子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-


子安美知子はわれわれに何を残して逝ったのか。彼女がわれわれに刻していった記憶をあらためて確かめるような会をしたいと思い、岡村三郎教授の篤い助力をえて、次のような「子安美知子を偲ぶ会」を開くこととなった。最初に話して頂く四人はいずれも早稲田で子安美知子からドイツ語を学んだ人たちである。私は他言語の学習・習得がその人の知の形成に決定的ともいえる意味をもつと考えている。私は彼女の「シュタイナーとその学校」をめぐる精神的、実際的活動、「ミヒャエル・エンデ」をめぐる著述活動とともに彼女の「ドイツ語教育」を大きな社会的な意味をもつものとして語って頂くことにした。「子安美知子を偲ぶ会」の入場は自由です。これは葬儀ではありません。ご香典などのご心配はなきようお願いいたします。普段着でご参会下さいませ。(子安宣邦)


■「子安美知子を偲ぶ会」のご案内

 

「子安美知子を偲ぶ会」

   

   □会場:早稲田大学・国際会議場井深大記念ホール

東京都新宿区西早稲田1-20-14、西早稲田バス停より徒歩5

□日時:7月30日(日)午後1時〜4時30分

       入場は自由です。

   

   □司会 岡村三郎(早稲田大学教授)

 

開会の挨拶                    司会者 岡村三郎

黙祷

 

第一部  子安美知子の贈り物

        ドイツ語                 三瓶慎一

                             多和田葉子

        ミヒャエル・エンデ            堀内美江

        シュタイナーとその学校          鈴木一博

        

(休憩)

第二部 子安美知子ーその生と記憶

       子安美知子のために             子安宣邦

      「ミュンヘンの小学生」であった        子安フミ

 

子安美知子とドイツのシュタイナー学校の映像を上映します。

 

■津田・国民思想論・8                子安宣邦

「近世」の新しさを人は読むことができるか

    ー津田『平民文学の時代』を読む・1

 
 

1 平民の時代・平和の勝利

「封建の藩籬、階級の桎梏、政令の圧迫があるに拘わらず、国民は到る処に其の間隙を求め其の弱点を発見して、それに向って力を伸ばそうと試みたのである。戦闘の遺風に対する平和の勝利である。政治的権勢に対する人間の力の威嚇である。要するに武家政治の骨組みを蔽い隠すまでに、其の上に咲き乱れ咲き誇る、平民文化の美しい花の色である。」[1] 

 これは津田が平民の時代としての近世日本が咲かせたもっとも大きな花、すなわち元禄文化についていう言葉である。「戦闘の遺風に対する平和の勝利である。政治的権勢に対する人間の力の威嚇である」という言葉は、近世武家政権の時代を「平民の時代」とする津田のみが書きうる言葉であるだろう。「平民の時代」とは何か。津田の言葉を追っていこう。

「兎も角も政治的権力と武力との外に社会を動かす力が現われて来たのであるから、其の力を有っているものが武士で無い平民であって、それが政治的秩序に於いては武士の下位に置かれているに拘わらず、社会的地位の上からは決して武士に従属せず、少なくともそれと相並んでいるということは、平和の社会における自然の勢いでもあり、また疑うべからざる事実でもあった。其の上に窮屈な制度で固められている武士とは違って、政治的には殆ど其の存在の認められていないだけ、拘束や抑圧を受けることが少ないので、幕府の固定政策の結果、動もすれば気力の萎縮せんとする世の中に於いて、この社会のみには常に活気が横溢しているのであるから、文化を動かしてゆく力がここから湧いて出るのは自然の勢である。是に於いてか一般の武士も武家貴族も、此の平民の間に発達した文化を享受しなければならぬようになる。徳川時代の武士が武士として何等特殊の文化を創造し得なかったのは、之が為である。」

 これは「平民の時代」を解説する言葉ではない。むしろこれは徳川日本を「平民文化の日本」として再構成してしまう津田の熱気をもった言説のあり方を示している。津田のこの熱気をもった「平民の時代」をいう言説は、明治近代日本がその前代として構成していく「前近代的徳川日本」を葬り去るかのようである。この時代の政治的支配者である武士に、武士的文化の形成を断念せしめるほどに平民文化が圧倒的であるならば、「平民の時代」とはすでに「国民の時代」といっていいのではないか。だが津田は「平民の時代」をどれほど圧倒的に語ろうとも、これを「国民の時代」ということはない。「国民」の実質的構成者である「平民」の旺盛な活動力がどれほどいわれようとも、彼らは「平民」であって「国民」ではない。「国民の時代」の到来はその先に待たされているようである。

