nonny's eyes

映画、音楽、政治、宗教、心の病について語ります。

2012年10月

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米海軍兵2人による集団強姦致傷事件に対し、沖縄では怒りの声が渦巻いた。

昨年1月に米国人軍属の起こした交通事故で親戚(当時19歳)を亡くした
沖縄県婦人連合会理事の與儀(よぎ)利枝さん(60)は憤る。
「米兵は基地の外に出ると途端にルールを守らなくなる。日本はばかにされている」

「米軍人・軍属による事件被害者の会」の海老原大祐代表(60)(宮崎市)は
「またか、という思い。国民一人ひとりが沖縄の基地被害の実態を共有し、
国内各地への基地移転を考えるべきだ」と語った。

沖縄知事しばし絶句、怒り…2米兵の女性暴行
読売新聞 10月17日(水)8時9分配信


・・・沖縄でまた起きた米兵による婦女暴行事件。
こういう野獣のような輩が身近にいる事を考えると沖縄の人たちの心中は
察して余りある。

ただ中国の脅威が現実味を帯び、米軍と自衛隊の協力体制が必然である中、
暴行事件とかオスプレイ配置で沖縄が米軍基地移転を持ち出すのは、どうも
個々の問題と国益をごっちゃにしている感じがする。

日本がばかにされているのは今にはじまった話ではない。
女性が蔑視されてるからではなく日本人の人権そのものが蔑視されてるから
こんな問題が、いつまでも尽きない。

私のここ数年の持論は、米軍は絶対出て行かないから、住民に別の場所を
提供したら?というもの。

自分の土地にこだわれるだけ余裕があるということか?


こういう問題が起きると、左翼やフェミニストは黙っちゃいない。

私は右翼も好きではないが、電気の供給や現在の地域独占を無視して
反原発を叫ぶ事も含めて、こういう極端な言動には違和感を覚える。


私の知り合いにはフェミニストが何人かいて、ちょっとついていけない部分がある。

「女性は抑圧されている。差別されている。」

「女性は性的対象としか見られていない。」

「女性は性奴隷(sex slave)である。」


もちろん現代でも女性を巡る性犯罪は頻繁に起きている。

女性の人間としての権利が蹂躙されてないとは言わない。

男性は責任重大である。気軽に痴漢だの強姦だのDVだの
してしまうからだ。

セクハラまがいの冗談も何げなしに言う。


しかし、男性に比べてまだまだというが、女性も幅広く
職業選択できるようになったのではないか?

最近20代でアパレルやファッション関係中心に会社を経営している
女性社長は多い。

茶髪で髪をクルクル巻いて、とても社長には見えないww
でも敏腕社長なのだ。


前にも書いたがAV、風俗の類は、確かにスカウトマンもいるし、
複雑な事情ゆえに働かざるを得ないケースもあると思う。

でも多くの若い子がちょうど居酒屋で働くように学生の間だけのバイトとか、
旅行、服、ブランド品などが欲しいだけで気軽にやってる事も多い。

フェミニストは何でも男のせいにせずにはおれない。

AVも風俗も女が働かないと言えば、フェミニストが望むよう無くなるであろう。


普通の会社の話にしたって女性が望んで寿退社を望んでいるケースも多い。
最近相次いで辞めた女子アナだってそう。

フェミニストは女性を家という籠の中に閉じ込めてと言うが、
専業主婦を夢見ている女性も多いのだ。
夫婦別姓についても「好きな人の名字になれて嬉しい」と言う人もいる。

左翼とかフェミニストとか十把一絡げに出来ないが、どうも「自虐史観」で
成り立っているようである。

自分たち女性が常に被害者で差別されているという前提で話をする。

なるほど、レイブや痴漢、DVなどで女性が弱者だから何とか助けなければと
いうのは分かるが、普通に女性の容姿を売り物にしている商売まで否定する
というのは、どうなんだろう?

アイドルなどショービズはショービズで良いんじゃないか?
AKB48もいるけど、ジャニーズなど男性も容姿を売り物にしてないか?


専業主婦とは対照的にバリバリ働いているキャリアウーマンもいる。

「男女共同参画」というが何を指しているのか?
給料などは分からないけど、充分男女とも社会に参画していると思うが。


私も女性はそんなに差別されているか?という苦言を呈したいところに
「クローズアップ現代」を見て、う~んと考えざるを得なくなった。

興味深いのは今回出されたIMFの緊急リポート。

借金大国日本にあって労働力の確保は大事だ。
日本では女性が結婚&出産後職場から離れ、中高年になって働くとしても
非正規雇用で賃金が少ない。

IMFのラガルド専務理事は日本の女性は高学歴なのに就職して活躍できないのは
もったいないことだと「クローズアップ現代」に出演して力説していた。

女性の管理職の少なさは賃金格差を生むだろう。

欧米に比べて再就職が難しい事、男性パートナーの家事育児への協力の少なさ。
日本の男性がどれだけ仕事に縛られているかを考えると難しい問題ではある。


日本の社会環境が女性に関して不利であることは確かだ。

だが、女性差別ではない。
社会で男性はこう、女性はこうとジェンダーロールに縛られた結果で
男性だって不利益を被っている。

非正規雇用問題は何も女性だけの問題ではない。

女性だけが被害者、差別されてる、優遇されていないとばかり言っても
女性だけの問題ではなく、確かに差別されている人たちは男女共に多く
いるわけで、男性も含めて社会における性役割(ジェンダーロール)を
根本的に考え直さないといけないと堂々巡りではないかと思う。



