子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

   

近世日本の思想革命          子安宣邦

 

1 仁斎の思想革命

 仁斎が「最上至極宇宙第一」という『論語』に冠せた八文字によって思想革命をいうものは私以外にはいない。多くはその八文字に仁斎の『論語』尊重の心を見るにすぎない。ただ吉川幸次郎だけは比較的に立ち入った理解をしている。吉川は「仁斎東涯学案」でこういっている。「それは「最上至極宇宙第一の書」である。世界第一の書物である。何ゆえにそうか。偉大な「卑近」の書だからである。内容はすべて日常を離れない。平凡無奇である。もっとも平凡無奇なるがゆえに、もっとも偉大な書である。」[1]こう書き写してくると仁斎の緊張感をもったポレミックな文章は、仁斎の理解者を誇る吉川の「卑近」な理解によって、「卑近」を装おう誤った文章に翻訳されていってしまうように思われる。

 『論語』の至上性と「道」の卑近性とは、仁斎の思想革命的言語を逆説的な緊張関係をもって構成する二つの思想的契機だと私は前にいった。この二つの契機が、「世界第一の書物である。何ゆえにそうか。偉大な「卑近」の書だからである。内容はすべて日常を離れない。平凡無奇である」と翻訳されると、これは仁斎言語の思想性も革命性も失って吉川的言語の中で凡庸な緊張感をもたないものになってしまっている。ところで吉川が読んでいるのは刊本『論語古義』であって、その「綱領」も東涯や門弟の校正を経たものである。そこには「最上至極宇宙第一」の八文字をめぐる仁斎の文章はない。削られているのは、仁斎が決然として書く、「愚、故に断じて論語を以て最上至極宇宙第一の書として、而して此の八字を以て()れを毎巻題目の上に冠す。意以(おもえ)らく、此くの如くせざれば、則ち人よく論語の理、此くの如く大なることを知ること能わず」という文章である。『論語』の何が至上なのか。仁斎が「論語の理」という『論語』の思想である。だが『論語』の思想の至上性を学者たちは分かろうとはしない。「最上至極宇宙第一」の八文字を冠せていわなければならないのはその故だと仁斎はいっているのである。「此くの如くせざれば、則ち人よく論語の理、此くの如く大なることを知ること能わず」と。『論語』の思想の至上性を認識することは、学者たちをとらえる既成の思想体系、儒家たちの継承する既成の教説体系をゆるがすこと、その革新なくしてはないと仁斎はいっているのである。「最上至極宇宙第一」という『論語』に冠せられた八文字はたしかに過剰である。だがその過剰は、儒家における既成の教説体系の強固な存立に対応する。あの八文字とは思想革命の提示だと私がいうのはそれゆえである。そしてあたかも思想革命を煽動するかのような仁斎の過剰な八文字の提示に危惧を感じ、その激越する表現の鎮静化に努めたのが東涯ら刊本の校定者たちであった。

 では仁斎のあの八文字は何に向けて提示されたのか。いかなる儒家思想の体制的事態の革新が必要なのか。「而して漢唐以来、人皆六経の尊しとすることを知って、論語の最も尊くして、高く六経の上に出ずるとすることを知らず。或いは学庸を以て先とし、論孟を後とす。蓋し論孟の二書、徹上徹下、(また)余蘊(ようん)無きことを知らず」と仁斎はいう。この仁斎の言葉をめぐる私のすでに上に記したコメントをもう一度ここに引こう。「漢唐以来ということは、孔子の学が儒学となり、皇帝的国家の正統の学となって以来ということである。『書経』を中心とした六経的世界こそ国家の正統的な古典的世界とされたということであろう。朱子はこの国家的な古典(経書)を四書五経として再構成した。すなわち孔子以前の経書(五経)と孔子以後の経書(四書)として。『論語』はその四書の中に置かれた。しかしその四書も『大学』『中庸』『論語』『孟子』というように国家の政治哲学というべき『大学』を第一にして構成されている。これが国家の士大夫の学としての儒学の学間体系でもある。」これが『論語』の至上性によってゆるがせられ、革新されなければならない儒家既成の教説体系であり、思想体系である。

 「四書五経」という儒家の教説体系とは、「国家の士大夫の学としての儒学の学間体系」でもある。この体系は儒家における国家の政治哲学というべき『大学』を経書の第一として構成されている。これは皇帝的国家中国だけの教説体系であるのではない。近世の幕藩制国家日本の江戸政府もまた国家の政治道徳哲学としての儒学・儒教の存立を体制的に容認したのである。この幕藩制国家が成立して半世紀が経過しようとする十七世紀日本の京都の市井の儒者仁斎は、『論語』こそが第一であると主張し始めたのである。しかも「最上至極宇宙第一」という過剰ともみなされる八文字をもって『論語』の至上性をいい始めたのである。儒教がその本を孔子の教えにもつかぎり、『論語』が第一の経書であることは自明だと思われようが、それは違う。『論語』とは至上性を具えて常にそこにあるのではない。それは再発見されねばならないのである。仁斎の『論語』の至上性をいう言葉は、『論語』の再発見の言葉である。すでに仁斎はすべてを、しかも正しく語っている。われわれはもう一度それを読めばよい。

