2010年09月16日
語ってよ、シェヘラザード

清純派のイメージで売っていたエジプトのアイドル女優モナ・ザキーが、今作では濡れ場に挑戦。ファンたちはこれに猛反発し、facebookなどでこの映画に対するボイコット運動が起こったという話題作(参考記事)。まったく、ファンというのはやっかいなもんですなあ。ほんとはみんな見たいくせに。
たしかに冒頭いきなりモナと夫役(今回は実夫アハマド・ヘルミーではない)との濃厚なラブシーンで始まるが、日本人の目で見れば別にたいした過激さはない。むしろ、この映画の問題性は、表面的なセックス描写ではない部分にある。映画のあらすじはこうだ。
モナ演じるテレビタレントのマダム・ヘバは、女性向けワイドショーの司会を務める人気セレブ。しかし番組の企画で、視聴者たちの恋バナを聞いていくうちに、DVや中絶など、市井のエジプト人が直面している性にまつわる様々な問題を目の当たりにすることになる。そして、幸せいっぱいのように見えたヘバ自身の夫婦生活にもほころびが見られるようになり...
タイトルのシェヘラザードというのは、ご存じ、「アラビアンナイト」に登場する語り部の名前。この映画でのモナの役回りは、ワイドショーの司会としてゲストの女性たちの物語を次々に紹介するという、枠物語の狂言回しであり、まさにシェヘラザードそのものである。しかし、本家のシェヘラザードは女性不信に陥った国王に対していかに女性が素晴らしいかを懇々と解くのに対して、この映画では男性とはいかに不実であるかをこれでもかと見せつけるのがその役割だ。
それにしても「血」にあふれた映画だ。夫に髪の毛をつかまれ床にたたきつけられた女の顔をつたう血、ナンパな若者が女にモップで殴られて流す血、そして中絶手術台の上の血。数々の生々しい描写に、冒頭のモナのいちゃいちゃシーンなんかは吹っ飛んでしまう。そしてモナ自身も体を張った演技をしている(キスシーンなんぞではなく)。これは女優としてのモナの脱皮ぶりを素直に評価すべきだろう。ボイコットなんぞしてる場合ではないぞよ。
これがモナの出産復帰作らしい。やや口の横のほうれい線が目立つシーンもあり、かつての若々しさがなくなってしまった感もあるモナだが、ドレスアップしたシーンでは息をのむほど美しい。
2010年06月08日
ペーソスとディザスター
去年くらいに録画してった『僕たちのキックオフ』を今頃鑑賞。
監督の苗字、コルキーというのはキルクークにちなむニスバなのかな?
バアス党政権の弾圧以来、サッカー場に住み込み今日に至るクルド系難民の話。
クルド語(ペルシア語のようにも聞こえたが、よくわからん)とアラビア語(イラク方言。「私」を「アネー」と言う)、それにトルクメンやアッシリアなどもからんでくる、多言語多民族の状況が興味深い。ヒロインはクルドとアラブのハーフ、という設定だろうか。また主人公の親友の太っちょも何げにトルクメン語が分かったりして、マルチリンガル度高し。
静かなユーモアを積み重ねながら、明るい未来が見えてくるのかと思いきや、最後は直球ディザスター。映画のストーリーとしては若干いただけない(もう少しひねりが欲しい)気がするが、それほどまでに彼らの置かれた状況は厳しいと言うことか。
監督の苗字、コルキーというのはキルクークにちなむニスバなのかな?
