以下は、2011年11月号の「正論」誌に寄稿した文章を一部改稿したものです。
非常に大きな反響を呼んだ記事です。

当時、民主党から巨額の政治献金を受けていた「市民の党」という謎の政治団体がありました。
その「党首」である斎藤まさし氏の来歴を探ってゆくと、数々の驚くべき事実が発覚しました。
詳しくは読んでいただきたいのですが、この人物、極左ものけぞるような筋金入りの革命戦士であったのです。

 しかし、これを報じた大メディアは産経のみ。他媒体はまったくのスルー。
これが自民党相手なら、壮絶な報道合戦が繰り広げられたに違いありません。

この時ほど日本の言論界の偏向ぶりを痛切に感じた時はありませんでした。


   
                       * * *


 謎の政治献金


 民主党からの巨額献金問題で一躍注目を浴びた市民の党代表の齋藤まさし(本名:酒井剛)。極左過激派の活動家出身で、かつて日本社会党からはじまって左派小政党を渡り歩いた左翼界のスター政治家・田英夫(09年、死去)の娘婿(2000年に離婚)でもあった。国政選挙や地方選挙で数々の無所属議員を応援して当選させ、「市民派選挙の神様」と呼ばれたこともある。最近の国政では民主党に肩入れし、資金面ばかりか政策面でも大きな影響を及ぼしているようだ。義父の田英夫の紹介ではじまったという菅直人首相との交友は、30年以上に及ぶという。

 その菅首相の政治資金管理団体(草志会)からの6250万円を筆頭に、民主党から市民の党とその関係団体に計2億496万円の資金が流れていた。逆に市民の党所属の地方議員らからも、政権与党と議員の関係団体などに計1700万円近い献金がおこなわれている。いったい何のための巨額の資金移動だったのか?

 8月9日の衆院法務委員会で江田五月法相らに詰め寄った自民党の平沢勝栄議員は、一連のカネの流れをこう見る。

「菅首相からの献金は07年に5000万円、08年に1000万円、09年に250万円。以降はない。ということは、09年の総選挙に備えて民主党の選挙資金をプールしていたのではないか。両者間のカネの動きに関しては不可解なことだらけで状況的には真っ黒だが、現時点では違法性がないので調べようがない。内部告発が出ない限り真実が明るみに出ることはないだろう」

 民主党にとって、かつてない重要な選挙であった09年の政権交代選挙を睨んで資金を蓄えていたという仮説は確かにありそうだが、「プールしていた」というより、事前の根回しに使っていたのではないかと、別の政界関係者は話す。

「本当に選挙に強い政治家は、選挙期間よりも事前の瀬踏み(準備)行為にカネと時間をかける。選挙のプロである斎藤がそのことを知らないはずはない。首相経由の資金のうち大部分が総選挙の2年前に渡っていたのはそのためだろう」

 しかし、民主党の政策策定過程に異議を唱え、除名処分を受けた土屋敬之東京都議(現創新党)は選挙資金説に疑問符をつける。

「いざ選挙となれば、民主党には労組経由でいくらでも資金が集まる。選挙資金というより、斎藤と思想的に共鳴する菅が公然と市民の党に資金を横流しするための既成事実をつくろうとしていたのではないか」

 あるいはまた、「民主党と市民の党のあいだで寄付をし合って所得隠しをしていたのではないか」というマネーロンダリング説を唱えた自民党関係者もいたが、いずれにせよ真相はまだ藪の中だ。いったい、なぜこんな不可解な資金移動が実行されたのか――。それを考える前にまず、この市民の党という不可思議な政治組織を率いる斎藤まさしなる人物の来歴を追ってみよう。 


極左機関誌に登場
 
 斎藤まさしは1951年、島根県邇摩郡五十猛村(現太田市)に生まれる。70年に上京して、上智大学外国語学部ロシア語学科に入学。「毛沢東が大好きだった」という斎藤は、翌年には学生訪中団に参加。帰国後、学費値上げに抗議し、デモを起こして逮捕されている。

 これによって大学を除籍処分となった斎藤は74年、党派に属さない全国の学生活動家に呼びかけて日本学生戦線(日学戦)というノンセクト組織を結成する。そして、田英夫の娘と結婚するのはその後の77年だ。

「田英夫さんの紹介で」と本人が語っているところを見ると、菅直人との接点が出来たのは、おそらく77年から79年のあいだだろう。

 同時期、弁理士として独立する傍ら市民運動を続けていた菅直人はみずから結成した「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」を率いて、落選中の市川房枝を参院選に担ぎ出す。「市川房枝さんを勝手に推薦する会」との名称で、選対事務所の代表となった。これが、その後のいわゆる「勝手連」選挙の嚆矢である。
 
 やがて菅直人は中央政界進出を目指して76年の衆院選(無所属)、77年の参院選(社会市民連合)、79年の衆院選(社会民主連合)と出馬するが立て続けに落選。80年の衆院選でふたたび社民連から出てようやく初当選を勝ち取った。

 では、現首相と最初に接点をもったこの当時の斎藤まさしはいったい何をしていたのか?

