1556(弘治2)年8月、信長の弟・信勝(信行)が信長の直轄領である於多井川西岸の篠木三郷(愛知県春日井市)攻め取ります。

この動きに対し、信長は東岸の名塚(名古屋市西区)に砦を築き佐久間盛重に守らせます。

8月23日、大雨で水かさが増したところへ信勝方の柴田勝家(兵1000)と林美作守(兵700)が出陣してきます。翌日、信長も清洲から兵700ほどを引き連れて出陣。

序盤、柴田勝家の活躍もあり、信長方の屈強の者が多く討たれ次々信長の元へ退却してきます。この状況に信長が一喝。大声を上げで激怒する信長の姿を見て、味方も敵も恐れをなし、信長方は奮起、柴田・林軍は総崩れになります。

退却する林勢に信長軍は襲い掛かります。
信長方の黒田半平という者と林美作守が長時間に渡り切りあい、黒田半平が左手を切り落とされたところへ信長自ら助けに行き美作守を討ち取ります。

信勝方の柴田・林軍は退却。信長の勝利に終わります。

これ以降、信勝は末盛城に林秀貞は那古野城に籠城することになります。
末盛城には、信長の母も信勝と共に居り、この母が信長配下の村井貞勝と島田秀順を通じて、信勝らを許してほしいと嘆願してきたので、信長はこれを受け入れ許すことにしました。

しかし、この和睦も長続きはしませんでした。
続きは後日。