バアス党政権の弾圧以来、サッカー場に住み込み今日に至るクルド系難民の話。
クルド語(ペルシア語のようにも聞こえたが、よくわからん)とアラビア語(イラク方言。「私」を「アネー」と言う)、それにトルクメンやアッシリアなどもからんでくる、多言語多民族の状況が興味深い。ヒロインはクルドとアラブのハーフ、という設定だろうか。また主人公の親友の太っちょも何げにトルクメン語が分かったりして、マルチリンガル度高し。
静かなユーモアを積み重ねながら、明るい未来が見えてくるのかと思いきや、最後は直球ディザスター。映画のストーリーとしては若干いただけない(もう少しひねりが欲しい)気がするが、それほどまでに彼らの置かれた状況は厳しいと言うことか。
2010年06月07日
邪心が無ければ助かる
『コネクテッド』をDVD鑑賞。
普通にしてたらガラの悪いチンビラに見えがちなクーチャイことルイス・クーが、気弱でへたれな眼鏡会計士に扮し、終始トラブルに巻き込まれ続ける話。テーマは家族愛。
香港の町中を、車何台も壊しながらのカーチェイスはやはり見もの。香港映画はこういうの、未来永劫続けて欲しいと思う。でもって、何台壊そうが何人殺そうが、最終的には全部チャラにしてくれるのも、お約束でいい。
それにしても、ヒロインのバービー・スー(台湾)たちは終始国語、つまり普通話で喋っているのに、クーチャイたちは広東話を変えようともしない。逆もまたしかり。僕なんか、関西弁と共通語の違いでさえこんなに毎日苦労してるのに、よく通じるなと思うよ。ねえ。
悪役のリウイエは、端整すぎて悪役に見えないんじゃないか、とはじめは思ったが、ほんっとに憎たらしい悪役を好演。目が可愛すぎるのでまつ毛を短くカットして役に望んだという。イケメンにも苦労があるんだよなあ、と共感。なんて。
ラストは、高い所から落ちても邪心がなければ必ず助かるという、武侠映画の鉄則がここでも生きていた。
普通にしてたらガラの悪いチンビラに見えがちなクーチャイことルイス・クーが、気弱でへたれな眼鏡会計士に扮し、終始トラブルに巻き込まれ続ける話。テーマは家族愛。
香港の町中を、車何台も壊しながらのカーチェイスはやはり見もの。香港映画はこういうの、未来永劫続けて欲しいと思う。でもって、何台壊そうが何人殺そうが、最終的には全部チャラにしてくれるのも、お約束でいい。
それにしても、ヒロインのバービー・スー(台湾)たちは終始国語、つまり普通話で喋っているのに、クーチャイたちは広東話を変えようともしない。逆もまたしかり。僕なんか、関西弁と共通語の違いでさえこんなに毎日苦労してるのに、よく通じるなと思うよ。ねえ。
悪役のリウイエは、端整すぎて悪役に見えないんじゃないか、とはじめは思ったが、ほんっとに憎たらしい悪役を好演。目が可愛すぎるのでまつ毛を短くカットして役に望んだという。イケメンにも苦労があるんだよなあ、と共感。なんて。
ラストは、高い所から落ちても邪心がなければ必ず助かるという、武侠映画の鉄則がここでも生きていた。
2010年05月31日
あしたのジョーをかっこ悪くしたやつ
ミッキー・ローク主演『レスラー』をDVD鑑賞。
最近のニュースで、国会議員が「今の国会はプロレスみたいな八百長ではない。ガチンコだ」とかなんとか発言したのに対し、現役のレスラーが抗議した、というのがあった(これなど)。そのときのレスラー、坂田氏のコメント、
というのが効いている!なぜ、「八百長なんかやってません」といわないのか、相当に奥深い味わいがあるように思えるが、この映画を見てなんとなく坂田氏の言わんとしていることが分かったような気がした。
この映画で描かれるステージ裏でのレスラーたちのやりとり。試合前には段取りを綿密に話し合い、けがをさせた相手を気遣う心配り。ヒールも善玉も、あくまでリングの上での約束事なのだ(宝塚の男役、女役の違いに似ているかも知れない)。現役レスラーたちに、演技とも素のままともつかないやりとりをさせ、ハンディカメラで撮り続ける手法が、一編のドキュメンタリーを見ているような気にさせてくれる。聞けばこの監督、人類学?の学位を持っているらしい。
