■〈大正〉を読む・4                  子安宣邦

幸徳とアナーキズムー「直接行動論」とは何か

 

1 幸徳の「直接行動論」
 幸徳秋水は明治38年(1905)の春、週刊『平民新聞』の社説「小学教師に告ぐ」の筆禍事件で禁錮5ヵ月の刑を受け、巣鴨監獄に入獄した。7月に出獄した幸徳は、その年の11月に渡米する。山川均は後年、幸徳の出獄後の渡米とその後についてこういっている。

「この入獄中の思索から、議会主義の運動方針に疑問をもつようになった。そしてアメリカでの無政府主義者との接触や、おそらくはこのとき上げ潮に乗っていたI.W.W.(世界産業労働者)の戦闘的組合運動からも影響をうけたろう。三十九年にはサンジカリズムの傾向をもった無政府主義者として帰ってきた。そして四十一年には完全にクロポトキン流の無政府主義者であった。」[1]

 明治41年に幸徳はすでに「クロポトキン流の無政府主義者であった」という山川の言葉は、〈大逆事件〉の検察的筋書きの核心とされた〈爆裂弾謀議〉が進行した明治41年の幸徳を指していっているのだろうか。この山川の言い方は、日本社会主義の正統的な戦列から幸徳が41年にはすでにまったく外れてしまったことをいっているように聞こえる。

 明治39年(1906)6月28日に神田錦輝館で幸徳の帰朝歓迎演説会が開催された。幸徳はここで従来の日本の社会主義運動に一線を画するような演説を行った。幸徳の演説「世界革命運動の潮流」は、ドイツ社会民主党が指導する第二インターの議会主義的路線を批判し、労働者の団結による反議会主義的な直接行動の主張に世界革命運動の新たな潮流を見るものであった。荒畑寒村はこの演説を評して、「幸徳氏一代の名演説というべきもので、聴衆に深甚な感銘を与えたばかりでなく、後に日本の社会主義運動に一局面を開いたいわゆる直接行動論の骨格をなすものであった」[2]といっている。
 幸徳はこの演説後、翌40年2月に「かの普通選挙や議会政策では真個の社会的革命をなしとげることはとうてい出来ぬ。社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ジレクト・アクション)によるのほかはない」と、反議会主義的な無政府主義的「直接行動論」への「思想の変化」を『平民新聞』に公表する[3]。そして同じ40年2月17日に日本社会党の第2回大会が開かれ、議会主義的運動路線の変更を求める会則修正提案が幸徳によってなされた。幸徳はまさしく「クロポトキン流の無政府主義者」として、反議会主義的な労働者の団結と直接行動による社会主義革命への道を主張するのである。

「従来世界の社会党が議会政策をもって立ちたることは事実である。日本の社会党も同じく普通選挙をもって唯一の旗幟としていたのです。されど今日議会政策の無能なることは歴史がこれを教え、時代の経過がこれを証明したる以上は、この手段を変更することは公明正大のことなりと信ずるものであります。」
「社会主義は労働者の解放を意味するものである。われわれは直ちにこれに向って進まなければならぬ。普通選挙や政社法改正のごときは、われわれがやらなくても紳士閥がこれをやっている。何も社会党がそれをやることはない。いわんや普通選挙がかえって邪魔になる場合がある。すなわち十分に労働者の自覚ができた場合に、代議士の存在はかえって革命の気焔を弱める。」
「今日の資本家制度は毎年非常なる犠牲を出している。今日の資本家制度が機械で腕を折ったり脚をもぎ取ったりする数は、戦争により生ずる犠牲より多い。・・・現に日露戦争は四十万の犠牲を出した。単に資本家を利益するために生じたこの大なる犠牲ですら忍び得るのに、直接行動における少数の犠牲は何でもない。(拍手)犠牲なくして進歩はない。古よりも迷信を打破するためには多くの科学者も犠牲となった。多くの志士仁人も進歩のために犠牲となった。犠牲を恐るるがために議会政策をとる人は、よろしく社会党を解散して改良主義か国家社会党に入るべしである。」
「私は今日ただちにストライキをやれとは言わぬ。しかしながら労働者は団結と訓練とによりて十分に力を養わなければならぬ。今日社会党が議会政策や議員の力を信ずるか、あるいは労働者自個の力を信ずるかというこの分岐点は、将来社会党が紳士閥の踏台となるか否かの運命を決する分岐点となることを信ずる。」[4]


