2018年01月

私は、時々興味を持ちます。初めて興味を持ったのは、高橋惠子の仕事のキャンセル、山里暮らしでした。男性に大きな影響を受けているらしいところに興味を持ったのです。今は、真如円のトップ霊能者で、大家族と円満にくらしているとききました。

芸能人のスッタモンダは人生を考えさせてくれます。嘘をいったり、嘘を固めるために余計な秘密を言ってしまったりしています。小室哲哉のインポテンツなど。

阿川佐和子の結婚は、本人は老々結婚と笑っていて大きくは報じられませんでしたが、文春を読んでみると、20代から交際のあった教授で、奥さんがやっと別れてくれた、と言うところでした。何十年も待った恋の成就だったのです。

斉藤由貴のの恋人のお医者さんのインタビューも正直でした。お医者さんもこんなものかぁとは思いましたけど。正直で、人間の本質を目の当たりに見たようで感動さえしました。

今日は、ユーチューブに勝手に対談が入っていてーあなたにお勧めですってー華原朋美が、私は小室さんのことをずっと悪く言ってきた、なのに小室さんは一言も言わなかった、済まなかった、人の悪口をいうと自分に返ってくることが分かった、と晴れやかに言っていました。013年の録画でした。
嘘っぽい、と私はおもいましたです。小室哲哉と妻が幸せではないのを知って、許せて、憎しみから解放されて立ち直ったのが本当のところではないかしら。
失恋が辛いのは、劣等感にさいなまれるからです。それが、50/50になって、心が晴れたのではないでしょうか。

と、このように芸能人から人生の不思議さを学んでいるわけなの。

しみじみこの言葉をかみしめています。詳しくはないのですが、華原朋美は長く精神が不安定だったと聞きます。いちど病むとなかなか治らない。妙なハイテンションが不自然だった。その人を犠牲にして得たひとが若い人には珍しい、くも膜下で幼女のようになったのでしょう。

そしてまた今回の女性問題。世間など何と言おうとどうでもいいから、奥さんのために、なにもなかったんだよ、と言い通すしかない。それでいいけどね。奥さんはそれさえも理解できないかもしれない。
へたな言い訳は一層聞き苦しい。

私は、何も無かったよりも、ー何というのか言葉をこれしか知らないので勘弁してもらいますが、ーインポテンツの治療に看護婦さんがきていたとしたら、何も無かったよりもずっといやらしいと思うんです。

華原朋美がなんだかすっきりしたような様子で明るく話していましたが、本当のところは自分を苦しめた二人が不幸になっているのを知って溜飲が下がって晴れ晴れしたのではないですか。

神吉拓郎が、これぞ人間のあるべき姿と感嘆する項目を挙げています。その中に、一つ異質に思われ
る項目があります。
「ときに相手を震え上がらせるほど意地悪な目つきを持ち」
と言うものです。これは、とても大切なものだと近頃は思っています。

先日、「近所の人に、生活保護を受けている人はタクシーに乗ってはいけない、と言われた。私は大雨だし、腰痛がひどいのでバス停まで行けなくて、夫がタクシーを呼んでくれた。生活保護はタクシーにのってはいけないのかね」と、まだ70歳なのに老けていて、腰を曲げて泣く人がいました。

私は、大雨の日によそ様の行動を覗いている人がいるだけでも嫌悪し、しかもその弱い者いじめの言葉にも呆れ、「もし、自分のいうことが正しいと思うなら、ほかの人にも同じことがいえるか」といってやれ、といったのですが、腰痛の人は、「みんなと仲良くしなくてはならないよねえ、」というばかりでした。それどころか、彼女の辞書にない言葉を吐く私を怖い人と思ったらしいのです。

この人は人の良さに付け込まれ、夫にも暴力を振るわれ、近所の意地悪ばあさんの憂さ晴らしの対象になって、一生を終わるんだわ、と思ったのでした。
裏を返せば、本人にその自覚はないけれど、みんなにいい人だと思われたいという欲求の強い人でもあるから、私はもう話の聞き役は下りることにしました。私に慰められて、晴れ晴れしたらしく、にっこりして帰りましたが、精神科に話を聞いてもらったら、5000円はかかるぜ、と憤懣やるかたなしでした。