さて、劇中ミッキー扮するランディーが、医者やバイト先の店長から「ロビン・ラムジンスキー」という本名で呼ばれるのに対してものすごい拒否反応を示すくだり。最初は、単に笑いを誘うために挿入されているプチエピソードかと思ったのだけど、なかなかに意味深いシーンとだと気づいた。つまり、彼にとっては「ランディー」というリングネームこそが自分の本当の名前であり、「ロビン」というリアルワールドでの名前には何の価値も見いだせなくなっているのだ。
対するに、アリサ・トメイ扮するヒロインを見てみると、彼女は店では源氏名で呼ばれているが、一歩外に出ると本名の自分に戻る。それは彼女には子どもがおり、夫はいないが守るべき家族がいて、いつかはストリッパー稼業から足を洗ってやろうと考えているからだ。
プロレスとストリップ。社会的な評価には違いがあるかも知れないが、この映画ではその二つの職業に差別をもうけず、どちらも似たもの同士として描いているように見える。こういう体を張った仕事は、年を取ってしまえば続けられなくなるのが定めなのだ。
肉体的限界を目の前にたたきつけられたにもかかわらず、リアル世界との関わりを一切絶たれてしまった(自業自得なのだが)ランディーには、もはや最後の最後まで「ランディー」で有り続けるしか道はなかった。そして彼が向かうのは20年来の宿敵、悪役レスラーのアヤトッラー(本名「ボブ」!)とのリターンマッチ。
ランディーのただならぬ様子を感じ取って、試合前に控え室に駆けつけるヒロイン。しかし、リングに向かう男を止めることは誰にもできない。あーこれ、まるっきり「あしたのジョー」だ!しかし、あまりにも格好いいジョーの世界と、絶望の末リングに向かうほかなくなったランディーの世界とでは、180度の違いがあると思う。そしてあのラスト!あまりに痛々しい。終わってからしばし言葉を失ってしまった。
それにしても、全然関係ないがうちのブログ、カテゴリーの「欧米」という分け方は、そろそろどうにかした方がいいかもしれないな。
最近のニュースで、国会議員が「今の国会はプロレスみたいな八百長ではない。ガチンコだ」とかなんとか発言したのに対し、現役のレスラーが抗議した、というのがあった(これなど)。そのときのレスラー、坂田氏のコメント、
「プロレスとは八百長か八百長でないか、二元論で語られる底の浅いジャンルではございません」
というのが効いている!なぜ、「八百長なんかやってません」といわないのか、相当に奥深い味わいがあるように思えるが、この映画を見てなんとなく坂田氏の言わんとしていることが分かったような気がした。
この映画で描かれるステージ裏でのレスラーたちのやりとり。試合前には段取りを綿密に話し合い、けがをさせた相手を気遣う心配り。ヒールも善玉も、あくまでリングの上での約束事なのだ(宝塚の男役、女役の違いに似ているかも知れない)。現役レスラーたちに、演技とも素のままともつかないやりとりをさせ、ハンディカメラで撮り続ける手法が、一編のドキュメンタリーを見ているような気にさせてくれる。聞けばこの監督、人類学?の学位を持っているらしい。
さて、劇中ミッキー扮するランディーが、医者やバイト先の店長から「ロビン・ラムジンスキー」という本名で呼ばれるのに対してものすごい拒否反応を示すくだり。最初は、単に笑いを誘うために挿入されているプチエピソードかと思ったのだけど、なかなかに意味深いシーンとだと気づいた。つまり、彼にとっては「ランディー」というリングネームこそが自分の本当の名前であり、「ロビン」というリアルワールドでの名前には何の価値も見いだせなくなっているのだ。
対するに、アリサ・トメイ扮するヒロインを見てみると、彼女は店では源氏名で呼ばれているが、一歩外に出ると本名の自分に戻る。それは彼女には子どもがおり、夫はいないが守るべき家族がいて、いつかはストリッパー稼業から足を洗ってやろうと考えているからだ。
プロレスとストリップ。社会的な評価には違いがあるかも知れないが、この映画ではその二つの職業に差別をもうけず、どちらも似たもの同士として描いているように見える。こういう体を張った仕事は、年を取ってしまえば続けられなくなるのが定めなのだ。
肉体的限界を目の前にたたきつけられたにもかかわらず、リアル世界との関わりを一切絶たれてしまった(自業自得なのだが)ランディーには、もはや最後の最後まで「ランディー」で有り続けるしか道はなかった。そして彼が向かうのは20年来の宿敵、悪役レスラーのアヤトッラー(本名「ボブ」!)とのリターンマッチ。