 ここに引いた「直接行動論」的言説は、社会党大会決議に対する幸徳による修正提案の理由説明演説のものである。この大会決議案(原案)はその第1項に「わが党は労働者の階級的自覚を喚起し、その団結訓練につとむ」とあった。幸徳のこの第1項の「労働者の階級的自覚を喚起し」の前に「議会政策の無能を認め」の12字を加えることを主張した。この幸徳の修正案に対して、田添鉄二は第2項に「わが党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」を加えることを主張した。大会は「議会政策」について真っ向から対立する二つの修正案をめぐる討議に3時間を費やして採決した。その結果、田添案は2票、幸徳案は22票、評議員会案が28票で原案が可決された。堺利彦は『平民新聞』紙上でこの採決の結果について、「原案二十八票、幸徳案二十二票でほとんど大差はなかった.幸徳君の演説によれば、原案が少しく不明瞭であった故に修正案を出したとはいえ、大会の決議は実質上幸徳決議を採用したようなものである」[5]といっている。

 

2 「直接行動論」の抹殺

 「何ら大衆と接触がなく大衆的運動の観念すらもなかった者にとっては、革命の手段として直接行動を採用することは議会政策を弊履の如くすてしむると全く同様に、極めて容易簡単なことであった。恐らくは多くの青年の中には、革命を遂行するためではなくて自らがよ革命的であることに満足するために、威勢のよい直接行動論に左担したものが少なくないだろう。(少なくとも私はそうであった。もし私が革命をただ機械的に理解していないで、真実にマルクス主義的に理解していたならば、当時私のとった態度には大きな相違があったであろうと思う。)議会政策対直接行動の問題は戦術上の問題であるが、大衆運動のないところには、戦術上の問題はなかった。当時われわれは実践とは全然離れて、革命の理論について闘争をおこなった。」[6]

 これは「議会政策」か「直接行動」かを争った明治40年の社会党大会についての山川均による後年の回想的批評である。私はこれを『寒村自伝』から引いているが、幸徳の「直接行動論」の観念性についてことに厳しい山川の批評は、これを引く寒村ばかりでなく当時の社会主義運動に関わった人びとに共有されていた批判であるだろう。これらの回想の上にさらに日本社会主義史の記述を見るならば、日本近代における社会主義運動の分裂とさらに崩壊に導くような線が幸徳の「直接行動論」から真っ直ぐに引かれる記述に出会うことになるだろう。大河内一男は「日本の「社会主義」」でこう書いている。

「渡米前の幸徳とは「我ながらほとんど別人の感がある」と後に彼自ら述懐しているほど彼は変化していた。合法主義と議会政治の上に立つ「社会主義」への不信と、サンジカリズム的な「直接行動」への傾斜がそれである。・・・『社会主義神髄』の調子の高い名文の底にひそんでいた合法主義と議会主義とは、数年後には、跡形もなく消え去っている。この変化は、後の「赤旗事件」から「大逆事件」に連なる線であり、また日露戦争後において幸徳一派と片山一派とに、日本の社会主義を硬軟両派に分裂せしめた線でもあり、また広く日本の労働運動にとっての宿命である「分裂」とラディカリズムの優位と、運動そのものの崩壊の悲劇に連なる線である。」[7]

 幸徳の「直接行動論」とアナーキズムへの思想変化についての後年の論者の否定的評価をここまで追ってくると、アナーキズムへの転身後の幸徳を抹殺する墨の濃さに私は驚く。大河内が幸徳の無政府主義的「直接行動論」から〈大逆事件〉にいたる線を真っ直ぐに引いているように、思想的転身後の幸徳の社会主義史的抹殺は叛徒幸徳の〈大逆罪〉的抹殺と重なりあう。このことを私は大河内の社会主義史的な記述によってはじめて知ったのではない。

 私は〈大逆事件〉の読み直しを昨秋から始めた。私はまず幸徳の社会主義的同志というべき荒畑寒村の『寒村自伝』によって〈大逆事件〉とその前後を知りたいと思った。だがこれは私の見当違いであった。私はむしろ〈大逆事件〉をめぐる寒村の記述に首をひねらざるをえなかった。寒村もまた幸徳の帰朝後の思想的転身から〈大逆事件〉に一つの線を引いているのである。

