国民」の全的な不在こそ、津田が「貴族文学の成熟時代」をあの厳しい否定的言辞をもって語り始める理由なのである。

 貴族全盛時代の「文化の大勢」をあの否定的な言辞をもって書き始めた津田は、その中間的な総括も結論もさらに厳しく「国民の不在」をいう否定的な言辞をもって記すのである。

「しかし全体の文化がどこまでも貴族的・都会的であって、堅実な国民的文化では無いから、其の間に発達した趣味も、決して国民的のものではない。例えば言語などについて見ても、音便などが多くなって、流暢で優美であり、また繊細な意味を表すことの出来るように其の語法も発達した。けれども、それは国民全体の言語とは甚だしく懸隔のあるものであって、貴族社会特殊の修練によって出来たものである云々。」

「寺院は一方に於いては貴族文化の一要素であり、装飾物でありながら、他方に於いては平民と地方人とに接触して、それに多少の文化上の影響を与えたのである。けれども其の与えたものは、国民の日常生活そのものには、さしたる関係の無いものであるから、それが為めに国民生活を豊富にすることも、出来ない。国民は依然として、花やかな貴族文化の薄暗い裏面に、影の如く蠢めいているのみであった。」(傍点は筆者)

 平安朝貴族文学の成熟時代、その時代を代表する『源氏物語』についての津田の批評を見ようとした私は、いきなりこの時代の文化を概観する津田の否定的な言辞にとらえられてしまった。そして私はいまここに記してきたように、津田の否定的な言辞は「国民」あるいは「国民の不在」に由来するものであることを知った。津田の否定的批評における「国民」の問題とは、彼の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の執筆動機にかかわる問題であるだろう。津田がこの「国民」の問題に『我が国民思想の研究』を書くことを通じて答えたように、われわれもまた津田の『源氏物語』論を読むことを通じてこの問題を考えることにしよう。

 

2 物語の成立

「特に貴族都人士が小さな都会に単純な生活をしているから、彼等の見聞も狭く、思想も貧しく、また誰も誰も同一の感情を有っていて、個人的特色が尠ない、そういう彼等の作る歌であるから、新思想を以て新題材を取り扱うことは思いもよらぬ。ただなし得ることは、技巧の上に多少の工夫を加えることのみである。」(「文学の概観」)

 『古今集』についてのこの批判は、平安朝貴族とその文化にあの否定的言辞を投げつける津田から当然聞くことのできるものである。だがその津田が道綱の母、和泉式部、そして紫式部といった女性たちの歌についていう言葉はまったく違っている。津田は「彼等(紫式部たち)の作は機智のみで何等の内容の無いものではなく、其のうちに強い感情の閃きが見える。特に其の独居詠懐の作に至っては、其の弱々しい情、奔放の気、さては苦悶憂愁の響きに、読者の心琴を共鳴させるものがあるのは、彼等の胸底より湧き出づる情の泉が直ちに化して声となって人の耳をうつからである」と書くのである。そして「嘆きつつ独りぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」(道綱の母)、「数ならぬ心に身をば任せねど身に従うは心なりけり」(紫式部)、「岩つつじ折もてぞ見るせこが着し紅染の衣に似たれば」(和泉式部)などの歌をあげて、「其の歌は何れも作者の情生活を遺憾なく発露している」と津田はいうのである。私は津田にもこうした対象への共感的思い入れの文章があることを知って驚いた。やがて津田は歌から物語世界へと平安朝文芸批評の手を移していく。物語を成立させる貴族世界の様子を津田はこう書いている。

「爛熟した貴族的文明の、蒸すような空気の裡に醸成せられる官能的恋愛と、狭い範囲に行われた勢力争いによって、栄枯盛衰の(たちまち)に変ずる人生の波瀾と、感傷的な当時の人心を動かすに足る幾多の事実を作者の前に展開して、物語の材料を供給し、益々写実小説の隆盛を助けたのである。」

そしてこの物語を享受する貴族世界の様子を津田は見事に描き出す。

「ともすれば夜がれがちなる男の心を恨みわびて、行くえおぼつかなき我が身の憂きをなげく女、守り厳しき園生の花を手折りかねて、やるせなき思いに胸を焦す男、さては宮仕の中にまじりながら、つらきにも楽しきにも、心うちひらきて語らうものなきひとびと、せまき天地の明くるに暮るるに、恋と恨みとの外にない彼等の情生活に於いては、得意にも失意にも、物語なくて何に心を慰めようぞ。のみならず、「昔物語を覧給ふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるやうを見知り給」(源氏、胡蝶)ともいってある。うす暗い深宮の裏に生い立って、むぐらもちの日光を恐れる如く、人の世に出るのを恐れている女どもが、人情を知り世態に通ずるを得たのは、物語のおかげである。小説の流行は偶然で無い。」

 津田はここで宮廷的世界における物語が宮廷の女房たちをその物語の享受者(読者)にしていくことをいっている。ところで津田がここでいうような事態、すなわち物語文学の成立とはその物語世界を共有し、享受する読者(読み手)の成立でもあることを最初にいったのは本居宣長である。宣長は『紫文要領』[2]で「物の哀れをしる心」を共有し、語り伝える世界として物語世界を構成していくが、その際、この構成の鍵になる言葉を『源氏物語』「蛍」の巻で光源氏が玉鬘に向かって古物語の趣意を説く言葉に見出している。