ランディーのただならぬ様子を感じ取って、試合前に控え室に駆けつけるヒロイン。しかし、リングに向かう男を止めることは誰にもできない。あーこれ、まるっきり「あしたのジョー」だ!しかし、あまりにも格好いいジョーの世界と、絶望の末リングに向かうほかなくなったランディーの世界とでは、180度の違いがあると思う。そしてあのラスト!あまりに痛々しい。終わってからしばし言葉を失ってしまった。
それにしても、全然関係ないがうちのブログ、カテゴリーの「欧米」という分け方は、そろそろどうにかした方がいいかもしれないな。
2010年05月16日
これが後のハンガリー舞曲である
クラシック音楽映画へのリスペクツから、こんなのも観てみた。
クララ・シューマン:愛の協奏曲
もうね、シューマンとブラームスが同時代人だったなんて事も知らなかったし、所詮はそんなレベルな僕だったもので、大変勉強になりました(音楽史の)。
天才老作曲家のロベルト・シューマンと、その妻にして美貌の中年天才ピアニスト、クララ。その二人と大勢の子どもが住む家に、ある日突然、若き天才ヨハネス・ブラームスが転がり込んできて...という話。もう、天才ばっかりなんですが、下世話なまとめ方をすれば、この3人の三角関係を軸に話が進む。しかしその三角具合がちょっと尋常でない。
たとえばクララとブラームスがなんだか良い雰囲気になってくると、老シューマンがすねて酔っぱらう。クララが夫の深酒をたしなめると、なんとシューマン、
「わしからヨハネスを奪わないでくれ!」
ええー!?あんたらいつの間にそんな仲に!
さらに、熱烈アタックを仕掛けてくるブラームスに対し、クララは夫がいかにブラームスの才能を高く買っているかを示すため、シューマンの書いたブラームス絶賛紹介文を読んで聞かせる。するとブラームス、不快感をあらわにするのだが、
「そんなのイヤです。まるでもう(シューマン先生が)引退するみたいじゃないですが」
ってやっぱりそっち系かい!
とまあ、互いの才能を認め合う天才たちは、三角関係もより複雑になるのだ。
主人公はクララなのだが、老シューマンが徐々に壊れていく様があまりにも痛々しくてつらかった。またこの時代の精神科医の恐ろしさといったら..
ブラームス役も頑張っていた。子どもたちを寝かしつけるシーンでは、即興で子守唄を歌い出す(これが後の「ブラームスの子守唄」である)。またクララにせがまれて流行のエキゾチックなピアノ曲をこれまた即興演奏(これが後の「ハンガリー舞曲」以下略)。とまあ、クラシックの素養のある人ならもっと楽しめるポイントがいっぱいあったのかも知れない。こうしてみるとシューマンの曲って、ほとんど知らないなあ。
クララ役の女優さんマルティナ・ゲデックは、『素粒子』でモーリッツ・ブライブトロイの相手役だった人か。ずいぶんと雰囲気が違って驚いた。
ブラームス役のイケメンマリク・ズィーディーは、名前が示すとおりアルジェリア系のフランス人だそうだ。
クララ・シューマン:愛の協奏曲
もうね、シューマンとブラームスが同時代人だったなんて事も知らなかったし、所詮はそんなレベルな僕だったもので、大変勉強になりました(音楽史の)。
天才老作曲家のロベルト・シューマンと、その妻にして美貌の中年天才ピアニスト、クララ。その二人と大勢の子どもが住む家に、ある日突然、若き天才ヨハネス・ブラームスが転がり込んできて...という話。もう、天才ばっかりなんですが、下世話なまとめ方をすれば、この3人の三角関係を軸に話が進む。しかしその三角具合がちょっと尋常でない。
たとえばクララとブラームスがなんだか良い雰囲気になってくると、老シューマンがすねて酔っぱらう。クララが夫の深酒をたしなめると、なんとシューマン、
「わしからヨハネスを奪わないでくれ!」
ええー!?あんたらいつの間にそんな仲に!
さらに、熱烈アタックを仕掛けてくるブラームスに対し、クララは夫がいかにブラームスの才能を高く買っているかを示すため、シューマンの書いたブラームス絶賛紹介文を読んで聞かせる。するとブラームス、不快感をあらわにするのだが、
「そんなのイヤです。まるでもう(シューマン先生が)引退するみたいじゃないですが」
ってやっぱりそっち系かい!
とまあ、互いの才能を認め合う天才たちは、三角関係もより複雑になるのだ。
主人公はクララなのだが、老シューマンが徐々に壊れていく様があまりにも痛々しくてつらかった。またこの時代の精神科医の恐ろしさといったら..
