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2013年ひとつめの記事は、中国の海洋防衛ラインがどのように拡大してきたかについて、過去記事をまとめる形で紹介したいと思います。


戦略的辺彊

 中国の概念的な海洋防衛ラインは今ではグアムやサイパンまで届くような壮大な規模となっています。とはいえ、初めからそうであったわけではありません。中国の国力の増大ともに戦略的辺彊が広がり、それに伴って海洋防衛ラインも拡大してきました。

 戦略的辺彊(せんりゃく てき へんきょう)とは、1987年に中国三略管理科学研究院の徐光裕(Xu Guangyu)の論文で発表された概念です。地理的境界(国境)が国際的に承認され、相対的に安定を保っているのに対し、戦略的辺彊はそうした従来の国境、領海、領空とは異なり、「総合的国力の増減で伸縮する」と規定されました。つまり、戦略的辺彊は中国が強ければ拡大し、逆に弱くなれば縮小するのです(参照)。


海の長城

1海の長城 中国の歴代王朝は海防の意識が希薄でした。海軍司令員(1996〜2003)を務めた石雲生はこうした自国の歴史を指して、「有海無防」と表現したほどです。しかし、欧州列強や日本の帝国主義による領土割譲を経験して以降、中国にとって海の防衛は重要な戦略認識となっていきました。

 まず、中華人民共和国の成立後に海軍建設の必要性を認識したのが毛沢東です。台湾へと渡った蒋介石率いる国民党軍との国共内戦対策が直接的な動機でしたが、より大きな背景として、揺籃期にある共産主義国家・中国に対してアメリカが介入し、かつての歴史を繰り返すことを毛は懸念したのです。

 1949年、中国人民政治協商会議第1回全体会議における開幕演説において、毛は「我々は強大な空軍と海軍を保有しなければならない」と提唱します。その後、朝鮮戦争により、海軍建設資金は大幅に削減されてしまいますが、1953年に再び毛が「我が国の海岸線は長大であり、帝国主義は中国に海軍がないことを侮り、百年以上にわたり我が国を侵略してきた。その多くは海上から来たものである。中国の海岸に海の長城を築く必要がある」と説きました。

 この海の長城が、中国の初期の海洋防衛ラインとなります。ただし、関心はあくまでも海岸線であり、主眼は沿岸防衛でした。


文化大革命と中ソ対立による停滞

2海洋防衛ライン 海軍建設は、1966年の文化大革命で大きく頓挫します。初代海軍政治委員の蘇振華、東海艦隊司令員の陶勇、海軍参謀長の張学思やその他北海、南海艦隊 政治委員ら多くが追放されてしまったからです。なかでも、海軍の研究開発の責任者であった方強が劉少奇に連座して追放されたことは造船工業に甚大な損失となり、以降、中国の造船所において大型艦船の開発・建造が滞ることになります。

 また、海の長城建設は開始当初こそソ連の援助を受けて順調に進められましたが、1950年代後半に中ソ関係が悪化。1969年には珍宝島(ダマンスキー島)で武力衝突するまでに激化します。

 さらに1975年にソ連海軍が実施したオケアン演習は、中国に対ソ防衛戦略の変更を迫るきっかけとなりました。この演習によって、ソ連の脅威は陸続きの北方からだけではなく、かつての帝国主義と同様に海を経てやってくる可能性があるのだという認識を中国に与えたのです。このソ連の脅威に対抗するために、中国海軍は1982年に近海防御戦略を策定します。ただし、このときの「近海」とは、依然として沿岸部を意味していました。


対海洋認識の変化


3海洋防衛ライン 中国の海洋防衛ラインが本土の沿岸部から離れる契機となったのは、1978年に採用された改革開放路線です。国防の対象となるエリアが、従来の内陸の奥深くから沿岸部に設置された経済特区へと移り、さらには海洋そのものが経済発展の舞台として認識されるようになりました。

 1984年、当時の海軍司令員が「海洋事業は国民経済の重要な構成部分であり、その発展には強大な海軍による支援がなければならない」と主張しました。海軍の役割が海洋事業の発展と関連付けられることになったのです。この海軍司令員こそ、後に「中国空母の父」として知られる劉華清そのひとでした。「海軍は商船の存在によって生じ、商船の消滅によって消えるものである」というシーパワー理論の祖・マハンの海軍思想が、劉華清によって中国に移植されることになったのです。

