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(ケネディとフルシチョフのウィーン会談。1961年。Wikimediaより画像転載。)


前回のエントリに引き続き、本稿も危機管理にまつわるテーマです。

第二次大戦後、人類は幾度かの危機を経験しました。その中には、戦争までエスカレートしてしまったものもあれば、危機で食い止められたものもあります。キューバ危機は戦争を回避することができたという意味では成功例の一つであり、かつ危機としては第二次大戦後最大級のものです。今年はそのキューバ危機から50年。

危機時の強制外交において要求されるのは威嚇と譲歩のバランスであり、双方の意思を確認するための対話(コミュニケーション)が欠かせません。キューバ危機を「危機」のレベルで終わらせることに成功したのは、なるほど幸運によるところも大きかったと言えます。しかし、米ソ両国、とりわけ最高意思決定者であるジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフの二人が本来の強硬姿勢を修正して武力行使に対する慎重さを失わず、戦争回避の大目的を共有して互いの考え方を理解しようと努め、最後まで粘り強く外交交渉を重ねた点を看過するわけにはいきません。

キューバ危機を危機管理の観点から眺めてみたいと思います。


◇ ◇ ◇


1959年にキューバで革命が起こり、アメリカと目と鼻の先にあるところに異なるイデオロギーの国家が誕生します。アメリカは革命の指導者フィデル・カストロを敵視し、キューバもソ連との接近を深めます。そうしたキューバに対し、アメリカは1961年4月にピッグス湾へ上陸を仕掛けるなど、軍事力でカストロ政権打倒を試みていました。

そんな中、ソ連がキューバに準中距離弾道核ミサイル「R-12(SS-4)」と中距離弾道核ミサイル「R-14(SS-5)」を持ち込みます。背景にあったのは、(1)アメリカのキューバ侵攻の阻止と防衛、(2)米ソ核戦力不均衡の是正、(3)アメリカがトルコに配備した中距離弾道核ミサイル「ジュピター」15基への反発です。「Cuban Missile Crisis」と呼ばれる通り、キューバ危機は米ソ間の核ミサイル配備についての取引という本質がありました。

では、ここから危機の発生と、危機管理の様子を時系列に追ってみます。


空爆か海上封鎖か
1962年10月14日、アメリカのU-2戦略偵察機がキューバ西部にミサイル発射基地を発見したことでキューバ危機が勃発します。米政府にはソ連の核ミサイルはキューバに設置されていないという報告が上がっていたために、ミサイル施設の発見は大きな衝撃でした。誤算の発生です。ケネディ大統領はこの危機を管理するために、急遽、国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置しました。エクスコムの主題は、外交の継続は当然として「キューバからのソ連ミサイル撤去とそれ以上の持ち込みの拒否」でした。会議はタカ派(空爆)とハト派(海上封鎖)に分かれます。威嚇か譲歩か、というわけですね。

18日、ケネディ大統領は米外交界の重鎮ロバート・ラヴェットに会い、海上封鎖がベターであるとの進言を受けます※1。19日、ケネディ大統領はエクスコムで国務省、国防省、司法省などの支持を取り付け、海上封鎖を決定。ここまで米政府の動きは秘密裏のもので、国民にも知らされていませんでした。「政府の路線が決定しないままミサイル配備を公表してしまったら、市民の不安を掻き立て、ソ連をいたずらに刺激することになりかねない」(参照)という理由からです。

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(エクスコム。Wikimediaより画像転載。)

海上封鎖という選択は、人によっては“弱腰”な「譲歩」と映るかもしれません。しかし、同時に検討されていた空爆に比べてリスクが小さく、相手の出方によって対応を変えられる柔軟性を持つ選択肢でした。柔軟性のない政策って危険ですよね。相手だけでなく自らの退路をも完全に断ってしまう政策は、「覚悟」という精神論から見れば潔い感じがしますし断固とした印象をうけますが、戦略としては愚策です。エクスコムでマクナマラ国防長官やディロン財務長官が指摘している通り、海上封鎖は失敗しても次の手を打つことができますが、空爆が失敗すれば待っているのは核戦争でした。後日、キューバのミサイル基地を外科的空爆によって叩き潰すのは軍事的観点からも難しいと報告されており※2、実質的に見ても強硬策を避けたのは賢明でした。なお、海上封鎖が決定したのは19日で、早くも24日には開始されています。この手の作戦が2、3日の準備でできるわけがなく、実際ひと月ほど前から検討されていたことが分かっています。アメリカの危機管理の分厚さを感じさせますね。

22日、ケネディ大統領がキューバ封鎖を全世界に発表します。23日、海上封鎖宣言書に署名。この日のエクスコムにおいて、「今後U-2が撃墜されれば、撃墜に関連した基地を破壊する。キューバ側が偵察活動の妨害を続ける場合は、すべての地対空ミサイル基地を攻撃する」と決定しました。海上封鎖という「譲歩」をソ連に発信して相手の出方を伺いつつ、「威嚇」オプションの発動基準を設定したのです。

