あれから20年が経ちました。阪神・淡路大震災。その20年の重みは、私を今回の超弾丸帰省へと誘導してくた理由のひとつです。


客演先の年明け早々の公演も無事に終わり、反省会?を18日に宛てて頂いたのですが、結果、欠席になりましたが、まさにその公演前日に地元の友達から電話があり、改めて腹を括りました。姫路に向かう腰は少し重かったのも、彼のきっかけがなかったら、弾丸の二日間もなかったと思います。きっかけをくれて、ありがとう。


今回、私にとっての地震への鎮魂は地元巡りもそのひとつでした。幸いにして被害はなかったと思われるこの町。無傷ながらもその日、家族や友達、バイト先の人達やその先のお客さんとその話題だったのは言うまでも無く、テレビ越しの遠く離れた神戸の街を観ては何も出来ず、憂いだ。


私の町は瀬戸内海に面しては海抜差はないと思われる平野部であり、市街地から離れていて、その街へと繋がる単線の線路が敷かれては三輌編成の電車が1時間に4本出ている。両脇に川があり、適度に田園風景は広がる、生まれ育った町。小・中学校当時の通学路をひとり歩きながらまずは当時を振り返った。


やはり田んぼが減った事。車が通り易くする為に舗装されては、幅が広くなった事。ビックリマンを買った駄菓子屋はもうないのも知っていたし、小さな集合商店街?もなくなり、スーパーマーケットになってるのも知っているけど、それでもどこかその薫りを忘れたくないから、その確認を兼ねて歩を寄せる、そんな懐古主義はどれを取っても私の血であり骨でもあります。


地震の話を戻し、20年前は高校2年生。その日の朝を憶えている。神戸に何人か友達がいて、安否が気になり公衆電話から電話して、繋がらなかったのも憶えている。何日後に繋がったのも憶えている。ずっともやもやした気持ちがしていたのを思い出した。でも無力だった。


高校の同級生が誰に言われる事無く、募金活動を始めた。凄い事をしているのに何も声も掛けれなかった。寧ろその同い年の行動を「偽善」しか思えなかった。その頃、折り合いが悪かったから。時間は流れては20年後の午前5時46分。同級生と黙祷をした。


その20年を阪神高速、第二神明の上、姫路バイパスとタイヤで感じながら朝日を背に実家へ向かう。その後の行動はここから4つ前のブロックから話を読み返して頂いて、青い空の下、その当時を懐かしみながらの猫背がトボトボとそこらを歩いていました。