 1985年にはいわゆる85戦略転換が図られました。これを受け、海軍は1982年に制定した近海防御戦略の再検討に入ります。そこでは劉華清の主張通り、海洋防衛戦略は経済発展に貢献することが目的となり、海軍は300万平方kmの海洋管轄権を維持し、それによって海洋事業の発展を支援することになりました。

 再検討された近海防御戦略における「近海」とは、第1列島線の内側を指し、ここで初めて海洋防衛ラインは中国の沿岸を離れることになりました。なお、第1列島線とは、カムチャッカ半島から、千島列島、日本、台湾、フィリピン、大スンダ列島をつなぐ線を指しますが、ここに含まれる海域が約300万平方kmです。


第1、第2列島線の設定、そしてA2AD戦略へ

4海洋防衛ライン このように、中国の海洋防衛ラインを沿岸から第1列島線へと拡大させた立役者の一人が劉華清です。彼は、中国の海洋戦略にマハニズムを持ちこんだだけでなく、ソ連への留学経験に基づき、ソ連海軍が採用していた3つの防衛区の概念をも取り込みます。すなわち、海洋防衛ラインを中国沿岸から第1列島線までのエリア、第1列島線から第2列島線までのエリア、そして第2列島線以遠のエリアの3つによって区分したのです。

 このエリア区分をもとに、新たな海洋戦略の構築が始まります。

 中国は従来、毛沢東が唱えた「人民戦争戦略*」を採っていました。しかし、これでは自国民に甚大な損害を出してしまいます。そこで、劉提督はできるだけ中国本土から遠い場所で敵を迎え撃つ積極防衛戦略を提唱し、その構想を3つの成長段階に分けることで、中国海洋戦略の将来の方針をも明示しました。

  • 第1段階:日本南部から台湾を経てフィリピンに到る第1列島線内海域でのコントロールを可能にする海軍力を建設する。
  • 第2段階:さらに東へコントロールを拡大し、千島列島から日本を通り、マリアナ諸島やカロリン諸島に至る第2列島線までの海域におけるコントロールを目指す。
  • 第3段階:2050年頃までに、空母や最新鋭の兵器システムをもったアメリカ並の外洋海軍を建設する。

Toshi Yoshihara and James Holmes, “Command of the Sea with Chinese Characteristics,”  pp.680-681を参照。

 劉提督は、「中国は第1列島線の内側の近海におけるコントロールと、第1列島線と第2列島線の間の海域における拒否を目指すべきだ」としたのです。ここで言う「コントロール」とは、「特定の場所において、特定の期間、自己の目的を達成するために自由に海洋を利用し、必要な場所において敵が海洋を使用することを拒否する」ことであり、中国の経済発展のための自国の排他的使用を意味します。

 この劉華清の構想を反映した現在の中国の海洋戦略を「接近阻止・領域拒否(A2AD:Anti-Access/Area-Denial)」と呼びます。「接近阻止」とは、遠方から来る敵を防衛線内に入れさせないための軍事力の建設を要求するものです。一方、「領域拒否」とは、「中国がある海域を存分に利用する能力は有しないが、敵が当該海域をコントロールすることを拒否する」というもので、たとえ防衛線を突破されてもその内側で敵に自由な行動を許さないというコンセプトです。


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 中国は安全保障環境の変化に伴って戦略的辺彊を拡げ、それに応じて海洋防衛ラインも本土から徐々に遠いところに設定されるようになってきました。ご承知の通り、現状では第2列島線どころか第1列島線の内側におけるコントロールさえも不十分です。しかし、「海の長城」から「A2AD」まで、中国は着実に海洋防衛ラインを拡大し続けてきました。中国にとって経済力の維持が至上命題になっている今、かの国がこれからも確実にシーパワー・チャイナとして進んでいくことは間違いありません。




※人民戦争戦略:中国の広大な国土に敵を誘い込み、ゲリラ戦で殲滅するという戦略のこと。ベトナム戦争のような形態。


【参照記事】