ブラームス役も頑張っていた。子どもたちを寝かしつけるシーンでは、即興で子守唄を歌い出す(これが後の「ブラームスの子守唄」である)。またクララにせがまれて流行のエキゾチックなピアノ曲をこれまた即興演奏(これが後の「ハンガリー舞曲」以下略)。とまあ、クラシックの素養のある人ならもっと楽しめるポイントがいっぱいあったのかも知れない。こうしてみるとシューマンの曲って、ほとんど知らないなあ。
クララ役の女優さんマルティナ・ゲデックは、『素粒子』でモーリッツ・ブライブトロイの相手役だった人か。ずいぶんと雰囲気が違って驚いた。
ブラームス役のイケメンマリク・ズィーディーは、名前が示すとおりアルジェリア系のフランス人だそうだ。
2010年05月10日
少林オーケストラ
『オーケストラ』
陶然とした表情で指揮を振る中年男のアップ。バイオリン、チェロ、ホルン、オーボエと、次々に移るオーケストラの楽器。シンフォニーはいよいよ佳境というところで、携帯電話の呼び出し音。あわてて電話を取り出す男。シンフォニーは中断。男は指揮者でもなんでもなく、仕事をさぼって二階席から練習風景を見ているボリショイ劇場の掃除夫だった。しかし、誰あろうこの男こそが、30年前までボリショイで本物の指揮者だったのだ。
とまあ冒頭の部分からコント仕立てで、その後の展開もすこぶるスピーディー。これはしょうもないコメディー映画だったかと若干不安になりもしたが、終わってみれば感動の嵐。チャイコフスキーのバイオリン・コンチェルトってこんな感動的な曲だったのかと、柄にもなくクラシックが聴きたくなった。良い映画だった。
映画の筋書きは、クラシック版『少林サッカー』といったところ。今ではちりぢりになっている昔の仲間を集めて、チーム再結成をもくろむ主人公 → ところが集めてはみたものの、みんな生活苦で演奏どころではない状態。見るからにダメダメ → ここぞという時になって突然神が降臨、超絶技巧のあの頃の姿を取り戻して大成功!要するにスポ根ものの王道パターンだ。
不明にしてよく知らないのだが、30年前のブレジネフ政権時代、ボリショイのオーケストラではユダヤ系の団員が大量解雇されたらしい。主人公はユダヤ人ではなさそうだが、彼らをかばった罪で解雇。文化大革命みたいなのに似た事件なのかな。しかし30年たった今でも彼らみんな冷や飯喰ってる、っていう設定は本当なのだろうか。それから当時は党のエリートで主人公達を追い出す側だった男が、今は過去の栄光にしがみつくだけのオールド左翼、っていうのは、これは中国とはちょっと違うところかな。ブレジネフから30年たち、迫害した方もされた方もみんなあぶれ者、という、かなりひねくれたノスタルジーを共有しているようにも見える。
それにしても、落ちぶれたかつての仲間たちの職業というのが、現在のロシアのリアリティを示しているようで興味深い。掃除夫、運転手、エロビデオの伴奏者、そしてテント暮らしのロマ(ジプシー。この人が超絶技巧のコンサートマスターをやっていて、良い味出してる。なんでもタラフ・ドゥ・ハイドゥークスの人らしい。道理で!)。そんな人たちと対照的に、楽団のスポンサーをやってくれる富豪だかやくざだかみたいな人物も出てきたりして、これもリアリティか。
陶然とした表情で指揮を振る中年男のアップ。バイオリン、チェロ、ホルン、オーボエと、次々に移るオーケストラの楽器。シンフォニーはいよいよ佳境というところで、携帯電話の呼び出し音。あわてて電話を取り出す男。シンフォニーは中断。男は指揮者でもなんでもなく、仕事をさぼって二階席から練習風景を見ているボリショイ劇場の掃除夫だった。しかし、誰あろうこの男こそが、30年前までボリショイで本物の指揮者だったのだ。
とまあ冒頭の部分からコント仕立てで、その後の展開もすこぶるスピーディー。これはしょうもないコメディー映画だったかと若干不安になりもしたが、終わってみれば感動の嵐。チャイコフスキーのバイオリン・コンチェルトってこんな感動的な曲だったのかと、柄にもなくクラシックが聴きたくなった。良い映画だった。
映画の筋書きは、クラシック版『少林サッカー』といったところ。今ではちりぢりになっている昔の仲間を集めて、チーム再結成をもくろむ主人公 → ところが集めてはみたものの、みんな生活苦で演奏どころではない状態。見るからにダメダメ → ここぞという時になって突然神が降臨、超絶技巧のあの頃の姿を取り戻して大成功!要するにスポ根ものの王道パターンだ。
