「中国問題」4 子安宣邦
中国と〈帝国〉の経験―中国で『世界史の構造』を読むこと
「しかし、休みなき王朝の交替にもかかわらず不変的なのは、アジア的な農業共同体であるよりもむしろ、このような専制国家の構造そのものである。」「帝国はその中の部族・国家の内部に介入しない、それが帝国内の交易の安全を脅かすのでないかぎり。」 柄谷行人『世界史の構造』第2部
1「私は変わった」
柄谷行人は「八九年以後に私は変わった」と『トランスクリティーク』の序文で書いている。「それまで、私は旧来のマルクス主義的政党や国家に批判的であったが、その批判は、彼らが強固に存在しつづけるだろうということを前提していた。彼らが存続するかぎり、たんに否定的であるだけで、何かをやったような気になれたのである。彼らが崩壊したとき、私は自身が逆説的に彼らに依存していたことに気づいた。私は何か積極的なことをいわなければならないと感じ始めた。」柄谷がカントについて考え始めたのはそれからであるという。カントを考えることから彼の『トランスクリティーク―カントとマルクス』(2001、批評空間)が生まれ、さらにその10年後に、そこに提示された問題の本格的な展開として『世界史の構造』(2010、岩波書店)が書かれることになるのである。この両著の成立の前提には、柄谷自身がいうように彼の思想的言説的姿勢における「否定的である」ことから「積極的である」ことへの転換がある。柄谷は自身で言う通り、「変わった」のである。
柄谷のこの変化とともにそこから離れ、そこに置き棄てていった「たんに否定的である」思想的言説的立場について、彼はこのようにいっている。「私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名をもって呼ばれてきた思考―私自身それに加わっていたといってよい―が、基本的にマルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。九〇年代にそれはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコンストラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった」と。
ここで遅れと無用とを宣告されている思考とは、あたかも私のものであるかのようだ。私が近代日本の「国家と戦争と知識人」の反ー近代主義的批判『近代知のアルケオロジー』[1]を刊行したのは1993年である。柄谷が90年代にはすでにそれはインパクトを失ってしまったというポスト構造主義的な批判的言説、私においてそれは〈江戸〉を方法的視点とした近代日本の国家と知識をめぐる思想史的批判の言説としてあったが、90年代とはその全的な展開期であった。〈近代〉言説の読み直しとしての私の思想史的批判の立場は現在にも持続されている。〈靖国論〉、〈近代の超克論〉、〈和辻倫理学〉を読むこととして、さらにはいま継続している〈中国論〉を読むこととして。だが私はこう書くことによって、彼が時代遅れとして見捨てていった立場の名誉回復をはかるつもりはない。ただ「私は変わった」という柄谷の変化から生まれてきた『世界史の構造』への私のもつ違和感の由来を明らかにしたいだけである。
だから私は『世界史の構造』をもともと読む気はなかった。実際にはその評判から購入することはした。だが最初の一節を見ただけで私はそれを投げ出してしまった。
2 中国で読む『世界史の構造』
私が違和感をもって投げ出していた『世界史の構造』が、昨年から私に気になるものとして再登場してきた。昨年(2013)の5月号から雑誌『現代思想』が柄谷の「中国で読む『世界史の構造』」を連載し始めたのである。この連載は5回、昨年の10月まで続いた。この連載はその前年(2012)に中国の清華大学で『世界史の構造』の中国語訳出版に合わせてなされた講義によるものである。私が『世界史の構造』にあらためて注目したのは、この著述が〈中国で読まれる〉というそのことによってである。〈中国で読む〉とは、端的に中国においても読まれ、講じられることを意味しているのかもしれない。これが中国においても読まれ、講じられることをもって、まさしくこの本が〈世界史的〉な構造解明の書たるゆえんが実証されると著者はいいたいのかもしれない。たしかにこの書が〈中国で読まれる〉書であることだけによっても、その理由を問いただしたい気が私にはある。
