■勝五郎没後150年記念・講演(2019.3.10)        子安宣邦

平田篤胤と死者と生者の世界             

 

  

1 没後150年ということ

 今年が勝五郎の没後150年に当たるということも、その勝五郎の存在の記憶がここ日野市で持ち続けられ、その痕跡が確証され、あらためて広く語り出されていることも私ははじめて北村さんから伺ったことであります。150年といえば、昨年は明治維新の150年にあたり、それに因んだ放送や出版がなされ、あらためてこの150年が回想され、日本近代史の読み直しがなされたりしました。しかしこの150年の回想の中に勝五郎への回想などは加わっていません。

 たしかに私は篤胤の『勝五郎再生記聞』を『仙境異聞』とともに岩波文庫に収め、人びとの読めるものにしたことはたしかです。その岩波文庫版が出たのは平成12年(2000)のことです。そのときこれが150年目のえにしを現代のわれわれとの間に取り結ぶことになるなどとは思いもしませんでした。その縁を教え、その縁の意味するところを考えるようにさせたのは北村さんであり、ここの調査団の方々です。

 私はいまこの勝五郎に遭遇した縁を考えます。それは偶然といってもいい遭遇でした。勝五郎との遭遇が偶然の縁であることは、この勝五郎という事件を記し、われわれに遺した篤胤との遭遇もまた私にとっては偶然の縁であったということです。偶然の縁というのは、その遭遇の理由を私の内部にもっていないことをいいます。その出会いは私にとって必然的ではないということです。

 

2 篤胤との遭遇

 私は大学院のころ本居宣長を研究テーマにしていましたから、宣長の没後の門人といわれる平田篤胤(1776-1843)の名はよく知っておりました。だが篤胤は戦前には国学の四大人の一人として高く評価されながら、戦後には思想的な戦犯のごとくみなされていました。宣長は戦後も戦前と同様の高い評価を受け続けましたが、それは何よりも『古事記伝』という高い評価を受け続ける注釈学的成果によることです。篤胤にも『古史伝』という『古事記伝』に類した大きな著作があります。だがその「古史」とは篤胤が自ら撰定したものであり、彼はその「古史」にその撰定理由をのべながら自ら注釈を加えていったのが『古史伝』なのです。ですから最初に篤胤の著作に接したものは、「これは一体何なのか」とその正体のとらえがたさに途方に暮れる思いを味わうことになります。その学問にはたえず〈擬似的〉の評語が加えられざるをえませんでした。ですから戦後、篤胤を研究しようとするものは国学や神道学の伝統を引いた研究者以外にはいませんでした。

 そういうわけですから中央公論社の「日本の名著」の出版企画がもちあがった時、適当な引き受け手を見つけにくい「平田篤胤」の巻の編集と執筆の役目が私にまわってくることになったのです。それは昭和45年(1970)のころです。篤胤とは私にとって外から持ち込まれたテーマです。だから篤胤との出会いは偶然だと私はいうのです。だがその遭遇が偶然であったからこそ、篤胤の新しい読み方が私に可能であったと思っています。私はその翌年ドイツに留学いたしましたが、おかしな話ですが、篤胤の全集などをもって私はミュンヘンに出かけたのです。結果論的にいえばこれは良かったと思います。日本から離れて、その外に立ってはじめて篤胤が負ってきた歴史的評価とは別の思想的存在のありようを篤胤に見ることができたからです。私はドイツで特異な思想的性格をもった篤胤を発見しました。この篤胤との遭遇ははじめにもいいましたように偶然ともいえるものです。だが篤胤との間に偶然に結ばれた縁は50年後の今の私に意味をもっているのです。

 

3「たま行方ゆくえ

 篤胤の国学上の大事な著作に『霊能真柱たまのみはしら』があります。これは天と地とよみ(月)の形成過程と宇宙論的な位置とを神話によって跡付け、図象化した国学的宇宙論の書として知られています。だがなぜ人は天・地・泉の形成と形象とを知る必要があるのか。篤胤はこういいます。

古学いにしえまなびする徒は、まづむね大倭心やまとごころを堅むべく、この固の堅在かたからでは、真道の知りがたき由は、吾が師の翁の、山菅やますげの根の丁寧ねもごろに、教悟しおかれつる。此は磐根の極み突立る、厳柱いかしばしらの、動くまじき教なりけり。斯くてその大倭心を、太く高く固めまくほりするには、その霊の行方の安定しずまりを、知ることなも先なりける。」