不明にしてよく知らないのだが、30年前のブレジネフ政権時代、ボリショイのオーケストラではユダヤ系の団員が大量解雇されたらしい。主人公はユダヤ人ではなさそうだが、彼らをかばった罪で解雇。文化大革命みたいなのに似た事件なのかな。しかし30年たった今でも彼らみんな冷や飯喰ってる、っていう設定は本当なのだろうか。それから当時は党のエリートで主人公達を追い出す側だった男が、今は過去の栄光にしがみつくだけのオールド左翼、っていうのは、これは中国とはちょっと違うところかな。ブレジネフから30年たち、迫害した方もされた方もみんなあぶれ者、という、かなりひねくれたノスタルジーを共有しているようにも見える。
それにしても、落ちぶれたかつての仲間たちの職業というのが、現在のロシアのリアリティを示しているようで興味深い。掃除夫、運転手、エロビデオの伴奏者、そしてテント暮らしのロマ(ジプシー。この人が超絶技巧のコンサートマスターをやっていて、良い味出してる。なんでもタラフ・ドゥ・ハイドゥークスの人らしい。道理で!)。そんな人たちと対照的に、楽団のスポンサーをやってくれる富豪だかやくざだかみたいな人物も出てきたりして、これもリアリティか。
イシュケンベはギリシアにもあるの?

ファーティフ・アキン監督作品をいくつか立て続けに見たときに、通販で探して買った映画。しばらく寝かせてあったのをようやくDVD鑑賞した。本作ではアキンは脚本を書いているらしい。監督というわけではないのかな。
主人公のイボ(イブラヒム)はハンブルクに住むトルコ系2世の若者で、映画監督志望。ってまんまアキン本人の経歴みたいだが、この映画ではなぜかカンフーオタクという設定。部屋ではベトナムだかどこかでつくられたチープなカンフー映画をいつも見ていたり、夢でブルース・リーからのお告げを聞いたりしている。
つきあってる彼女から妊娠を告げられて、「そんなー、まだ若いし父親なんていきなりなれって言われても」とびびりまくるところから物語が動き出す。自分の父親からは「ドイツ人の女をはらませるとは、お前なんか出て行け!」と怒られてしまう。
一方彼女の方は、母親から「トルコ男がベビーカーを押してる姿、みたことある?(トルコ人なんて育児に非協力的に決まってる!)」と不吉なお告げを受けて、ほんとにこんなビビリと結婚してよいものかと不安になる。
それでイボが期待に違わずへたれぶりを次々と発揮するのだが、まあ最後はハッピーエンドといってよかろう。へたれな若者が大人に成長していく様を描いた王道青春ムービーである。
トルコ人とドイツ人、それから近所に住むギリシア人のレストラン経営者まで出てきて、そういう異文化共存の難しさをおもしろおかしく描いた映画、とも見ることはできるが、大筋は上記の通り王道青春物語、つまり、日本人だろうとなに人だろうとたやすく共感できる人間ドラマに仕上がっている。エスニックな要素はあくまでスパイスにとどめ、普遍的な人間像を軽妙に描いてみせるのはやはりアキンのたぐいまれな才能だと思う。悪くない。
ラスト近く、いがみ合っていたイボの叔父の所に、向かいのギリシアレストランの店主が挨拶に来るシーン。どちらも手にはブドウの葉のピラフ詰めを持ってきていて、お互いの料理を食べ合う。それぞれの伝統料理なんだろうけど、見た目はそっくり。所詮民族の違いなんてそんなものという軽いメッセージだろう。笑えた。
2010年02月20日
アズーマとチズールは因島生まれ
アニメ映画『アズールとアスマール』をムスメと一緒にDVD鑑賞。
楽しい映画でした。しかも、授業で使えるかも。
人物の顔だけCGチックな造形で、なんとなく妙な気がした。しかしそれ以外の、人物の衣服とか背景とか動物などはとてもきれい。特に、市場やら邸宅やらの風景は、塗り絵のように単色で塗りつぶしたパーツが重なり合い、不思議な質感。まるで、ティムール朝〜サファヴィー朝期のペルシア・ミニアチュールのようでさえある。多分監督もそういうのを相当に意識しながら描いているんだろう。
ストーリーのメッセージ性は明快。主人公の青い瞳の「アズール」と、その幼なじみ、褐色の肌の「アスマール(アスマル、と短く発音したいところ。アラビア語で「茶色」の意味)」の2人が、ジンの妖精を探す旅に出るという冒険譚。舞台は昔々のとある国、ということになっているが、現代のフランスとマグレブの関係が重ね合わされていることは明らか。そう見ると、ラストのあの組み合わせは必然的なものなのだろう。アスィミラシオン!