 

2 「国民」概念の優越

 近世における儒学の興隆やその学問知識の社会的拡大を、津田は平民文芸の興隆と同じ文化現象として見ることをしない。平民文芸の興隆に向けられたあの圧倒的記述を津田は儒学の興隆に向けてすることは全くない。むしろ逆である。全くの否定的言辞をもってしかしない。

「当時所謂学問がめざましく興隆して来たが、其の学問というものが概していうと漢籍や古文学や、凡て書籍の上、文字の上の死んだ知識を外から得ることをのみ勉めたのであって、自分自身の実生活から生きた知識を組み立て、日常に経験する事物を観察し研究して其の真相を知ろうとするのではない。特に其の学問の中心となっている儒教思想は社会の統制を重んじて個人の自由な思索と行動とを認めず、情生活の芸術の表現を軽んじ、又た古代シナの特殊の社会状態、特殊の民族性から造り上げられた理想を普遍的のものと考えるのである。」[2]

 ここに見る津田の反儒教的言説は近世における儒学・儒教の興隆に向けて、事新しく用意されたものではない。これは大正初年の「神代史」批判や『我が国民思想』の書き始めから津田がもっていたものである。津田が「民族」をいい、「国民」をいうことは、反儒学・反シナ思想とともにである。しかも儒学・シナ思想が「凡て書籍の上、文字の上の死んだ知識」とみなされるとき、儒学・漢学的知識によってなるわが知識社会は、日本という民族(ネイティブ)国家の民としての「国民」の思想・文化の成立を妨げるものとなる。津田は本節冒頭に引いた言葉に続けてこういうのである。

「そういう思想を奉じている知識社会では偏に異国のもの古代のものを尚ぶ傾向がある。従って彼等の社会では現実の生活から生まれ出た生きた文芸、自由な、放縦な、平民的色調を帯びているものを甚だしく軽侮するのである。勿論こういう特殊の知識は国民の実生活とは関係の少ないものであるから、一般社会はそんなものには支配せられず、従って平民文芸は社会的階級の上下を問わず広く世に行われてゆくのであるが、それにしても斯ういう事情があるために、国民の思想が実生活の上に立って深みを加えてゆくことが出来ず、従って(真の生きた知識、生きた学問が出来上がらないと共に)、平民文芸もまた(種々の点に著しい進歩があるに拘わらず)、概して浅薄な、粗野な、或はどこまでも娯楽的に用いられるという、境界を脱することが出来ないのである。」

 これは複雑な文章である。その複雑さは、「斯ういう事情があるために」という言葉をもって、「国民の実生活」から遊離した知識・学問をもてはやすわが「知識社会」と、「概して浅薄な、粗野な、或いはどこまでも娯楽的に用いられる」境界を脱することのできなかった「平民文芸」とを結びつけ、前者をあたかも「平民文芸」をあくまで平俗な娯楽的レベルに停滞させた要因であるかのようにいうところにある。津田は儒学・漢学的「知識社会」と平俗な娯楽的境界を脱しない「平民文芸」世界とを「斯ういう事情」といいながら因果関係的に結びつけていた。「斯ういう事情」とは、津田の言葉をもっていえば、「国民の思想が実生活の上に立って深みを加えてゆくことが出来ない」事情である。反国民的な儒学・漢学的知識からなる知識社会であるかぎり、近世社会には平民文芸を思想的にも深化せしめ、国民文芸として表現していくような事情にはないというのであろう。

 これ以上の言語的説明を阻むような「斯ういう事情」をあえて言語的に解きほぐして分かることは、津田の文章には「国民」が常に優越する概念として存在することである。津田の文章には、それが文字として記されていなくとも、「国民」は主語として存在し、目的語として存在する。「貴族時代」の文学を語る津田の文章に「国民」は存在し、「武士時代」の文章にも、そしていっそう明らかな形で「平民時代」の文章に「国民」は存在する。だが津田は「国民」とは何かを定義したりはしない。

 