夫れ高きを窮むるときは、則ち卑きに返り、遠きを極むるときは、則ち必ず近きに還る。卑近に返りて後、其の見始めて実なり。何ぞなれば則ち卑近の恒に居るべくして、高遠の其の所に非ざるを知ればなり。所謂卑近とは本卑近に非ず、即ち平常の謂いなり。実に天下古今の共に由る所にして、人倫日用の当に然るべき所。豈此れより高遠なるもの有らんや。もし夫れ卑近を厭いて、高遠を喜ぶものは、豈天下万世に達して、須臾も離るべからざるの道を与に語るに足らんや。学者必ず此れを知りて、然る後に以て論語を読むべきなり。」

『論語』が至上の聖典であるのは、日常卑近な人の道こそが「天下古今の共に由る所」の道であることをわれわれに教えているところにあると仁斎はいっているのである。『論語』はただ日常卑近な人の道を教えるというのではない。この卑近な人の道こそもっとも人間的な道であり、「天下古今の共に由る所」の普遍的な道であることをわれわれに教えるのである。それゆえ『論語』は至上の聖典だと仁斎はいっているのである。この『論語』を絶対的に選択するということは、この人間世界を日常卑近な人の道を根底としてとらえ返すことをいうのである。既成儒家の「四書五経」的思想世界が、あるいは『大学』を第一とする儒家の国家哲学的教説体系は、『論語』の至上性によって、すなわち日常卑近な人の道の普遍性によって読み直され、とらえ直されねばならないのである。それゆえ私は、仁斎における『論語』の絶対的な選択をいうあの八文字とは「思想革命」の提示だというのである。

 

「最上至極宇宙第一」という八文字に仁斎の「思想革命」の志向を見ることができたのは、仁斎の経典の古義学的読みの革新をともにしてきた東涯ら近しい門弟たちであろう。彼らは仁斎の危険なラジカリズムをテキスト表面から削り去ることによって、仁斎の古義学的達成の徳川幕藩体制下における認知と普及に務めたのである。

 もとより仁斎は『論語』の絶対的な選択からなる「思想革命」が抗争的言説によってなされるものではないことを知っている。仁斎自身が抗争の人ではない。林本『論語古義』の「最上至極宇宙第一」という八文字の上に記されている圏点は、仁斎がこの八文字の削除に同意したことをいうのかもしれない。だがたとえこの八文字を削ろうとも、仁斎の『論語』の絶対的選択という「思想革命」の志向は『論語古義』十巻として実現されている。



[1] 吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』「仁斎東涯学案」岩波書店、1975。


「最上至極宇宙第一論語」        子安宣邦

 

 私は仁斎の『論語古義』の自筆稿本の各巻巻頭には「最上至極宇宙第一」の八文字が記るされているといった。たしかに生前の最終稿本とされる林本『論語古義』[1]を見れば、開巻最初の頁に「最上至極宇宙第一論語総論」と記されている。さらに各巻は「最上至極宇宙第一論語巻之一」という文字をその冒頭に掲げている。

 ところが仁斎の死後刊行された『論語古義』(刊本)からはこの八文字は消えている。この削除の経緯を伝えるものが東涯の記した『先府君古学先生行状』にある。「其の古義を著す。論語毎巻の(はじめ)に最上至極宇宙第一の八字を安んず。以て崇重の意を致す。門生、或いは其の甚だしく聴聞を(おどろか)すことを言う。後乃ち削去す」と。この八文字を「後乃ち削去す」というが、仁斎の意からこれを削ったのか、遺稿の校正過程でこれを削ったのか、それは分からない。

 仁斎自身はこの八文字を『論語古義』からトータルに消す意志などもっていなかったと思われる。なぜなら仁斎の『論語古義』の「総論」とは『論語』が「最上至極宇宙第一」の書たるゆえんを述べるものなのだから。仁斎は『論語古義』開巻冒頭の「最上至極宇宙第一論語総論」という十二文字を削って、ただの「論語古義総論」にするような意志など全くもっていなかったと私は考えている。「門生」とは古義学のラジカリズムを危惧する世人の代名詞であろうか。