ムスメと一緒に見たので日本語吹き替えで聞いていたのだが、「声優」香川照之が頑張りすぎ。
で、クレジットを見るとなんと、パレスチナ人女優ヒヤム・アッバース姐さんが、仏アラ2言語で声優をやっているではないか!これはヒヤム・ファンは必見、じゃなくて必聴だ。
また劇中何度も流れてくるアラビア語の子守歌。ムスメがたいそう気に入って、いつの間にか口ずさんでいた。映画のエンドクレジットでも流されていたが、歌っているのはなんとスアード・マースィー!サントラ買おうかな。
とりあえず歌詞を貼り付けておく。
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楽しい映画でした。しかも、授業で使えるかも。
人物の顔だけCGチックな造形で、なんとなく妙な気がした。しかしそれ以外の、人物の衣服とか背景とか動物などはとてもきれい。特に、市場やら邸宅やらの風景は、塗り絵のように単色で塗りつぶしたパーツが重なり合い、不思議な質感。まるで、ティムール朝〜サファヴィー朝期のペルシア・ミニアチュールのようでさえある。多分監督もそういうのを相当に意識しながら描いているんだろう。
ストーリーのメッセージ性は明快。主人公の青い瞳の「アズール」と、その幼なじみ、褐色の肌の「アスマール(アスマル、と短く発音したいところ。アラビア語で「茶色」の意味)」の2人が、ジンの妖精を探す旅に出るという冒険譚。舞台は昔々のとある国、ということになっているが、現代のフランスとマグレブの関係が重ね合わされていることは明らか。そう見ると、ラストのあの組み合わせは必然的なものなのだろう。アスィミラシオン!
ムスメと一緒に見たので日本語吹き替えで聞いていたのだが、「声優」香川照之が頑張りすぎ。
で、クレジットを見るとなんと、パレスチナ人女優ヒヤム・アッバース姐さんが、仏アラ2言語で声優をやっているではないか!これはヒヤム・ファンは必見、じゃなくて必聴だ。
また劇中何度も流れてくるアラビア語の子守歌。ムスメがたいそう気に入って、いつの間にか口ずさんでいた。映画のエンドクレジットでも流されていたが、歌っているのはなんとスアード・マースィー!サントラ買おうかな。
とりあえず歌詞を貼り付けておく。
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2010年02月03日
音楽映画の定石
「海角七号」を梅田のガーデンシネマにて鑑賞。
実はすでに以前DVD鑑賞していたものの、日本語字幕無しで漢字字幕と連れ合いによる解説を元に台詞を理解していたので、今回改めて劇場鑑賞した次第。
60年間届けられなかったラブレターをおばあさんに届けてやるとか、3日以内にかっこいいロックバンドを作って2曲完成させるとか、こういう映画内タスクの設定の仕方がすごく効果的。設定としてはありきたりかも知れないが、分かっていてもほろりとしてしまう。
特に音楽シーンのかっこよさ。個性ばらばらのへたくそバンドをノリと情熱だけでまとめて、最後は感動のライブ、というのがこの手の映画の定石だ。「コミットメンツ」しかり「リンダ、リンダ、リンダ」しかり。しかし、お約束と分かっていても感動してしまうのは、やはり音楽の力なのだろうか。ギターは弾けなくても「おれもバンドやりてー」と思ってしまうほどだ。オーディションのシーンでローマー親子が歌っていたあのブルースは一体何語なんだろう?
