どの窓からも緑だけが見え、聞こえるのは鳥の声。なあんて、ただ雑草が生え放題だけなのだが、雑草さえも麗しく心やすまる緑の季節。
思えば、年が明けてから一つの長い時間トンネルを通っているうちにもう半年。何をどう過ごしていたのか…。
今年は竹の子の裏年だった。出も遅く、しびれを切らした友だちは「買ってしまっただらぁ」と嘆く。伊豆の人が竹の子を八百屋さんで買うなんてありえない話。
桜が咲いても散っても竹の子はさっぱり。逆に、ゴールデンウィーク過ぎて思い出したように顔を出した竹の子を、掘り、湯がいたりした。
桜はといえば、今年は東京や伊豆でも眺めた記憶が薄く、その後に用事で行った三春で、 福聚寺の満開の桜を眺める幸運に恵まれた。
山も丘も、土も空もひと続きになって、お寺の敷地いっぱいに桜が思い思いの姿で咲いている。近づいて見る花びらの一枚一枚も、遠くから眺めるそれぞれの木の佇まいも、こちらに春の魔法をかけられたように心奪われた。
実は、去年12月の個展を終えた母が、年を越して具合が悪くなり、まもなく家で息をひきとった。彼女の望むようにと、医療専門家、ヘルパーの方たちと家族で支えてきた日々の最後に、彼女らしい静かな別れが訪れたのだった。愛猫が突然ベッドに飛び乗り、母の右腕と胸の間でじっと動かずにいたその30分後のことだ。猫こそが予感し、母を見とどけたのを目の当たりにし、私たちは驚いた。
どんな終末であれ、喪失感はあまりにも大きく、どうしたら平常な心に戻れるのか私は長い間、わからないでいた。桜を見て、筍を採り、新緑を眺めて、ようやく心が落ち着いてきた気がする。
人は、昔から辛い時も自然と対話してきたのだろう。
伊豆ではつづじの花もおしまいで、グミの実がぷっくりと赤くなった。ザクロの花がたくさん咲き始め、明るいオレンジ色は空を背に透けるようだ。新緑も夏に向かって、逞しい緑に変わっていく。
その歩みと合わせるかのように、私はスタッフと共に今年の11月に開催する知半アートの準備に追われはじめた。
思えば、年が明けてから一つの長い時間トンネルを通っているうちにもう半年。何をどう過ごしていたのか…。

桜が咲いても散っても竹の子はさっぱり。逆に、ゴールデンウィーク過ぎて思い出したように顔を出した竹の子を、掘り、湯がいたりした。
桜はといえば、今年は東京や伊豆でも眺めた記憶が薄く、その後に用事で行った三春で、 福聚寺の満開の桜を眺める幸運に恵まれた。
山も丘も、土も空もひと続きになって、お寺の敷地いっぱいに桜が思い思いの姿で咲いている。近づいて見る花びらの一枚一枚も、遠くから眺めるそれぞれの木の佇まいも、こちらに春の魔法をかけられたように心奪われた。
実は、去年12月の個展を終えた母が、年を越して具合が悪くなり、まもなく家で息をひきとった。彼女の望むようにと、医療専門家、ヘルパーの方たちと家族で支えてきた日々の最後に、彼女らしい静かな別れが訪れたのだった。愛猫が突然ベッドに飛び乗り、母の右腕と胸の間でじっと動かずにいたその30分後のことだ。猫こそが予感し、母を見とどけたのを目の当たりにし、私たちは驚いた。
どんな終末であれ、喪失感はあまりにも大きく、どうしたら平常な心に戻れるのか私は長い間、わからないでいた。桜を見て、筍を採り、新緑を眺めて、ようやく心が落ち着いてきた気がする。
人は、昔から辛い時も自然と対話してきたのだろう。
伊豆ではつづじの花もおしまいで、グミの実がぷっくりと赤くなった。ザクロの花がたくさん咲き始め、明るいオレンジ色は空を背に透けるようだ。新緑も夏に向かって、逞しい緑に変わっていく。
その歩みと合わせるかのように、私はスタッフと共に今年の11月に開催する知半アートの準備に追われはじめた。