 「最上至極宇宙第一」という『論語』に冠せられる八文字は、仁斎において『論語』が絶対的に選択されたことを意味している。では『論語』が絶対的に選択されるということは何か。『論語』が「最上至極宇宙第一」の書たるゆえんを説く「総論」を読んでみよう。『論語古義』(林本)の「総論」の綱領一を訓み下し、訳と評釈を加えた。

 

最上至極宇宙第一論語総論・綱領・一

惟楨按ずるに、論語の一書は万世道学の規矩準則なり。其の言は至正至当、徹上徹下、一字を増すときは則ち余り有り、一字を減ずるときは則ち足らず。道此に至て尽き、学此に至て極まる。なお天地の浩大なる、人其の中に在りて其の大なるを知らざるがごとし。万世に準じて変わらず、四海に準じて違わず。於乎(ああ)、大なるかな。

[訳]私惟楨はこう考えます。論語の一書は万世にわたって道の学びの規矩であり準則です。その言葉は至正にして至当、透徹して明白です。そこに一字を増せば余りあり、一宇を減ずれば足りません。道はここに尽き、学はここに極まるというべきです。人が論語の中にいることは、あたかも人が浩大な天地の中にあって、その大きさを知らないかのごとくです。万世にわたり、四海にわたってそれが基準であることに変わりはありません。ああ、論語とは真に大なるものではないか。

 

其の道を語るときは、則ち仁を以て宗とし、智を以て要とし、義を以て質とし、礼を以て輔とす。其の人に教うることを語るときは、則ち曰く、博文約礼と。則ち曰く、文行忠信と。而してこれを総て曰く、吾が道、一以てこれを貫くと。是れ其の標的なり。後に聖者出ること有りと雖も、亦此れをよく()うること能わず。而るに宋儒論語を説く、専ら仁義を以て理として、徳の名たるを知らず。忠信を以て用として、緊要の功たるを知らず。甚だしき者は論語を以て未だ足らずとして、広くこれを他書に求め、或いは釈老の説に仮りて、以て其の言説を(たす)けんと欲するに至る。其の罪を孔門に得ざる者、殆ど(すくな)し。

[訳]孔子は道を語るとき、かならず仁を宗として尊び、智を要として重んじ、義を質として正し、礼を輔として用いました。人に教えるにあたって孔子は「博く文を学び、礼を以て収束せよ」(雍也)といい、また「文と行と忠と信」(述而)とを教えの要綱としました。そしてこれを総括し、「私の道は一なるものをもって貫かれている」(里仁)といいました。これらはみな道の標的をなすものです。たとえ孔子以降に聖人が現れることがあったとしても、孔子のこの教えを変えることはありません。ところが宋代の儒者たちは論語を説くに当たって、仁義を理の概念とし、徳の概念とはしませんでした。また忠信を(はたら)きの概念として軽視し、人に緊切にして最重要なものとはしませんでした。もっとも甚だしい間違いは、論語を不十分とし、これの補いを広く他書に求め、釈迦・老子の説をも借りてその言説の資けにしようとしたことです。この誤れる後世の儒者たちで、孔子の学に連なりながら孔子に違背する罪に当たらないものはほとんど稀だといえます。

 

[評釈]仁斎は『論語』こそが人間世界の万世にわたる道徳と学問との規矩準則であるという。孔子の教えは人類の教えとして万世にわたり、四海に及びうる普遍性をもったものであるというのである。この『論語』と孔子の教えの卓越性の主張は、「最上至極宇宙第一」という最高級の『論語』と孔子称賛の言葉をもって示されることになる。これはたしかに過度の称賛の言辞であるだろう。だが仁斎はこれが過度の言辞であることを十分に承知しながら、あえてこれをいっているのだと思われる。なぜなのか。『論語』を「宇宙第一」とするこの言葉は、思想革命をいうものだからである。仁斎が『論語』を中心に据えてやろうとしている思想作業は、朱子学の批判といったことだけではなく、むしろ儒学的世界の思想革命というべきものだからである。それがいかなる思想革命であるのかは、この「綱領」が説き、『論語古義』の全体が明らかにしていくことである。

 

又曰く、夫子以前教法略備わると雖も、然れども学問未だ開けず、道徳未だ明かならず。直ちに夫子に至って、然して後道徳・学問初めて発揮し、尽くすを得たり。其れ学者をして専ら仁義に由りて行うことを知りて、種種の鬼神ト筮の説皆義理を以てこれを断ちて、敢て道徳と相混ぜざらしむ。故に学問、夫子自り始めて斬新開闢すと謂うて可なり。孟子、宰我・子貢・有若三子の語を引いて曰く、「尭舜より(まさ)れること遠し」と。又曰く、「生民自り以来、未だ孔子より盛んなるは有らず」と。蓋し諸子嘗て夫子に親炎することを得て、其の実に群聖人に度越することを知りて、而して後に詞を措くこと此くの如し。