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「多発性硬化症」 その病気が彼女の音楽活動および生命を奪った。

ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945.1.26~1987.10.19)享年42歳。
亡くなって25年の歳月が経つ。

幼い頃からチェロに親しむ。ウィリアム・プリースは最初の師だった。
大指揮者サー・ジョン・バルビローリに認められた。

チェロの名器ダヴィドフを愛用した。
ダニエル・バレンボイムと結婚。ユダヤ教に改宗した。


順風満帆な人生も28歳の時に一変する。

多発性硬化症と診断され、演奏家として引退を余儀なくされる。
もうチェロは弾けない。

晩年は車椅子生活を余儀なくされた。

現在、彼女は、さびれたユダヤ教の墓地に眠っている。

幸いにも彼女を収録した映像が多数残っている。
その中でのジャッキーは無邪気で天真爛漫だ。

自分の壮絶な人生の行く末を、彼女はまだ知らない。
これを観ると胸が締め付けられる。チェロの奏でる音色が切ない。



彼女の愛した曲がエルガーのチェロ協奏曲。別名「白鳥の歌」





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辛坊治郎が「す・またん!」で今度他局で太陽光発電についての
解説をすると言っていた。

番組名と時間は言わなかったが検索して「未来世紀ジパング」の
10月15日放送分だと分かった。

辛坊治郎が読売テレビ以外に出演して解説する時、いつも思う事だが
テレ朝「学べるニュース」といい、辛坊の解説の途中でナレーションを
挟むのは、辛坊の話のリズムを崩すので、やめてもらいたい。

彼は漫談家のように早口でまくし立てるので、池上彰氏のような丁寧な
解説は期待できない。

ただ辛坊が巧みに皮肉や脱力するような話を盛り込みながら雪崩をうって
最後まで飽きさせないことを「す・またん!」を見ている関西在住の者は
知っているが、全国ネットで通用するか・・・

太陽光発電について目新しい話はない。

番組の後半で、びっくりしたのは太陽光発電先進国と思われたドイツが
太陽光発電の買取制度が完全に失敗しているというのだ。

これには中国などの安い労働力と工場の進出が影響してるという事だが、
やはりドイツは太陽光発電先進国と思っていたのでショックだった。

新エネルギー慎重派の竹田圭吾氏がコメンテーターにいたのも手伝ってか
それでも太陽光発電は「旬」という辛坊は少しKYな感じがした。

大阪なら、みんなで突っ込んでフォローしてくれるだろうが、
東京のMC、コメンテーターはノリが分からないのか冷たい。

なんだか太陽光発電の将来より、辛坊治郎が全国ネットでやっていけるか
それが心配な1時間だった。




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バーンスタインと言えば、まず指揮者、そして作曲家という観念がある。

しかし、やはり他の指揮者になくレニーだけがあるとすれば、
後進への指導が熱心だったというところか。

レニーはミトロプーロスをはじめ、フリッツ・ライナー、
クーセヴィツキーなど、良い師との出会いがあった。

タングルウッド音楽祭でも若き日のレニーは大いに研鑽を積んだ。
その後、指揮者になってからも教育者として熱心だった。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕、
彼らはレナード・バーンスタインの弟子である。


独裁者カラヤンは唯我独尊だったので、他の人は下僕のような存在。
才能がある若い人がいたら、自分への脅威だから潰しにかかる。


カルロス・クライバーは才能に溢れた指揮者だったが、
人間嫌いのところがあるようで、音楽活動以外では、
人前に出てこなかった。

カルロス・クライバーの場合まさに天より授かった才能だったから、
誰かに手取り足取り教えて伝えるという類のものでもないけれど。


小澤征爾も後進の指導が熱心だ。

小澤もやはり齋藤 秀雄をはじめ、シャルル・ミュンシュ、
カラヤン、バーンスタインなど師に恵まれたこともある。


レニーは前述のタングルウッド音楽祭をはじめ、
ドイツではシュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭、
日本ではパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)
を開催して、若い人の教育に熱心だった。