「その人のうへとて、ありのままにいひいづることこそなけれ、よきもあしきも世にふる人の有様の、みるにもあかず聞くにもあまることを、後の世にもいひつたへさせまほしきふしぶしを、心にこめがたくて、いひをきはじめたる也。」

 宣長はこの古物語の趣意をいう光源氏の言葉は紫式部その人のものだとしている。光に古物語の趣意を語らせながら式部自身の物語観をのべたものだというのである。そうだとするならば、われわれはここに物語の語り手(作者)とその読み手(享受者)とが入れ子状になって構成する物語世界を見出すことができる。紫式部も古物語の読者(宮廷の女房たち)の一人であったであろう。その式部がいま新たな物語を語り出しているのである。その物語はさらに広い読者・享受者を貴族世界に創り出しているのである。貴族世界における物語の成立とはその世界における物語の享受者(読者)の成立でもある。津田の言葉でいえば、「むぐらもちの日光を恐れる如く、人の世に出るのを恐れている女どもが、人情を知り世態に通ずるを得たのは、物語のおかげ」だということになる。

 一八世紀日本の松阪の医師であり、歌人であり、古え学びの人宣長は『源氏物語』の愛読者であった。彼は式部がこの物語を書いた趣意を、「ただ人情のありのままを書きしるして、みる人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是物の哀れをしらする也」という言葉をもってとらえた。この「物のあはれ」論とは、光源氏の時代からはるかに時をへだてた一八世紀江戸社会の宣長が『源氏物語』の愛読者になったことの(あかし)ともいうべき文章である。この宣長という愛読者とともに『源氏物語』はあらためて江戸社会に成立し直したということができる。

 もとより宣長だけが『源氏』の近世社会の愛読者だというのではない。『源語外伝』の熊沢蕃山も、『紫家七論』の安藤為章もまた『源氏』の愛読者である。近世社会にあって『源氏物語』はその愛読者を京都の公家とその周辺だけではない、武士や町人や儒家の中にも広く創り出しているのである。彼らの『源氏』論とはこの物語を彼らが愛読することの理論的な証だといってもいいものである。もし近世社会の公家・武士・町人という広汎な人びとを国民の名をもって呼ぶならば、『源氏物語』は近世にいたって「国民」のものになった、あるいは「国民文学」として成立したということはできないのか。恐らく津田は『源氏物語』の高い評価にもかかわらず、それを「国民」の文学とすることに反対するだろう。なぜ『源氏物語』を「国民の文学」としないのか。津田における「国民」とは何か。

 

3 津田の『源氏』評価

 津田はすでに見たように平安朝の女性歌人、物語作者に高い評価を与えている。ことに紫式部を「仮名文の大成者」として津田は高く評価している。

「(清少納言は枕草子で)自己の心的経験と実際の観察とを直写したに過ぎないが、紫式部に至っては、それを豊富な空想に織り込んで、巧みに人物と光景と其の間に起る幾多の葛藤との幻像を作り上げ、そうして其の人物の情生活を内面的に遺憾なく描写している。茲に於いて平安朝の文学は殆ど其の極致に達した。単に文章の点からいっても源氏の作者は仮名文を大成したものである。」

 ではなぜ平安朝文学の極致というべき作品が女性の手になる仮名文によって成されたのか。津田はここで国文学の表現手段としての仮名文の問題を展開させている。これは日本文学史における最初の文学的達成が女流の手になる仮名文をもってなされたことをどう考えるかという大事な問題である。

「ところで、こういう精細な描写の文体が、女流の手によってなし遂げられたことは、文学史上、甚だ興味ある現象である。それは女の観察が緻密である故とのみ見るべきで無い。むしろ漢文に対する国文の特色として考えねばならぬ。漢文の大まかな筆つきが、真実、特に人心の描写に適しないことは無論であるが、故事と成語とを先ず学んでかからねばならぬ漢文は、それによって事物を写すのでは無くして、事物を漢文特有の型に入れて、実際とは()るで変ったものを作り出すのである。国民の事物と思想と感情とは、外国の文章を以て写し出されるもので無い。まして、一種特殊の修業を有し、極めて繊細な感受性を有っている平安朝人の思想を、外国文、特に六朝式の漢文でいい現わされる筈は無い。だから、おもて立った文章が依然として漢文であり、多数の男子が、なお齷齪としてそれを模擬しようと努めている間に、女文として発達した仮名文が、独り実際の事物、実際の思想を写すことに成功したのは当然である。」

 小西甚一が平仮名表記からなる勅撰歌集『古今和歌集』の成立(延喜5・905年または延喜14・914年頃)の決定的な意味をいっている[3]。この『古今集』の成立とは、「和語だけによる閉鎖世界が日本文芸のなかにうち建てられた」ことを意味すると小西はいう。和語だけで表現される世界とは、平仮名によって表記される文芸世界であり、新しい「雅」を形成する世界である。この新しい「雅」の成立は、「シナの「雅」が日本に滲透し、原像がシナにあることを意識させないほど日本的な「雅」に変換された」ことを意味すると小西はいうのである。

