大久保利通井上馨 (志道聞多)

2006年03月05日

伊藤博文

名前: 伊藤博文 (伊藤利輔、伊藤俊輔)
変名: 花山春輔、越智斧太郎、デポナー、花山春太郎、吉村荘蔵、林宇一

誕生年: 1841年
没年: 1909年
所属: 長州藩→政府

・周防国熊毛郡束荷村野尻(今の山口県光市)に百姓・林十蔵の長男として生まれ、のち父が萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となり、伊藤姓を名乗る
・1857年、松下村塾に入塾し、吉田松陰の21番目の弟子となる
・1859年、桂小五郎の郎党として、江戸・麻布藩邸に到着し、吉田松陰の改葬を手伝う
・1862年、に従って上洛する
・1862年に高杉晋作らとともに、御楯組を結成し、翌年、英国公使館の焼き討ちに参加する
・1863年、志道聞多(井上馨)らとともに、英国に留学する
・1864年、長州の危機を知った伊藤と井上は、急いで帰国する
・4カ国連合艦隊との講和の席で高杉を助け、戦争責任を幕府に転嫁させる
・その後、長崎での武器の購入に立ち回る
・新政府発足後は、語学力を買われ、外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事などを務める
・1869年、名前を博文と改める
・1871年、岩倉使節団の一員として、岩倉具視大久保利通木戸孝允らとともに欧米を歴訪する
・大久保の死後、大久保利通の後継者となり、工部卿から内務卿に就任する
・1885年、初代内閣総理大臣となり、その後第5代、第7代、第10代総理大臣となる
・1909年、ハルビンで韓国人・安重根に暗殺される

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