1991年、スービック海軍基地とクラーク空軍基地が返還され、米軍はフィリピンから撤退しました。1995 年、フィリピンが領有権を主張していたミスチーフ礁に中国が建造物を構築します。米軍撤退後のフィリピンには日本の海上保安庁のような強力な警察機構もなく、もちろん海上自衛隊のような能力をもつ組織はありませんでしたから、中国の行動を抑止することも対処する実力もありませんでした。中国はそのぽっかり空いた"力の真空"を衝き、今もミスチーフ礁において施設を拡充して軍隊を駐留させ、占領を続けています。

2012年4月からはスカボロー礁の領有権をめぐって死者を出すほどまでエスカレートしました。現在、スカボロー礁では中国が駐屯施設の基礎工事を始めており、すでにフィリピンの施政権が及ばなくなっています。米軍を追い出したフィリピンは抑止力を失い、中国の領土的野心を退けることができず、南シナ海の権益を奪われ続けています。

2013年、アキノ比大統領(当時)が国連海洋法条約(UNCLOS)に基づき、常設仲裁裁判所へ提訴しました。デルロサリオ外相(当時)は「フィリピンが中国との領海問題を平和的交渉で解決するための政治的、外交的手段はほぼ尽きた」と述べており、国際法によって国際社会に訴える方法をとったのです。そして昨日、その判決が出ました。
 
南シナ海を巡り、フィリピンが申し立てた国際的な仲裁裁判で、裁判所は12日、中国が南シナ海のほぼ全域に管轄権を主張しているのは「法的根拠がなく、国際法に違反する」という判断を示し、フィリピンの主張を全面的に認め、中国にとって極めて厳しい内容となりました。

判決原文は仲裁裁判所から。



法的には曖昧だった中国の南シナ海「九段線」


中国は以前より南シナ海の"管轄権"を主張しており、国内法上は「中華人民共和国領海および接続水域法」(領海法、1992年)で規定されていました。今回の判決でも注目された「九段線」は1950年代に現れますが、公式には2009年に国連で配布された文書に初めて登場しました(現在は十段線に)。

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この、九段線に囲まれた範囲すべてにおいて歴史的な権利を有する、というのが中国の主張で、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、そして台湾がそれぞれ権益を主張しあうというのが南シナ海の現状です。

ただし、百歩譲って南シナ海の全岩礁・環礁が中国のものであったとしても、7つの島(ミスチーフ、ヒューズ、ジョンソン、クアテロン、ファイアリー・クロス、ガベン、スビ)は人工的に埋め立てられたものですから、そこに"管轄権"は生まれません。UNCLOSでは、人工島は領海や領空を規定せず(3〜16条)、500メートルの安全圏を設けることができる程度なのです(60条)。

2000年にのぼる歴史的な"管轄権"を有するというロジックでしたが、九段線内の"管轄権"を裏付ける国際法上の法的根拠は、もともと曖昧なまま示されていなかったのですね。今回の判決では、この九段線内の"管轄権"が否定されたことになります。


中国は判決を無視するだろうが…


中国外務省は判決後に記者会見を開き、南シナ海に関する政策や立場を説明する50ページの白書を発表しました。中国は白書において、南シナ海の島々は中国固有の領土だと改めて主張しています。そのうえで、「仲裁裁判はフィリピン政府が一方的に申し立てたものであり、違法で、その判断は受け入れない」と明言しました。

このように、国際法といえども、国連の常任理事国に名を連ねるような大国を従わせるのは難しいものです。たとえば、ニカラグア判決という事例があります。判決を出す機関が常設仲裁裁判所と国際司法裁判所という違いだけでなく、時代も経緯も詳細も違うものの、国際法に基づく判決だけでは大国(ニカラグア判決では米国)を拘束できない、という意味では共通のケースかと思われます。

どの国家も自分に有利な判決が出れば国際法を錦の御旗としますし、不利な判決が出れば紙くず扱いします。今回の仲裁判決は拘束力がありますが、強制的な執行機関はないため、中国はこのままサラミ・スライス戦略を継続するつもりでしょう。

では、まるで意味のない判決か、というとそうではありません。常設仲裁裁判所のほか、国際海洋法裁判所、国際司法裁判所、特別仲裁裁判所の特徴は「紛争解決機能」だけではありません。「法宣言機能」として国際世論に訴える政治的な力があると認められています。事実、今回の判決は三戦(法律戦、世論戦、心理戦)の敗北といってよいでしょう。中国はだれが見ても現行秩序に挑戦する国家ですが、建前として国際秩序を遵守する優等生というキレイゴトをかなぐり捨てるのは得策ではありません。中国さんが判決前から「そんな裁判意味ねーよ」とディスりつつも、「こんなにたくさんの国が中国を応援してくれているよ♪ ほら見て見て」と南シナ海とはまるで関係のないアフリカなどの国々を列挙している(環球時報)のは、やはり国際世論を気にしている証拠です。中国の三戦が国際法によってダメージを受けたのは間違いありません。


今後の中国とフィリピンの出方は?