 私がいま小西による「和語的文芸世界」の成立論を引くのは、和語による日本的「雅」の成立をいう小西の論に同調するからではない。ただ津田の「女流仮名文物語」論を相対化することを考えてである。小西は、津田が「女文として発達した仮名文が、独り実際の事物、実際の思想を写すことに成功したのは当然である」というように仮名文の成立を平安女流文学の高い達成という方向でのみ見ることをしていない。また文芸的言語としての和語(和文・仮名文)の成立を小西は、津田のように「漢文」に対するナショナルな標識をもった「国文」の成立として見たりはしない。小西を引くことによってわれわれは津田による平安朝文芸批評の特質を知ることができる。さらに平仮名が「女手」といわれることについて小西はこういっている。

「十世紀よりいくらか以前から、女性は漢籍や仏典に近づかないほうが女性らしいと意識されるようになり、それに伴って、片仮名よりも平仮名が女性むきだと感じられたのであろう。平仮名のことを「女の手」または「女手」とよぶようになった。これは、平仮名が女性専用だったことを意味するわけでなく、男性も平仮名を使ったのだけれど、それが私儀的(informalな場面だけでは許されたのに対し、女性としての表儀的(formal)な場面だろうとも女性は平仮名で書いてよかったーということなのである。この事実は、男性にとっての表儀的な場面では漢文が用いられたのに対し、女性は表儀的でも私儀的でも和語による文章すなわち和文を用いたーということに対応する。」

 平仮名は平安朝貴族世界における貴族たちの私的世界の表現手段になったのである。津田がいう「爛熟した貴族的文明の、蒸すような空気の裡に醸成せられる官能的恋愛と、狭い範囲に行われた勢力争いによって、栄枯盛衰の倏に変ずる人生の波瀾と、感傷的な当時の人心を動かすに足る幾多の事実」を、それがそれぞれの私の心に捺していった深い刻印とともに語り出す表現手段=仮名文を彼らはもったということである。そしてこの貴族たちの表の世界のすぐ裏側の私の世界のあらゆる歪みを背負わされた、その意味で私の世界の主人公というべき女性たちが、この仮名文という私の表現手段による語りの主要な語り手=書き手になっていったのである。

 私がいまこのように説くことは津田と同じことをいっているのか。仮名文を女性専有の表現手段とする津田は、仮名文による物語文学の達成を高く評価する。だがその評価はその作品の女性性をいう津田自身の言葉によって裏切られてしまう。「国文が男の作より女の作に優れたものの出るのは自然の勢で、特に写すべき舞台が、女性的文明の社会と京都のやさしい天地とであり、描くべき人物が女のような男であり、また其の題目が恋愛生活であるとすれば、女性は其の作者として最も適していたものといわれる。」

 

 津田の『源氏物語』評価を追ってここまでくると、われわれは一気にこの稿の冒頭に記した平安朝貴族世界に対する津田の否定的言辞に突き戻される。たしかに津田は「貴族文学の成熟時代」の最終章であらためてこの貴族世界に向けて否定的言辞を吐き出すように書き付けているのである。

「平安朝人が根柢に於いて情熱に乏しく意志が弱かったことである。国民として何等の為すべきこともなく、個人としても何等の事業欲がなく、そうして平安京の都会的文明に蒸されて、体力も衰弱し精神も萎靡した彼等は、何事に対しても、坐っていて向うから来るものを享受しようとするのみで、みずから進んで取ることは夢にも想わなかった。換言すれば、眼前刻下の栄華を受容することのみ希求して、一歩を現状より進んで新しい世界を開拓する意気が無かった。自己の文化に満足し其の間に得意の鼻を蠢かす者は、自己を超越し当代を超越する必要を認めず衝動もない。」

 この結論の章においても「国民」の語は平安朝貴族とその文化に対する否定的な言辞を構成している。「国民」としての国家意識の欠如なり不在をいうことで、その時代々々に対する否定的批評を成していく津田におけるこの概念をわれわれはどう考えるべきなのか。この問いかけに答えて、近代国民国家(ネイション・ステイト)の「国民」概念を日本の全歴史過程に放り込んでいることの津田の間違いをいっても答えにはならない。津田はこの「国民」概念を日本の古代氏族時代にも、貴族の時代にも、武士の時代にも、そして平民の時代にも意図的に放り込んで「国民思想の研究」という思想史的批評の作業を成立させているのである。だから問うべきなのは、この「国民」概念を投げ入れることによって、いかなる思想史的批評の作業がなされたのかということであり、その際この概念はいかなる意味をもつかということである。そして最終的に問われねばならないのはこの「国民」概念を構成する津田の「国民国家」観である。

 「眼前刻下の栄華を受容することのみ希求して、一歩を現状より進んで新しい世界を開拓する意気が無かった。自己の文化に満足し其の間に得意の鼻を蠢かす者は、自己を超越し当代を超越する必要を認めず衝動もない」という貴族時代に向けた津田の否定的批評の言辞によって見れば、「国民」とは時代々々の人びとに自己超克を促し、未来を提示していく理念であるようだ。そして津田はこの「国民」概念をもって既存の国民国家の国民思想史を批判しながら、その批判の彼方に実現されざる「国民国家」像を彼の脳裡に描いているようだ。



[1] 津田『文学に現れたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』(『津田左右吉全集』別巻第二)第二篇「貴族文学の成熟時代」第一章「文化の大勢」。傍点は子安。津田からの引用に当たっては漢字・かな遣いを現行のものに改めた。

[2] 本居宣長『紫文要領』(岩波文庫)。私は同書に解説「物の哀れをしるより外なしー物語享受者の文学論」を付している。この解説の文章は『宣長学講義』(岩波書店、2006)に収めている。本稿における宣長物語論への言及はこの解説の文章によっている。

