のーないすこうぷ

私的雑念空間

雑記

頑張れ、みゆさん!!

以前「改めて、群馬大学医学部不合格問題」にコメントいただいた 「みゆさん」

 

その後、なんと海外の医学部に合格されたということで、
特に再受験組に、こんな成功例もあるよ、ということを知ってもらいたく、
本人に無断でww、コメントをブログで取り上げさせていただきます。


彼女は、コメントいただいた当時は42歳
理学博士号をもつ研究者の身分ではありましたが、当時は某国立大学法人医学部にパート勤務ということでした。


医学の世界を間近で見てみたら、
そこは医師免許がなければ始まらない世界であったという現実。

そして、その免許を持ちながら、腕も磨かず漫然と、ただ偉そうにだけ過ごす
周囲の医師たちに納得がいかず、
ならば自分が、と一念発起され、医学部受験を決意されました。


その後は、彼女のコメントを参照してください。


僕が彼女にしたことは、ただ単に、僕が感じる現実を伝えただけで、
すべては彼女の頑張りです。


彼女が僕の古いエントリーを読み、コメントし、
それを僕が拾ったことをうれしく思ったように、
僕は、半年もたって、しっかりとこのブログを覚えていてくれたことを、
今とてもうれしく思います。


もちろん、それが合格という報告であることは、なおさらです。


どこの誰かも存じませんが、
いつか同じ医学の世界で交わることがあれば、
その時は一緒に、日本の大学批判でもしましょうww


そして、彼女と同じくして悩む人がいるならば、
このエントリーが、あなたを医学の世界へ招待する手助けとなりますように。



何だかんだいって、医学の世界はいいもんですよ。



以下、投稿いただいた報告コメントです

  • 2010/03/21 23:30
  •  
  • 投稿者:みゆ

これを皆さんが読んで下さっていることを願いつつ…

日本各地、できる限りの大学を回って(仕事がてらですが)聞いて回りましたが、
結局どこも大して変わらないな、というかなりがっかりした結果となりました。
が、捨てる神あれば拾う神あり。海外のとある大学医学部から入学許可証をもらいました。

もちろん、海外で医学部を出たからといって日本ですんなり医師になれるわけではないという
システムはよく知っています。
でも、私は別に日本にこだわってはいないので、どの国の免許だろうと構わないと思っています。
というわけで、日本を飛び出し、海外で医師を目指すことになりました。

ご報告させていただきます。


とりあえず、104回国試ここがおかしい?のおかしなところにツッコミ入れたなう

半分ネタです
ご意見いただければ幸いです、とあったので意見するだけです。
僕はご意見不要です。



積極的に動いたことがない自分にとっては、このような活動は大いに賛同します。
徹底的にツッコミますが、気を悪くしないでください。




104回国試ここがおかしい? http://bit.ly/buFe9g
より、適宜引用しながらツッコミます。

いちいちどの部分を引用したかは記載しません。あしからず、ご了承のほど。



【総括】 

この春から研修医として歩み出すにはほとんど役立ない問題が多いのではないか

→それは、医師として働いてから言ってください




日常の医師の診療では、患者が「病気の選択肢」を持って現れるハズはない。
医師は無限の可能性の中から答えを探していく必要がある。

→無限は言い過ぎ。
まずは「病気の選択肢」を一通りあげて、そこから絞るのが王道かと。
国試の選択肢から学べることは、意外と多い。





1.国試が目指す方向性が不明確
臨床医を作りたいのか、基礎研究を志す医師を作りたいのかが問題から見えてこない

→それを厚労省が示してしまったら、それはそれで問題でしょう。
 医学は相互補完で成り立っている。臨床も基礎も大事。





やはり過去問の焼き直しにすぎない

→それだけ大事ってことでは。
 大体、もう104回にもなるのに、毎回毎回新作なんて作れないでしょ。
 問題プール制になって、問題制作委員の人、本当に喜んでたよ。





ほとんどの医学生が試験日の2月を待たずに、合格レベルに達する。
まじめな人が視野を広げるために、国試勉強以外のことをするとか、
研修医にそなえた勉強をするといったことができないでいるのがもったいない

→日頃から少しずつすればいいじゃん。





最低限を保証するという意味なら国家試験の意義はある

→その通りです。分かってらっしゃる




USMLEはいち早くCBTを取り入れているのだから、日本でも導入できないはずがない

→同意できますが、個人的にはCBTほどウザい試験は後にも先にもありませんでした




合格発表まで1か月半待たせる

→ほんと、なんでだろうね。得点調整とか合格者調整とかで忙しいのかな??