[訳]また私はこうも考えます。夫子以前に教えの法はほぼ備わっていたとはいえ、学問はまだ開かれていず、道徳もまた明かにされていませんでした。夫子にいたって初めて、道徳と学問のあり方が明らかにされ、その意義が尽くされるにいたりました。夫子は道を学ぶ者に仁義を基準にして行うことを知らしめ、鬼神やト筮の説に惑わぬように道理をもってそれらを道徳から区別しました。それゆえ学問は夫子より初めて新たに開かれたといいうるのです。孟子は宰我・子貢・有若という孔門の三子の言葉を引いて、孔子を「堯舜よりはるかに優っている」といい、また「人民あってより以来、孔子以上に道徳において偉大な聖人はいない」(公孫丑上)といっています。思うに、これらの諸子はかつて夫子に親しく仕え、実に孔子こそ諸聖人に卓越することを実際に知ったのです。諸子に孔子を称えるこの言葉があるのはそれゆえです。

 

[評釈]孔子によって学間が開かれ、道徳が明らかにされたと仁斎はいうのである。『論語』における孔子の問いと教えに、人類的な問いの原初性(同時にそれは根源性を意味する)を見ること、それが仁斎のやろうとする思想革命の前提をなす根本的認識であり、あの「最上至極宇宙第一の書」という革命的標語をもたらす理由でもある。

 

愚、故に断じて論語を以て最上至極宇宙第一の書として、而して此の八字を以て諸れを毎巻題目の上に冠す。意以(おもえ)らく、此くの如くせざれば、則ち人よく論語の理、此くの如く大なることを知ること能わず。而して漢唐以来、人皆六経の尊しとすることを知って、論語の最も尊くして、高く六経の上に出ずるとすることを知らず。或いは学庸を以て先とし、論孟を後とす。蓋し論孟の二書、徹上徹下、(また)余蘊(ようん)無きことを知らず。夫子の道、終に大いに天下に明かならざる所以の者は、蓋し此れが為の故なり。愚、天の霊に頼りて千載不伝の学を語孟二書に発明することを得たり。故に敢えて鄙見を()べて、少かも隠緯(いんい)せず。臆説に非ざるなり。

[訳]私はそれゆえ断じて論語を「最上至極宇宙第一」の書として、この八宇を毎巻の題目上に冠ぶせることにしました。この八字をもってしなければ、論語の意義がかくのごとく広大なことを人は知るにいたらないからです。漢唐以来、人はみな六経の尊いことを知っていても、論語こそが最も尊く、高く六経の上に出るものであることを知りません。人は四書としては大学・中庸を先とし、論語・孟子をその後に置きます。それは思うに、論語・孟子の二書の至らざるところなく、余すところなきものであることを知らないからです。孔子の道が天下になお明かにならない理由は、論語・孟子二書の大なることを人が知らないことにあります。私は天の霊の導きによって、千載不伝の学を語孟二書において発明することをえました。それゆえ敢えてここに私の考えを述べ、それを憚り、隠したりはいたしません。これは臆説では決してないからです。

 

[評釈]『論語』を「宇宙第一」の書とすることが、なぜ思想革命であるのかがここで示されている。伝統的な経書の学というのは六経を尊重することからなっている。それは漢唐以来の伝統だという。漢唐以来ということは、孔子の学が儒学となり、皇帝的国家の正統の学となって以来ということである。『書経』を中心とした六経的世界こそ国家の正統的な古典的世界とされたということであろう。朱子はこの国家的な古典(経書)を四書五経として再構成した。すなわち孔子以前の経書(五経)と孔子以後の経書(四書)として。『論語』はその四書の中に置かれた。しかしその四書も『大学』『中庸』『論語』『孟子』というように国家の政治哲学というべき『大学』を第一にして構成されている。これが国家の士大夫の学としての儒学の学間体系でもある。だからいま仁斎が『論語』を「宇宙第一」ということは、伝統的な儒学の学問体系・古典体系を変革することである。しかも『論語』を第一とすることは、ただ経書の順位だけの問題ではない。「孔子の道」の教えを第一にすることであり、「大学の道」を第一にすることではない。仁斎は『大学』を「孔氏の遺書に非ず」としてその経典性を否定してしまうのである。これはやはり仁斎の思想革命である。東涯ら古義学の後継者が「最上至極宇宙第一」の八字を省いたのは、仁斎のこのラジカリズムを憚ったゆえであろうか。仁斎のこの思想革命を遂行する思想方法が古義学である。仁斎はそれを「天の霊」によって発明した「千載不伝の学」だというのである。それは論語・孟子二書の読み方でもあり、その二書の熟読を通して獲得した思想変革の方法でもある。

 