 この国学者の手になるいかにも国学的な文章で異様なのは、古学をする徒はその大和心をしっかり立てて学ぶことが必要なのだが、この大和心を堅固に立てるには「霊の行方の安定しずまり」すなわちわれわれの死後の霊魂がどこに鎮まるのかを知ることが第一の肝要事だといっていることです。人は死後の霊魂の鎮まるところを知って安心をえたいと思うのは当然の人情だと宣長もいったりしますが、しかしそれを知ることが古学の徒の第一番の重要事だといったりはしません。宣長なら「天皇の天下をしろしめす道」の確乎としたあり方を知ることこそ古学の徒の第一の肝要事とするでしょう。ところが篤胤はそれぞれの「霊の行方の安定」を知ることが古学の徒の第一の肝要事だとするのです。はたしてこれは国学かというほどの物の見方、考え方の転換がここにはあります。

 『霊の真柱』で篤胤は天・地・月(泉)の形成過程を図像化し、それに自ら撰定する「古伝」を付しながら「霊の行方」を明らかにしようとします。だが篤胤はこの宇宙像の形成を通じて「霊の行方」を明らかにすることに失敗します。というよりは篤胤はこの天・地・月という「三大考」的宇宙像が予定しているような善き霊魂は天に、悪しき霊魂は月(泉)にといった解決をとらなかったのです。篤胤はこの宇宙像的解決を否定した後に死者の霊の世界は生者の世界の周辺に、いや見える(顕)と見えない(幽)の隔てをもちながらも同じこの世界にあるといいます。これは人は死ねば必ず地底の暗く汚い黄泉よみの国に行かざるをえないと神話に随っていった宣長の死後観を全く覆すものです。そして宣長先生自身が死後の鎮まる場所として山室山の頂きに墓地を定めたことによってみずから黄泉説を否定されたのだといって篤胤は『霊の真柱』を閉じるのです。

 篤胤との偶然といえる遭遇は、死者や死後霊魂の行方をめぐる大事な伝えごとをもう一度われわれに想起させるのです。それは昭和の戦争末期に柳田国男が『先祖の話』として想起した説でもあります。

 

4「顕世」と「幽世」

 「霊の行方」に大きな関心をもった篤胤は死者や死霊の属する世界をこの生者たちの世界の周辺に、あるいはこの生者の世界に重なる形で死者たちの世界があることをいいます。ただ生者の世界はうつつの目に見える世界(顕世)であるのに死者の世界は隠れた目に見えない世界(幽世)という違いがあるだけだと篤胤はいいます。この顕世と幽世という二つの世界のあり方は神話的古史の解釈から導かれます。

 大国主命の国譲りにあたって高天の原からの使者に答えた言葉があります。それは「吾がらせる顕露事あらわにごとは、皇孫すめみま当に治ろしめすべし。吾は退かくりて幽事かみごとを治らさむ」(『日本書紀』宣長の訓みによる)というものです。この大国主命の言葉を篤胤は、「吾が治れる顕明事あらわごとは、皇美麻すめみまの命治らすべし。吾は退りて、幽冥事かくりごとを治らさむ」(『古史伝』)と訓んでいます。「顕明事」とは顕世うつしよ(現の目に見える世界)の人を治める事であり、「幽冥事」とは幽世かくりよ(目に見えない世界)の霊魂にかかわる事です。この篤胤の「アラハゴト」「カクリゴト」という訓み方は、彼が顕世という目に見える生者の世界と幽世という目に見えない死者や霊魂の世界があるとしていたことにかかわります。宣長たちも天上の神の世界と地上の人の世界をいいますが、しかし篤胤がいうのはこの世界自体が顕幽二元的な構成からなるということ、すなわち目に見える生者の世界のすぐ隣りに目に見えない死者の霊魂の世界があるということです。

『霊の真柱』で篤胤は、「此国土の人の死にて、その魂の行方は、何処いずこぞと云うに、常磐とことわにこの国土にること、古伝の趣と、今の現の事実ことのあととを考へわたして、明かに知ら」るることだといい、さらに「その冥府かみのみかどと云うは、この顕国うつしくにの内いづこにも有れども、幽冥ほのかにして、現世うつしよとは隔たり見えず」といいます。この国土は生きている人びとからなる顕世と死者たちの霊魂からなる幽世の二つからなると篤胤はいうのです。この世界は生者だけのものではない、死者の世界でもあるというのです。これは篤胤国学が私たちに遺した大事なメッセージだと思います。