3 「国民」を主語とした歴史

 私はさきに津田の反儒家思想をのべながらこういった。「津田が「民族」をいい、「国民」をいうことは、反儒学・反シナ思想とともにである。しかも儒学・シナ思想が「凡て書籍の上、文字の上の死んだ知識」とみなされるとき、儒学・漢学的知識によってなるわが知識社会は、日本という民族(ネイティブ)国家の民としての「国民」の思想・文化の成立を妨げるものとなる。」これは津田のいう「国民」を歴史的概念として規定したものである。津田の「国民」概念には明治末年から大正初期の、すなわち一九〇〇年代日本の世界史的位置が映されている。

 成田龍一は大正デモクラシーを「帝国」のデモクラシーといった。「政府批判とその主体としての「国民」ーー二〇世紀初頭の日本のデモクラシーは、日露戦争の熱狂性を背景に持ち、「帝国」の構造に規定されたナショナリズムと結合して現れてきている。対内的な姿勢と対外的な要求、政府批判とアジアの人びとへの姿勢に落差を有する「帝国」のデモクラシーであった。」[3]これにならっていえば、津田の「国民」とは、「平民」的志向を強くもとうとも、中国との文明的共存関係を断ち切ってアジアに優越的に自立する「帝国」日本の「国民」であった。

 だが津田はこの二〇世紀日本の歴史概念としての「国民」を日本歴史のあらゆる時代の記述の中に置いていった。「神代史」にも、「貴族時代」にも、「武士時代」にも、「平民時代」にも。津田によるその時代の政治史的、文化史的、思想史的記述の隠れた主語として、目的語として「国民」が置かれていった。そのとき近代の歴史的概念としての「国民」は先験的概念あるいは理念となった。津田がそれによって歴史を批判し、方向づけ、意義づけていくのである。それゆえ、この「国民」概念とともに津田の「我が国民思想」の記述は成立することになるのである。このことはそれぞれの時代が「国民」という主語をもって記述されるのである。「平民の時代」は次のようにその終わりを記述されることになるのである。

「之を要するに。此の時代には鎖国制、封建制、階級制、世襲制、軍国主義の政治、武士本位の社会組織というような人為の規制と、国民が其の生活を高くし豊かにし、又た自由に其の能力を伸長しようとする、人としての自然の欲求との矛盾、戦国の遺習と平和の精神との扞格があって、概していうと、後者が漸次前者を内部から破壊してゆきながら、一方ではなお前者が後者を圧服しているので、其の間の衝突と交譲と争闘と妥協とが、此の時代の文化のすべてを支配する根本の調子である。」[4]

 私はこれを写しながら、「絶対精神」の自己実現の運動としてのヘーゲルの「世界史」の一節を写しているような気がした。「応仁の乱」から戦国時代を経て、近世日本の全く新たな登場が期待された。たしかに津田は「平民文化の隆盛」を「戦闘の遺風に対する平和の勝利である。政治的権勢に対する人間の力の威嚇である」といった高い調子の言語をもって歌い上げた。だが「平民の時代」を津田はどれほど称えようとも、歴史を劃して成立するこの「平民の時代」の達成を、ことに学問・知識・思想的達成を見ることはしない。津田の歴史記述の主語であり目的語である「国民」は、われわれが高い達成を見る近世的知識・学問をみずからの実現運動の阻害者としながら、「其の間の衝突と交譲と争闘と妥協とが、此の時代の文化のすべてを支配する根本の調子で」あったと記述するのである。「平民の時代」は日本の歴史を劃する時代ではない。それは「国民」の歴史の前史として国民史に回収されてしまうのである。

 

4 知識・情報社会の始まり

 津田の「平民の時代」を考えながら、横田冬彦の『天下泰平』[5]を開いて見た。私は開巻冒頭の横田の記述に驚いた。彼は大坂の陣を語った『大坂物語』という仮名草子から書き起こしている。この物語は慶長19年(1614)10月〜12月の大坂冬の陣を詳述してゆく。最後は、家康が「総攻め」の主張を押さえて和議を結び、大坂城の堀を埋めたりして冬の陣は終結する。そして「騒がしかりし年も暮れ、慶長廿年にぞなりにける。・・・いよいよ天下泰平、国土安穏、めでたき事にぞなりにける」という言葉で締めくくられているという。この書は冬の陣の講和から一ヵ月もたたない時期に刊行されたとされていっる。各武将たちの行動などの情報収集の的確さから、作者は徳川方の庇護を受けたものと推定されている。この徳川方の『大坂物語』に対して、豊臣方の意を汲んで改作を施した海賊版がすぐに出たという。

