先日、日本の離島防衛に有用な戦訓を引き出すケース・スタディとしてフォークランド紛争を取り上げましたが、今回の題材は西沙諸島海戦です。
西沙諸島海戦とは、1974年、西沙(パラセル)諸島海域において領土問題を抱えていた中国と南ベトナムが交戦した武力衝突です。結果は中国が勝利し、同諸島全域の支配権を確立しました。海戦としては知名度も低く、取るに足らない小規模なものなのですが、本海戦は中国の海洋戦略を考えるにおいてうってつけの好材料です。現在我が国が中国との間で抱えている尖閣諸島問題などでオーバーラップする要素が多く、当ブログでもこれまで何度か言及してきました。
本稿では、過去の記事も踏まえ、西沙諸島海戦から得られる対中海洋戦略の教訓を探ってみたいと思います。尖閣諸島問題を頭の中で描きながら読んで頂ければより分かりやすいかと思われます。
資源の存在確認→領有権主張
1950年代半ばから、南ベトナムは西沙諸島の領有権を主張し、その一部を支配下に置いていました。他方、中国は1956年にパラセル諸島の東側部分を支配し、この状況はその後20年近く続きました。
西沙諸島周辺海域に中国が強烈な関心を示し始めたきっかけは、1967年から翌年にかけて実施されたアジア極東経済委員会(ECAFE)によるベトナム南部海域の探査結果が出てからでした。この調査でメコン・デルタ沖に石油の埋蔵が確認されたのです。まず、南ベトナム政府が同海域の島嶼を自国の管轄下に編入することを決定しますが、これに対して中国は声明を発し、南シナ海にある島嶼及びその付近海域の資源には、中国の排他的領有権があることを主張しました。これにより、西沙諸島海域は領土紛争の舞台へと変貌しました。
覇権国のプレゼンス低下
この時期はベトナム戦争末期にあたり、南ベトナムの敗戦が濃厚だったことから、西沙諸島を守備する南ベトナム軍が中国軍に反抗することはそもそも難しい状況でした。なにより、米軍が南ベトナムへの支援を縮小し始めていて、そのプレゼンスは低下していました。つまり、中国が西沙諸島へ侵攻してもアメリカが介入してくる可能性は低かったのです。さらに、中国は北ベトナムを支援しており、中国軍による西沙諸島の占領に北ベトナムが抗議することも考えられませんでした。こうした有利な国際環境を背景に、中国は軍事力の行使を決意します(参照)。
拒否戦略
中国が西沙諸島で軍事力を行使しようと決意した理由は、主権や海洋権益だけではありません。軍事的理由として、ソ連の存在が挙げられます。
1950年代後半から中ソ関係は悪化し、黒海や紅海方面からインド洋方面へ進出するソ連の動向に中国は警戒感を抱いていました。69年の国境紛争後も中ソ間の陸上国境沿いにはソ連の大機甲部隊が配置されており、この極東ソ連軍と南方の沿岸一帯に展開される海軍力によって包囲されかねないとの脅威認識を中国が持つのは自然なことでした。ソ連の対中包囲網を成立させないためにも、中国は南シナ海海域における海軍のプレゼンスを誇示する必要に迫られており、今日でいうところの接近阻止・領域拒否(A2AD)に類した戦略構想が要求されたのです。
海軍力の実験
上記のことからも分かる通り、当時の中国海軍はソ連海軍に対応することを念頭に建設が推進されていました。1970年代初頭には、東南アジア諸国の海軍相手ならば戦力は優越するとの認識があり、自海軍の装備及び部隊運用などの近海作戦能力を検証する機会として、西沙諸島における領有問題を開戦理由として利用したという側面は否定できません。建設中の海軍の方向性の適否を、負ける見込みのない国を相手に「テストする」という事例は西沙諸島海戦だけでなく、のちの赤瓜礁海戦でもまったく同様に再現されました。
民兵の起用