 

5 幽界・異界の情報

 ところで篤胤の著作は『平田篤胤全集』に収められています。この全集は戦後に『新修平田篤胤全集』(名著出版)として増補・復刻されましたが、今では非常に高価で、手に入れることは簡単にはできません。私が篤胤研究を始めたころからすでにそうでした。ですから私も数巻の端本をしかもっていません。その中に戦前の『平田篤胤全集』(内外書籍版)の第8巻があります。それは「道教二 附神仙」のタイトルをもって編集された篤胤の特異な著作からなる巻です。それは『鬼神新論』であり、『古今妖魅考』であり、『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』『幽境真語』などです。私が岩波文庫に収めた『仙境異聞』も『勝五郎再生記聞』もこの巻にあるものです。『鬼神新論』は儒家の鬼神説の言説批判を通じて鬼神(死霊を含めた霊的存在)の実有を証明しようとした著作ですが、その他の著作『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』『幽境真語』などは死霊や異類的存在の属する幽界・異界の情報にかかわるものです。篤胤は死後世界や異界体験をもった少年たちの出現に感動し、手許に迎え入れたりして彼らの伝える異界情報を自筆・他筆で記していったのです。『仙境異聞』を見れば、寅吉が伝える天狗世界情報の篤胤の受け取り方は、あたかも寅吉と共同体験するかのごとく熱心です。篤胤のこの異常な入れ込み方から、人は寅吉を篤胤に作られた語り手ではないかと疑ったほどでした。なぜなのか、なぜそれほど篤胤は幽界・異界への情熱をもったのでしょうか。

 私は篤胤を知った始めの頃は異界への彼の情熱を幕末の鎖国日本における知の屈折以上に理解することはできませんでした。いや40年前だけではない、最近まで私はそういう見方をしていました。昨年のちょうど今頃、突然「天狗小僧寅吉ブーム」が起こったとき、新聞記者たちの取材に私はそういう答え方をしていました。だが私の死者についての見方が急速に変わっていきました。それは身近なものの死が私に起こした変化だといえるかもしれません。私は死者はなくならない、死者は篤胤がいうように生きる者の世界の向こう側にずっといると思うようになりました。

 

6   死者と共にある生者の世界

 私たちはかなり近い時期まで、生者は死者とこの世界を共にするように思っていたのではないでしょうか。たしかに仏教的な浄土観が貴族たちの世界に弘まりますが、村的共同体的生を送っていた多くの人びとは死者の霊の見守る土地の上でその生を営んでいたはずです。これはまだわれわれの記憶にかすかにある生者と死者が共にある世界のあり方です。その記憶は21世紀の現代ではほとんど消えかかっています。この記憶の希薄化、この世をただ生者の奢りの支配する世界としてしまうような見方はいつ始まったのでしょうか。

 篤胤における「霊の行方」をめぐる問題の切実さを見ると、化政度といわれる町人文化の爛熟する江戸社会から急速に死者の場所が失われていったといえるかもしれません。篤胤の「霊の行方」を明かすための学的情熱も、この世における幽界の生き証人インフォーマントというべき寅吉や勝五郎からの情報聞き取りの熱意も、この世の死者の場所が失われようとする危機感からくるものではないでしょうか。

 勝五郎とは生者と死者とが、生まれ変わりということが可能なような近さをもって共にある世界の証人です。そして篤胤は生者と死者とが共にある世界の記憶あるいは刻印として『勝五郎再生記聞』をわれわれに残したのです。そして本日このように勝五郎を記念する会を開く調査団のお仕事は、死者がどんどん見捨てられようとする現代にあって死者が生者と共にあった時代の記憶を甦らせるものとして大変に大事なものだと私は考えます。

 今回の講演の依頼を受けたとき、この会のあること自体が意外性をともなう驚きでありました。だがこの講演の準備をすることを通じて私は、篤胤の仕事が現代のわれわれにどういう意味をもつのかをもう一度考え直すことができました。この講演の機会を与えて下さったことに私の方からお礼を申し上げねばなりません。有り難うございました。