24日、米参謀本部は戦略空軍に対してデフコン2を発令しました。この指令の下、世界中の米軍全戦闘要員が24時間非常待機態勢に入り、B-47戦略爆撃機の分散待機が始まりました。さらにB-52戦略爆撃機もその8分の1が空中待機態勢をとり、B-47、B-52あわせて672機と空中給油機381機が空中待機もしくは24時間出撃態勢を整えました。搭載された核兵器は合計1,627基。他方、ソ連も国内やキューバの核ミサイルを発射準備態勢下に置きました(参照)。


相次ぐ誤算と誤解、高まる緊張
25日、キューバにある戦術核を含めたソ連核ミサイルの発射権限が本国に移管されました(それまでは現地指揮官の判断で戦術核の使用が認められていました)。現地の暴走を恐れたのです。このあたりからソ連側に変化が現れ始めます。その理由として、海上封鎖の一環としてとられたカリブ海水域に展開中のソ連潜水艦に対するアメリカの対潜水艦(ASW)作戦があります。このASW作戦が、アメリカの考えていた以上にソ連の意思決定に影響を与えたことがその後の研究で明らかになっています。ポジティブな誤算、と言えるでしょうか。危機の期間中、5隻のソ連潜水艦が強制浮上させられました※3

このアメリカのASW作戦によって、ソ連はエスカレーションの危険性を感じ、少しずつですが「譲歩」の姿勢を見せるようになります。ただ、ここには幸運の要素が紛れ込んでいます。というのも、アメリカの海上封鎖発令後、ソ連潜水艦は米海軍から浮上命令を受けた際にはそれに従うよう命令されていましたが、ソ連の潜水艦には核魚雷が搭載され、攻撃を受けたらそれを使用する許可も出ていました。当時、米政府はそれを知らなかったのですが(誤算)、ソ連にしてみればアメリカは核戦争をも辞さない構えなのだと受け取ったのです(誤解)。米政府が誤算を含みつつ海上封鎖(譲歩)とASW作戦(威嚇)を実行し、これをソ連政府が誤解して「譲歩」を始めたのですね。偶発的核戦争の発生を米ソ両政府がうまくコントロールできていたとはお世辞にも言えません。

また、この時期は米ソの不注意とも言える行動によって、深刻なエスカレーションを引き起こしかねない事件が相次ぎます。26日、バンデンバーグ基地から大陸間弾道ミサイル「アトラス」の発射実験が行われたり、27日にはU-2偵察機がシベリアのソ連領空でミグに追跡され、アラスカから米軍機が救助に駆けつけたりといったことが発生しました。そしてなんと、シベリアでの出来事とほぼ同じ時間に、キューバでU-2偵察機が撃墜され、パイロット1名が死亡するという事件が発生します。世界がもっとも核戦争に近づいた瞬間です。U-2撃墜はソ連本国の意思ではなくキューバのソ連現地司令官の指令によるものでしたが、当然エクスコムは空爆やむなしとの流れに傾きます。エクスコムはケネディ大統領に対し、翌28日早朝を期して、キューバミサイル基地に報復攻撃を実施する事を勧告するのですが、大統領は承認しませんでした。


威嚇、譲歩、対話、誤解、そして訪れた幸運

空爆(威嚇)か否かという瀬戸際に立たされたケネディが選択したのは、トルコに配備したジュピターを撤去するという「譲歩」でした。もちろん、この「譲歩」をエクスコムで議論するわけにはいかず、弟のロバート・ケネディ司法長官に胸中を打ち明け、アナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使と秘密会談を持たせることにします。席上、R・ケネディはドブルイニンにこう伝えました。「我々は明日までに(キューバの)ミサイル基地が撤去されるとの確約を得なければならない。これは最後通告ではなく、事実を述べているだけである。あなた方がミサイル基地を撤去しないのであれば、我々が除去するであろうことを理解してほしい。時間はもう2、3時間しかない。今すぐソ連からの回答が必要だ」(参照)。

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(ロバート・ケネディ。Wikimediaより画像転載。)

そして、ソ連がキューバのミサイル基地を撤去する見返り=「ニンジン」として、トルコのジュピター撤去がドブルイニンに提示されます。大統領がR・ケネディに託したこの切り札が公になると、NATO諸国に動揺を与えるだけでなく、米世論は政府を宥和的だと非難し、間近に控えた中間選挙にも悪影響を与えるとの懸念から取引は秘密とされました※4。いずれにせよ、大統領の密命を受けたR・ケネディとドブルイニン大使との会談には、「威嚇」と「譲歩」、そして「対話」という危機交渉になすべきすべてが凝縮されていますね。

一方のフルシチョフ首相も決断を迫られます。フルシチョフも当然核戦争は望まず、無条件の相互譲歩という考えさえ抱いていました。27日、彼は自分の別荘に側近を招集し、情勢分析と今後の対応について話し合いを始めていました。アメリカの空爆は迫っており、ソ連側は時間的制約を課せられた状態で決断を下さなければなりませんでした。