CBTなら、リアルタイムで点数がでる。1ヶ月半も合格発表に時間がいらなくなる。

→点数が出るのは、不適問題ヒアリングのあとでいいよ。





第1問を間違えた場合第2問以降回答不要、という出題も可能になる

→ミスを取り返すのも大事な臨床力・現場力です





CTやMRIをビューワで見せたり、エコーの動画で診断させたり、
クリックしたら腹部の所見が得られたり

→面白い試みとは思うけど、全員が同一の画像を見ている保証がないしな〜
 短気なオレは、loadingの時間にすらキレちゃいそうだし。
 それに、配布画像だったら「配られてません。確認お願いします」で済むけど、
 モニターだと確認に手間取りそう。





解釈モデルがどのあたりか分析することが、外来での診療の役に立つだろうか

→問題自体は全く役に立たないけど、こういう問題がでるようになったから、
 解釈モデルとか質問方法の理論化がなされたと思っている。





104F27のような問題は「共感すればよい」というのがセオリーで、
文末が「〜ね」になっているのが正解とされる。
ところが、実際の現場ではそんなことをいうだろうか。

→twitterのリプライを読んでください。言わないと思っているほうが問題です。
 ってか、言うに決まってるだろうが・・・(時と場合によるが)
 この問で大事なのは「〜ね」ではありません。
 予備校で教わったパターンをパターンとでしか認識しない勉強法に誤りがあります





①手技に関する問題

→具体的な問題があげられていないので、何を言いたいのすらわからない。





②治療薬を選択する問題

→全面的に同意





③一生出会わないようなレアな疾患
医師が一生出くわすことがほとんどないレアな疾患を、
医学生は暗記する必要があるのだろうか

→おいおい、無限の可能性から病気を探すのに、レアな疾患を学ばなくて、
 どうして「無限」に対応できるんだよ。





まれな症状・自分の分からない疾患を持つ患者さんに出会った場合

→分からないことが分からないってCMがあったと思うが、
 何となくでも分かっていないと、何が起きているのかすら認識できないんだよ。





自分の知識に頼るのではなく本や文献、上の先生に真摯に伺う姿勢

→同じ「ググる」でも、事前知識のあるなしで結果は大きく異なります





研修医では使わないような手術や検査の「名前と概要のみ」暗記させるような問題は無駄である。

→まあ、使う頃には忘れてるからな〜




そもそも手術や検査は、実際に見学したり参加するなかで学ぶものであり

→でも、どんな検査・手技だって、まずは名前と概要から、なんだぜ。





【要望】よって、医師国家試験の大幅な改善を強く求める。
① 「必修問題」を削除する。 

→素直に「割れ問は全部不適にしろ」と言いなさい



② 国家試験を2日に短縮する。

→ 記載内容に「2日が妥当」である根拠が見当たりません



③ CBT化し、いつでも受けられるようにする。
欧米やその他の国でも「優秀な者は飛び級する」は常識であり、
学年や年齢にこだわっているのは日本だけである

→これは国家試験の問題ではなく、医師育成システムの問題である。
生理・自然科学などの基礎分野を履修した上で医学部入学という、
アメリカのスタイルは、確かに素晴らしい。
そして、ある程度の基礎医学を学んだ後に、さっさと国家試験をしてしまい、
ポリクリをなくせばいいのだ。


