■津田・国民思想論・6               子安宣邦

武士の時代と「応仁の乱」

 

「しかしこれは武士の地位が高まり、其の力が加わるに伴って生ずる自然の現象であるのみならず、文化が貴族に占有せられていた昔のような有様を一変させて、国民文化の形成に進んでゆく大切な階段である。」

       津田左右吉「武士文学の中期・文化の大勢」

 

1 『武士文学の時代』の三期

 津田の『我が国民思想の研究』の第二巻『武士文学の時代』はその時代を三期に分けて記述している。すなわち第一篇「武士文学の前期」と第二篇「武士文学の中期」そして第三篇「武士文学の後期」である。「前期」とされる時代は「承久の頃から興国正平頃までの約百五十年間」、すなわち北条執権時代から南北朝・足利幕府の成立期にかけての時代である。「中期」は「北朝の応安時代から文明頃までの百三、四十年間」、すなわち足利幕府の最盛期から応仁の乱にいたる時代である。「後期」は「明応頃から寛永頃までの約百五十年間」、すなわち足利末期、それぞれの領国による大名たちの覇権追求の戦争の時代・戦国時代を経て天下一統的武家政権が成立し、やがて徳川政権による幕藩体制という新たな国家体制の確立を見るにいたる時代である。津田の『武士文学の時代』はこの三期の時代をもって構成される。

 だがこの三期をもって『武士文学の時代』をいっても、それは直ちに「武士の文学」あるいは「武士を書き手(語り手、詠み手)とした文学」の成立時代をいうのではない。「前期」についていえば、この時代は承久の乱の敗北によって京都の公家権力の衰退が決定づけられていった時代である。だがそのことは文化の中心としての位置を京都が失ったことを意味するわけではない。また京都の公家・僧侶が文化の中心的担い手であるあり方を失ったわけでもない。この前期を代表する文学作品は、いうまでもなく『平家物語』である。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」というだれも知る『平家物語』の冒頭の一節は、この物語が〈滅びの文学〉であることを教えている。京に同化した平家に代わる坂東武者の登場を、この物語は平家の滅亡という〈滅び〉を主調音として語り出していくのである。だが何が滅びるのか。滅びるものはただ平家ではない。平家に負わされた〈王朝的なもの〉である。津田が武士文学の前期という時代を代表する『平家物語』とは〈王朝的なもの〉の滅びを語り出していくものであることは、この時代の文学を考える上で重要である。歴史の中に、歴史を動かす形で登場してくる武士たちはみずからを語る言語も文章ももっているわけではない。興隆する新たな階級とともに衰えいく既存の支配的な王朝的世界という変動を書き出し、語り出しうるものは既存の王朝的世界とその周辺にしかいない。作者不明の『平家物語』の最初の書き出し手、語り出し手として想定されるのは王朝的文化世界に属しながら、支配権力的王朝世界からはずれた僧であろう。津田もまた戦記ものの作者を「僧徒と考えるより外に仕方がない」といっている。やがて琵琶法師によって平曲として京から周縁に向かって語り出されていくことを考えれば、この物語の作者を「僧徒」とする津田の見方を私は支持する。『平家物語』という作品が新しい時代を表現するものではない。新しさは《平家物語》という語りが王朝的中心の京からその周縁へ、外部へと語り出されていったことにある。その過程でこの物語は津田のいう「国民詩」ともなり「国民文学」ともなったのである。『平家物語』というのはこの語りの一つの集成体であって、原『平家物語』ではない。

 津田のいう『武士文学の時代』の「前期」の特色を考えるために『平家物語』をめぐってやや多くの言葉を費やしてきた。『平家物語』を私は〈滅びの文学〉といったが、この物語は武士を興隆する時代の体現者として描くというよりは、むしろ滅び行く時代の実現者として、あるいは滅びそのものの体現者として描いている。この物語の英雄とは滅びの英雄、悲劇的英雄である。源義経とはこの〈滅びの文学〉の中で悲劇的英雄となるのである。

 

 

2 「中期」という時代

 津田の『武士文学の時代』で「中期」とされるは時代とは「北朝の応安時代から文明頃までの百三、四十年間」とみずから規定している。それは足利幕府の最盛期から応仁の乱にいたる時代、南北朝の内乱を経て室町幕府による支配体制が確立した時期から応仁の乱を経て、やがて戦国時代に入ろうとする時期までである。政治的体制史としていえば守護在京制の確立からその解体にいたる過程である。守護在京制について呉座勇一は『応仁の乱』[1]でこう説明している。呉座の著書『応仁の乱』については本論の鍵をなす参考文献としてすぐにとりあげる。

