2006年11月01日

偶像崇拝

多くの場合、彼らは単独、あるいはグループをなして荒野に住んでいた。荒野には象徴的な意味がある。彼らは(パブテスマのヨハネの如くに)獣の皮をまとい、いなごや野の蜜を食物としていた。鳥のように放浪する隠者であり、一般には、同じく神の霊が宿ると考えられていたロシアのユロッド(隠者)のように、かれらを気の変な連中だと思っていた。預言者たちは大胆に物をいい、王すら容赦しなかった。それは激しい律動と雄弁と詩のもられた言葉で語られ、道義を引き締め、社会正義を求め、神の下す天罰を預言するカッサンドラ的預言者たちは、これらを狂気ともとれるほどの預言の言葉で表現している。

この預言者たちはどこから出たのであろうか。霊感は随時出現する。それは本来、個人的霊感であり、一定の枠にははめられてはおらず、預言者はそれぞれのテーマについて語ったのである。彼らは僧侶でも祭司レビでもない。なぜなら一応社会のあらゆるレベルの職業から選ばれていて、その上実際には祭儀を取り行う者ではないからである。ホセアは百姓だし、アモスは羊飼だし、イザヤは高い身分の階級から出ている。エリアの場合など、どこから来てどこにいったか分からない風来坊である。この預言の言葉は、自由な心のほとばしりであって、四世紀の間継続する。それは政治的ナショナリズムから宗教的インターナショナリズムへ、排他的独占主義から物質的なものを越えたヒューマニズムへ、形式的な祭儀から内容的な精神主義へ、復讐の神から憐れみの神へというまったく新しい大きな変化を示している。その方向は決定的であり、人類全体に未来への大きな門を開いていて、現在なおわれわれはこれに身を委ねているのであって、その点、明らかにユダヤ思想を超越している。ユダヤ人にすればすでにこれら預言者の中に、キリスト教の本質的特徴の全てが存在していると考えられるのである。


預言者たちがユダヤ教の教えから逸脱した点・・・それは何であろうか。本質的にいえば、
それは祭儀よりも倫理にその価値を認めている点である。神は正しい人間を愛する。神の
慈しみは神殿の儀式の遵守によるのではなく、神の意志への服従によって得られる。はじ
めに神が形造られていった時に(神についてこんな言い方をするのを許していただきたい)、
ノアが捧げた祭壇の犠牲の「香ばしいかおり」に神は感激するのであるが、その後この神
はどれほど進歩したと言えよう。「おまえたちはもはやむなしい供え物を携えて来てはなら
ない。その香りはわたしにはいとわしくなった。」(イザヤ1.13)・・・「わたしに燔祭をささげ てくれても、その捧げものはわたしにはうれしくなくなった。わたしはお前たちの肥えた牛な どには眼もむけないであろう。ただ正義が泉のようにほとばしり出ることを願うだけだ。」(アモス5.22、24)・・・「わたしは善はうれしいが、犠牲はありがたくなくなった。わたしは燔祭よりもむしろ真に神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6.6)
 
この攻撃的でうんざりする位徹底したスピリチュアリズムからでてくるのは、偶像に対する徹底した侮蔑の念だけであって、これら預言者たちは容赦のない皮肉を浴びせて、偶像崇拝を痛烈にやっつけている。(以下、イザヤ44.10、14、15の引用)

『ユダヤの民と宗教』A.シーグフリート著・岩波新書刊より抜粋。

上記のような論考によりシーグフリートは偶像崇拝の排除こそユダヤ教の核心だと述べ。

アイミニズムから多神教そして一神教と至る宗教の歴史を考察する。

イザヤ書の以下の辺りを引用する。

第44章15節 木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め/一部を燃やしてパンを焼き/その木で神を造ってそれにひれ伏し/木像に仕立ててそれを拝むのか。

第44章16節 また、木材の半分を燃やして火にし/肉を食べようとしてその半分の上であぶり/食べ飽きて身が温まると/「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。

第44章17節 残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。

第44章18節 彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。

第44章19節 反省することもなく、知識も英知もなく/「わたしは半分を燃やして火にし/その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり/木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。

第44章20節 彼は灰を食らい/惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず/「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない。

これら偶像崇拝に関する源泉は、

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるもの、どんな形も造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」旧約聖書・出エジプト記の第20章