 私は『天下泰平』の冒頭のこの記述を読んで驚いた。17世紀初頭の徳川幕府による体制的支配にむけての最後の戦いである大坂冬の陣・夏の陣は、情報戦を担いうる作者・出版社・読者からなる出版ジャーナリズムがそれなりに成立している時代環境の中で戦われたということを、私はまるで知らなかった。応仁の乱とそれを引き継ぐ16世紀の戦国の動乱が日本を根底的に再編成していくものだということは、内藤湖南らに教えられていた。だが根底的に再編成された社会とはいかなる社会なのか、そもそも近世社会とはいかなる意味で根底的に再編成されたものであるのか。横田の『天下泰平』の冒頭の記述は、近世社会をめぐる私の疑いに最初の解明の鍵を与えるものであった。

 16世紀の戦国的動乱と天下の再編成的統一が商業・手工業や知識の伝達・流通を革新・亢進させていったに違いない。そして社会の内部に知識の共有者とそのネットワークを作り出していったのである。知識は貴族僧侶の専有物から社会における人びとの共有物へと変化していった。横田の『天下泰平』がもう一つ私を驚かせたのは、民間における書物の形による知識の所有が近世社会では広く大きな規模でなされていたことである。

「元文元(享保二十一)年(一七三六)十月のこと、大坂から南東へ約十五キロ、柏原村の三田家から了意川が大坂に向けて下っていった。舟には、大小十五竿の箪笥などに入った八百冊以上の書物が積まれていた。これらの書物は大坂天満にある三田家の菩提寺、妙福寺へ預けられ、その世話で方々の書物屋に見せて入札され、京都の書物屋栗山弥兵衛に箪笥とも一括して銀三百五十匁で買い取られた。」

 これは民間における蔵書の実態を知らせる興味ある話である。この蔵書の所有者は三田家の二代目の浄賢とされているが、これらの書籍の購入者は初代の浄久(1608−1688)であったようだ。浄久の父水野庄左衛門は福島正則の家臣であったが、大坂の陣で豊臣方に就いて戦死したという。浄久はその後、母方の姓三田に改め、大阪に出て商人になったという。彼は柏原船を使って肥料商を営み成功したという。彼は家業の傍ら俳諧をよくし、西鶴らとも交わったという。これは17世紀日本の民間における書物・知識の所有者の代表的事例である。横田は三田家から売りに出された蔵書の中身を詳細に伝えている。

 近世社会における知識の民間化をめぐるこの代表的事例の紹介は、私がかねてからもってきた疑問への解答をも導いてくれた。

 

5 仁斎と契沖

 仁斎の長子東涯の記す『先府君古学先生行状』に幼少時の仁斎のことがこう記されている。「幼くして深沈にして、常児に異なることあり。(はじめ)十一歳のとき師に就いて句読を習う。初めて大学を授かり、治国平天下の章を読みて謂えらく、今の世亦かくの如きの事を知るものありやと。」これは偉大な学的業績を達成した学者先生の幼少期を天才の出現として語る常套のものかもしれない。だがこの記述は京都堀川で商いをする伊藤七右衛門の長子として生まれた仁斎が十一歳で句読を習い、やがて『大学』の授業を受けるような学習環境をもっていることは私にとって驚きであり、想像しにくいことであった。私はかつて『古学先生行状』のこの一節を記しながらこう書いた。「母那倍は連歌師里村玄沖の娘であり、父了室も『四書集注』や『近思録』などを手許に置く教養人であったという。上層の町衆を含めて京都の人びとが具えていた文化的・知的教養の高さが、少年仁斎における知的早熟の前提をなすものだろう」[6]と。私は少年仁斎がもった知的環境とは京都の町衆がもちえた特殊な環境だろうと思っていた。私は一まずはそう理解しながら、知識世界としての近世社会の始まりは普通に考えられているものとは違うのではないかと思っていた。この問題につながるものとして契沖の場合がある。

 私は以前、契沖の『勢語臆断』『万葉代匠記』を見ながら、この真言僧契沖は日本の古典文芸についての知識・理解をどこでどう得たのかを考えたことがある。青年宣長に圧倒的に影響を与えたのは徂徠と契沖であることを知る私は、契沖の日本古典文献理解とその方法の成立事情を知りたいと思った。そこで唯一の契沖伝である久松潜一の『契沖の生涯』[7]を読んだ。だがそこに私が求めていた解答を見出すことはなかった。私が見出したのは契沖の放浪時代の一節だけであった。