そんな中、フルシチョフが驚愕する情報がもたらされます。28日午前(米東部時間)にケネディ大統領が教会へ行き、緊急テレビ演説を行うというものでした※5。アメリカの大統領は開戦前には必ず教会へ行き、その後、開戦を国民に告げるならわしです。実は、このケネディの動向は誤報でした。ところが、フルシチョフはアメリカが開戦を決意したと誤解し、すぐさま「譲歩」を決意。外交ルートさえ通さずにモスクワ放送でロシア語によるミサイル撤去声明を読み上げました。フルシチョフはアメリカ側の要求を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体。これを受けてケネディ大統領もキューバへの武力侵攻はしないことを約束し、キューバ危機は収束しました。

米ソが危機交渉で譲歩しあえる余地があったことは、戦争にエスカレートしなかった理由のひとつかもしれません。キューバ危機の本質はミサイルの配備に関する取引であることを両国指導層が見失わず、争点をずらしたり拡げたりしませんでした。終始、相手に求める譲歩とこちらの原状回復基準点が大筋で一致してたことを理解していたのです(「自分の受け入れ可能な譲歩」≒「相手の要求」でもありました)。問題の本質がブレなかったことで交渉の焦点が絞られ、誤解や誤算が小さく済んだのです。比較するのもなんですが、竹島という領有権に対する問題で、韓国側は歴史認識や慰安婦などを持ち出してきています。これでは争点がブレてしまい、収拾がつかなくなりますね。


危機を管理するために〜意思疎通の重要性〜
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(核戦争を封じ込めようとするケネディとフルシチョフの風刺画。)

R・ケネディは彼の回顧録でキューバ危機を以下のように振り返りました。「事態はもはや大統領にも制御できないのであった。彼はただ待たなければなるまい」※6。彼の言うとおり、人智によって「危機」をコントロールし切るのは不可能です。ケネディ大統領の日曜礼拝をフルシチョフが誤解し、そのあとソ連がたまたま譲歩を選んだから良かったものの、破れかぶれに先制攻撃でもしようものならそこでアウトでした。

また、R・ケネディがドブルイニンに秘密会談でアメリカの意思を伝えた場面もギリギリだなあ、と思わざるを得ません。強制外交においては、交渉の期限を設けて相手の持ち時間を制約する方法があります。相手側の焦りを引き出し、時間が経過すればするほど失うものがどんどん大きくなる、と相手自身に認識させることができれば、強制外交は成功です。しかし、いくらエスカレーションをかけても、相手がエスカレーションのコスト(損失)を受け入れる場合には、このカードは意味をなしません。強制側が相手を不必要に追い詰めて相手が自暴自棄になったり、前エントリの6条件を考慮しなかったりした場合には、かえって戦争の危険が増してしまうことさえあります。1941年の日本に対する危機交渉は、アメリカの強制外交が大失敗した例です。


キューバ危機を「成功した危機管理」と分類するのは必ずしも適切ではないかもしれません。いつどこで戦争にエスカレートしてもおかしくない場面が何度もありました。しかし、アメリカとソ連は安直に武力を行使することを避け、極限まで理性と忍耐を要する危機管理外交を選びました。キューバ危機のあらましを見ただけでも、威嚇と譲歩のバランスがどれほど難しいもので、かつ最後の最後まで対話のチャンネルを残しておくことがどれほど重要なことであるかを思い知らされます。事実、核戦争の深淵を見た者たちが危機後に着手した危機管理策は、ワシントン−モスクワ間のホットライン設置でした。

我が国では、離島問題にまつわるごく初期の「危機」レベルで「国交断絶!」などと叫ぶ人がいます。キューバ危機の推移を見れば、それが危機管理においてどれほど危険な振る舞いであるかがよく分かりますね。



注※1 "Lovett warns that an airstrike would appear to be an excessive first step. He argues that a blockade is a better alternative, although he expresses a preference for blocking the movement of all materials into Cuba except for food and medicine, rather than limiting the quarantine to offensive weapons." (参照
注※2 21日のエクスコムで空軍のスウィニー将軍が、キューバのSAMやミグの基地を叩くには少なくとも700ソーティ必要で、空爆ではミサイルを90%しか叩けないことを報告しています。
注※3 当時、米ソ間には強制浮上の命令方法について合意がなく、アメリカは国際コードの水中信号と爆雷や手りゅう弾を使った無害の爆発音響信号で浮上を命じています。
注※4 危機から6か月後の1963年4月25日、最後のジュピターミサイルがトルコから撤去されました。
注※5 「1962年10月28日の大統領行動予定表がある。この日の予定にはテレビ演説の予定はない。また、ケネディに限らず、アメリカ大統領が日曜日の朝教会に行くのは当たり前の習慣である。つまり、この日フルシチョフの別荘にもたらされた電話の情報は「誤報」であった、テレビ演説は、放送局が封鎖宣言の演説を再放送する予定が組まれていたと言う」(参照)。
注※6 ロバート・ケネディ(著)、毎日新聞社外信部(翻訳)、『13日間―キューバ危機回顧録』、58ページ。


【参考資料】