「成立当初の室町幕府は諸将の反乱に悩まされた。南北朝の内乱が落ち着いてくると、幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じ、原則的に在京を義務づけた。彼らの動きを監視・統制しようとしたのである。その一方で、複数国の守護を兼ねる有力諸将には「大名(たいめい)」として幕府の意思決定に参加することを認めた。これを守護在京制という。」

 この在京の守護大名たちは応仁の乱を経てそれぞれ京都を離れ、自分の領国に戻り、やがて覇権をかけて戦い合う戦国大名になっていく。ところで足利幕府は義満の時代に最盛期、あるいは権力的に最強の時期を迎える。その時義満は天皇の朝廷的権力に皮一枚残してその殆どを手中にしてしまう。天皇に皮一枚残されたものとは天下支配の正統的権威というべきものである。それは体制的な敵を「朝敵」として明示し、その追討に体制的正当性を与える「綸旨」として具現化される。この皮一枚残された天皇の正統的権威という権力が応仁の乱や戦国から天下一統にいたる内乱において、そして幕末から明治国家成立にいたる内乱において重要な政治的意味をもつことになるのである[2]

 このような室町幕府という武家権力の支配体制の確立のあり方を見ると、武家権力が権門体制(公家・寺社・武家からなる朝廷的支配体制)に代わる武家的支配体制を確立したというわけではなく、権門体制内における将軍(武家)的ヘゲモニーの確立というべきものだとみなされる。室町幕府という武家権力がその内部から侵食していった権門体制と称される政治体制は応仁の乱という体制内の大乱を経てやっと解体されていくのである。

 ところで室町幕府による守護在京制という政治体制は大量の武士たちを京都に滞在させることになる。応仁の乱(1467)以前の時期における京都の人口は10万人程度であったが、そのうち3,4万人が武家関係の人々であったと呉座はいっている。これは驚くべき数である。この数の人々が15世紀京都における生活と文化の体験者であり、その体験の地方への伝達者でもあったのである。公家と交渉をもちうる武家たちは京都の文化の積極的な享受者になっていった。公家たちと連歌をともにする武家もまた生まれてきた。彼らは成り上がり者と蔑まれながらも確実に京の文化の支え手(スポンサー)になり、新たな創り手にもなっていったのである。津田が武士文学の「中期」とはこういう時代をいうのである。

「武士自身の作り出した彼等特有の趣味があり文化があって、それを発達させたのでは無く、貴族文化にせよ、其の他のものにせよ、本来彼等自身の生活と関係の無かったものを、富と権力とによって急に外部から攫み取ろうとしたのである。だから目に見えるものを悉く手には入れるが、ただそれを雑然と並べて置くのみである。成り上がりものの態度だといったのは是がためであるが、しかしこれは武士の地位が高まり、其の力が加わるに伴って生ずる自然の現象であるのみならず、文化が貴族に占有せられていた昔のような有様を一変させて、国民文化の形成に進んでゆく大切な階段である。」(第二篇 武士文学の中期・第一章 文化の大勢)

 これは鎌倉幕府から室町幕府へと政権的支配を拡充させていった武士というものがもつ日本文化史上の意味をめぐる重要な発言である。津田は武士を武士的文化の形成者としては見ていない。津田の言葉をもっていい直せば、彼は武士を「文化が貴族に占有せられていた昔のような有様を一変させて、国民文化の形成に進んでゆく大切な階段」をなすような存在としてとらえているのである。文化の体制的変容を媒介する大切な転轍体として武士をとらえているのだ。

 ところでいま武家によって変容されつつあるのは京都の公家文化である。公家文化は室町の武家時代にあって権門体制文化として持続しえているのである。だがこの公家文化の体制的基盤である権門体制そのものを揺るがし、壊体に導くような事態が畿内というこの体制の足下から始まっているのである。やがて応仁の乱にいたる内乱である。