 03年10月27日号の『AERA』(「現代の肖像」)によると、「アルバイトをしながら、ベトナム反戦運動、狭山裁判闘争、カンボジア難民救済、北方領土返還などの市民運動に関わった」とある。しかし、それは表面上の活動に過ぎなかったようだ。

 実践社という左翼系出版社が発行する『理戦』という季刊誌がある。実践社の社長は今年5月に逝去した荒岱介といったが、じつはこの人、新左翼の世界では知らぬ者のないほどの有名人だった。

 60~70年代に隆盛を極めた新左翼運動の二大潮流が革共同(革命的共産主義者同盟=中核、革マルなど)と共産同(共産主義者同盟=ブント)だが、荒はそのブントの名前を継承した共産同戦旗派のリーダーだった。

 共産同から分かれた他の諸派のなかには、アラブに飛んだ日本赤軍や、あさま山荘で集団リンチ殺人事件を起こした連合赤軍、北朝鮮に逃げたよど号ハイジャック犯グループなどもある。

 『理戦』はもともと共産同の学生組織だった社会主義学生同盟(社学同)の機関誌で、60年安保に先駆けて発行された『理論戦線』を継承する伝統ある左翼雑誌だが、04年、この『理戦』(秋号)誌上で、往年の新左翼のカリスマ・荒岱介と斎藤まさしが対談をおこなっている。

 日頃“革命的警戒心”の強い彼らだが、仲間意識というのはやはり舌のすべりを滑らかにするものらしい。市民の党に関してはネット上にホームページも持たない謎の政党とされ、代表の斎藤まさしも選挙ボランティアとしてしか知られてなかったが、じつはこの人物が極左も驚く並外れた革命思想の持ち主である事実が、自身の口から赤裸々に語られているのだ。

 70年代後半、ベトナム反戦運動等の市民活動の裏で斎藤は何を考え、何をやっていたのか?


「30年間革命一筋」


荒 イデオロギー的にはどんな傾向だったんですか。中共派系だったとも聞いていますが。
斎藤 僕は毛沢東が大好きだったけれど、日学戦はそうじゃない人のほうが多数派だった。
荒 日学戦を通じて中国共産党のような「党」を作るつもりだったのですか。
(略)
斎藤 実はね、今から思うとマンガだけど、完全な地下組織を作っていたのです。
荒 日学戦の中に?
斎藤 いや、学生だけじゃない労働者のなかにも。
荒 何という組織だったのですか。
斎藤 革命を目指す「同盟」というだけで、名前もない。


 名前もない地下組織をつくるとはまさに職業革命家の所業であるが、その当時はまだ極左の活動も隆盛であり、公安警察の人員も多かった。77年、狭山闘争で大規模な抗議集会とデモ行進がおこなわれた際、斎藤は参加者中ただ一人逮捕されている。「デモ隊を指揮して石を投げた」というのが表向きの理由だが、実際には斎藤がつくっていた地下組織の実態を調べるのが本当の理由であったと思われる。

 この時全国30ヵ所にガサが入ったが、結局斎藤に実刑が下ることはなかった。斎藤によれば、この時「地下組織」が何をしていたかといえば、「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想に立脚した新左翼セクト」(公安筋)立志社の立ち上げと、新聞(『アカハタ』から後に『新生』に改称)を出す準備をしていたという。

 
荒 『アカハタ』と『新生』の発行元はどこだったのですか?
斎藤 発行元は立志社です。
荒 立志社? じゃあ今も変わってないじゃないですか。
斎藤 変わってないですよ。僕は全然転向していないですから(笑)。環境主義にもなっていないし、いまだに革命一筋です。
荒 そう言われるとなんだか困るなー。
 
 と、ここで斎藤はソ連崩壊以降、革命路線を棄てて環境派に転じた荒を皮肉っている。荒としては「痛いところを突かれた」といったところだろうが、驚くべきはこの後のやり取りだ。