しかし、日本語で読み上げられる手紙は、やはり何度聞いても「なんだかな〜」という感想を持ってしまう。この部分は前に見た時も意味は分かったので、感想も変わらない。
「これから君の前にどんな男が現れようと、僕ほど君にふさわしい男はいるはずがない」
とか、
「僕は君を捨てたのではない。いやいや手放したのだ」
とか、ラブレターとしてもこっぱずかしい文面だけど、ここに日本と台湾との関係を重ね合わせてしまうと「こっぱずかしい」だけでは済まない問題があるように思う。まあ、この辺の政治的ともとれるメッセージは現地でどう受け取られたのか分からない。「いかにも日本人らしい言い逃れだ」と冷めた目で受け取られていたのかも知れないし。
実はすでに以前DVD鑑賞していたものの、日本語字幕無しで漢字字幕と連れ合いによる解説を元に台詞を理解していたので、今回改めて劇場鑑賞した次第。
60年間届けられなかったラブレターをおばあさんに届けてやるとか、3日以内にかっこいいロックバンドを作って2曲完成させるとか、こういう映画内タスクの設定の仕方がすごく効果的。設定としてはありきたりかも知れないが、分かっていてもほろりとしてしまう。
特に音楽シーンのかっこよさ。個性ばらばらのへたくそバンドをノリと情熱だけでまとめて、最後は感動のライブ、というのがこの手の映画の定石だ。「コミットメンツ」しかり「リンダ、リンダ、リンダ」しかり。しかし、お約束と分かっていても感動してしまうのは、やはり音楽の力なのだろうか。ギターは弾けなくても「おれもバンドやりてー」と思ってしまうほどだ。オーディションのシーンでローマー親子が歌っていたあのブルースは一体何語なんだろう?
しかし、日本語で読み上げられる手紙は、やはり何度聞いても「なんだかな〜」という感想を持ってしまう。この部分は前に見た時も意味は分かったので、感想も変わらない。
「これから君の前にどんな男が現れようと、僕ほど君にふさわしい男はいるはずがない」
とか、
「僕は君を捨てたのではない。いやいや手放したのだ」
とか、ラブレターとしてもこっぱずかしい文面だけど、ここに日本と台湾との関係を重ね合わせてしまうと「こっぱずかしい」だけでは済まない問題があるように思う。まあ、この辺の政治的ともとれるメッセージは現地でどう受け取られたのか分からない。「いかにも日本人らしい言い逃れだ」と冷めた目で受け取られていたのかも知れないし。
2009年12月04日
批判的知性でワルツを
梅田のガーデンシネマで、『戦場でワルツを』上映中。
ちなみに今日の朝日の夕刊に岡真理氏の解説文が掲載。曰く「批判的知性を鍛える上で、とても良い素材である」云々。ようするにお気に召さなかったということか。僕なんかなら「気にいらねーんだよ!」と言ってしまえば済みそうだが、岡さんレベルの大物ともなると、そうは言えないのだろう。ネタバレを恐れてきちんとは読んでないが。
なお明日は上映+岡氏のトークショーがあるようだが、残念ながら行けそうにない。かといって来週は忙しそうだし...どっちを優先させるかな?(ドゥーニャとバシール)
...いや、隣でやってる『千年の祈り』も気になるぞ。『海角七号』もやるのか!嗚呼!
ちなみに今日の朝日の夕刊に岡真理氏の解説文が掲載。曰く「批判的知性を鍛える上で、とても良い素材である」云々。ようするにお気に召さなかったということか。僕なんかなら「気にいらねーんだよ!」と言ってしまえば済みそうだが、岡さんレベルの大物ともなると、そうは言えないのだろう。ネタバレを恐れてきちんとは読んでないが。
なお明日は上映+岡氏のトークショーがあるようだが、残念ながら行けそうにない。かといって来週は忙しそうだし...どっちを優先させるかな?(ドゥーニャとバシール)
...いや、隣でやってる『千年の祈り』も気になるぞ。『海角七号』もやるのか!嗚呼!