これがコーランであれば

あなたがたは,アッラーを差し置いて偶像を拝し,虚偽を捏造しているに過ぎない。あなたがたがアッラーを差し置いて拝するものたちは,あなたがたに御恵みを与える力はない。だから,アッラーから糧を求め,かれに仕え,感謝しなさい。あなたがたはかれの御許に帰されるのである。「聖クルアーン(コーラン)・第29章17


イスラム教ではムハンマドの絵や像を造ることは、タブーとされているのであれだけ大問題になったのだが・・・・ちなみにムハンマドは預言者であってイエスのように神の子とはされず。


キリスト教の場合だと・・・救世主イエスや聖母マリアの像などを教会などに置いたり、また、布教に使うことは容認・・・・カトリック。

原始キリスト教も偶像崇拝の禁止を徹底していたが、やがて民衆の間でイエスやマリアの絵画などを敬う風習が広がり、ローマ=カトリック教会もこれを容認するようになり、一時ビザンツ(東ローマ)皇帝を首長とするコンスタンティノープル教会(現在のイスタンブール、後のギリシア正教の総本山)と争う(8世紀)その後の宗教改革によって現れたプロテスタント派では、十字架のみだろうか?プロテスタント信徒にとってはマリア像やマリア崇拝は偶像崇拝と見る。

イエスの地位については、初期キリスト教の段階から争いがあったのですが、325年のニケーア公会議で、キリストを「神の子」とするアタナシウス派が正統教義とされ、現在に至り、ユダヤ教徒やイスラム教徒の側から見ればイエスも預言者の1人として位置ずけられよう。


ちなみに原始仏教も偶像崇拝を禁じていた。

釈迦の生前及び入滅後しばらく(と言っても、死後200年後から500年後の間である)は釈迦の姿を彫像で表す事は、禁じられていた。

釈迦はどんな人にも理解できるようににさとりの内容を擬人化して、わかりやすいストーリー仕立てにして教えをた。それが経。・・・しかしどれが釈迦が説き、どれが弟子が説いたかは今だ判然としない。

このことを日本の浄土教蓮如上人は、ご本尊は木像より絵像、絵像より名号本尊(南無阿弥陀仏という念仏)が好ましい、と述べている。

偶像崇拝とは、神像やカリスマ的な人間、超常的な自然構造物などの偶像を崇拝する行為のことを指すのだが地位や名誉への執着や金銭崇拝も偶像崇拝に当たるかと思う。

辞書で引けば以下。

(1)木・石・土などで作った像。特に、神や仏をかたどった像。
(2)あこがれや尊敬・妄信などの対象となっている人や物事。
「少年野球ファンの―」「今や過去の―にすぎない」

三省堂提供「大辞林 第二版」より

一神教と多神教

その源泉となったアミニズム。

原始宗教ないし自然崇拝。

すべてのものに神霊や霊魂が宿るとする、アミニズム、岩、山、巨木、太陽など全ての自然を信仰の対象する自然崇拝等が、原始宗教の特徴。

日本の神道は、この原始宗教の特徴をほとんどそのまま受け継いで現在に至り。

天照が太陽信仰を起源にするように・・・・・

いずれにしろ人間より高次元ないし高度な対象を認め恐れ敬う心のあり方を信仰とするならば。

自己崇拝も偶像崇拝の一種であり偶像崇拝しないってことは謙虚であるってことなのかも知れない。

薄っぺらな人間崇拝や金銭崇拝に如何に人間が陥りやすいかを思えば・・・・・・そしてこれらの甚大な被害・・・・人間を神格化することへの愚かしさ・・・・それが天皇陛下であれローマ教皇であれ金日成であれ・・・

人間の危うさと宗教。

ここから見れば一神教も多神教も無神論も全て危うい。

信じるものは狂いやすい。

排他的になり寛容を失いやすい。

そして現代と言う時代ほど偶像の大量生産の時代もないかとも思う。

偶像とは英語言うところのアイドルである。

英語のアイドル(idol)は元々「偶像」という意味。語源はギリシア語の「エイドーロン」で『形のある像、神像』などを意味する言葉。

倒されたレーニン像。

聳え立つ金日成像

現代日本最大の偶像と言えば

やはり池田大作だろうか?





nohohonkoubou at 10:09│Comments(0)TrackBack(0)

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