又曰く、夫れ道は至正明白、知り易く従い易く、天下万世に達して、須臾(しゅゆ)も離る可からざるものなり。故にこれを知ること難きに非ず。これを守るを難きとす。これを守ること難きに非ず。これを楽しむを難きとす。若し夫れ高遠及ぶ可からざるものは、道徳に非ず。隠僻(いんぺき)知る可からざるものは、道に非ず。何ぞなれば、天下万世に達して、須臾も離る可からざるの道に非ざればなり。一人これを知りて、十人これをよく知ること能わざるものは道に非ざるなり。一人これを行いて、十人これをよく行うこと能わざるものは道に非ざるなり。何ぞなれば、天下万世に達して、須臾も離る可からざるの道に非ざればなり。苟くも此れを知るときは、則ち吾が夫子の徳、実に群聖人を度越して、而して吾が夫子の道、高く万世を超出することを識らん。

[訳]また私はこう考えます。道とは至正明白であり、知り易く従い易いものです。道とは天下に普く達し、万世に永く行きわたるものであり、人のしばらくも離れることのできないものです。それゆえ道とは知ることの難しいものではなく、それを順守することの難しいものです。それを順守することが難しいというよりは、それに順い楽しむことが難しいというべきでしょう。人の達しえないほど高遠なものは、道徳ではありません。隠れ、秘せられている深遠なものは、道ではありません。なぜなら高遠にして、隠されているものは、天下万世に達し、人のしばらくも離るべからざる道ではないからです。一人だけが知り、十人の知ることができないものは道ではありません。一人だけが行いえて、十人が行うことのできないものは道ではありません。なぜならば、それは天下万世に達し、人のしばらくも離るべからざる道ではないからです。もしこれを知るならば、わが夫子の徳が、実に諸聖人に卓越し、わが夫子の道が、高く万世を超え出るものであることをたしかに識るでしよう。

 

[評釈]『論語古義』の「綱領」とは仁斎の古義学的思想革命のマニフェストであることを明らかにする。ここにあるのはまさしくそのような文章である。孔子の道とは、天下万世にわたる「人の道」であることを仁斎ははっきりいうのである。仁斎の思想革命とは天理に基づく道を、地上の万人の往く「人の道」に引きずり下ろすことでもある。

 

故に中庸に曰く、「()れを三王に考えて謬まらず、諸れを天地に建てて(もと)らず、諸れを鬼神に(ただ)して疑い無く、百世聖人をちて惑わず」と。蓋し夫子の徳の学の功を賛して然か云う。もし夫れ高遠及ぶべからず、隠僻知るべからざるの説は、これを三王に考えるときは、則ち謬まり、これを天地に建つるときは、則ち悖り、これを人情物理に推すときは、則ち皆合わず。見つべし、宇宙の際(もと)此の理無くして、道を()うるの甚だしき者なるを。夫れ高きを窮むるときは、則ち(ひく)きに返り、遠きを極むるときは、則ち必ず近きに還る。卑近に返りて後、其の(けん)始めて実なり。何ぞなれば則ち卑近の恒に居るべくして、高遠の其の所に非ざるを知ればなり。所謂卑近とは本卑近に非ず、即ち平常の謂いなり。実に天下古今の共に由る所にして、人倫日用の当に然るべき所。豈此れより高遠なるもの有らんや。もし夫れ卑近を厭いて、高遠を喜ぶものは、豈天下万世に達して、須臾も離るべからざるの道を与に語るに足らんや。学者必ず此れを知りて、然る後に以て論語を読むべきなり。

[訳]それゆえ『中庸』に、「これを三代の聖王の事績に考え合わせても、誤りなく、これを天地に建て合わせても、反することはなく、これを鬼神に尋ね合わせても、疑わしきことなく、百世後の聖人にはかっても疑惑はない」というのは、夫子の徳と学の功を称賛するものです。高遠にして及ぶことのできない説、隠し秘せられて知ることのできない説は、三代の聖王たちに考え合わせれば謬まり、天地に建て合わせれば(そむ)き、人情物理に推し合わせれば皆違っている説です。見るべきです。この宇宙の間に、高遠にして及ぶべからざる理といったものはなく、そのような理をいうことは、道を誤って甚だしいものというべきです。いわゆる卑近とは、本来卑近ではなく、平常なことをいうのです。卑近とは、実に天下古今の人びとの共に由る所であり、人倫日用における人びとの当然とする所です。人倫日用において当然であること、それ以上に高遠なものはあるはずはありません。この卑近を嫌い、高遠を喜ぶものたちと、天下万世に行きわたり、人がしばらくも離れることのできない道を共に語ることなどできません。学者は必ずこのことを知って後に『論語』を読むべきです。

 