[3] 小西甚一『日本文芸史』Ⅱ、「中世第一期ー風流の時代」、新潮社、1985。

「思想史講座」のお知らせー2月のご案内         子安宣邦
*だれでも。いつからでも聴講できる思想史講座です。

思想史講座語塾―「未完のナショナリズムー津田左右吉『我が国民思想の研究』を読む
*「未完のナショナリズム」というタイトルで始めました。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』をテキストとして読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題を論じていくことを考えています。
第5回は『源氏物語』に代表される平安女流文学に対する津田の評価をめぐって、ことに津田の「国民」概念をめぐって考えたいと思っています。

*大阪教室:懐徳堂研究会

 2月18日(土)・13時〜15時
 津田『国民思想』論・5:津田の「国民」概念についてー『源氏物語』評価の問題をめぐって


 会場:梅田アプローズタワー・14階1403会議室

 


東京教室:昭和思想史研究会

 2月4日(土)・13時〜16時
 津田「国民思想」論5:津田の「国民」概念についてー『源氏物語』評価の問題をめぐって

 会場:会場:早稲田大学14号館1060教室
  

*参考文献:津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「第二篇 貴族文学の成熟時代  第一章〜第九章」。
本居宣長の『源氏物語』論を津田の「源氏」論と併せてお読みになることをお勧めします。宣長の「源氏」論については、私の「物の哀れを知るよりほかなしー宣長「物の哀れ」物語論の成立」(『紫文要領』岩波文庫、解説、『宣長学講義』所収、岩波書店)をお読み下さい。


論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
 途中からでも自由にご参会ください。
 私の『論語古義』の解読作業も最終段階に入っております。『論語古義』の読み終えを共にしませんか
『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。
『童子問』は日本近世最高の思想書とみなされる仁斎晩年の著作です。
 
 *開始時間が午後1時からとなりました。ご注意下さい。 

 2月25日(土)13時〜16時  ① 陽貨篇・1 ② 『童子問』上
 

 資料は当日配布します。

 会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


■津田・国民思想論・4                  

『万葉集』は「国民歌集」か                子安宣邦

 

「万葉の歌の題材は大体に於いて、恋を主としたものであって、花鳥風月を詠じたものがそれに付属している。要するに、私人生活の表現たるに止まって、公共的感情を歌ったものでは無い。」

「こういう歌を作っていた上代の国民の性質は、要するに上すべりのした、軽い、動き易いものであって、それは彼等の幸であったと共にまた不幸であった。」

             津田左右吉「貴族文学の発達時代」

 

1 小学国語読本と『万葉集』

 昭和戦前期の小学生が用いた「小学国語読本」の6年用教科書(巻十二)には「万葉集」という一課がある。ところでこの「小学国語読本」とは戦前の国定教科書の歴史の上で第4期の国定教科書とされるものである。その教科書は昭和8年(1933)から年を逐って刊行され、小学6年用の巻十一と十二は昭和13年に発行された。これに先立つ第3期の国定教科書「尋常小学国語読本」がある。それは大正7年(1918)からやはり逐年に刊行されたものである。この第3期の国語教科書と比較してみると、第4期の教科書がもつ特色を知ることができる。

 小学校の「国語読本」というのはただ単に国語(national language)教育のテキストとしてあったわけではない。「国語読本」の編集はもともと近代国民として必要な社会的、文化的知識・教養の国語による習得を目指したものである。大正期の「国語読本」を見ると、その内容は「一般社会」的な性格をなお強くもっていることを知ることができる。だが昭和の第4期の「国語読本」になると、著しく「国語・国文」的性格が強められている。「国語読本」は昭和のこの期にいたってはじめて「国語・国文」読本として特化されたということができる。さらに〈国学的〉色彩の濃い教材が読本の中心を占めてくるようになる。「小学国語読本」の同じく6年生用の巻十一には「古事記」と「松阪の一夜」があり、巻十二には「玉のひびき・明治天皇、昭憲皇太后御製」と「万葉集」がある。

 昭和8年生まれの私はたしかにこの「小学国語読本」によって国語を習い始めたのだが、昭和16年の小学校令の改正による国民学校の発足によって「小学国語読本」の巻十一・十二を私は使用していない。だから「国語読本」巻十二における「万葉集」の章を私は自分の記憶を辿っていっているわけではない。だが「万葉集」を学校で習うことがなくとも、そのいくつかの代表歌は小学生の私の頭の中に刻まれていた。大東亜戦争下の日本にあって『万葉集』はすでに「国民歌集」であったのである。その痕跡は「小学国語読本」の上にあるはずだと、この論考を構想しながら私は思ったのである。案の定「小学国語読本」の私が習わなかった最終学年の教科書に「万葉集」は「奈良」や「古代の遺物」の章とともに存在したのである。「小学国語読本 巻十二」[1]の第十五課「万葉集」は、この歌集が「国民歌集」であることをいうことから始まっている。

「今を去る千二百年の昔、東国から徴集されて九州方面の守備に向かつた兵士の一人が、

今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯(みたて)と出立つわれは

といふ歌を詠んでゐる。「今日以後は一身一家をかへりみることなく、いやしい身ながら、大君の御楯となつて、出発するのである。」といふ意味で、まことによく国民の本分、軍人としてのりつぱな覚悟をあらはした歌である。かういふ兵士や其の家族たちの歌が、万葉集に多く見えてゐる。