だが〈中国で読む〉とは、ただ中国において読まれ、講じられるということ以上の意味をもっているのではないか。〈中国で読む『世界史の構造』〉とは、中国という巨大な世界史的な経験的素材をもってはじめて読み出される〈世界史の構造〉を意味しているのではないか。柄谷の清華大学での講義とはそのことを汪暉らを含む聴衆に語り出したものではなかったのか。それを私に教えたのは、『現代思想—特集いまなぜ儒教か』(2014年3月号)の柄谷と丸川哲史との対談「帝国・儒教・東アジア」であった。この対談は『世界史の構造』が「中国問題」の書であることを私に教えたのである。
その対談で柄谷は、「1990年頃、ソ連が崩壊するとともに、それらが相継いで崩壊しました。ところが。中国だけは存続した。それはなぜなのか。それを考えるようになったのは、数年前ですね」といっている。ソ連で崩壊し、中国では存続しているというのは「帝国」あるいは国家の「帝国的輪郭」である。「第一次大戦のあと、旧帝国が崩壊したとき、帝国の輪郭を保ったのはマルクス主義が革命を起こしたところだけです。たとえばソ連や中国は言うまでもないし、それにユーゴスラビアも、ある意味でオーストリア帝国の遺産を継承しています」と柄谷はいっている[2]。なぜ現代中国に〈帝国〉は存続しているのか。中国に持続する〈帝国〉とは何か。『世界史の構造』が中国で読まれる理由も、中国でもって読み出されねばならない理由もそこにある。上に引いた対談での発言を継いで柄谷はこういっている。
「2011年に汪暉が来日して東大駒場で一緒に講演したのですが、そのとき、私は帝国の問題について話しました。また、その翌年に、『世界史の構造』の漢訳が出るのに合わせて、清華大学で講義したのですが、その問題がいつも念頭にありました。汪暉さんや他の教授らが、私のクラスに毎回聴講しにきましたし。しかし、私が中国の帝国に関して考えるようになったのは、中国の問題に特に関心があったからではない。中国の帝国を考えないと、帝国のことが一般的に理解できないからです。」
中国の〈帝国〉的存立への柄谷の関心は、彼がいう通り『世界史の構造』から来るものであるだろう。だがその〈帝国〉論は中国の実践的な関心者によって熱心に聴受されたのである。柄谷はこの場合もマルクスを借りて「意識しないでそうなった」というかもしれない。だが「帝国・儒教・東アジア」の対談を読むものはだれも、この遁辞を信じるものはいない。
4 〈交換様式〉論
マルクスの〈生産様式〉に基づけた社会構成体の歴史的諸段階をなお有効な分類としながらも、柄谷はこれを〈交換様式〉に基づけて再構成し、再記述しようとする。では資本制社会を〈生産様式〉ではなく〈交換様式〉からとらえるということはどういうことか。
「資本制社会では、商品交換が支配的な交換様式である。だが、それによって、他の交換様式およびそこから派生するものが消滅してしまうわけではない。他の要素は変形されて存続するのだ、国家は近代国家として、共同体はネーションとして、つまり、資本制以前の社会構成体は、商品交換がドミナントになるにつれて、資本=ネーション=国家という結合体として変形されるのである。」(序説 交換様式論)
〈生産様式〉論からすれば単なる上部構造である近代国民国家は、〈交換様式〉論からすれば〈資本=ネーション=国家〉という三位一体的構造からなる社会構成体としてとらえ直されるというのである。これを柄谷は、「ヘーゲルがとらえた『法の哲学』における三位一体的体系を、唯物論的にとらえなおすこと」だというのである。私は『世界史の構造』を読みながら、柄谷のカントへの強い思い入れにもかかわらず、なおヘーゲルのより濃い影をそこに見出さざるをえなかった。では資本制社会を〈交換様式〉論としてとらえることは、『資本論』との関係でいえばどのようになるのか。
「マルクス自身が解明しようとしたのは商品交換様式が形成する世界だけであった。それが『資本論』である。だが、それは他の交換様式が形成する世界、つまり、国家やネーションをカッコに入れることによってなされた。私がここで試みたいのは、異なる交換様式がそれぞれ形成する世界を考察するとともに、それらの複雑な結合としてある社会構成体の歴史的変遷を見ること、さらに、いかにしてそれらを揚棄することが可能かを見届けることである。」〈序論〉
