伊豆noko徒然日記

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桜・筍・緑  sakura, takenoko onto the green season

 どの窓からも緑だけが見え、聞こえるのは鳥の声。なあんて、ただ雑草が生え放題だけなのだが、雑草さえも麗しく心やすまる緑の季節。

 思えば、年が明けてから一つの長い時間トンネルを通っているうちにもう半年。何をどう過ごしていたのか…。
 DSC_2869今年は竹の子の裏年だった。出も遅く、しびれを切らした友だちは「買ってしまっただらぁ」と嘆く。伊豆の人が竹の子を八百屋さんで買うなんてありえない話。 
 桜が咲いても散っても竹の子はさっぱり。逆に、ゴールデンウィーク過ぎて思い出したように顔を出した竹の子を、掘り、湯がいたりした。

 桜はといえば、今年は東京や伊豆でも眺めた記憶が薄く、その後に用事で行った三春で、 福聚寺の満開の桜を眺める幸運に恵まれた。
 山も丘も、土も空もひと続きになって、お寺の敷地いっぱいに桜が思い思いの姿で咲いている。近づいて見る花びらの一枚一枚も、遠くから眺めるそれぞれの木の佇まいも、こちらに春の魔法をかけられたように心奪われた。
 
 実は、去年12月の個展を終えた母が、年を越して具合が悪くなり、まもなく家で息をひきとった。彼女の望むようにと、医療専門家、ヘルパーの方たちと家族で支えてきた日々の最後に、彼女らしい静かな別れが訪れたのだった。愛猫が突然ベッドに飛び乗り、母の右腕と胸の間でじっと動かずにいたその30分後のことだ。猫こそが予感し、母を見とどけたのを目の当たりにし、私たちは驚いた。
 どんな終末であれ、喪失感はあまりにも大きく、どうしたら平常な心に戻れるのか私は長い間、わからないでいた。桜を見て、筍を採り、新緑を眺めて、ようやく心が落ち着いてきた気がする。
 人は、昔から辛い時も自然と対話してきたのだろう。

 伊豆ではつづじの花もおしまいで、グミの実がぷっくりと赤くなった。ザクロの花がたくさん咲き始め、明るいオレンジ色は空を背に透けるようだ。新緑も夏に向かって、逞しい緑に変わっていく。
 その歩みと合わせるかのように、私はスタッフと共に今年の11月に開催する知半アートの準備に追われはじめた。

 
  

粟屋ひで代の個展  Hideyo's first show in Tokyo

 「母のこと」の続きです。
 知半庵&知半アート関係者にはfacebookやメールで、また現在、書店に出ている「ミセス」1月号の情報欄でもお知らせしておりますが、庵に生まれ育った母の個展が先週から東京・自由が丘にて開催中。あと1日を残すところとなりました。毎日、たくさんの方々に母の作品を見ていただき本当に感謝感激です。
 今年「ミセス」誌上での「94歳の布仕事」として掲載された以外の作品も見たいという声が多く届いていました。また、それ以前から、発表するなど微塵も考えずひたすら布の作品を作り続けてきた母を傍で見ながら、何かしなければという娘としての責任と使命のようなものが芽生えていたのでした。そして、今回、祈るような気持ちで個展を迎えたのでした。
 会場で、時に作品説明をしながら、年齢、性別、職業、来場されたきっかけも異なる方々の感想や評に耳を傾ける日々です。制作を目の当たりにしてきた者としては、彼女の軌跡と父と私を含めた家族との関係を個展という形で辿ることにもなりました。新たに気づいたことは少なくありませんが、その事は個展後に少し落ち着いてから書きたいと思います。
 今は、ただその渦の中で毎日、考え、色々な思いを巡らしています。(12月11日記)
Hideyo's show @jiyugaoka

二十歳になった時  revisiting Hiroshima as I turned 20.

 成人式に、私は振袖を着ようとはしなかった。いや、断固拒否! 
 母はきっと泣きたい気持ちだったろう。私が中学時代を過ごした小倉にわざわざ出掛け、井筒屋で特別に注文したという。はんなりとした桜色の地に、大きな花の刺繍が幾つかほどこされていた。「親の心、子知らず」とはこのことである。70年代に女子大生となった私は、この揺れ動く時代の中で『成人式に振袖など着てられるものか!』と思った。

 二十歳になろうとしていた真夏のある日、私は一人で電車を乗り継ぎ広島に向かった。

 昔、父の転勤先の広島で私は幼稚園に通った。
 会社の方や友人が広島を訪れるたびに、幼い私を伴って両親は原爆記念館に案内した。日本の歴史も、原爆が何かも知らぬ幼稚園児は、ぐにゃりと歪んだ瓶、原爆の閃光が焼き付いた階段、焼けた体にへばりついていたはずの布きれなど、目の前のモノたちに、ただひたすら目を凝らしていた。

 いつも遊んでくれる近所のお姉ちゃんの腕には爛れた跡が大きく広がっていたが、それが被爆のせいだと知ったのはいつのことだったろう。変わりなく、私はお姉ちゃんと愉快に過ごしていた。秋にはすすきの穂を取りに広島女学院まで上がっていき、夏に小川で泳ぐとウミヘビに出くわした。時々、近くの斜面に建つ掘立て小屋みたいなお好み焼き屋に五円玉を握りしめ、子どもたち数人で出かけた。目の前の鉄板で見事に出来上がるお好み焼きはまるで手品だと思った。遊びほうけて、母に叱られ家に鍵を掛けられてしまったこともたびたび。縁側で足長蜂に刺され、その痛さも知った。広島での日常はこんな風だった。
広島
 大きくなるにつれ歴史を知り、原爆が何たるかも習った。そのたびに、頭の中で、自分の広島を反芻していた。
 
 ある時、国弘正雄が「戦時中の日本人の平均疲労度は霞が関ビルを階段で何百回も往復したぐらい」と言うのを聞き、自らの身を置きかえ想像してみた。
 戦争とは何だったのか? 広島とは何だったのか? 私は無性に広島に戻りたくなった。

 8月とはいえ原爆記念式典もとっくに終わり、広島の街は普段の顔に戻りつつあった。私は地図を片手に記念館を起点に、ひたすら歩いた。ドームを見上げ、イサムノグチの二つの橋を行ったり来たりした。間違ったバスでとんでもなく遠い所に行きつき、また戻ったりしながらも、子ども時代に住んだ牛田という地区を探しあてた。住所も覚えてはいない。だから、地図を捨て、原始人のように川や小川の流れに沿って歩き、やっと探しあてた。
 一日中、太陽が照りつけていた。原爆投下の日もそういう何の変哲もない夏日だったと繰り返し聞いていた。

 広島に再び身をおいてみる。ただそれだけを、私の「二十歳の記念」にしたかった。

 歴史の全貌をつかむにはあまりにもちっぽけな脳みそ。戦後っ子の想像力にも限界がある。だが、広島で過ごした幼い日々と、8月15日に生まれた偶然の意味を、ひたすら歩きながら問い直していた。

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