「応仁文明の大乱のために京は一度び殆ど荒廃に帰し、昔からの寺院宮殿も大部分焼けてしまい、公家貴族は殆ど所領を失って京に居ることすら出来なくなったので、京の文化はここで最後の大打撃を受けたのである。」津田はこう書いて、「公家の権威の失墜と共に、其の文化には武士的もしくは平民的色彩が愈々濃くなって来るのである」と次の時代へと眼差しを向けている。だが私はむしろここで立ち止まりたい。私はさきに武士による「文化の体制的変容」といったが、応仁の乱がもたらすものは既存の体制の終焉であり、「文化の体制的転換」ではないのか。もしこれが転換であるならば、私はただちに津田にしたがって「後期」に移ることはできない。ここで立ち止まって15世紀後期日本の大乱を見てみるしかない。このことを私に教えたのは呉座勇一の『応仁の乱』であり、彼が引く内藤湖南の「応仁の乱」という文章である。

 

 

3 「応仁の乱」

 「どうしてあの本が売れるのか」という人びとの疑問とともに呉座の『応仁の乱』という新書の存在を知った。この書の噂話の中で私は、「応仁の乱について今書くことに意味があるとすれば、近世日本の成立がもつ変革の意味を明かにすることにおいてだ」といった。「応仁の乱」はある既観感をもって私の中にすでにあったからである。私は津田の『我が国民思想の研究』を読み直しながら、津田はもう一つの近代日本の「国民国家」を考えていたのではないか、明治維新をこれしかない近代的変革として津田は考えてはいなかったのではないかと思うようになった。このことは私自身の日本近代史への見方を刺激した。それは16世紀後期から17世紀初めにかけての近世社会の成立を大きな体制的変革としてとらえるような見方を促した。そう見ることによって明治維新という変革を相対化し、日本近代の問題性をあきらかにしうるのではないかと思うようになった。こうした思考過程を経て「応仁の乱」はすでに問題として私の中に構成されていたのである。

 中公新書『応仁の乱』を直接手にして読み始めたのはごく最近のことである。私が購入した書の奥付には2017年3月5日13版とある。初版は16年10月25日だから、僅か4ヶ月で13刷を重ねたことになる。これは信じられない数字である。この謎を解く答えを本書自体がもっているだろうか。もっているとは思われない。ここにあるのは15世紀日本の畿内を中心とした争乱、やがて応仁の大乱にいたる過程なのだ。興福寺別当・大乗院門跡経覚(きょうがく)の日記『経覚私要抄』と同じく大乗院門跡であった尋尊(じんそん)の日記を納める『大乗院雑事記(ぞうじき)』の記録を存分に使いながらなされる記述は、室町の半世紀をこえる争乱のドキュメンタリーである。

「応永十一年(一四〇四)七月、一乗院方国民で長川党の箸尾為妙が筒井順覚を攻撃した。幕府は両者に停戦を命じるにあたって興福寺別当の大乗院孝円に協力を要請したが、孝円は「一乗院の問題なので」と難色を示した。」

ここから始まるほぼ一世紀にわたる争乱のドキュメンタリー風な記述を読むべき法を私は知らない。まさにドキュメンタリーを見るようにして、終わりに向かってひたすら頁を繰っていっただけである。恐らくこの書の著者もまたうち続き、錯綜する争乱を脈絡付け、時代的な意味づけを与えるなどということは一切していない。恐らく著者は争乱の時代というべき15世紀後期日本の争乱の総体を具に、これでもか、これでもかというように読者の眼前に展開させてみせたのである。

 たまたまこれを書きながら見た朝日新聞(4月6日)には「続々重版31万部」として『応仁の乱』の広告が載っている、そのコピーにこういっている。「方針に一貫性を欠く将軍(トップ)と、言うことを聞かない諸大名(部下たち)による収拾不能の大抗争ーこれが英雄なき時代の「リアル」だ!」これはさすがに31万部を刷った出版社の作るコピーである。これを見れば作者も、読者も「オレが書き、オレが読んだのはこういうことだったのか」と思うに違いない。だがこれはよくできた後知恵的なコピーだ。人はただここにすさまじい争乱の連続を見るだけだ。そしてこのすさまじい争乱の連続は必ずや体制的な転換をもとらすにちがいないと思わせるのである。まさしくこの書が序文に引く内藤湖南の「応仁の乱」をめぐる発言が再考されねばならないことを人は知るのである。

「応仁の乱というものは全く日本を新しくしてしまったのであります。近頃改造という言葉が流行りますが、応仁の乱ほど大きな改造はありませぬ。」[3]