[評釈]「所謂卑近とは本卑近に非ず、即ち平常の謂いなり。実に天下古今の共に由る所にして、人倫日用の当に然るべき所。豈此れより高遠なるもの有らんや」とは、仁斎の思想革命の根本的テーゼである。孔子が教える道とはこのテーゼがいう道にほかならない。そのことをもって『論語』は「宇宙第一」の書とされるのである。『論語』の至上性と「道」の卑近性とは、仁斎の思想革命的言語を逆説的な緊張関係をもって構成する二つの思想的契機である。



[1] 仁斎は宝永2年(1705)に亡くなるが、それに先立つ一、二年の時期に門人林景范が『論語古義』『孟子古義』『大学定本』『語孟字義』『童子問』などの稿本を筆写し、仁斎が補正した。それが仁斎生前の最終稿本(林本)である。仁斎の著書は死後に東涯らの校正を経て刊行される。『論語古義』が刊行されたのは正徳2年(1712)である。

        

「宣長問題」から「仁斎問題」へ        子安宣邦           

    

1「宣長問題」

 私はかつて「宣長問題」とは何かを論じたことがある。それは加藤周一が「ハイデガー問題」に擬して「宣長問題」をいったことへの批判としてであった[1]。加藤がいう「宣長問題」とは次のような「宣長における謎」を指している。「今さらいうまでえもなく、宣長の古代日本語研究が、その緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成も指摘したように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである。」

 加藤は宣長の「二面性」をいう。すなわち宣長の主著『古事記伝』に見るような「緻密な実証性」をもった合理的な注釈学者としての宣長と、『馭戎慨言(からおさめのうれたみごと)』といった露骨な書名をもった著書だけではなく、『直毘霊(なおびのみたま)』や『玉くしげ』などの宣長の国学的論説書に見る「皇国」の優越性を激しい排外主義的な言説とともに主張する非合理的なイデオローグ宣長との間に、加藤は解き難い「謎」としの宣長の「二面性」をいうのである。これを「宣長問題」というのである。

 『存在と時間』の深甚な存在論的哲学者が同時にナチス党員であったところに、解き難い「謎」としての「ハイデガー問題」を見る加藤は、それになぞらえて宣長の上のような「二面性」に解き難い「謎」を見て「宣長問題」をいうのである。だがこのように加藤にしたがって「宣長問題」を見てきた私は、宣長における「謎」も「問題」も近代主義者加藤による言説的な構成物だと思わざるをえない。宣長における「謎」も「問題」も加藤のものであって、宣長のものではない。宣長の『古事記伝』をただ緻密な実証主義的注釈学の成果とすることが、宣長に「二面性」を作り出し、その「二面性」が「謎」とされ、「宣長問題」とされるのである。

 だが「宣長問題」とは『古事記伝』の言語学的実証性を評価する加藤が宣長に見出す「謎」ではない。むしろ『古事記伝』が宣長によって書かれたそのこと自体が一つの大きな「問題」なのである。『古事記伝』が存在することは近代日本の国家的な存立に決定的ともいえる意味をもっている。『古事記伝』の宣長における存立自体が「問題」だというのは、そういう意味においてである。宣長における『古事記伝』の成立とは、『古事記』が宣長によって絶対的に選択されたことを意味している。『古事記』は、『日本書紀』や『旧事紀』『風土記』などの古記録の中から相対的にましなテキストとして選ばれたのではない。『古事記』は「日本の神」とともに、「日本という国」が、そして「日本語」が、それを話す「日本人」が唯一読み出される神話テキストとして選択されたのである。宣長が『古事記』を絶対的に選択したということは、彼にとって「日本(やまと)」がすでに自己同一的な原基(ファンダメンタール)として絶対的であったことを意味している。一八世紀の徳川日本は「日本」が己れにとって絶対的であるような青年学者を伊勢国松坂に生み出したのである。この宣長によって『古事記』は「日本」を読み出しうる絶対的な神話テキストとして選択されたのだ。

 宣長における『古事記』のこの絶対的な選択から『古事記伝』は成立する。『古事記伝』とは『古事記』という漢字テキストからいかに「日本」が読み出しうるか、その注釈学的方法と徴証とを、思想方法論的マニフェスト『直毘霊』とともに示した四十四巻からなる大著である。この『古事記伝』の宣長における成立を「宣長問題」というならば、それは「日本」という民族的国家(ネーション・ステート)の成立にかかわる「問題」だということである。これを「宣長問題」というのは、「日本」の成立もまた宣長とともに読み直し、問い直しうる「問題」としてあるということである。