荒 毛沢東思想、マルクス・レーニン主義で革命をやろうと思っていた?
斎藤 今もそう思っています。
荒 エッ! 今も?
(略)
斎藤 そうです。でもぼくは、荒さんたちの言葉でいえば「スターリン主義」、いわゆるソ連型の社会主義というのは最初から信じていない。スターリン主義党のような党組織ではダメだと思ってきたわけです。
斎藤 毛沢東が好きで、共産党や革共同とは違う、もっと大衆路線の革命思想をやろうとしてきたということですか。
斎藤 そう、革命一筋。この30年間、他に何も考えたことはない。


 荒岱介といえば、早稲田の学生時代からの活動家であり、第一次・第二次羽田闘争、王子野戦病院設置阻止闘争、佐世保エンタープライズ入港反対闘争、三里塚闘争、東大安田講堂事件等でも勇名を馳せた過激派闘士である。71年には戦旗派のリーダーとして分派闘争(内ゲバ)の標的となり、頭部に重傷を負ったこともあった。その元極左武闘派闘士が「エッ! 今も?」と仰天するほどの根強い革命思想の持ち主こそが、市民の党代表の斎藤まさしなのだった。


フィリピン革命を「総力をあげて支援」


 そしてその後の80年代、「日本はまだ革命情勢にない」と見た斎藤は、東南アジアに革命の根拠地を求める。

 83年、自民族大虐殺の狂気を招いたカンボジアのクメール・ルージュ武闘派勢力(ポル・ポト派)の幹部が市民の党の機関紙『新生』に親密なメッセージを寄せていた事実はすでに産経新聞の報道で明らかになっているが、じつは80年代、斎藤まさしがもっとも力を入れていたのはフィリピンのマルコス独裁体制打倒、いわゆるフィリピン人民革命の支援であったという。
 
 荒との対談のなかで、「もう時効だからこの話しちゃうけど」と言いながら斎藤は

僕は、86年マルコスが追い出されたとき、マラカニアン宮殿に殺到したデモ隊の中にいたんです

 と告白しているのだ。

斎藤 (前略)具体的にいうと1980年から86年の間、僕は一年の半分以上はフィリピンにいて、地下のCPP・NPA(フィリピン共産党・新人民軍)勢力と合法野党勢力、それからその他の反マルコス勢力をどうやって繋ぐかと、奔走していました


 7年間ものあいだ、1年の半分以上も日本を空け、フィリピン革命のためにかけずり回っていたというのだ。しかも斎藤自身の弁によれば、その功績は並大抵のものではなかったようなのだ。

斎藤 統一戦線の発展で、ぼくの言うことは割合影響力があった。実際、予想外に早くマルコス政権は倒れたし、アジア最大の米軍基地もなくなった。
(略)
 戒厳令下でデモひとつできなかった1980年から、アキノ暗殺を経て86年のマルコス打倒-米軍基地撤去に至るまでの急激な革命情勢の発展の渦中に、直接参加していました。
その中で感じたことは、長年の社会の矛盾と人民の長期にわたる苦闘が、ひとつの事件を契機に予想を越えて一気に爆発的に革命的高揚に発展するという「革命の現実性」と、一方での党の役割の決定的重要性とその責任の重さでした。
荒 「同盟」はどうかかわっていたのですか。
斎藤 
グループの総力をあげて支援していました。今、選挙に注ぎ込んでいるよりも多額の資金を支援した(笑)。彼らが一番困っていたのはお金だから。

 アメリカの強力な庇護を背景に二〇年間続いたマルコス独裁政権を、組織の総力をあげて、日本での選挙よりも多額の資金を注ぎ込んで支援していたという。しかし、一国の革命に影響を及ぼすような、そんな莫大な資金がいったいどこから湧いて出てきたというのか?

「背後にいたのは中国共産党ではないか?」「密かに朝鮮総連から献金を受けていたのではないか?」
 などと資金疑惑が取り沙汰される所以の一つだ。

 前出『AERA』記事によれば斎藤の資金源は「市民の党の地方議員らによる個人献金だ」ということだが、この時期にはまだ市民の党は結成されておらず、もちろんまだ一人の当選者も出してはいない(母体となったMPD・平和と民主運動は83年に結成されてる)。中国共産党や朝鮮総連の名前が出てくるのは、先述のように若い頃の斎藤が熱烈な毛沢東主義者であったことや、現在の市民の党が朝鮮総連系大物商工人の所有するビルのなかに居を構えていることなどに由来するようだ。
 
「全部言うとつながりが……」

 しかし、マルコス独裁体制は倒れたが、斎藤が物心両面から支援したフィリピン共産党(CPP)は政権の座に着けず、新たに樹立したのはコラソン・アキノ政権だった。路線対立が表面化した斎藤とCCPは結局袂を分かち、日本に戻った斎藤は主に無党派候補の選挙ボランティアに本腰を入れるようになる。