ふう。。。

まだやれるはずです。もう充分です。

働いているところは、いわゆる僻地。




当地すべての病院を集めてみても、いくつかの科は存在すらしない。
そもそも専門医と呼ばれる医師が圧倒的に少ない。




それでもこの地の人たちは、この地に満足しているだろうし、
いざ我が身に押し寄せれば別だが、存在しない科があったとしても、
特に文句は言わない。

必要なら、都会へ出ればいいと思っているから。





延命治療が、いつからむしろ批判の対象となったのかは覚えていないが、
ここに赴任していきなり診た重症患者の家族は、「延命を希望せず」だった。

土地柄として在宅でみとることをよしとせず、
ぎりぎりまで粘って病院へ救急搬送されてくることが多い。

それでもその後も、いわゆる延命治療をした人は、10人いなかったと思う。





これでいいと思っている。





経済基盤が不安定ななか、医療だけが聖域だとは思わないし、
そろそろ「死」を免罪符とすることは難しいのではないか。





この地の人たちは、医療をあまり追求しない。
ほどほどで諦める。

医師としてそのことに甘えていてはいけないんだろうけど、
満場一致でゴールを設定できることは、やはり非常にありがたい。





平等な医療を目指して、多くの人が苦労しているけれど、
現時点で地方と都会の専門医療に対する考え方は大きく乖離していて、
この地の人たちに限って言えば、
「あればいいけど、なくても別にね。仕方ないし」

むしろ、専門医療が入り込めば入り込むほど、
この地の人たちは、病を抱えた自分たちの存在に悩むことになるんだと思う。




学問に停滞は許されないんだろうし、
患者の期待に応えてこその医療だから、
これからも専門医療は突き進んでいくんだろうけど、
本当にそれでいいんだろうか、とこの地に来て思った。