『資本論』はただ商品交換様式が形成する世界を解明しようとするものであって、他の交換様式に根ざす〈国家〉や〈ネーション〉などへの視点をマルクスはカッコにくくっていると柄谷はいう。だが〈交換様式〉論によってはじめて〈国家〉論、〈ネーション〉論は可能になり、資本制社会の〈資本=ネーション=国家〉という三位一体的構造も明らかにされるし、社会的構成体の歴史的変遷への展望も可能になると柄谷はいうのである。だがこれはおかしい。もし資本制社会が〈資本=ネーション=国家〉の三位一体的構造からなるものとすれば、〈国家〉〈ネーション〉への視点をもたない『資本論』には、マルクスの方法論的な自己制約ということでは片付けがたい問題があるということではないか。何より〈交換様式〉論としての『世界史の構造』という過剰な語り出し自体が、『資本論』の歴史的制約をいっていることだと私には思われる。
だが柄谷自身はそうは思わない。「彼は国家やネーションをカッコに入れることによってそうしたのだから、後者(国家・ネーション)に関する考察が不十分であったのは当然である。それを批判する暇があれば、国家やネーションに関して、『資本論』でマルクスがとった方法によって自分でやればよいのだ、と。実際、本書で、私はそれを実行したのである」(序論)と柄谷は反論する。だがこの反論は堂々めぐりのようである。〈国家〉論を欠く『資本論』への疑問に、『資本論』のマルクスの方法をもって自分で〈国家〉論は書けばよいのだとは、一種の堂々めぐりである。この堂々めぐりの反論が明かしているのは、『資本論』からすれば過剰な語りである〈交換様式〉論による『世界史の構造』の正当性の根拠は『資本論』しかないということだ。たしかに〈交換様式〉論としての柄谷の〈世界史の構造〉の読み出しの正当性を根拠づけるものは、『トランスクリティーク』におけるカントを方法とする『資本論』の〈可能性〉に賭けた読み出ししかないのである。「われわれは『資本論』を、重工業以前、国家資本主義以前の古典としてではなく、逆に、新自由主義(グローバルな資本主義)の時代に蘇生するテクストとして読むべきだ。」[3]
『世界史の構造』とは『資本論』の〈可能性〉に賭けた読み出しをわずかな正当性の根拠として成立する危うい著述である。だが「ヘーゲルがとらえた『法の哲学』における三位一体的体系を、唯物論的にとらえなお」そうとする柄谷のヘーゲルに対抗する〈世界史〉の『資本論』的、あるいは〈交換様式〉論的制覇の野心はものすごい。〈交流様式〉を根にもった〈世界足の構造〉を作り上げてしまうのである。
5 アジア的社会構成体
マルクスが「資本制生産に先行する諸形態」で示した社会構成体の歴史的諸段階、すなわち「原始的氏族的生産様式・アジア的生産様式・古典古代的奴隷制・ゲルマン的封建制・資本制生産様式」を柄谷は〈交換様式〉をもって構造論的に読み替え、〈世界史の構造〉として再編成する。マルクスがいう「アジア的生産様式」とは何かについては、汗牛充棟をなす学界的議論があり、ロシア・中国や日本の革命をめぐる戦略的論争の主題の一つでもあった。ここでは私がかつていった、「ヘーゲルは「世界史」的展開の必然性をもたないオリエントを「東洋的停滞」「東洋的専制」の名でとらえた。それに対してマルクスは資本主義社会への発展の必然性を内包しない社会を規定する根拠を「アジア的生産様式」の名でとらえたのである。それはヨーロッパによる他者アジア像の構成である」[4]という理解で十分であろう。「世界史」的展開の傍らに停滞的に持続する広漠たる帝国と共同体的世界、それが「アジア的生産様式」をもって規定された国家社会である。いまこれを柄谷は〈交換様式〉論をもって構造論的な読み替えを遂行する。
柄谷は〈交換様式〉を四つに大別する。Aは互酬(贈与と返礼)、Bは略取と再分配(支配と保護)、Cは商品交換(貨幣と商品)、そしてDはXである[5]。これにしたがって柄谷はアジア的社会構成体を構造論的に性格づける。「アジア的な社会構成体は、一つの共同体が他の共同体を制圧して賦役・貢納させる体制である。すなわち、交換様式Bがドミナントな体制である」と柄谷はいう。交換様式Bが支配的である集権的な体制を確立するには、支配階級間にある互酬性(交換様式A)をなくすことが不可欠である。「それによって、中央集権と官僚制的な組織が可能になる」というのである。だがそのことはアジア的社会構成体にはB以外の他の交換様式が存在しないということではないとして、柄谷はこういっている。