 上は天皇の御製を始め奉り、当時の殆どあらゆる身分の人々の作約四千五百首を二十巻に収めたのが万葉集である。かく上下を問はず、国民一般が事に触れ物に感じて歌をよむといふのは、我が国民性の特色といふべきである。」

『万葉集』が「国民歌集」であることを昭和の国語教科書は少国民を通じて国民的に定着させたのである。それ以来『万葉集』のこの規定は現在でもそのまま継承されている。「万葉集という歌集は、とにかくわれわれが、無条件にたのしめる文化遺産である」と日本古典文学大系『万葉集』の校注者はその「解説」[2]を書き始めている。そしてこの「われわれ」とはいわゆる文化人をいうのではなく、「もっとひろびろとした世界の、いってみれば今日の国民全体が、今“無条件に万葉を楽しめる”と言った“われわれ”なのである」といっている。『万葉集』が国民的歌集であることは戦後の国文学者たちによる「解説」にまで継承されている。

 ではなぜこの歌集は国民的なのか。教科書は「上は天皇の御製を始め奉り、当時の殆どあらゆる身分の人々の作約四千五百首を二十巻に収めたのが万葉集である」と万葉の歌人たちの上下にわたる階層的ひろがりからいっている。たしかに天皇の御製から東歌や防人の歌までを集めた広汎な歌集としての独自性を『万葉集』はもっている。だがそれをもって「国民歌集」といいうるのか。やがて私は昭和の「国民歌集」的萬葉観に対立する津田の万葉観を見ていくが、ここで万葉的少国民であったわれわれにとっても衝撃的な津田の言葉を引いておこう。あの教科書も「国民的感激に満ちあふれた」歌として挙げる大伴家持の「海行かば()づくかばね、山行かば草むすかばね、大君の()にこそ死なめ、かへりみはせじ」(巻一八)について津田は、「これもどこまでも古来の禁衛であった家柄の氏族精神である」[3]というのである。この津田の言葉は「海行かば」を第二の国歌ともしてきたわれわれにとって衝撃的である。大正5年(1916)の津田はこれを「氏族精神」の発露と読むことができたのである。それは昭和に育ったわれわれには不可能な読み方である。昭和のわれわれには万葉の歌とはすでに初めから「国民精神」の発露であった。

 

 2 「東の野にかぎろひの立つ見えて」

「小学国語読本」巻十二の「万葉集」はいくつかの代表歌を挙げて説いている。その一つに柿本人麿の「(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」の歌がある。教科書はこの歌を挙げてこう解説している。

「人麿の歌である。文武天皇がまだ皇子であらせられた頃、大和の安騎(あき)野で狩をなさつた。人麿も御供に加つた。野中の一夜は明けて、東には今あけぼのの光が美しく輝き、ふりかへつて西を見れば残月が傾いてゐる。東西の美しさを一首の中によみ入れた、まことに調子の高い歌である。」

 昭和の少国民に万葉的古歌への感性はこのようにして植え付けられる。国語読本の「万葉集」はその終わりに、「万葉集の歌は、まことに雄大であり明朗である。それは、要するに我が古代の人々が雄大明朗の気性を持ち、極めて純な感情に生きてゐたからである」という結びの言葉をもっている。少年たちは万葉の古歌と古人とをこのようなものとしてそれぞれの感性に受容し、共有することによってまさしく昭和の少国民になったのである。

 ところで「東の野にかぎろひの立つ見えて」という人麿の歌を万葉の一つの代表歌として挙げてこのように解説する教科書の文章を見れば、これがアララギ派の歌人たちがもつ万葉観の共有者によって書かれたものであることは直ぐにでも分かる。あるいはむしろアララギ派の万葉観を措いて「万葉集」を説く書き手など昭和の国語教育界にはいなかったというべきかもしれない。ここで私がいうアララギ派の万葉観とは、島木赤彦、斎藤茂吉らによる万葉の歌の発見と万葉的感性の創出をいっている。「東の野にかぎろひの立つ見えて」の歌について彼らはこういっている。まず島木赤彦、

「一首の意明瞭である。草の枕から首をあげて見れば、東方の空に微白が動いている。あたりはなお月の明りである。顧みて西方を望めば、大月まさに落ちんとしてなお空の一方に懸っている。境が偉で意が遙かである。これを貫くに意調の高朗をもってしているから、天地清澄にして枕頭霜の結ぶあるかをさえ思わしめるに足りる。」(『万葉集の鑑賞及び其の批評』[4]

次に斎藤茂吉、

「先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、稍酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る所以となった。」(『万葉秀歌』上[5]

赤彦・茂吉らアララギ派歌人のこのような評価なくして「国語読本」が人麿のこの歌を挙げて、その雄大な歌風を称えいうことはない。そしてこの「国語読本」によって、これを習う少年たちにアララギ派の万葉的感性は根付いていったのである。

 

3 茂吉の『万葉秀歌』

 私はいま昭和一桁生まれの少年の万葉受容の感性的体験から語り始めている。そこからさらに広く昭和10年代における日本の学生たちを含む知識世界における万葉受容のあり方を見ようとすれば、ひとは必ずや斎藤茂吉の『万葉秀歌』の圧倒的な影響に出会うことになるだろう。