地理的条件という絶対的な障害を有するこの地の人たちは、
誰が見ても現代医療の恩恵を授かりきれていない。

それでも願わくば、医療とはかくあるべし、という都会都会した考え方が、
この地にやってこないことを願う。




人でもなく、物でもなく、
受け入れがたい「死」の理由をこの地に求めることができる。



少なくとも僕は、この地の人たちは幸せだと思う。

病院における「おもてなし」考察

病院におけるホスピタリティとは何なのか、なんてことを考えてる。






ホテルも病院も、語源は同じ「ホスピタル」






いつの間にか「医療もサービス業」ということになり、特に異論はないけれど、病院もホテル並みのサービスを、だなんて。










ホスピタリティはどこにあるのか。ホテルにはあるのか。










夏休み。都内某有名ホテルに泊まった。


独自のホスピタリティを売りにしているホテル。高いお金払って、空気を感じにだけ行ってみた。








雰囲気から客の装い、従業員の振る舞いまで、何もかもが想像以上だった。

こんなの無理だな〜って。居心地いいけど、心ここにあらず。






ロビーで人間観察して、「うは〜」「どひぇ〜」だなんて不審者丸出し。

そんな時に、満面の笑顔で「どうされました?何かお手伝いできることはできますか?」


ぱりっと決まった制服に、モデル立ち。決めてるつもりがあるのかないのか、でも威風堂々。





こちらは格好こそきちんとしていても、手にはスーパーの手提げ袋。

勘弁してくれ、と思った。











笑顔は大事。でも、必須でもないなと。








現代における「ホテル」と「病院」は、もはや完全に別物。


魅せることが第一のホテル。でも病院は、やっぱり治すことが第一。




時にはコントロールする必要だってある。そのあたりが医師のプロたる所以なはず。

笑顔は確かに相手の心を開く。距離を縮める。無防備にする。

そして、相手を恐怖に落とす。気づいたときは、制御不能だなんて。

それは、こちら側も同じ。いつの間にかノーガード。



笑顔とか接遇とかホテルのようなホスピタリティとか。


必要ないとは思わないけど、それが前面にきたら、それはもはや「ホテル」であって「病院」ではないなって。





そんなことを感じた夏の日。

ムンテラと絶対自分領域

ムンテラ




医学の業界用語みたいなもので、つまりは「病状説明」

今は、インフォームド・コンセント、病状説明とそれらに関する同意、

だったり。





Mund(口頭) Therapie(治療)の略。ドイツ語。




話術での誘導だとか、同意を求めないとは何事などといった意見が通り、

今の医学界では「不適切な用語」として扱われている。






大好きな言葉。










「口先だけで患者を治せたら、なんて素敵なんだ」と、いつも思ってる。









本当の満足は、「患者自身が選んだ治療法」では得られない。


医療技術提供者である医師が、収受者である患者を納得させなければならない。


そこもまた技術。






「ご納得いただけましたか?」ではなくて、

「よくわかんないけど、まあこの人だったら大丈夫かな」みたいな。









評判さんざんな大学病院での研修。


大学病院でよかったなと思う点に、専門医のムンテラを数多く聞けるところがある。





性格は別としても患者さんに対してはさすがだな、とか


この患者さんが納得してるのは「ここが大学病院」だからだな、とか。




そんなこと考えながら同席してる。









来年の進路が決まった。







医師が10人くらいしかいない、小さな病院。







自分だけの外来をもつだろうし、もちろん当直は一人当直。







某科教授「何が魅力で行くの?」


おいら「医者流の自分探し、ですかね〜(笑)」







ムンテラが作る自分の世界。そんな自分を探しに行く旅なんだと思う。

医学の進歩、生き方の退化

日本の新生児医療は、おそらく世界一だ。




基準は不明だが、たぶん世界一だ。




だから、安心したお産、なんてひどく矛盾した考えが蔓延してしまうんだ。









日本は新生児医療が優秀なおかげで確かに新生児死亡率は低いが、

1〜3歳あたりの死亡率は非常に高い。








先天異常。



生まれてすぐは何とかなるんだけど、結局はもたない。








「ブラックジャックによろしく」に、

先天異常を抱えた我が子を受け入れられずに苦悩する両親の話があった。





最後は苦悩の末、一つ道筋を見出すのだす。



でも、


もしあの話の最後を「受け入れない」にしていたら。







結局、その号をもって読むのをやめた。








平等だけど平等じゃない。








いい加減、社会が求める人間像を明確にするべきだと思う。








社会ができることを明確にするべきだと思う。












久しぶりに、学生勉強会の時の仲間と飲んだ。






「医学の進歩は、じつは人間の寿命に対してなんら貢献してないんじゃないか。


生活環境、衛生環境などが重要で、医療なんて何もしてないんじゃないか。」




と、誰かが言った。










その考え、好きだな〜と感じた。










「何とかする」としか言えない医師と、


「何とかしろ」と言う患者と。








医療なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。











「応召義務」がなくなって、医者たちがもっと自分の理想を掲げられたら、



医療はもっと充実するはず。

ジェネリック医薬品をめぐる患者の利益とは

お互いに相反する内容のエントリ。前者が問題提起をし、後者が、それを例にとり批判・反論する形。どちらを読んでも、なんだかなーという感想しかわかない。

僕は、医療側に肩入れしてしまう人間なので、両者を対比させたとき、批判は後者に集中してしまう。もちろん、後者に対する批判は自分なりに確固たるものあってであり、だからこそTBは後者にしか送っていない。




内科開業医のお勉強日記 :
ジェネリック主流なのは・・・世界でもごく一部の国?

http://intmed.exblog.jp/4273763


世界一小さい新聞 - nikkansports.com :
医師と患者のガチンコ相撲

http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2006/09/post_157.html




要は、ジェネリック医薬品って本当に世界で受け入れられてるの?と思った開業医が実際はそうでもないと示された論文を紹介し、

それを、情報の取捨選択による世論操作だ、そもそもなぜそこまでジェネリック医薬品を排除したがるのか?という反論。




どちらも資料として提示してあるものは結果をまとめたグラフでしかないし、用いられている論文のほかに、国による保険制度、薬の流通形態なども考慮する必要があるだろうから、それをもってジェネリック医薬品が世界的なスタンダードであるか否かなんて判断はできない。その点で、開業医(前者)の結論は確かに言い過ぎである。



ただ後者の方は、反論の形としては正しいのだけれど、そもそもジェネリック医薬品がどのようなものであるか、薬価差益とはどのようなものであるか、そして薬に関して開業医(前者のブログ主)が考えていることに関しては、不勉強なのか確信的なのか、全く的を射ていない。そこでここでは、「薬に関して開業医(ブログ主)が考えていること」に重点をおいて、更なる考察を重ねていこうと思う。






ジェネリック医薬品がなぜ安いかは、なぜ先行医薬品とジェネリック医薬品がそんなにも薬価差があるのか、と同時に考えていかかなればならない。



先行医薬品が高いのは開発費が高く、それに対する先行者利益として特許期間が定められているには間違いはない。




いきなり話がそれるが、この開発費は販売促進におけるマーケティング費用なども含んだものを指すので、純粋に薬の研究開発費として使用されているお金の金額は、せいぜいこの数十%くらいなものだ。であるから、先行医薬品の薬価がそもそも高すぎるのでは?ということこそがまず議論されるべき内容である。