また、本海戦は領土紛争の先兵として民兵や民間船が用いられた例としても、日本にとっては興味深いケースです。南ベトナム政府による主権領有宣言の後、中国政府は直ちに抗議するとともに、海軍哨戒艇2隻、漁船2隻をパラセル諸島甘泉島に派遣し、そこに駐留していたベトナム兵を駆逐して占領してしまいます。中国は声明を発表し、「中国固有の領土である西沙諸島で操業していた(民間)漁船に対し、南ベトナム駆逐艦が領海侵犯であると挑戦してきた。そこで、海軍を漁船と民兵の保護のために派遣した」というものでした。この後中国は、民兵2個大隊を同諸島深航島に上陸させ、南ベトナム軍の反撃に備えて陣地を構築しています(参照)。
西沙諸島海戦にみられる開戦動機から実効支配までのパターンの一部は、我が国の尖閣諸島問題や東シナ海のガス田問題でも垣間見えるものではないでしょうか。中国が海洋権益を排他的・恒久的に確保することを目的として他国へ圧力をかけ、その過程で国際環境が自国に有利とみれば軍事力行使も厭わない国家であることは明らかです。また、新戦略や建設途中の海軍戦力の進捗状況を測るために、西沙諸島海戦のような局部戦争を利用する傾向があることも事実です。
とはいえ、東シナ海で我が国相手に同じようなことをするのはいささか難しいでしょう。西沙諸島では実験的側面があったとはいえ、結果としては戦闘に勝利し、所期の目的(資源の確保ならびに海域の実効支配)を果たしています。しかし、東シナ海で中国が先に手を出し、海上自衛隊だけでなく同盟国アメリカを巻き込んでしまうとなると、海域の実効支配という実益どころか、中国海軍の実力を試す余裕さえなく、大きな痛手を覚悟しなければなりません。つまり、西沙諸島や南沙諸島と同じ動機や準備で東シナ海に侵攻することは、中国にとって現段階ではリスクの方が大きいのです。そのため、民間の漁船を送り込むなどの牽制行為はして見せるものの(これも実験のひとつかもしれませんが)、日本の尖閣諸島や南西諸島への武力侵攻の蓋然性はそれほど高いものではありません。
ただし、我が国自身が当該海域におけるコントロールの意志を放棄したり、日米同盟の効果を著しく減退させ、米軍のプレゼンス低下を招くような事態になれば、それを見逃すほど中国は甘い相手ではないのだということを西沙諸島海戦は教えてくれています。
西沙諸島海戦とは、1974年、西沙(パラセル)諸島海域において領土問題を抱えていた中国と南ベトナムが交戦した武力衝突です。結果は中国が勝利し、同諸島全域の支配権を確立しました。海戦としては知名度も低く、取るに足らない小規模なものなのですが、本海戦は中国の海洋戦略を考えるにおいてうってつけの好材料です。現在我が国が中国との間で抱えている尖閣諸島問題などでオーバーラップする要素が多く、当ブログでもこれまで何度か言及してきました。
本稿では、過去の記事も踏まえ、西沙諸島海戦から得られる対中海洋戦略の教訓を探ってみたいと思います。尖閣諸島問題を頭の中で描きながら読んで頂ければより分かりやすいかと思われます。
資源の存在確認→領有権主張
1950年代半ばから、南ベトナムは西沙諸島の領有権を主張し、その一部を支配下に置いていました。他方、中国は1956年にパラセル諸島の東側部分を支配し、この状況はその後20年近く続きました。
西沙諸島周辺海域に中国が強烈な関心を示し始めたきっかけは、1967年から翌年にかけて実施されたアジア極東経済委員会(ECAFE)によるベトナム南部海域の探査結果が出てからでした。この調査でメコン・デルタ沖に石油の埋蔵が確認されたのです。まず、南ベトナム政府が同海域の島嶼を自国の管轄下に編入することを決定しますが、これに対して中国は声明を発し、南シナ海にある島嶼及びその付近海域の資源には、中国の排他的領有権があることを主張しました。これにより、西沙諸島海域は領土紛争の舞台へと変貌しました。
覇権国のプレゼンス低下
この時期はベトナム戦争末期にあたり、南ベトナムの敗戦が濃厚だったことから、西沙諸島を守備する南ベトナム軍が中国軍に反抗することはそもそも難しい状況でした。なにより、米軍が南ベトナムへの支援を縮小し始めていて、そのプレゼンスは低下していました。つまり、中国が西沙諸島へ侵攻してもアメリカが介入してくる可能性は低かったのです。さらに、中国は北ベトナムを支援しており、中国軍による西沙諸島の占領に北ベトナムが抗議することも考えられませんでした。こうした有利な国際環境を背景に、中国は軍事力の行使を決意します(参照)。