しかし第1回PMFを開催した1990年7月、レニーの身体は既に
病魔に蝕まれていて、シューマンの交響曲第2番の練習風景を
見ても非常に苦しそうだ。

レニーが、この後東京での公演をキャンセルして帰った事で
当時随分酷評されていた。
誰もレニーが死を目前にしている事を知らなかった。

そして1990年8月タングルウッドにおけるベートーヴェンの
交響曲第7番が最後の演奏になった。

日本でもロンドン交響楽団と演奏したが、今回は古巣の
ボストン交響楽団。

彼は若い頃アメリカ人ゆえにボストン響の副指揮者になれず
(1940年代当時、指揮者はヨーロッパ出身者が常識だった)
結局ニューヨーク・フィルに行き、首席指揮者にまでなった。

そんな彼のラストコンサートがボストン響だったのは感慨深い。


引退を表明してまもない1990年10月14日、レニーの愛称で親しまれた
レナード・バーンスタインは72年の生涯を閉じた。


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最後に彼の愛したであろう一曲を紹介する。

ブラームスの「大学祝典序曲」

レニーのドキュメンタリー「バーンスタイン流教育法」で
使われて印象に残った。







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グスタフ・マーラー(1860~1911)

数字のつく9つの交響曲を完成させ、未完の10番執筆中に死去。
第8交響曲と第9交響曲の間に「大地の歌」がある。
第9交響曲とは密接な関係がある。


「別れの告げ方」は現在レナード・バーンスタイン指揮による
DVD「マーラー交響曲全集」の中に収録されています。

私にとっては「レナード・バーンスタインの偉大なる遺産PARTⅢ」として
LDの中に収録されていたものとして感慨深いものがあります。


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レナード・バーンスタイン(1918.8.25~1990.10.14)は
私にとって特別な存在です。

死後22年経った今でもレニーの映像はDVDやyou tubeなどで
気軽に観ることができます。


「別れの告げ方」はウィーン・フィルとバーンスタインとのマーラーの
交響曲第9番のリハーサルを収録したものです。

冒頭、レニーがジーンズにラフなシャツ姿で爽やかに登場します。
表情も、にこやかです。

対してウィーン・フィルの連中は苦味潰した様な顔をしています。
彼らにはベートーヴェンやブラームスほどマーラーに馴染みがなく
この垢抜けたアメリカ人にも対応が困っているようです。

バーンスタイン・イズ・マーラーと言う言葉がアメリカにあります。
それはバーンスタイン(レニー)が世界で初めてマーラーの交響曲全集を
完成させ、なおかつ、青少年などに啓発的にマーラーがモーツァルトや
シューベルトと同様ウィーン音楽の真髄なのだと訴えているからです。

さてウィーン・フィルとの練習。9番の1楽章からです。
弦楽器が刻む、途切れがちな出だしはマーラーの心臓が当時不整脈だった
現れだとレニーがナレーションします。

レニーの嫌いな人は過剰な彼の解説を嫌がります。

他のドキュメンタリーでもマーラーの最大の罪は
「ユダヤ教からカトリックに改宗したことだ」と言ってのけます。
ユダヤ人としてバーンスタインはマーラーにそうあって欲しかったのでしょう。

レニーはウィーン・フィルの弦楽器には余り文句をつけません。
「そこは弱く」「そこは強く」ぐらいです。
コンサートマスターのライナー・キュッヘルとは親友です。

しかし、管楽器奏者には随分厳しいし、何度もやり直しさせます。
ある時、休憩時間が入る合図が入ったところ、怒り心頭、
「8時間労働がなんだ!やるのか?やらないのか?」
気迫に押され、楽団員はやむなく練習を続けます。

レニーが練習中、楽団員に言いますがマーラーの場合、管楽器をそのまま
演奏すると弦の音がかき消されるようです。レニーが作曲家だったので
マーラーの譜面上の欠点が分かっていたのでしょう。







しかし、休憩中のレニーは違います。大好きな煙草にコーヒー片手に
楽団員たちが彼に次々と近づきます。やはり愛されているのです。
そこにレニーのナレーション。「彼らの中には借金の話をするものもいる」
楽団員もレニーには腹を割って何でも相談していたようです。

2、3楽章に関しては音楽の伸び縮みにこだわるレニー。
レニーの音楽の醍醐味はレニー独特のリズムがあります。そして、
やはり、これを嫌いな人もいます。

4楽章は「生」を諦めた「死」の世界です。
でも「死」は1度受け入れたら、こんなにも綺麗なのかもしれません。

「ここはまだ死に迷いがある」とか、「ここで死を受け入れる」とか、
譜面が読めたり自分で解釈できる人は、うっとうしいと思える場面
も、私はレニーの解説が過剰と分かりながら、一緒に酔えます。

マーラーの交響曲第9番は「生を諦め、死を受け入れた」音楽。
4楽章の最後、1楽章の最初の様に弦が途切れていきますが、
これは、もう作曲法としてのシンメトリーというより、
人間の命の消える様を弦に置き換え、最後は消え入るように
なくなります。








私は、この消え方に魅せられています。



私には、死が人生で最も美しい瞬間に思える。



私も、消え入るように、命の灯火を消してゆきたい・・・





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