荒 さて、斎藤さんは選挙で、いろんな人を当選させてきました。僕が知っているかぎりでも、田(英夫)さんでしょう、堂本(暁子)さんでしょう、喜納(昌吉)さんでしょう。他に当選させた人は誰ですか。
斎藤 全部言うとつながりがばれちゃうからなー。差し障りのない範囲で言うと、他には、中村敦夫さんとか、広島の秋葉忠利市長とか、新潟の黒岩宇洋(たかひろ)君とかね。
荒 ブントの黒岩(卓夫)さんの息子さんですね。


 どうやら、全部バレては困るようなつながりがあるようなだのだ。国政・地方併せて、齋藤まさしはおよそ三〇年のあいだに千数百の選挙にかかわっている。

 斎藤が「差し障りのない範囲で言」った「(全学連のリーダーだった)ブントの黒岩さんの息子さん」である黒岩宇洋法務政務官(民主党)が五月と八月の衆院法務委員会で槍玉に上げられている。5月11日と17日の質問に立ったのは自民党の河井克行と柴山昌彦だった。

 11日、河井克行はまず09年に黒岩の関係団体「越後の暴れん坊」が市民の党所属の横浜市議・井上桜から139万円の寄付を受けている点を指摘。この井上は01年、同僚議員とともに市議会での国旗掲揚に反対して騒ぎを起こして退場を命じられ、その翌月、報復措置として6時間にわたって議長席を不法占拠して除名処分を受けたことのあるという、いわくつきの地方議員だった。

 この献金と井上の起こした事件について黒岩は「知らない」「承知していない」と躱したが、翌週の柴山昌彦の質問でこの井上桜が黒岩が初当選を果たした02年の参院補選でウグイス嬢を務めていたこと、事件後黒岩が井上に激励のメッセージを送っていたことなどが暴露されてしまう。そして姑息にも黒岩は、ネット上の日記に公開していたこの事実を前週の河井の質問の直後にこっそり削除していたのだ。

 さらに河井克行は「越後の暴れん坊」が市民の党からカネを受け取っていたばかりでなく、09年には392万円もの献金を市民の党におこなっていた事実を指摘した。しかもその市民の党から、よど号ハイジャック犯のリーダー・田宮高麿とその妻で日本人拉致事件の容疑者・森順子の長男・森大志が三鷹市議選候補としていたこと、越後の暴れん坊の会計責任者が武蔵野市で市議をしている山本ひとみであることにも言及した。国会でこれらの事実が指摘されたのはこの時が初めてだった。

河井 多額の献金をした民主党の名前を付した、しかも現職の大臣政務官が、今公安調査庁を所管する法務省の最高幹部のお1人でいらっしゃる。しかも、あなたは衆議院で政務官になる前に北朝鮮拉致問題特別委員会の筆頭理事や委員をお務めでしたね。
(略)
黒岩 平成21年になります。
河井 まさにあなた自身が拉致特の筆頭理事をお務めの時に、あなたの名前を付した政治団体が市民の党に多額の献金をしてきている。そして、あなたご自身の選挙区は新潟ですね。たくさんの拉致事件が発生したところ。(略)しかも三鷹の市会議員選挙でも(略)そういう厳しい選挙の中で、あなたの名前を付した政治団体から出たお金によって市民の党の政治活動、選挙活動が営まれた。それによって、先ほど長官からお答えがあったように北朝鮮、例のよど号ハイジャック、そういったことにまつわる人たちのご家族が出た選挙に対して、あなた自身の名を付した政治団体のお金がいっているということについてどのような認識を抱いていらっしゃるか、お答えをください。
 
 この後ヤジが飛んで委員会は騒然となるのだが、これだけの疑惑を抱えた黒岩宇洋が「差し障りのない範囲」であるというなら、差し障りがある候補者とはいったいどんな人達なのか。


「一番自由なのは民主党」


「30年間革命の他に何も考えたことがない」という斎藤まさしだが、この人物は決して硬直した左翼教条主義者ではない。むしろ現代社会のなかでいかに現実に革命を起こすかを合理的に模索するプラグマティストである。たとえば、荒岱介との対談のなかで、斎藤はこんなことを言っている。