「契沖が曼陀羅院の住職となったのは二十三歳であるが、それから数年は在住したらしいから曼陀羅院を去ったのは二十七八歳でもあろうか、而して彼が高野を再び出て和泉の久井へ至る頃は三十歳頃であったと思われる。」この時期から再び大坂に帰って今里の妙法寺の住職になる延宝6年(1678)三十九歳の時期までを、久松は契沖の放浪時代と呼んでいる。しかしこの放浪時代に契沖は旅をし続けたというのではなく、「三十年代を静かなる山里に過ごしたと見ることが出来る。現実の人生にあきはてた彼は隠棲にも等しいように他人の家の一室に静かに書を読み研鑽につとめたのである。」この山里時代は久井時代と伏屋時代に分けられる。いまここで重要なのは伏屋時代である。

 契沖が久井から池田万町の伏屋長左衛門宅に移ったのは延宝2年35歳の時である。伏屋長左衛門は万町の豪家で、その邸内は広く、多くの図書を蔵していた。契沖はこの伏屋家で、その蔵書である日本の古典籍を読破したのである。安藤為章は「日本紀以下国史旧記、専ら倭歌を好み、博く歌書を探る」(『行実』)という。久松は「従来の漢籍仏典の研究から漸く日本の古典の研究に進んだと見ることが出来るのである。晩年に於ける彼の古典研究家としての花々しき成果はこの時に胚胎して居ると言うことが出来るのである」といっている。

 私が契沖における日本古典研究の由来をその伝記にたずねて見出すのは、これだけである。すなわち伏屋家の日本の古典籍を含む蔵書に遭遇し、それを読み耽る三年余の時間をもったという事実だけである。私は落胆し、それ以上、契沖の問題を伝記に探ることはしなかった。伏屋家の蔵書との契沖の遭遇が新たな意味をもって考えられてきたのは、近世の知識社会の成立が津田の「平民の時代」とともに考え直されるに至ってである。

 ところで契沖が伏屋重左衛門宅に滞在したことには、祖父以来の縁があるという。重左衛門の祖父一安(伏屋飛騨守)は豊臣秀吉の臣であった。父竹麿が泉州池田家を継いで伏屋氏に改めたのだという。一方、契沖の祖父元宜(下川又左衛門)は加藤清正の臣であった。これからすれば豊臣家縁りの二人が、彼らの祖父たちを不遇の境位に追い込んだ徳川政権下の新たな知的なネットワークの中で出会うのである。これは契沖における特殊なケースではない。横田が『天下泰平』で近世蔵書の実例として挙げた三田家も豊臣方に連なる家であった。このことは徳川による天下統一あるいは徳川幕府の支配体制の確立にいたる軍事的・政治的動乱が武士階層の大量の社会階層的な転移をもたらしながら、民間に新たな知的集積と知的拠点と知的ネットワークを作り出していったことが考えられる。もちろん堺などの交易的商業都市が富と知とを集積していったことも近世の知的世界の成立にとって重要である。さきにあげた仁斎の先祖は泉州堺の人であった。祖父了慶のとき、「元亀・天正の間、摂泉二州の間大いに乱れ」て京都に移住することになったという。恐らくすでに伊藤家は堺にあって富と知とをすでに蓄積していたのであろう。

 このように考えてくれば、近世日本の知ははじめて民間的な知として成立したことを知るだろう。近世における学問的、知的達成のほとんどすべてはこの民間的な知と知識人によるものである。近世日本に成立するこの知のあり方を知ることなくして、近世における学問的、知的達成をも見ることはない。津田が「平民文化の隆盛」を圧倒的な言葉をもって称えながらも、近世における学問的、知的達成の何一つをも認めることなく、無視しきってしまったのは、津田があまりにも強くもちつづけた「国民」の理念のゆえではないか。



[1] 津田『文学に現はれた我が国民思想の研究ー平民文学の時代 上』第一篇 平民文学の隆盛時代・第四章 文化の大勢四、津田左右吉全集・別巻三。

[2] 津田「平民文学の隆盛時代」第一章「文化の大勢一」。

[3] 成田龍一『大正デモクラシー』岩波新書。

[4] 津田「平民文学の隆盛時代」第四章「文化の大勢四」

[5] 横田冬彦『天下泰平』日本の歴史16、講談社、2002

[6] 子安『仁斎学講義』ぺりかん社、2015.