神吉拓郎のうなづける言葉は、直木賞を読むの「私生活」に載せておきました。

お気の毒です。共働きならともかく、専業主婦なんて、男が外で7人の敵と戦って働くことに比べれば、みんな遊びの内のようなものです。買い出しに行って、ご飯を作って、弁当を作って、それぞれの塾の時間を測っておくり出し、お稽古事の送り迎えをして、掃除洗濯をして、シュークリーム位は作り、時々病院に連れて行き、PTA活動をして、庭の手入れをして、犬猫に餌をやって。それのいったい何が大変なのでしょう。子供の喧嘩を謝りに行くのが大仕事だっただけです。ーこれは辛かったー。

二人の乳児が眠っている間に1時間だけ授業を受けるやり方で、6か月かかったけれど車の免許も取ったから、自分の車もかってもらったわ。今なら虐待ね。ピアノも習っていたし、本も読んでいたし。

夫に、家事も手伝えとは何事ぞ。手を出されれば、自分のやり方と違うことに腹が立つだけではないですか。そして、夫は委縮する。強いて言えば、自分の事は自分でやってくれるだけでいい。
夫が、年子もいる3人の子供をお風呂に入れるだの、おむつを替えるだのは、一度もなかったけれど、なんとも思いませんでした。
そういうことを何もしなかったのを悔やんでいると元夫は言っているそうです。

そうそうに離婚しておきながらなんですが、娘と暮らした20年は、娘がまだ私の娘でしかなかったころは良かったのですが、董が立ってくると、主婦が二人いるようなもので、自分のやり方を主張し、やりづらくなりました。夫に家事分担をさせて、二人主婦の苛立ちをすることはないでしょうに。

一人暮らしを始めた途端、息子が離婚して同居しています。
私は息子の食事は作りません。自分の食事の支度でさえ、めんどくさいんですから。息子も自由でいいと思います。食器は、テーブルに出したままにして貰っています。脂の付いた食器を重ねられるのが迷惑だからです。あぶらっこいものばかり食べて、ギトギト。ヤダネ。

洗濯だけは私がします。ベランダのバラの枝をそそっかしく折られるのがいやだからです。襟と袖口の汚れを石鹸で落としていると、手がふやけますが。ワイシャツのアイロンがけは自分ですることになっています。アイロンがけは、中学生の時からの習慣です。

いちいち、自分の今の居場所と行動を報告しなくてはいけないなんて、面倒ね。つかないでいい嘘もつく。人間がうそつきにならざるを得ないケイタイなんて、捨てればいいのに。

最後まで何もいいことがない小説です。和歌山の鯨猟の村です。明治11年の暮れ、17歳の孫才次は、祖父、父と共に総勢300人が船団を組むその内の一艘に乗り込みます。抹香で2000円、背美なら3000円です。牛200頭分の肉がとれ、村人が年を越せます。この日捕れた背美は、仔共を連れていました。

寺の住職が夢枕に私は鯨です。お腹の仔を生んだら、またここに戻ってきますから、今回は見逃してくださいというのを見たことがあって、その翌日捕れた鯨にはお腹に仔がいて、そのあと村は不運続きだった歴史があります。

仕留めた背美に仔が寄り添っているのを知って、漁師たちは不吉に思います。船は渦に巻き込まれ、多数の死者を出し、浜まで引いていく力もなく、鯨を繋いだ綱を切り放します。

その後、雄雌と仔の鯨の大群が来ますが、雄鯨に傷を負わせたので、それまで輪になっていた鯨の群れが直線になって襲ってきます。船を襲った後は、二時間も浮かんできません。また多数の死者が出ます。孫才次は、二回の遭難で祖父と父を失いました。そのあとも、山火事や水難で多くの死者がでました。
その上はコレラが流行り、16歳の恋人も死にます。口移しで水を飲ませて、一緒に死ぬ気だったのに、助かってしまいました。

孫才次がアメリカで働きながら鉄砲で銛を撃つ器械を作り上げ、戻ってきたときは、15年経っていました。
その器械で鯨を撃った時、銃身の後部が破裂して、顔を砕き、死んでしまいました。

この村の人びとだけでなく、その頃の日本人の暮らしはその様なものだったのだと思います。
今、つかの間の平和な時期に偶然生まれ合わせた幸運をよく考えます。

現在は使われていない方言を作者も調べて書いたそうです。読みにくいことこの上なしでしたが、仮名にしただけで、途端に嘘くさくなるのと似ていて、我慢ですね。

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