 斎藤茂吉(1882−1953)の岩波新書『万葉秀歌』上下は昭和13年(1938)に第1刷が発行され、戦後何度か改版されて増刷され、私が今手にする新書の奥付には、上は2012年12月14日 第115刷発行とあり、下は2014年11月13日 第102刷発行とある。昭和43年(1868)の改版に付された柴生田稔の「改版に際して」という文章によると、上下二巻のこの本は「昭和十三年十一月二十日第一刷発行以来、現在までに、上巻は四十三刷五十一万部、下巻は四十刷四十万部をこえる部数に達した」という。戦後昭和28年に改版された本書は同43年に再び改版され、現在版行の形をなすにいたった。上記のように上下巻それぞれ100刷をこえる発行数からすると、『万葉秀歌』上下巻の発行部数はそれぞれ優に100万部をこえるであろう。

 私がもつ岩波新書『万葉秀歌』の帯には「絶対名著」の四文字が大きく印刷されている。本書の「名著」としての評価は絶対的だと出版社自身が誇示していっているのである。これは昭和の一時期だけの「名著」であったのではない、昭和の戦前・戦中・戦後を通じて、そして平成の現在にいたるまで本書の「名著」としての評価は不動であり、絶対的だといっているのである。「絶対名著」とは恐るべき言葉である。それは『万葉秀歌』をもってわれわれの万葉評価を凝結させてしまったこと、その結果としてのわれわれ自身における文学的感性の恐るべき不毛をいうものであるかもしれない。

 昭和の「国民歌集」としての『万葉集』の位置は茂吉の『万葉秀歌』とともに確立し、現代日本人における「万葉的」とされる感性、あるいは精神態度はこの書によって培われたといっても過言ではない。いま『万葉秀歌』における茂吉の、歌の評釈をこえてあふれ出るような言葉のいくつかを見てみよう。

 

熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は()ぎ出でな

                       [巻一・八・額田王]

「古今に稀なる秀歌」と茂吉が評するこの歌は、「斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊予の熟田津に御駐在になった」、そのとき随伴する額田王が詠んだ歌だとされる。茂吉はその評釈のなかで、「結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである」といっている。

 

 夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝宿(いね)にけらしも

                   [巻八・一五一一、舒明天皇]

「万葉集中最高峰の一つ」と激賞するこの歌の評釈で茂吉は、「御製は、調べ高くして問いがあり、豊かにして弛まざる、万物を同化包摂したもう親愛の御心の流露であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。・・・「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためでもうある」といっている。茂吉が称賛する歌をもう一つ挙げよう。

 

 渡津海(わたつみ)豊旗雲(とよはたぐも)に入日さし今夜の月夜清明(あきら)けくこそ

                     [巻二・一五・天智天皇]

中大兄皇子(天智天皇)が「印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌」として、茂吉は絶賛の言葉を記している。その際、結句の原文「清明己曾」の旧訓「スミアカクコソ」に代えて、真淵の訓「アキラケクコソ」を茂吉は採用し、「そうすれば、アキラケクコソアラメという推量になる」という。また「豊旗雲」の語は、「豊雲野神」「豊葦原」「豊秋津州」「豊御酒」などと同じく「豊」に特色があり、「古代日本語の優秀を示している一つである」という。そのように解したうえで茂吉は「荘厳」ともいうべきこの歌の大きさを称賛するのである。「以上のように解してこの歌を味えば、荘厳というべき大きい自然と、それに参入した作者の気魄と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。その何故であるかを吾等は一たび省ねばならない。後代の歌人等は、渾身を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。」

 茂吉のこの言葉とともに人びとは、「わつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ」と口ずさみ、「古代日本語の優秀」さとわが古代先帝のもちえた荘厳雄大な気風に感じ入ったのである。『万葉秀歌』は、そこに選ばれた秀歌とともに昭和の国民の〈万葉的〉感性をこのように創り出していったのである。

 

 4 「国民的感性」の創出

 私のこの論考の課題は津田の『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』における万葉評価にかかわるものである。だがすでにその一端に触れたように、津田の万葉の歌とその歌人たちに対する評価は、昭和に育ったわれわれにとって衝撃的といいうるほどに厳しい。津田は「万葉の歌」と題された概括的文章の末尾で人麿についてこういっている。

「万葉の歌について最後にいうべきことは、概して想像力が貧弱で、また具体的な事物なりを写すことが拙いということである。人麿などは詞藻が豊富だといわれているけれども、それはやはり美しい語を並べるからのことで、具体的に或る光景を想像して、それを目に見るように叙述したのでは無い(彼の詞藻は多くはシナの詞藻などによって養われたらしいが、シナ人がそもそもこういう欠点を有っている)。」[6]

 この津田の言葉が衝撃的であるのは、われわれのうちにすでに定着している茂吉らによる万葉とその歌人評価の全く逆をいうものだからである。茂吉は「わつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ」によって、作者の「渾身を以て自然に参入してその写生をする意力」をいっていた。茂吉がこのように称える歌と歌人とが、昭和のわれわれの内に定着している万葉の歌であり歌人であった。われわれが茂吉とともに共有するこの萬葉的感性をあたかも逆撫でするような津田の否定的な言葉は、私にとって驚きであった。それは昭和のわれわれのものとして定着している万葉の評価とはまったく逆向きの評価からなる万葉観が、赤彦・茂吉らの万葉観の成立とほとんど同時的に大正日本に成立していたことを知った驚きである。この驚きは同時に、昭和のわれわれにおけるアララギ派の、あるいはむしろ斎藤茂吉の万葉観の支配的な存立という事実を教えたのである。