 呉座勇一の『応仁の乱』という書のメリットは湖南の「応仁の乱」論を21世紀のわれわれの問題として甦らせたことにあるといってしまっては著者に酷であるかもしれない。呉座の『応仁の乱』がなければ湖南の論を読み直すことなどしなかったかもしれない。湖南に移る前に呉座が『応仁の乱』をどう終えているかを見ておきたい。この書の終章「応仁の乱が残したもの」は、私にとってはこの書のもっとも重要な章である。呉座は守護在京制の解体として乱後をとらえている。「特筆されるのは、乱後ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになったことである。これは、大名による分国支配を保証するものが幕府による守護補任ではなく、大名の実力そのものになったからである。」守護在京制の解体とは、ただ守護在国制に転換したことを意味するのではない。守護はいまやその実力によって領国支配を成立させる大名に変身していったのである。守護在国制への転換とは守護大名の時代から戦国大名の時代への転換である。呉座はこの転換をこう書いている。

「室町幕府は将軍をリーダーとして推戴した諸大名の一揆である、という評価がある。嘉吉の変後の政治状況は諸大名の一揆を二分し、二大陣営の対立が応仁の乱を生んだ。だが皮肉なことに、応仁の乱の原因であり、また主体でもある二つの大名集団は、終戦と共にいずれも解体した。そして、従来の幕府政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである。」

 私はこの京都から地方への政治体制の転換をいう言葉から一つの体制の終焉を見る。応仁・文明の大乱とは体制の転換というよりは、京都中心的な権門体制という政治的であり、同時に文化的でもある既存日本の体制の終わりをもたらすものであったのではないか。呉座は15世紀の中期以降、地方都市が整備され、「小京都」と呼ばれるような都市が生まれることをいいながら、「地方における「小京都」の林立と京都の荒廃は、表裏一体の事態として進行したのである」といっている。応仁の乱とは京都的体制というべき既存日本の権門体制の終焉をもたらす大乱であった。

 

 

4 内藤湖南と「応仁の乱」

「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。」

 これは呉座の著書によって初めて知った湖南の「応仁の乱に就て」という文章中の一節である。非常に衝撃的な発言であるけれども、私は湖南にこのような発言があることを知らなかった。私は大阪の懐徳堂と京大シナ学との関係から湖南を比較的によく知るものだが、彼の1921年の講演記録「応仁の乱に就て」を見ることを私はしなかった。この湖南の言葉が私の周辺で話題になるということもなかった。それは「応仁の乱」自体が関心を向けねばならないような問題ではなかったからである。だが一度「応仁の乱」が問題として構成されると、さまざまな著者や発言が必然的であるかのように関連性をもってあらわれてくる。

 湖南はここで大変なことをいっている。応仁の乱は日本の歴史を一変させるような大乱であって、この乱以後の歴史こそが「我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史」であるといっているのである。われわれの近代に直接するような歴史は応仁の乱を経由して始まるというのである。この湖南の発言は私がいま津田をめぐって考えていることに直接かかわるような大きな問題を内包している。湖南は日本の歴史を大きく一変させた大事件として応仁の大乱をとらえている。そしてこの大乱を経由することで転換された歴史こそが近代のわれわれに直接するものだといっている。とすれば彼は「明治維新」よりも「応仁の乱」にこそ近代のわれわれにとって重要な歴史的変革としての意味を見ていることになる。湖南は日本の近代への歴史的変化は応仁の大乱を経由して始まるとしていることになる。しかも「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ」といった湖南の言葉つきにわれわれは、復古主義的革命としての明治維新と明治権力がになう古代主義的、王朝主義的歴史観とそれに追随する歴史研究に対する軽蔑的口調をも見ることができる。

 日本の歴史を一変させるような事件的大乱として「応仁の乱」を見ることは、「明治維新」を歴史変革的事件として相対化することを意味している。「明治維新」を近代国家日本の出発点として絶対化することに対して、これを相対化し、これに低い評価を与えるような見方は、マルクス主義的歴史研究の登場以前からあったはずである。「応仁の乱」をめぐる湖南の発言を見れば、湖南とは「明治維新」を相対化し、それに決して高い評価を与えることなく、「もう一つの近代」を見ることのできた史家の一人ではなかったかと思われるのである。そしていまわれわれが課題としている『我が国民思想の研究』の著者津田左右吉もまたその一人ではないかと私は思っている。