「幸徳氏の新しい主張は、社会党大会の熱烈な討論を喚起したのみではない。ひいては社会党の禁止にみちびいたのもこのためである。いわゆる硬派の分派があらわれ、激しい分派争いが起るに至ったのもこのためである。幸徳氏をはじめ硬派の一部が無政府主義に改宗し、その一派が翌四十一年の夏いわゆる赤旗事件を起したのも、そしてまた、赤旗事件が少なからざる刺戟となって、ついに四十三年の夏、大逆事件の悲劇を現出させるに至ったのも、ここに端を発するといって過言ではないだろう。」

 この寒村の記述をあらためて読むと、これが思想転身後の幸徳を抹殺する大河内の社会主義史的記述の原型ではないかと思われてくる。こう見てくると私が冒頭に引いた山川の幸徳について、「そして四十一年には完全にクロポトキン流の無政府主義者であった」と突き放すようにいう言葉がもっている否定的な響きが理解される。

 幸徳の「直接行動論」的社会主義は国家権力によって幸徳の肉体とともに抹殺された。同時にそれは歴史的に〈正統性〉を主張する日本の社会主義者によっても思想的に抹殺されたのである。〈大逆事件〉が日本近代にもつ悲劇性は何重にも深い。

 

3 〈パンの要求〉の直接性

 明治39年の帰朝後の幸徳における思想的転身から43年の〈大逆事件〉へと真っ直ぐに線を引くものによって抹殺されたものは、幸徳の「直接行動論」に集約的に表現されていった「クロポトキン流の無政府主義思想」であった。抹殺されたというのは、社会主義者幸徳の思想経歴からそれが消されたということではない。むしろ近代日本の社会主義的運動史、あるいは思想史から「直接行動論」という無政府主義的な運動的・思想的契機が抹殺されたこと、失われたことをいうのである。われわれがいま〈大逆事件〉を読み直すことの意味は、日本の近代社会が〈大衆社会〉として成立しようとしているその時期に、国家によって先手を打つようにしてなされた社会主義思想の扼殺事件、すなわち〈大逆事件〉によって殺されたものが何かを、そして社会主義者自身が己れの陣営から消し去ってしまったものは何かを、その喪失したものの大きさとともにあらためて見出すことにある。

 私はすでに明治40年の社会党大会における幸徳の演説から「直接行動」を説く多くの言葉を引いている。〈大逆事件〉で拘留中の幸徳が弁護士に送った「陳情書」で、「直接行動」を暴力革命とか暴力的テロ行動と同義とするのは誤解だとして、「議会にお頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです」といっている。このように説かれる「直接行動論」は、労働者の〈パンの要求〉を実現するための戦術、議会と政府の法制的施策を求めるか、労働者自身の力をもって勝ち取るかの戦術的選択の問題のように見える。恐らく39年の社会党大会でも「議会政策」か「直接行動」かの当面する労働運動における戦術上の可否が問われたのであろう。この戦術上の問題としても、「直接行動論」は時期尚早の観念的ラジカリズムとして後年の山川や荒畑は否定しているのである。

 だが「直接行動論」とは民衆・労働者の〈パンの要求〉という〈直接性〉に立った社会主義的運動を意味するとすれば、「直接行動」とはこの社会主義運動の戦略性を規定する思想だということになる。フランス革命もパリ・コンミューンも民衆の〈パンの要求〉の直接性に立った蜂起であり、占拠であったであろう。だが蜂起を扇動し、指導する人間の作る権力機構・組織はこの〈パンの要求〉を占取し、間接化し、そして裏切ってしまうのである。クロポトキンはいっている。

「仏国に現出せし平民の三大運動は、多くの点に於いて互いに相異なっているのだが、而も彼等は一個共通の現象を有している。・・・多少誠実な人々が寄合って一個の政府が出来上がった、而して団結統一を試みたー一七九三年には共和国(を、一八四八年には労働者
を、一八七一年には自由コンミュンを。然るに此の政府も、ジャコバン党人の思想に浸染(かぶ)れて万事を差し措き専ら政治問題のみに打ち掛っていた。即ち政治機関の改造、行政の刷新、政教の分離、公民の自由権というが如きである。成程当時労働者の倶楽部が新政府の諸員を監視し、其の意見をもて督励していたのは事実である。而も此等の倶楽部に於いてすらも、其の首領が中等階級に属せると、労働階級の出たるとを問わずして、其の勢力を占むるの思想は、常に中等階級のそれであった。彼等は長々しく種々の政治問題を討議した。而も麺麭(パン)の問題を討議するのを忘れていた。」(幸徳訳『麺麭の略取』[8]