 昭和戦前期に青少年であったわれわれには茂吉の万葉評価を共有し、その万葉的感性に同化することなくして万葉はなかったのである。『万葉集』が「国民的歌集」になるのは、この万葉的感性が人びとに共有され、「国民的感性」になることによってである。私は先に手元にある岩波新書『万葉秀歌』の帯にある「絶対名著」という四文字を「恐ろしい言葉」だといった。それは『万葉秀歌』が昭和の全体主義的国家の「国民的感性」を絶対的に支配したことを、あたかもこの四文字は誇示するかのごとくに思われたからである。平野仁啓が『斎藤茂吉』[7]の付録の章「斎藤茂吉覚書」で茂吉の文章を引いている。

「短歌の詞語に、古語とか死語とか近代語とかを云々するのは無用である。そんな暇あらば国語を勉強せよ。そして汝の内的流転に最も親しき直接なる国語をもって表現せよ。必ずしも日本語のみとは謂はない。それ以外の一切は無意義である。吾等の短歌の詞語は必ずしも現代の国語ではない。それが吾等には真実にして直截である。吾等が血脈の中には祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先が想に堪へずして吐露した詞語が、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとって虚偽である。おもふに汝にとっても虚偽であるに相違ない。その虚偽をも敢てして、なほ近代語・現代語まどいふ外的差別見に囚はれてゐる汝が業因のありさまは、恰も乞食の断食に相似のものである。」[8]

これを引いて平野は「かういふ信念を根柢として万葉調といふことが主張せられたのである」といっている。『万葉秀歌』が昭和の「絶対名著」であるのは、「万葉調」とは「吾等が血脈を流れる祖先の血のリズム」であることを全体主義昭和の青年たちに体認せしめたことによってである。「絶対名著」とは恐ろしい言葉である。

 

 5 昭和万葉主義の否定的序幕

 津田が『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』に万葉についての否定的評価を書き連ねていた時期、すなわちこの書が刊行される大正5年(1916)に先立つ時期、大正3年に島木赤彦は長野における教員生活に終止符を打って上京し、『アララギ』の編集に専念することになる。斎藤茂吉の第一歌集『赤光』が刊行されたのはその前年大正2年である。近代的感性をもってする万葉の再発見と作歌における万葉主義の確立は、この『アララギ』を舞台になされた歌壇・歌風刷新の精神作業・精神革命であった。大正8年(1918)1月の『アララギ』に赤彦は「大正七年のアララギ」と題して茂吉やその他の同人たちとともに載せた文章の中で、「『アララギ』は歌に於て一途に万葉集を尊信する。『アララギ』は歌を作るに写生を念としている」[9]と言明している。

 大正初年の津田はアララギ派歌人における万葉尊信の風を知りながら、『我が国民思想の研究』における否定的な万葉批評を記していったのだろうか。津田の記述の中にそれと名指した批判的言及はない。だが早く正岡子規に始まる万葉志向がいま赤彦・茂吉らによって万葉主義という歌風刷新の精神運動として展開されようとしているのである。大正初年における津田の上代史、上代文学をめぐる批判的著述がいま歌壇に起きつつある万葉主義的運動と何らか交錯することなくなされていったとは考えにくい。津田は万葉における数多くの恋歌は空想の産物だとしてこういっている。

「古来の注釈家等が万葉の歌を悉く実感から出たもの、即ち直接の経験を其のままに歌にしたものとして、それをこれらの歌の尊ぶべき理由としているのは、詩人の空想の自由なることを知らぬ話である。万葉時代は少なくとも斯ういう詩人の幾らかを生むまでに進んでいた。そうした多くの詩人ならぬ作者に恋歌が無数に作られている世に、何人も有っている此の自家心中の(恋の)閲歴から、詩人が彼の如き歌(空想歌)を産み出したのは当然である。」(「万葉の歌」)

 この津田の文章は明かにアララギ派における実感主義的な万葉評価への批判を含意して書かれたものということはできる。だが私はこうした文章を拾い集めて津田の否定的万葉批評を動機づけるより、昭和の精神動向を規定するようにアララギ派の万葉主義が立ち上がろうとするその時期に、津田が徹底した否定的万葉批評を書いたことの意味を考えたい。津田は茂吉らの万葉主義によって昭和の「国民的感性」が創り出されていこうとするその時期に、昭和におけるこの展開を見抜くように『我が国民思想の研究』の否定的万葉批評を書いているのである。そうだとするとわれわれはここに万葉をめぐる近代日本の興味ある思想劇を見ることになるのだ。万葉的な「国民的感性」を創出する昭和の万葉主義という思想劇は、その展開を否定的に見抜いているような序幕をもっていたのである。『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』における津田の万葉批評とは昭和の万葉主義の否定的な序幕である。では津田の万葉批評を昭和の万葉主義の否定的序幕として読むことの意味とは何か。津田の否定的万葉批評を列記してみよう。

 

[歌の成立・要するに歌は恋が中心である]

「異国文芸の崇拝者も、其の情生活は異国の文字を以て表現することが出来ぬ。知識として与えられた異国思想は、彼等のうぶな情生活を圧服し束縛する程に深くも強くも無く、又彼等の全生活に融合するまでにもなっていない。是に於いて彼等の生活の表現として、歌が盛んに作られたのである。いうまでもなく人の心の内部から起る最も強い衝動は恋である。だから記紀の歌に於いても其の題材は殆ど皆な恋であった。万葉に至ってはいうまでもない。」