荒 それで、選挙で人を推すときの基準は何ですか。毛沢東思想とかレーニン主義とか言うのだから、当然何かイデオロギー的な基準があるわけですよね。
斎藤 イデオロギー的な基準というより、政治的な基準ですね。
(略)
斎藤 僕の当面の戦略的な政治目標は自・公政権を潰すこと、つまり政権交代です。自公政権を倒すために有効な選挙なら、基本的にやる。日本帝国主義と戦うためには蒋介石とも手を組むという毛沢東の統一戦線戦術ですよ。
(略)
荒 なるほど。斎藤さんとしては、今は「自・公を倒す」「政権交代」が政治的な基準なわけですね。
斎藤 それが革命の一つの結節点だから。


 つまり、選挙で応援する候補者を選ぶ基準はイデオロギーではなく、プラグマティズムなのである。何のためのプラグマティズムかといえば、「自・公政権を倒す」ための、そして「(革命の結節点としての)政権交代」のためのプラグマティズムであり、そのための手段としての選挙なのだ。民主党のなかでは保守派と言われた鷲尾英一郎の選挙応援を買って出た理由もこれで説明できる。

 ようするに、表から入るか裏から入るかの違いはあるが、政権奪取のために民主党に潜り込んだ小沢一郎の手法とやり方は一緒なのだ。ただ、小沢と決定的に違うのは、斎藤には政権交代後に「共産主義革命」という明確なビジョンがあることだ。

 斎藤はまたこうも言う。

「革命の一手段として選挙を最大限に使いたい」
「僕は革命のために選挙をやっている」

 この対談がおこなわれた04年は、民主党と自由党が合流した、いわゆる民由合併の翌年である。政策的にはまるで水と油に見えたこの両党の野合を、斎藤は批判するどころかきわめて肯定的に評価している。


荒 今は結局、民主党に肩入れしているわけですね。
斎藤 結局というか、果たして民主党で政権交代が可能かどうか、だいぶ考えた末の戦略です。決定打になったのは、民主党と自由党が一緒になったことですね。小沢さんと菅さんが一緒になったことで、圧倒的な野党第一党が生まれた。これは大きな変化だと僕は見ています。


 さらに続けて斎藤は、「党内が一番自由なのは民主党です。社民党はいわゆる『護憲論』でゴチゴチで、共産党には僕らが活動する自由なんかありません」とも言っている。

 
つまり、綱領もなく「選挙互助会」と揶揄されることもある野合政党の民主党のなかには、「元過激派」で、「三度の逮捕歴」があり、「毛沢東思想とマルクス・レーニン主義で革命を起こそうと現在も思っている」斎藤まさしが好きなように活動できる自由があるということだ。

 だからこそ彼は民主党に狙いをつけたのである。やはり、この男は思想家ではなく政治家であり、職業的な革命家なのだ。 そして現在、市民の党は選挙協力と政治資金で民主党の手足を縛り、民主党選出議員の秘書や関連団体の事務局にメンバーを送り込んで政策決定にも影響力を及ぼしているのではないかと推察される。
 
 というのも、齋藤まさしは鳩山前首相が「東アジア共同体」構想を言い出すずっと前から、同様の提唱をしているのだ。


荒 (略)それで斎藤さんが言うような革命をやった国は世界のどこかにあるんですかね。
斎藤 もし本当にEUが一つの国になり、大統領制を敷いて、貧富の格差を解決していくような政策をとれば、可能性はあるでしょうね。
荒 EUに対抗する「東アジア共同の家」とかはどうですか。
斎藤 僕は昔、固い言葉で、「東アジア統一社会主義革命」と言っていました。それは僕の唯一の「政治の師」である宇都宮徳馬先生の教えでもあるんだ。日本・朝鮮・中国・ベトナム(略)この四つが共同体を作れたら、世界は全然違ってくると思う。
 
 宇都宮徳馬については、「北京直結のエージェントとも、あるいは金日成直属のエージェントとも、あるいはその両方だったとも噂されたこともある」(公安筋)との説もあり、七〇年代・八〇年代と、自民党で唯一アジアの共産圏と外交チャンネルを持つ議員だった。その宇都宮を「唯一の師」と仰ぐ斎藤まさしの言動が、はたして中国共産党・朝鮮労働党の意向を受けていないという保障はあるのか

 斎藤自身の弁によれば、八六年のフィリピン革命に「割合影響力があった」という斎藤の支援も手伝ってマルコス独裁政権が倒れた。斎藤がつくった「地下組織=同盟」は「グループの総力ををあげて支援していた」という。この革命によってアジア最大の米軍基地は撤去され、その結果として現在南シナ海を我が物顔で走りまわっているのは中国海軍である

「地下組織=同盟」は現存するのか。もし現在も存在するというなら、民主党をはじめとする日本政界のなかに深く根を降ろしているのではないか……。それを思うと、背筋が凍るような戦慄をおぼえた。❏