 これはクロポトキンの『麺麭の略取』の第5章「食物」の冒頭の一節である。この『麺麭の略取』の翻訳と出版[9]とを病苦を押して急いだ幸徳が「直接行動」をただ「議会政策」への対抗的戦術としてのみいっていたとは考えられない。彼は労働者民衆の〈パンの要求〉の直接性を運動は失うべきではないことを訴えていたのである。その言語は社会主義の戦略的な、思想的言語であった。だからこそその時、山川も荒畑もそれに興奮し、喝采をこの演説者に送ったのである。

 だが〈大逆事件〉はこの「直接行動論」を〈大逆罪〉的直接行動として、その主張者とともに抹殺したのである。国家が人とその思想を殺した〈大逆事件〉の恐しさは、この思想の抹殺行為を社会主義の仲間内でも行わせてしまうところにある。幸徳の「直接行動論」から〈大逆事件〉へと真っ直ぐに線を引くことによって、日本の社会主義は〈パンの要求〉の直接性という最も大事な思想的生命的基盤を失ったのである。

 

4.アナルコ・デモクラット

 松田道雄が「日本のアナーキズム」について非常にすぐれた解説を書いている[10]。日本アナーキズムは大正を目前にした時期に悲劇的な〈事件〉をともなって慌ただしく成立し、その大正という時代に、運動としての成長を許さないように殺されてしまった。そして昭和に日本アナーキズムは生き残った継承者や文学者たちによって僅かにその命脈を保ってきたのである。松田はその「日本のアナーキズム」を解説して、われわれの近代日本思想史に欠けている多くの大事を教えてくれた。私の「幸徳とアナーキズム」をめぐるこの論考も松田の「解説」なしには成立しない。その「解説」の最後で松田は、「日本アナーキズムの伝統を意識しない心情としてのアナーキズムは、戦後、デモクラシー思想の普及、生活の一応の安定とともに、地殻にしみとおる水のように日本人のなかにひろがった」といい、そして60年の「安保闘争」にアナーキズムの運動原理の市民運動的再生を見てこういっている。

「政府の権力にも反対、労働者の政治組織にも反対、ただ市民的自由のみをまもって、指導者のない平等の闘争組織を、ことにのぞんで組んでいこうということになると、これこそ「安保闘争」の組織原理ではなかったか。」

 この松田の言葉は,反権威主義、反組織主義的な、ただ市民的自由に立った、市民的要求に直接する運動の実行者であった小田実を私に想起させる。そしてこの小田の思想をアナーキズムとの思想的連関においてとらえ直すことの重要性を私に教えた。

 小田は議会主義的なデモクラシーを〈民の要求〉の直接性に立った「でもくらてぃあ」にすべきことをいっている。われわれの民主主義的原理の小田による読み直しは、1995年1月17日の阪神淡路大震災の被災とそこからの市民たちの再起の運動体験を通じていっそうラジカルになされていった。「でもくらてぃあ」とは何か。

 古代アテネの「市民国家」における「デモス」とは「住民自治区」とその「住民」を意味するとともに、毎日「アゴラ」に来てはワイワイガヤガヤと意見を交わす「民」を意味していたと小田はいう。小田のまさしく「ワイワイガヤガヤ」的な言葉によってその意味を聞こう。「デモス」がある地区の「住民」であるとともに一般的な「民」であるとは、こういうことだと小田はいうのである。

「それこそ毎日「アゴラ」へ来てワイワイガヤガヤやっていた、あるいはウロウロウヨウヨしていた。そして、おたがいの素性もよく判らぬままに「アゴラ」の近くのプニュクスの丘なる大衆集会の場に駆け上って、宣戦布告して戦争をするや否やの自らの死活にかかわる問題の決定にまで参加していた「民」としての「デモス」でもあったことです。」[11]