現時点での中国外交部などの話を総合すると、中比二国間で交渉するのが大方針のようですね。ドゥテルテ大統領は前大統領に比べれば、中国の話が分かる相手だという見方をしているのかもしれません。しかし、交渉の結果、判決よりもフィリピンが譲歩せざるをえなくなれば、ドゥテルテ政権は国内からの反発を受けることが予想されます。そうした懸念はすでにフィリピン国内にもあるようです。

中国は今後、フィリピンとの二国間交渉を進めると同時に、軍事面では南シナ海への防空識別圏(ADIZ)の設定や人工島の軍事施設強化といった強硬策をとるかもしれません。UNCLOSからの脱退も噂にのぼっていますが、それは南シナ海だけでなく東シナ海の尖閣問題をもいちじるしく不利にする悪手です。南西諸島通過の際に用いているロジックも通用しなくなりますしね。中国の国内的なアピールには一定の効果があるかもしれませんが。

こんなことをいうと、米国もUNCLOS未批准であることを指摘したくなるかもしれません。未批准でも米国はUNCLOS遵守をウエメセで呼び掛けたり、UNCLOSに基づいて各国に航行の自由を求めたりしていますよね。中国が脱退しても米国と同じ立場になるだけではないか、という意見も一理なくはないと思います。ただ、UNCLOSが世界中で機能している背景には米国の軍事的保証があることも確かで、少なくとも南シナ海問題の元凶である中国と同等に扱うのはどうかなと思います。乱暴なアナロジーですが、条約に対して初めから未批准の国と脱退した国とでは、NPT(核不拡散防止条約)をみても扱いは違いますしね。ま、それでも個人的には米国もさっさと批准しろ、と思いますが。

いずれにしても、フィリピンの提訴自体を激しく非難しつつ、それでも交渉は第三者を交えることを断固拒否して二国間交渉にこだわるというのは、中国の従来の国際問題解決の常套手段です。シドニー大学のJing-Dong Yuan准教授は、中国の多国間主義と地域主義に関する態度を次のように表現しました;いわく、"中国は、一国主義的に考え、二国間主義的に問題を追及し、多国間主義的に振る舞う"。至言だと思います。

フィリピンとしては、第三国を巻き込む形で交渉すべきでしょう。この場合、ASEANは合従して中国をバランシングすることが求められますが、タイとカンボジアが中国を支持しているという分断状況は中国にとって悪くないものです。こちらは連衡策ですね。フィリピンは米国やベトナムといった対中意識の強い国はもちろん、シンガポールのような中立な国を国際秩序維持リーグの一員として抱き込めるかがポイントとなるのではないでしょうか。


米国の出方は?


米軍は昨年10月以降、今年1月、5月と3回の航行の自由作戦(FONOP)を実行しました。いずれも人工島12カイリ内の無害通航です。判決を受けて、今度は無害通航以上のFONOPを実施すべき、という意見が米国内からすでに出始めています。

ミスチーフ礁などは「岩」でも「島」でもないと判断されたのだから、領海どころか排他的経済水域(EEZ)ですらなく、人工島にいくら接近しようが「公海」である以上問題はないはずです。しかし、中国は領海やEEZといったUNCLOSで規定されている概念以外にも、"軍事水域"という独自の概念をもっていて、これがどういった範囲でどういった法律が適用されるかがこれまた曖昧なのです。武器使用基準もどうなっているのか不明です。人工島付近にこの軍事水域が設置されていれば、米艦船接近に伴い、武力衝突の危険性があるやもしれません。

米国の現政権はレームダック化し、かつ大統領選挙期間中であることから、米国が一歩踏み込むという決断をするかどうかは疑問です。仲裁判決発表以前から南シナ海では空母打撃群による牽制を始めていたりもしますが、12カイリ内でこれ見よがしに演習したり測量したりする米軍を中国は黙殺するでしょうか。


沖ノ鳥島に飛び火?


最後に。

ミスチーフ礁などの岩礁が「岩」ですらないという判決は納得ですが、台湾の実効支配する太平島が「岩」判定されたのは驚きでした。「島」ではないので、太平島はEEZを形成しません。
第121条 島の制度
 
  1. 島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう。
  2. 3に定める場合を除くほか、島の領海、接続水域、排他的経済水域及び大陸棚は、他の領土に適用されるこの条約の規定に従って決定される。
  3. 人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。


今回の判決では「恒常的に人が住んだり経済活動が行われた歴史的根拠はない」ということも「岩」と認定された理由のひとつとなっていますが、太平島は1920年代には「経済活動」が開始されていますし、現在は台湾軍も常駐しています。上記UNCLOS121条に照らしてみても、「岩」判定される要素はないものだと思っていました。

「恒常的に人が住んだり経済活動が行われた歴史的根拠はない」ことを理由に「岩」として認定されるなら、我が国の沖ノ鳥島も該当するのではないかという不安がよぎります。幸い、沖ノ鳥島は高潮時に海面上にあるので、領海を規定することには中国でさえもこれまで議論していませんでした(EEZには文句をつけていましたが)。

少々不安にはなりましたが、中国が沖ノ鳥島のEEZを否定するためには、今回の判決を受け入れなければいけません。また、台湾に関しても馬英九前政権とは異なり、新政権の蔡英文総統は今のところは沖ノ鳥島を争うつもりはないようです。それに、沖ノ鳥島を提訴するためだけに中国と台湾が判決を全面的に受け入れ、南シナ海の権益を放棄するというのは、、、現実的ではないでしょうね。中台が手を結ぶ蓋然性もほとんどないでしょう。

また、「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」というUNCLOS121条第3項を考慮したうえで、2012年に大陸棚限界委員会は沖ノ鳥島を基点に大陸棚延長を認める勧告を出しています。この勧告によって、沖ノ鳥島は「島」であることが認められている点については、声を大にしてアピールしておきたいところです( 過去記事)。


現時点での状況をざっくりとメモ代わりに。

◇ ◇ ◇
おまけ。
判決前(左)と判決後(右)の南シナ海における中国の管轄権主張範囲。

【関連過去記事】