「たとえば、アジア的な国家の下にある農業共同体は、貢納賦役を強制されることをのぞいて、その内部では自治的であり、互酬的な経済にもとづいている。すなわち、交換様式Aが強く残っている。しかし、こうした農業共同体は主として、国家による灌漑や征服などによって創り出されたものであり、国家(王権)に従属している。他方で、アジア的社会構成体には、交換様式Cが存在する。すなわち、交易があり、都市がある。都市はしばしば巨大なものとなるが、つねに集権的な国家の管理下にある。この意味で、アジア的社会構成体は、交換様式AとCが存在しながらも、交換様式Bが支配的であるような社会構成体なのである。」(序説・交換様式論)
このアジア的社会構成体の〈交換様式〉論による構造解明は、柄谷の〈世界史の構造〉解明の代表的事例であり、同時に成功した事例としてここに引いた。東洋的専制国家といわれる国家(帝国)の成立が〈世界史〉的にもつ構造論的意味を、柄谷の〈交換様式〉論ははじめて明らかにしたのである。アジア的国家(帝国)の成立をめぐって柄谷がいう重要な構造論的意味を列挙しておこう。
[共同体=国家]交換様式Bがドミナントである国家とは共同体の延長として成立するものではない。王権(国家)は共同体の内部からではなく、その外部から来る。だが、同時にそれは共同体の内部から来たかのように見えなければならない。さもなければ王権(国家)は確立されない。古代から国家はいわば共同体=国家としてあらわれたのである。この形成に最も重要な役割を果たすのは宗教である。政治的首長は諸共同体における神(先祖神・部族神)を超える神を奉じる祭司となった。(第2部第1章国家)
[専制国家と農業共同体]国家が農業共同体を作り出したのである。専制国家は貢納賦役を課すほかには、農業共同体の内部に干渉しなかった。アジア的専制国家の下で農業共同体の互酬性は保持された。人々は国家(王)に完全に従属するが、逆にそのことによって農業共同体は自治的な集団であることが許容された。(同上)
[持続する専制国家の構造]特筆すべきことは、集権的な国家として完成された形態、つまり官僚制と常備軍というシステムが、アジア的国家によってもたらされたということである。農業共同体が不変的だから、専制国家も永続的だということではない。真に永続的であるのは農業共同体よりも、それを上から統治する官僚制・常備軍などの国家機構である。アジア的専制国家のこの国家機構が、王朝が変わっても基本的に継承されたのである。そしてそれがむしろ農業共同体を持続させたのである。(同上)
この〈アジア的専制国家〉の成立をめぐる柄谷の〈交換様式〉論的な構造解明を見ると、彼の〈交換様式〉論的な構造解明は〈アジア的専制国家〉のためにあるかのように思われる。この〈アジア的専制国家〉はその外延的な側面において見ると、多数の都市国家や共同体を包摂する〈帝国〉である。歴史的社会構成体としての〈アジア的国家〉とは〈帝国〉、柄谷のいう「世界システム」としての〈世界=帝国〉である。
5 〈世界=帝国〉
アジア的専制国家は賦役貢納国家である。「それは服従と保護という「交換」によって、多くの周辺の共同体や国家を支配下におくものである。すなわち、それは交換様式Bが支配的であるような社会構成体である。しかし、アジア的専制国家は、外延的な側面において見ると、多数の都市国家や共同体を包摂する、世界システムとしての世界=帝国である[6]。」(第2部第3章「世界帝国」)アジア的専制国家は〈世界=帝国〉として〈世界史の構造〉における重要な範型的位置を占めることになる。一般にローマ帝国をもって〈世界帝国〉の代表とするが、「ローマは最終的に広大な帝国となったが、それはむしろ、アジアの帝国システムを基本的に受け継ぐことによってである。ゆえに、われわれは、アジアに出現した専制国家を、たんに初期的なものとしてではなく、広域国家(帝国)として(形式的には)完成されたものとして考察すべきものである。」(第2部第1章「国家」)
そうであるならば、〈世界帝国〉としてのアジア的専制国家=中華帝国は間違いなく〈世界史の構造〉における代表的範型の位置を占めることになるのである。もし『世界史の構造』にヘーゲル的〈世界史〉への対抗の意図があるとするならば、〈世界史〉的な負像としてのアジア的専制国家を〈世界史の構造〉の代表的範型とすることで、ヘーゲル批判の意図を実現したということができる。では〈世界史の構造〉の代表的範型としての世界=帝国・アジア的専制国家とはいかなる特質をもつのか。