拒否戦略
中国が西沙諸島で軍事力を行使しようと決意した理由は、主権や海洋権益だけではありません。軍事的理由として、ソ連の存在が挙げられます。
1950年代後半から中ソ関係は悪化し、黒海や紅海方面からインド洋方面へ進出するソ連の動向に中国は警戒感を抱いていました。69年の国境紛争後も中ソ間の陸上国境沿いにはソ連の大機甲部隊が配置されており、この極東ソ連軍と南方の沿岸一帯に展開される海軍力によって包囲されかねないとの脅威認識を中国が持つのは自然なことでした。ソ連の対中包囲網を成立させないためにも、中国は南シナ海海域における海軍のプレゼンスを誇示する必要に迫られており、今日でいうところの接近阻止・領域拒否(A2AD)に類した戦略構想が要求されたのです。
海軍力の実験
上記のことからも分かる通り、当時の中国海軍はソ連海軍に対応することを念頭に建設が推進されていました。1970年代初頭には、東南アジア諸国の海軍相手ならば戦力は優越するとの認識があり、自海軍の装備及び部隊運用などの近海作戦能力を検証する機会として、西沙諸島における領有問題を開戦理由として利用したという側面は否定できません。建設中の海軍の方向性の適否を、負ける見込みのない国を相手に「テストする」という事例は西沙諸島海戦だけでなく、のちの赤瓜礁海戦でもまったく同様に再現されました。
民兵の起用
また、本海戦は領土紛争の先兵として民兵や民間船が用いられた例としても、日本にとっては興味深いケースです。南ベトナム政府による主権領有宣言の後、中国政府は直ちに抗議するとともに、海軍哨戒艇2隻、漁船2隻をパラセル諸島甘泉島に派遣し、そこに駐留していたベトナム兵を駆逐して占領してしまいます。中国は声明を発表し、「中国固有の領土である西沙諸島で操業していた(民間)漁船に対し、南ベトナム駆逐艦が領海侵犯であると挑戦してきた。そこで、海軍を漁船と民兵の保護のために派遣した」というものでした。この後中国は、民兵2個大隊を同諸島深航島に上陸させ、南ベトナム軍の反撃に備えて陣地を構築しています(参照)。
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西沙諸島海戦にみられる開戦動機から実効支配までのパターンの一部は、我が国の尖閣諸島問題や東シナ海のガス田問題でも垣間見えるものではないでしょうか。中国が海洋権益を排他的・恒久的に確保することを目的として他国へ圧力をかけ、その過程で国際環境が自国に有利とみれば軍事力行使も厭わない国家であることは明らかです。また、新戦略や建設途中の海軍戦力の進捗状況を測るために、西沙諸島海戦のような局部戦争を利用する傾向があることも事実です。
とはいえ、東シナ海で我が国相手に同じようなことをするのはいささか難しいでしょう。西沙諸島では実験的側面があったとはいえ、結果としては戦闘に勝利し、所期の目的(資源の確保ならびに海域の実効支配)を果たしています。しかし、東シナ海で中国が先に手を出し、海上自衛隊だけでなく同盟国アメリカを巻き込んでしまうとなると、海域の実効支配という実益どころか、中国海軍の実力を試す余裕さえなく、大きな痛手を覚悟しなければなりません。つまり、西沙諸島や南沙諸島と同じ動機や準備で東シナ海に侵攻することは、中国にとって現段階ではリスクの方が大きいのです。そのため、民間の漁船を送り込むなどの牽制行為はして見せるものの(これも実験のひとつかもしれませんが)、日本の尖閣諸島や南西諸島への武力侵攻の蓋然性はそれほど高いものではありません。
ただし、我が国自身が当該海域におけるコントロールの意志を放棄したり、日米同盟の効果を著しく減退させ、米軍のプレゼンス低下を招くような事態になれば、それを見逃すほど中国は甘い相手ではないのだということを西沙諸島海戦は教えてくれています。