[7] 久松潜一『契沖の生涯』創元社、1942.

命を知らざれば、君子たることなし          子安宣邦


「子の曰く、命を知らざれば、もって君子たることなし。礼を知らざれば、もって立つことなし。言を知らざれば、もって人を知ることなし。」

これは『論語』堯曰篇の最後の章の言葉である。すなわち『論語』の最終章である。これを私は次のように訳した。
[訳]孔子がこういわれた、天命を知ることがなければ、君子であることはない。礼を知ることがなければ、世に立つことはない。言葉を知ることがなければ、人を知り、真の友を見出すことはない。

私は仁斎の『論語古義』の最終章の訳をこのように記し、仁斎の註釈的論評の言をも訳した後に私の評釈の言を次のように記した。これは私の『仁斎論語』の最後のコメントである。

 
[評釈]「命を知らざれば、もって君子たることなし」とは、われわれに対する大きな問いかけである。「命を知ること」とは何か。「命を知ること」を根拠なり、理由としていわれる「君子たる」こととは何か。『論語』はその最終章に、孔子が終始問いかけてきた問題をあらためて記して二十篇からなる孔子とその学びの集団の記録を閉じるのである。だれが編集し、だれが設けた最終章であるかは知らない。われわれは『論語』の最終章にいたってこの大きな問いかけに接して、あらためて問い直し、考え直すことがわれわれに求められているように思うのである。おそらく仁斎はその問いかけに答えるようにして『論語』を終生読み直し、学び直してきたのであろう。仁斎は最終章の問いかけに、「天には必然の理あり。人には自取の道あり」という彼の天命観をもって答えている。私もまたこの最終章を孔子がわれわれに与えた重要な問いかけとして考えたい。この章の問いかけの意味を私は次のように考えた。

 われわれはそれぞれに「天命を知る」とは何か、「礼を知る」とは何か、「言葉を知る」とは何かを問うことなくしてこの孔子の言葉の意味は明らかにはならないだろう。だがそれを問うに当たっての大事な手掛かりを孔子の言葉はわれわれに与えている。自分がかくあることが天からする必然性だと覚ることと、なぜ己れが君子たる品格をもつことの重大な条件であるかとみずから問うことである。そして「命を知る」ことと「君子(人格的自立者)たること」とが不可分であることを知ることである。また孔子は人が世に立ちうるためには、礼を知らなければならないという。人が成人として自立することとは何かが、社会規範との関係で問われているのである。ここで社会的存在としての人の自立が問われているのである。孔子はその自立のためには礼を知ることだというのである。では礼とは何か。礼は礼楽制度だといった解釈は答えにはならない。仁斎は礼とは人間の社会生活のための堤防だといった。これは『論語』の読み直しの先駆者としての仁斎が与えた素晴らしい答えである。孔子はまた人が信を置きうる人であるかどうかは、その言葉を知ることにあるといっているのである。言葉とはもともと人の実を表すものであった。信とはその人の言葉が信用できることである。人を知るとは、その言葉が実のものであるかを知ることである。人間世界にとってもっとも大事な言葉を孔子は『論語』の最後にわれわれに与えているのではないか。

 『仁斎論語』の最終章の[評釈]としては過剰な言葉を私はここに記してきた。だが仁斎とともに『論語』を読むことが、私にこの過剰な[評釈]を書かせたのだし、『仁斎論語』なくしてこの過剰な[評釈]もない。

             

これを書いて私は『仁斎論語』の筆を擱いた。6月1日の正午前であった。2011年の4月以来、新宿の朝日カルチャーセンターで始めていた仁斎『論語古義』の講読を引き継ぐ形で、飯田橋の論語塾で「仁斎とともに『論語』を読む」講座を始めたのが2013年4月である。それ以来毎月第4土曜日の午後に『論語古義』を読んできた。今年になって『仁斎論語』の出版という子ともあって私の解読作業に拍車がかけられた。3月から『論語』漬けの毎日が続いた。そして5月中に完了の予定が一日6月にずれこんで1日の正午にやっと最終章を読み終えたのである。
私は早く解放されたいという思いから残る頁数をひたすら数えていた。そして到頭読み終えたとき、私を待っていたのは解放感であったか。解放感も達成感もなかった。脱力感というか、奇妙な、予想もしなかった感慨だ。仁斎先生のように終生続けるべき仕事であるのかもしれない。(6月2日)  

                    

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