 中国の宋以降を中国史における「近世」とするのは、内藤湖南の創見にかかわる時代区分である。彼は中国における「平民の発展時代」を指して「近世」という。だが中国における「平民の発展時代」とは「君主の専制時代」であった。中国的「近世」の特質は「君主専制時代が即ち平民発展時代」であったところにある。

「それで貴族時代(六朝から唐あたりまでが貴族全盛期・子安注)が崩れて、そうして君主も貴族から解放されます。平民も貴族から解放される。丁度平民が解放された時代が即ち君主も解放されて、そうして君主が政権を専有しておりましたが、それに支配されるものは平民で、その間の貴族という階級が取れましたから、それで君主専制時代が即ち平民発展時代になります。」[4]

 湖南は「平民の発展」を重要なメルクマールとして中国における「近世」をいうのである。この中国史的「近世」を湖南はしばしば「近代」といったりしていることからすれば、彼が「近世」とする歴史の始まりこそが、現代のわれわれに直接していく歴史の始まりだとしているのであろう。この湖南の中国「近世」論が彼の「応仁の乱」論の前提をなすものである。

 湖南の「応仁の乱」論はこれを歴史の劃期として見ることの重要性をいうものであって、その変換の特質、何が終わり、何が始まったのかを印象批評以上に明らかにするものではない。ただこの転換が湖南のいう「近世(近代)」的転換であることをこの論の「終わり」がのべている。

「兎に角応仁時代というものは、今日過ぎ去ったあとから見ると、そういう風ないろいろの重大な関係を日本全体の上に及ぼし、殊に平民実力の興起において最も肝腎な時代で、平民の方からは最も謳歌すべき時代であると言っていいのであります。

 それと同時に日本の帝室と言うような日本を統一すべき原動力から言っても、大変価値のある時代であったという事は之を明言して妨げなかろうと思います。まあ他流試合でありますからこれ位の所で御免を蒙っておきます。」

 ここで「他流試合」といっているのは、シナ学者湖南による日本史学上の問題への介入的発言をいっている。だが既成の学問的見地を揺るがすような問題提起は「他流試合」を挑むような外部的介入者によってしかなされない。明らかに湖南は中国史的「近世」概念を日本史に投げ入れているのである。「平民の発展」というメルクマールをもって構成される「近世」概念を投げ入れることによって見せる歴史の新たな相貌を、「他流試合」という湖南の講演がわれわれに垣間見せたのである。その全貌を明らかにするのはわれわれの課題だろう。だがそれをしようとしたものはまだいない。

 

 だが湖南の「応仁の乱」論をこう見てくると、津田もまた応仁の乱後に向けて湖南と共通する視線を向けていることを知るのである。津田は「武士文学の時代」の「後期」すなわち「戦国時代」と副題された時代の「文化の大勢」をのべる章を次のような言葉をもって始めている。

「我が国の戦国時代は政治の上、また文化の発達の上に於いて、歴史上極めて重要の意義を有っている。それは南北朝の争乱から漸次馴致せられて来た勢力が極度に押しつめられて、従来の政治組織を根柢から覆し、鎌倉時代以後徐々に変化して来つつもなお昔の堕力によって支えられていた貴族と寺院とを中心としての文化の権威を全く仆し、すべての上に国民全体の力が現れるようになり、激烈な戦乱の間に新しい時勢が展開せられて来たことである。だから一口にいうと社会改造の時期であり、また国民の勢力の始めて大に発揮せられた時代である。戦国時代を単純に戦乱の世、破壊の時代と見るのは大なる誤りであろう。」[5] 

 これを見れば津田は、湖南が応仁の乱後に日本の「近世」の始まりを見ようとした視線と同じ視線を戦国時代に向けていることを知るのである。津田はこれを「近世」の始まりとはいわない、「平民文学の時代」の始まりというのである。

 われわれは湖南の論を貴重な示唆として津田の「平民文学の時代」を読み直してみよう。

 

 



[1] 呉座勇一『応仁の乱ー戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016。

[2] 天皇と武家政権との関係については、今谷明『武家と天皇ー王権をめぐる相克』(岩波新書、1993)に多くのことを教えられた。

[3] 内藤湖南「応仁の乱について」『日本文化史研究』(『内藤湖南』日本の名著41、中央公論社)。

[4] 内藤湖南「君主制か共和制か」『支那論』文会堂書店、1914.

[5] 津田『我が国民思想の研究ー武士文学の時代』第三篇 武士文学の後期・第一章 文化の大勢 上・戦国時代。津田全集・別巻第三。