 「宣長問題」をこのようにいってくれば、「問題」という概念がすでに変容していることを明かにする。加藤のいう「宣長問題」とは、宣長という思想的言説主体に投げ入れられる〈疑い〉である。すなわち宣長という思想主体における同一性をめぐる〈疑い〉である。それに対して私がいう「宣長問題」とは、宣長に『古事記伝』が成立することが、近代日本という民族国家の原基的な成立にかかわるとしながら、これを宣長とともに問い直すべき問題として構成することを意味する。「問題」は「疑い」から「論点」あるいは「問題群」へと変容しているのである。この変容は「思想史」の方法論的転換をも意味している[2]。「思想史」の方法論的転換については私の書に譲って、すでに転換された思想史的言説としての本稿の先を進めよう。

 ところで私はここで「仁斎という問題」を課題として掲げながら、なぜ「宣長問題」から語り始めているのか。

 

2 「仁斎という問題」

 私が「仁斎という問題」を課題として掲げながら、ここで「宣長問題」から語り始めているのは、宣長における『古事記伝』の成立そのものが、「宣長問題」という大きな思想問題をわれわれに構成していくそのあり方を。私は仁斎における『論語古義』の成立に見ようとしたからである。ではなぜ私は端的に「仁斎問題」といわずに「仁斎という問題」といったいい方をしているのか。恐らくこのいい方には、私における「宣長問題」の既存性が留意されているのだろう。私は『古事記伝』と「宣長問題」にしたがって、仁斎における『論語』の絶対的な選択がわれわれに突きつけてくる問題を「仁斎の問題」として見ようとしているのである。私におけるこの試みの感覚があの課題の修辞をもたらしているのであろう。すなわち仁斎は『論語』を絶対的に選択した「仁斎という問題」として論ずべきだということである。

 だが時間系列的〈思想史〉の立場からすれば、ここでのべていることは転倒だといわれるだろう。この〈思想史〉の立場からすれば、『論語』を絶対的に選択した仁斎古学がまずあって、これを古学的先蹤とすることで『古事記』を絶対的に選択する宣長古学があるというべきではないか。たしかに私もまた仁斎・徂徠・宣長という近世古学の系譜をたえずいってきた。だが宣長における『古事記』の絶対的な選択の古学的先蹤として仁斎における『論語』の絶対的な選択があることを誰れかがいっただろうか。少なくとも私は『古事記』の絶対的な選択にかかわって「宣長問題」をいっても、『論語』の絶対的な選択にかかわって「仁斎問題」をいうことはなかった。

 宣長と『古事記伝』とを己れにおける内的体験として読んでいった小林秀雄は、仁斎が『論語古義』の各巻巻頭に記していった「最上至極宇宙第一」[3]という八文字に深い注意をはらっている。だが小林はこの八文字が仁斎における『論語』の絶対的な選択を意味するものとはとっていない[4]。宣長とその『古事記伝』とを内的な体験として読んでいった小林には、『古事記』が宣長によって絶対的に選択されたという事件性をもってこれを見るような外部的視点はない。その小林が「最上至極宇宙第一」の八文字に仁斎における『論語』の絶対的な選択という事件性を見ることのないのは蓋し当然といえよう。

 だが小林について外部的な視点の欠落をいいながら、仁斎を読む私の視点に外部性はほとんどなかった。「宣長問題」をいい、「事件としての徂徠学」をいいながら、私は「仁斎問題」をいうことはなく、「事件としての仁斎学」を書くこともしなかった。私は仁斎については内在的に読み続けていた。私のこの仁斎の読み方に転機をもたらしたのは『論語』を市民講座の主題として読むようになってからである。

 

3 『論語』を読むこと

 『論語』とは東アジア、すなわち中国文化圏における思想史を考えるものにとっての究極的なテキストだと私は考えていた。これを読むことが東アジアにおける思想史家の究極的な課題でもあると思っていた。だが古代中国の経書についての文献学的知識も方法ももたない私が『論語』を専門家以上に読むことができるとは思わなかった。それゆえ私はたとえば「伊藤仁斎が『論語』をどう読んだのか」という問題意識にしたがって、『論語』を読もうとしてきた。それが日本思想史家としての私の『論語』の読み方だと思っていた。私は『論語』の読み方を、日本思想史家としての読み方に自己限定していたのである。だがやがて後世のものが『論語』を読むことは、先人の読み方の痕跡を辿ることなくしてありうるのかという疑いをもつようになってきた。すなわち仁斎によって『論語』を読むというのは、日本思想史家だからそうするのではなくして、そもそも後世のものが『論語』を読むというのはそういうことではないかと思われてきたのである。すなわち古代中国に『論語』という一個的なテキストがあって、それを後世の一己的な文献学的読解者が解読するというのは文献学者がみずから作り出していった学術的神話ではないかのかと思われてきたのである。