閑話休題



ここで頭に入れておきたいのは、先行医薬品がもっているものは、ただ単に薬としての特許だけには限らないということである。



新薬を販売する際には、第1相から第3相までの試験を段階的にパスしていく必要がある。新薬はこれら試験のデータすべてが蓄積されて開発される。これらのデータは、人体に対する悪影響を知る上でも特に重要なデータである。先行医薬品には市販の段階で、安全性に関する多くのデータが蓄積されているのである。





さて、ジェネリック医薬品(後発医薬品)。





散々言われているように、ジェネリック医薬品(後発医薬品)とは「同一有効成分、同一投与方法、同一用法用量、同一効能効果」な薬である。


ここで注目すべきは「同一有効成分」と、「同一効能効果」という点。





有効成分が同じなら効能効果も同じ、と安直に結び付けてはいけない。

有効成分が同じということは、非有効成分は同一でない、と言っているのと同義である。




非有効成分の影響なんて、最後は実際に飲んでみないと分からない。先行医薬品は、試験の段階でそのデータを得ている。ジェネリック医薬品には、それらがない。そんなの大したことないだろうと考える人は、人体を甘く見すぎである。




次に同一効能効果だ。そもそも何をもって同一効能効果と言っているかというと、プラセボ(偽薬)と後発医薬品を比較対照し、先行医薬品の試験結果と同一かそれに近いかで、同一効能効果と判定される(すべてがそうとは言い切れないが)。

本来行われるべきは先行医薬品と後発医薬品との比較対照試験であるのだが、そのような試験が実際に行われているのかは分からない。ってか、聞いたことがない。


結局、同一効能効果ということも、開業医のブログでも引用されていたように、「あくまで同一であることが予想される」にすぎない。

厚生労働省が同一とみなせばOKという考えも、医師側からすれば危険極まりない。それで起きた問題だっていくらでもある。日ごろ頼りにすることない役所を、ここぞというときだけ頼りにするのはやめてもらいたい。






結局何が言いたいのかというと、ジェネリック医薬品を製造する製薬会社が力を入れているのは、第4相試験と言われる市販後臨床試験だけであり、これはつまり、先行者のデータがありますからという理由で大した検証もなく世に送り出された薬のその後だけを調べているということである。(ちなみにアメリカでは義務化されていないこの第4相試験は、マーケティング拡大の戦略にしか用いられていないという批判が絶えない。)



開業医のブログでも最後に指摘されているように、ジェネリック医薬品が安価な理由は、ここまで書いた種々の試験における安全性の検証を省略している、医師に情報提供を行うMRという役職を置かない、マーケティングの拡大だけを狙い大規模な再検証を行わないといったことすべてが要因となっているのである。



もちろん、すでに輸液や一部の薬のように、安全性も問題なしとされた後発医薬品はあり、それらを用いることは患者の金銭的負担を減らす。これを用いない理由はない。




しかしながら、安価な医薬品を用いることを患者の利益だと真っ先に考えることは、医療者からすれば医療を、ひいては患者自身の体・健康をあまりに安く、簡単に考え過ぎといわざるをえない。


開業医(前者のブログ主)を始め多くの医師が「命はお金に変えられない」と考えるからこそ、安いだけが先行し安全性が検証されていない後発医薬品の使用をためらっていることを理解してもらいたいし、おそらくはそれ抜きに金銭面だけで患者側へ歩み寄ることは不可能であろう。




患者の利益とは、ただ安価な薬剤を用いることなのだろうか?




そして、途中にも述べたが、真に検証されるべきはそもそも先行医薬品の薬価が適正であるかということではないか、という問題提起も残しておきたい。

カーリングのこれから

にわかカーリングファンには大変申し訳ないが、このカーリング人気が長続きするとは思えない。というか、まずしない。ボクシングの世界戦後、朝の街中には、にわかロードランナー、シャドウボクサーが急増するが、それ以前に、興味をもっても、カーリングと交わることができないのではないだろうか。でも、それじゃいやだ。




カーリングという競技が抱える、避けては通れない問題。




カーリングを行える場所は、国内でも非常に限られている。最近のリンク状況は分からないのだが、知る限り国内で正式なカーリング場は、合併でその名が変わるカーリングの聖地北海道の常呂町と、青森と長野だけだろう。やりたくても、場所がない。