 「デモス」が「住民自治区」あるいは「住民」と「民」との両義をもちながら、しかし「民」にこそ最高の決定権を置いたことこそ、「市民国家」が「住民国家」ではなく、まさしく「市民の国家」でありえた最大の理由だと小田はいうのである。小田がここで「住民国家」を「町内会国家」といいかえているのが面白い。わが日本で町内会という一番下の住民組織から要求を町村(議会)へ、県(議会)へ、そして国(国会・代議士)へと汲み上げ、積み上げていく陳情システムが、あたかも民主主義的な〈下意上達〉の手続きであるかのように思われている。しかしこの町内会的陳情はつねに政府・官僚による〈上意下達〉の政策的決定をその結果として見るしかないのである。こうした〈下意上達〉が〈上意下達〉でしかない〈民主的手続き的国家〉を小田は「住民国家」といい「町内会国家」ともいうのである。「市民国家」であるためには、「民」が「住民」であることをこえて、国家の最高の決定をなしうる力(クラトス)をもたなければならない。その力をもった「民」が「市民」であり、その「市民」によって「市民国家」ははじめて成立すると小田はいうのである。「デモクラティア」とはこの「市民国家」を形成する〈民の力〉からなる政治原理をいうのである。小田はこの「デモクラティア」からわれわれの現代社会のあるべき政治原理「でもくらてぃあ」を導くに当たって、これを再定義している。
「私たち人間にとってもっとも必要なことは、政治をできるかぎり人間的なものにすることです。べつの言い方で言えば、政治を「人間の基本(ヒューマン・ファンダメンタルズ)」にできるかぎり即したものにする。この「人間の基本」にもっとも即した政治原理、そして、実際のありよう、かたちが、私は「でもくらてぃあ」だと考えています。」

 ではなぜ「デモクラティア」ではなく平仮名の「でもくらてぃあ」なのか。小田は、「私の考える「でもくらてぃあ」はそうした古代アテナイの、あるいは、古代アテナイ以来の「デモクラティア」、差別、排他、抑圧、支配、侵略の「伝統」と手を切った、そしてまた、軍事、戦争、暴力、それら一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否することに基本を定めた「でもくらてぃあ」です。その根本的ちがいを確認しておく意味で「デモクラティア」と片仮名で書くのではなく平仮名で「でもくらてぃあ」と書くことにしたのです」という。

 私はこの小田の「でもくらてぃあ」という市民運動的政治原理に幸徳らのアナーキズム的「直接行動論」の最善の形での再生を見る。私は小田をアナーキズムの21世紀的再生者として「アナルコ・デモクラット」と呼びたいと思っている。小田はこの呼び方に不満だろうか。だが小田の「でもくらてぃあ」をいまアナーキズムとの思想連関でとらえていくことは、東アジアにおける民主的直接行動としての市民運動を21世紀現代における世界史的な意味において見ることを可能にする。このことについてはまた別の機会にのべたい。



[1] 山川均「『麺麭の略取』とそのころの思い出」、幸徳訳『麺麭の略取』(岩波文庫、1960年第1刷)附載。ここで

[2] 荒畑寒村『寒村自伝』上、3「日刊『平民新聞』」、筑摩書房、1965.

[3] 幸徳「余が思想の変化ー普通選挙について」(『平民新聞』第16号、1907年2月5日)。松田道雄編・解説『アナーキズム』(現代日本思想大系16,筑摩書房)所収。

[4] 「幸徳秋水氏の演説」(『平民新聞』第28号、1907年2月19日)。松田道雄編・解説『アナーキズム』(現代日本思想大系16,筑摩書房)所収。

[5] 堺枯川「社会党大会の決議」『平民新聞』28号。

[6] 山川均のこの言葉を私は『寒村自伝・上』から引いている。

[7] 大河内一男「日本の「社会主義」」、大河内編・解説『社会主義』(現代日本思想大系15、筑摩書房、1963)。

[8] クロポトキン著・幸徳秋水訳『麺麭の略取』(岩波文庫、1960.)

[9] 幸徳訳『麺麭の略取』は明治41年11月ごろ実質上秘密出版として数百部程度自費で刊行され、秘密発送を終えた後、42年1月30日、平民社訳として発行届を内務省に提出したが、即日、発禁と差し押さえの処分を受ける。発行署名人坂本清馬は30円の罰金刑に処せられた(神崎「大逆事件年表」による)。

[10] 松田道雄「日本のアナーキズム」、松田編・解説『アナーキズム』(現代日本思想大系16,筑摩書房、1963)。

[11] 小田実『でもくらていあ』(筑摩書房、1996)「少し長いあとがき」から。