 私が思想史家としての『論語』の読み方に自己限定したときに、自分の読み方の向こうに見ていたのは、中国古典学者による専門的な『論語』の注釈学的読解のあり方であった。彼らにとって先ず『論語』とは原典としてのオリジナリティーを備えてテキストであった。そして『論語』テキストの始原性に相応しい始原の注釈を探り求めながら、あるいは諸注に精通した読解者の卓越性において、専門的読解者は『論語』の最終的な読みを完成させていくのである。私はこの専門的権威の世界を外部からは踏み込みえない神聖な領域と見ながら、自分の『論語』の読みをあえて思想史的に自己限定していったのである。たとえば伊藤仁斎は朱子に対立しながら『論語』をどう読んだのか、さらに荻生徂徠は朱子とともに仁斎を批判しながら『論語』をどう読もうとしたのかと、思想史的視点からの『論語』理解の立場に自己限定していったのである。しかしそのような視点からの読みを重ねていくうちに、『論語』を読むことは、先人の読みの迹を辿ることなくして、あるいは辿り直すこと、すなわち読み直すことなくしてはないと考えるようになった。

 『論語』とは東アジアにおいて歴史的、空間的に最も多くの人びとによって読まれてきたテキストである。だから『論語』のテキストの上には二千年をこえる歴史における東アジアの人びとの読みと読み直し作業とが堆積しているということができる。『論語』のテキストとは二千年にわたる読みの痕跡だということができるのだ。その痕跡はテキストの上にあるだけではない。われわれの知的な遺伝子または言語として、われわれの読み方そのものの上にあるのである。それゆえわれわれは『論語』を読むときに、その痕跡を辿らずに読むということはありえない。あるいは無意識のうちにわれわれはこの痕跡によって、痕跡を辿りながら読んでいるのである。この痕跡の中でもっとも際だったものは朱子が刻したものである。朱子以降、彼の読みの迹を辿ることなくして『論語』を読むことはありえなかったのである。仁斎においても朱子の痕跡を辿り直すことで、はじめて彼の『論語』の古義学的読みがあるのである。『論語』のテキストが先人の読みの痕跡としてあり、その痕跡を辿り直すこととして『論語』の読みがあるとすれば、伊藤仁斎の読みを辿り直しながら『論語』を読もうとした私の読み方は、思想史的な読みへの自己限定などと自ら卑下する必要などのない、むしろ方法論的に正しい、自覚化された『論語』の読み方だとみなされてくるのである。

 仁斎がどう読んだのかという関心から『論語』を見ていた私が『論語』を主題とした市民講座を開設したとき、私がしていった方法論的反省とはこのようなものであった[5]。ところで私が『論語』を読むことをめぐってこのように考えてきたことは、私が『論語』の読み方の方法論的転換をしたことを意味している。『論語』というテキストとは二千年にわたる東アジアにおける論語解釈と受容の痕跡だというとき、私はもはや『論語』を聖なる原典としての一個性を具えたテキストとして見ていない。私は『論語』を後世の解釈的言説と分けることのできないものとして、いわば「論語問題」として見ようとしている。『論語』とは二千年にわたって東アジアに「論語問題」を作り続けている希有なテキストであるのだ。われわれはいま21世紀の「論語問題」に直面しているではないか。

 私は『論語』を「論語問題」として読むことを通じて仁斎の『論語』のとらえ方の特異性を知ったのである。『論語』の絶対的選択からなる『論語古義』という読み方の特異性を、その意味を私は「論語問題」として『論語』を読むことを通じて知ったのである。



[1] 加藤周一が「ハイデガー問題」との関連で「宣長問題」をいったのは朝日新聞夕刊(1988年3月22日)掲載「夕陽妄語」の「宣長・ハイデガー・ワルトハイム」と題された文章においてである。私はこれを批判して「「宣長問題」とは何か」を『現代思想』臨時増刊・総特集「ファシズム」(1989年4月)に書いた。私はこの論文を巻頭にして『「宣長問題」とは何か』を後に出版した(青土社、1995年11月)。

[2]  思想史の方法論的転換については『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990)を参照されたい。 

[3] この「最上至極宇宙第一」の八文字は仁斎生前の自筆稿本『論語古義』の各巻の巻頭には記されていたが、嗣子東涯らの手によって仁斎死語刊行された刊本『論語古義』(古義堂蔵版)では削られている。

[4] 小林はこういっている。「「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確かめてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確かめてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞こえるであろう。門生に言われるまでも無く、仁斎が見抜いていたのはその事だ。」(『本居宣長』上・十章、新潮文庫)。

[5] 『論語』を主題とした市民講座における講義は『思想史家が読む論語ー「学び」の復権』(岩波書店、2010)にまとめられ、出版された。私がここに書いた『論語』を読むことの方法論的反省は同書の序にのべたことを敷衍したものである。

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