広域国家としての帝国は、障害の多かった共同体間、国家間の交易を容易にしていく。「帝国は軍事的な征服によって形成されるのだが、実際には、ほとんど戦争を必要としない。各共同体や小国家は、戦争状態よりもむしろ帝国の確立を歓迎するからだ。その意味で、世界=帝国の形成は、交換様式Bだけでなく、交換様式Cが重要な契機となる」と柄谷はいう。ここから世界=帝国とはその帝国内の共同体や小国家間の交易の安全を保障するシステムであるとされる。
このシステムは中国(帝国)においては、前回の「琉球論」[7]でのべたような冊封体制と朝貢体制としてあった。それらは帝国における宗主国と各藩領・藩域との支配関係、また藩領・藩域間の相互関係と同時に交易的関係をも保障する帝国的体制原理であった。柄谷も、「中国の帝国においては、傘下の諸部族・国家は朝貢しさえすればその地位を認知されるのであり、そしてその朝貢も、それ以上のお返しを受けるのであってみれば交易の一部にほかならなかった。帝国はその中の部族・国家の内部に介入しない、それが帝国内の交易の安全を脅かすのでないかぎり」といっている。
さらに柄谷は〈世界=帝国〉は〈中核—周辺—亜周辺〉という地政学的構造をもつことをいう。「世界=帝国において、周辺部は中核によって征服され吸収される。また、逆に、中核に侵入して征服することがある。その意味で、周辺は中核と同化する傾向がある。ところが、亜周辺は、帝国=文明と直接する周辺と違って、帝国=文明を選択的に受け入れることができるような地域である。」(第2部第3章「世界帝国」)この〈世界帝国〉の地政学的な構成は重要な意味をもっている。東アジア世界を中華的〈帝国=文明〉世界と見るかぎり、われわれは中華的〈世界=帝国〉の〈中核—周辺—亜周辺〉という地政学的構造において、この〈世界=帝国=文明〉の隆盛と衰退の運命をともにしてきたということになるのだから。このことは21世紀の東アジアにおけるわれわれの運命を、東アジア世界の構成とともに問わしめる問題であるだろう。
さきにふれたように柄谷が『世界史の構造』で〈帝国〉の問題を考えるようになったのは、現代中国になぜ〈帝国〉が存続しているかという問題であったといっていた。マルクス主義者に指揮されたソ連や中国の社会主義革命は、それを意識することなく〈帝国〉を再生したともいっていた。また柄谷を「帝国・儒教・東アジア」(『現代思想』14年3月号)という対談の場に呼び入れた丸川哲史も現代中国における「帝国の原理」の持続をいい、その「再浮上」をいったりしている。彼らが現代中国について〈帝国〉をいうのは、多くの異民族とその文化共同体を包括支配してきた〈中華帝国〉的広域支配を持続させている現代の共産党国家中国をいっているのである。この現代中国の〈帝国〉的現状は、〈帝国〉的支配なのか、〈帝国主義〉的支配なのか見分けることができない事態になっている。すでにグローバル資本主義を支える大国である中国にあるのは、世界の二極分化に起因する中近東世界における動乱と同質の動乱である。『世界史の構造』が中国で読まれ、また〈帝国〉の経験が語られるのは現代中国のこの事態においてである。
「だから帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統治してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。」と前記「対談」で柄谷はいう。だが中華〈帝国〉の経験を教訓とするのは習近平以外のいったいだれなのか。
[1] 『近代知のアルケオロジー―国家と戦争と知識人』岩波書店、1996。本書は後に文章をも加え、『日本近代思想批判―一国知の成立』と改題され、岩波現代文庫の一冊として再版された(2003)。
[3] 柄谷『トランスクリティーク—カントとマルクス』第4章・2「可能なるコミュニズム」(批評空間、2001)。
[4] 子安『「アジア」はどう語られてきたか一近代日本のオリエンタリズム』藤原書店、2003.
[5] この〈交換様式〉の四分類は、近代的派生態との対応で、A-ネーション、B-国家、C-資本、D-Xととらえられ、さらに世界システムの諸段階として、A-ミニ世界システム、B-世界=帝国、C-世界=経済、D-世界共和国として示される。
[6] なおここで柄谷は、「帝国を世界システムとして見る場合、「世界=帝国」と呼び、個々の帝国については、「世界帝国」と呼ぶ。」と注記している。
[7] 子安「中国問題」3・「中国と〈帝国〉的視野一「琉球」はなぜ語られるのか」。
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