勝海舟品川弥二郎

2006年03月19日

佐久間象山

名前: 佐久間象山

誕生年: 1811年
没年: 1864年
所属: 松代藩

・松代藩で祐筆頭を務めていた佐久間国善の子供として生まれる
・1831年、松代藩藩主・真田幸貫に非凡さを認められ、世子・真田幸良の近習に抜擢される
・1833年、江戸遊学を許され、佐藤一斎に学ぶ
・1841年、藩主・幸貫が、水戸の徳川斉昭の引き立てもあり、老中に就くと、翌年には海防掛に任じられたため、象山を顧問に抜擢し、西洋に対する研究を始めさせる
・西洋式砲術の塾を開いた江川担庵に入門し、砲術について学ぶ
・砲術について学んだ上で、幸貫に提出した海防八策の意見書の中で、外国船の購入、操船技術の習得が不可欠であると主張する
・1851年、江戸・木挽町に西洋式砲術と兵学を教える塾を開く
・砲術家として象山の名は広く知られており、勝海舟吉田松陰坂本龍馬、橋本左内、河井継之助、加藤弘之らが学ぶこととなる
・1852年、勝海舟の妹・順子と結婚する
・1853年、開国を迫るペリーの米艦隊が浦賀沖に来航すると、時の老中・阿部正弘に意見書・急務十条を提出する
・その一方で、弟子の松陰に密航を勧めるが失敗し、象山も連座したものとされ、自宅蟄居を言い渡される
・自宅蟄居は、9年にも及び、その間、象山は西洋研究に没頭する
松陰の弟子である高杉晋作とも、このころ密かに会い、攘夷が不可能であることをとく
・1862年、象山を自藩に招こうと考えた土佐藩藩主・山内容堂と長州藩藩主・毛利敬親の働きかけにより蟄居をとかれる
・土佐藩は中岡慎太郎、長州藩は久坂玄瑞を使って、説得を試みるも、象山は両藩の申し出を断り、松代藩に戻る
・1864年、将軍家茂の上洛命令により京都に行き、海陸御備向手付御雇という職に任じられる
・1864年、京都にて肥後の河上彦斎を始めとする浪士に襲われ命を落とす、享年54歳

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【関連書籍】
佐久間象山―幕末の明星
小説 佐久間象山〈上〉
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