カーリングは完全に冬のスポーツ。少しでも暖かくなってリンクが溶け出したら、もうシーズン仕舞い。また、冬まで待たなくてはならない。





数年前の話しか知らないが、都内でもどこかのスケート場で、夜間にカーリングができると聞いた。都内にもカーラーはいるから、今でもできるのだろう。もしかしたらこれだけ注目されたのだから、もっと多くのスケート場でできるようになるかもしれない。




カーリングというのは、ある瞬間それは個人スポーツとなるが、4人揃わないとまずできないし(最低3人)、そもそも1人でしたってつまらない。慢性的な競技人口不足にある今、カーリングを経験している人すべてが、すそ野が広がることを願い、リンクにいる人すべてが、さらなる来訪者を待っている。来る者拒まず、なはずだ。





まずは、お近くのスケート場あたりにでも連絡してみて、カーリングができるか聞いてみるといいかもしれない。カーリング協会だって、きちんと対応してくれるはず。オレはスケート場ではしたことがないので、何とも言えないが。





長野でしていた時だって、ふらっときたカップルを混ぜたりして、みんなで楽しくやっていた。地元の小学生が本当に強くて、大学生のオレらがこてんぱんにやられていた。性差、年齢差が生じにくいのも、カーリングの魅力かもしれない。

足りないときには、職員まで入ってもらったりして。1人でも2人でも、人数なんて、その場で何とかなる。




「オレは前から注目してたんだぞ、って思う?」

とは、友人から言われたせりふだが、そんなことはない。自分だって長野オリンピックでの男子カーリング日本対米国戦に感動して、いてもたってもいられず長野までカーリングをやりに行ったくちだ。すそ野広がれ。オレだって、もっと気軽にカーリングがしたいんだ(笑)

雑用嫌いな研修医

わが大学病院も、研修医の労働の質、生活の質向上をねらってか、来年度から注射は看護師が行うものになるらしい。

じつは研修医同等、もしくはそれ以上に殺人的なスケジュールで働いている看護師。新人看護師の身と労働の質を案じてやまない。





研修医の労災認定がなされた経緯もあってか、卒業が見え、卒後の勤務先を考えなければならない医学生にとって、合言葉はQOL。



QOL=Quality Of  Life。冗談半分に、QOML=Quality  Of My Lifeという人もいる。訳はそのまま、生活の質。つまりは勤務先での、自分の生活の質が、どの程度になるかという話。誰だって、無理してまで働きたくない。だって僕らは、医局の足かせからは外れているのだから。



そして、病院選択におけつもう一つのポイントが、どれだけ手技を学べるか。さまざまな器具を使っての検査や医療行為は、傍目から見ても医者らしい。








小児心臓外科医として日本のトップに立つ岡山大学医学部教授の佐野俊二先生は、医師を育てる上での心構えとして、「なるだけ手術はさせない」ようにしているのだという。



何年も何年も雑用をやり続け、患者だけを見続け、そうして初めて手術が許される。





これを聞いて、初めて他人に注射をした時のことを思い出した。


相手が痛くないように痛くないようにと心配するあまり、脚は震え、手元も震えた。でも確かに相手のことを気遣っていた。少なくとも、そのときは。




そう考えると、「2年目でも、胃カメラとかに挑戦させてくれるんだってさ。年間○○例はやれるらしい。」という会話に、違和感を覚えた。確かに、そんな簡単なことじゃない。







雑用を嫌い、地方を嫌い、圧力を嫌い。そんな今の研修医、研修制度が行きつく先は、一体どこなのだろうか。それとも、それが時代の流れなのだろうか。

医学について

医学という学問は、本当に罪深い学問だと思う。



医学に求められていること。究極的には、人を生かすということ。



何かを生み出すのではなく、失い行くものをとどめる。




それは、人間が人間自身の力を超える時であり、人間が限りなく神に近づく時。




それは、絶対的な不自然。




だから、罪深い学問だと思う。



生きることは、この地球上に生まれたもの、すべてが平等の持つべきものだと思う。


生かすことまでできるのは、人間だけ。


人間だけ許されていいのだろうか。



色々なことが重なり、医師としての自分に自信が持てなかった時期、こんなことをよく考えていた。結局は原点に帰ることで自分を取り戻し、今に至る。


しかし、この想いは、何かに代償されたり、何かに昇華したりはできず、うやむやなまま今もふと考えるときがある。そんな時、「結局何事も謙虚が一番なのかな〜」くらいにしか結論付けられない自分が、歯がゆい。
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