「短歌は其の詩形の短い点に於いて、其の技巧の単純な点に於いて、彼等の刹那的感情を表現するには最も適切なものであった。短歌の作者が多く現れたのも此の故である。ただ彼等の思想は自己の経験の範囲を出でないから、極めて単純で狭隘で、また何人にも共有のものであり、従って其の作は千篇一律になる。作者自身には感深い歌であっても、他から見れば平凡なもので、歴史的に考えれば常套的・伝襲的に堕する。万葉の恋を詠んだ短歌の大部分はこれである。」(「万葉の歌」)

 アララギ派の歌人たちとともに万葉的古歌への感性を培ってきたわれわれには。この津田の文章はほとんど読めなくなっている。これは万葉の古歌への共感をもたないいわば素面(しらふ)の男が書く白々しい、当たり前すぎる文章だとみなされるだろう。近代の復古的ロマンチシズムは文明的初源のうぶさを真実としたのである。だがこのロマンチシズムを剥いでしまえば、そこにあるのはこのうぶさだけだろう。この白々しい、当たり前すぎる津田の文章こそ、文明的初源における列島の幼い文学的形象のあり方を正しくいうものではないのか。津田の白々しい万葉批評の言辞は、昭和の万葉主義というプリミティズムへの過剰な思い入れを暴き出すものであるのだ。

 

[ここにあるのは氏族精神である]

「(短歌は)長歌よりは範囲が広い。けれども本来民間に発達したもので無いから、大体に於いてそれが貴族的・都会的であることは長歌と大差が無い。万葉には防人の歌もあり東歌も見え、其の他の地方人の作もあるが、これらは何れも京都に往還するか、国司などに近づくか、兎も角も都会人と接触して、彼等の作を見まね聞きまねしたものであろう。」(「万葉の歌」)

「憶良の「男児やも空しかるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」(巻六)も、同じ情である。またそれが「海ゆかば水づく屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かえり見はせじ」と、皇室に対する情とも結びついて来るが、これもどこまでも古来の禁衛であった家柄の氏族精神である。此の時代には、なおこういう名を重んずる精神があったが、次の時代になると、社会状態の変化したために、それも殆ど無くなってしまう。」(「国と家との観念」)

「「大君のみこと畏み」云々という歌を、愛国心の発現として解するようなことがあれば、それは大なる誤りであろう。彼等防人には、何のために遠い筑紫のはてまでやられねばならぬかということすら、よくは判っていなかったろう。」(「国と家との観念」)

津田のこれらの言葉は、やがて昭和の日本が『万葉集』をもって「国民的歌集」としていくその理由に向けていわれているようだ。憶良の歌に「氏族精神」の吐露をいうものは津田を措いてはいない。私は津田のこれらの言葉に、「大君の辺にこそ死なめ、かえり見はせじ」を第二の国歌にしていった昭和の「国体主義的国民国家」とは違う「国民国家」への、あるいは「国民であること」への津田に底深くもたれている希求を見る。この希求が彼に万葉批評を書かせたのだし、大きくいえば『我が国民思想の研究』を書かせたのである。

 津田の万葉批評の最後の言葉をここでも最後に引いておこう。

「歌の修辞法に於いて、言語上の遊戯や音調の上の装飾をするより外にしかたがなかったのは、即ち思想と感情とが単純であり、想像力が貧弱であって、具体的の叙述を要しないからである。・・・こういう歌を作っていた我が上代の国民の性質は、要するに上すべりのした、軽い、動き易いものであって、それは彼等の幸せであったと共にまた不幸であった。」(「軽快な趣味」)



[1] 私の手元にある「小学国語読本 巻十二」は昭和14年6月2日発行の修正版である。

[2] 『万葉集一』「解説」日本古典文学大系4、岩波書店、1957.この「解説」の執筆者がだれであるのかはっきりしない。この『万葉集』全4巻の校注者は高木市之助・五味智英・大野晋の三名である。代表者としての高木によるものか、あるいは共同執筆か。

[3] 津田『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』第一篇・第八章「国と家との観念」。ただしこの章とこの記述は戦後改訂版『国民思想の研究一』には見出せない。

[4] 島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)。島木のこの書は、彼の死の前年、すなわち大正14年(1925)に出版された。その「序言」で島木はこういっている。「万葉集の心は、われわれが歌に入る第一歩の心であらねばならぬとともに、歌に果てんとする最終歩の心であらねばならぬと思っている。」

[5] 斎藤茂吉『万葉秀歌』上下(岩波新書、1938)。ただし私が今見ているのは戦後の改版本(1953)である。

[6] 津田『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』第一篇・第三章「文学の概観 万葉の歌」。

[7] 平野仁啓『斎藤茂吉』構成社、1943.なお平野が引いている茂吉の言葉は、茂吉の万葉論からのものであろうが、どこから引いたかは明らかではない。

[8] 平野はこの文章を引きながら、茂吉のどこから引いたかを記していない。私はこれが茂吉の歌論集『童馬漫語』(大正8年刊)中の「歌ことば」から引かれたものであることを田中敏英氏から教えられた。「歌ことば」は明治45年1月のものである。

[9] 島木の『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)に付された北住敏夫の「解説」から引いている。

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