このヘイトスピーチ考は、故佐藤勝巳先生の「タブーは差別をつくる」という言葉からそもそもはじまりました。 
では、タブーはどのようにして生まれたのか? それについて考えた論考がありますので、よろしかったらご参考ください。

 
               *   *   *   *


極左暴力集団だった朝連


「朝鮮人は怖い」のイメージは、敗戦の混乱のなかから生まれた。弱肉強食、暴力至上主義の無政府状態だった各都市の闇市で、ショバを仕切っていたのは朝連、華僑、日本のヤクザだった。つまり、日本社会のなかで注目され、もっとも目立つところにいた在日は常に暴力と隣り合わせの存在だったのである。

 終戦直後の45年に起きた在日朝鮮人関連の暴力事件としては、岡山で50人以上の朝鮮人グループが刃物を手に警察署に乱入した生田警察署襲撃事や、信越線の直江津駅で朝鮮人乗客が日本人乗客をスコップ等で滅多打ちにして殺害した直江津事件等がある。翌46年には、富坂警察署襲撃事件、長崎警察署襲撃事件、首相官邸デモ事件などの大規模な乱闘事件あり、100名を超す朝鮮人が逮捕された。

 同時に、日本の庶民に対し「朝鮮人」への恐怖を増幅させたのは、彼らの共産主義イデオロギーへの傾倒だった。朝鮮総連の前身である朝連(在日本朝鮮人連盟)の結成は日本の敗戦から二カ月遅れた45年10月15日。その後、朝連は日本共産党の別働隊として急速に左傾化していったのだが、これを嫌った反共勢力が分派して建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)を結成する。現在の民団の前身である。この同根の両派のあいだで、血で血を洗う内ゲバが起こり、52年の1年だけで75名もの死者を出している。

 しかし、極左暴力集団と化した朝連の評価を決定的にしたのは、なんといっても48年に起きた阪神教育事件だったろう

 日本当局は、北朝鮮を支持し左傾の度を深めていった朝連指導の朝鮮学校の教育内容に神経を尖らせていた。同年1月、文部大臣は各都道府県知事にあて、「朝鮮人学校の設置は知事の認可を必要とし、教育内容についても日本の学校教育法の規定が適用されなけれなならない」という趣旨の通達を出す。 

 これを嫌気し、撤回を求めた朝連と、日本当局のあいだに当然のことながら激しい軋轢が起こった。まず大阪府が命令に服さない朝鮮人学校に閉鎖命令を発する。4月23日、これに対し在日朝鮮人約7000人が大阪府庁にデモを仕掛け、179人が逮捕された。また翌24日には数百人の在日朝鮮人の青年行動隊が兵庫県庁へ押しかけ、集まっていた知事、市長、警察局長などを相手に集団で圧力を加え自分たちの要求を通そうとした。しかし、これは翌日、占領軍によって阻まれる。GHQは神戸地区に非常事態宣言を宣布して憲兵隊と日本警察の動員により、一〇〇〇人以上の朝鮮人を検挙した。

 さらに翌26日、朝連は再度大阪府庁に約2万人の大規模デモを仕掛け、警察隊との小競り合いのなかで在日朝鮮人少年1名が死亡した。阪神教育事件は、「来なかったのは軍艦だけ」と言われた大騒擾事件であり、在日朝鮮人史研究の第一人者で、2013年逝去した現代コリア研究所の佐藤勝巳前所長によれば、この事件の背後には日本共産党の「指導」あったとはっきり断定できるという。この事件が契機となって朝連は団体規制例(のちの破防法)の規定するする「暴力主義団体」に指定され、解散を命じられることになるのである。


進歩的文化人の罪


 朝連の後継団体である総連が、日本社会にとってただ「怖い」だけでなく、「うるさい」、そして「面倒くさい」存在になってゆくのは、彼らが左翼イデオロギーを背景に戦後の言論空間を支配してきた日本のジャーナリズムやアカデミズムの援護を受けてきたからである。

 たとえば、70年代の一時期、NHKでもっとも人気の高い報道番組だった「ニュースセンター9時」に、礒村尚徳という看板キャスターがいた。

 その礒村が「朝鮮戦争は北が南に侵攻した」と、事実を言ったところ、朝鮮総連と社会党、そして左翼文化人らがこぞってNHKに抗議と圧力を繰り返し、その後NHKは礒村に「私ごときが歴史評価をを変えるなど僭越な真似をして申し訳なかった」と謝罪させたことがある。

 以降、北朝鮮による拉致が「疑惑」ではなく「事実」であったと証明されるまで、「北朝鮮」を「朝鮮民主主義人民共和国」と書かなかっただけで激しい言論弾圧を受ける時代が続いた。これも、左翼ジャーリスムや進歩的文化人の後押しがあってこその現象である。

 たとえば、68年、ライフル銃で暴力団員を殺し、人質をとって旅館に立てこもった「金嬉老事件」が発生した。逮捕された金嬉老は詐欺・窃盗・強盗などにって出入獄を繰り返していた在日の犯罪常習者だったが、この事件も、進歩的文化人らによって「民族差別」の名のもとに正当化されたのだった。

 金嬉老が立てこもった静岡県寸又峡の旅館まで応援に出かけていった文化人たちもあった。伊藤成彦(中央大学助教授)、金達寿(作家)、角南俊輔(弁護士)、斉藤浩二(弁護士)、山根二郎(弁護士)らである。

 例えば金嬉老と対話した伊藤成彦は、学生運動について金嬉老が語った「私は警官と戦う学生の心の中にダイヤモンドを見つけました」という言葉に感激し、「いや、私は、金さん、あなたの心の中にダイヤモンドを見つけました」と言い返したという。殺人立てこもりライフル魔に対して、である。まあ、そんな時代といえばそんな時代だったのだが、そんな妄言が許容される言論空間が、在日問題を聖域化していったのである。 ❏